あの出来事があってからも、中路と千鶴は医者と看護婦の関係を崩さず、必要以上に話すそぶりはない。

 あの日、中路と話した後、千鶴はしばらく洋間から出てこなかった。

 昼食時に顔をあわせたときには、普段とかわらぬ千鶴で、何かあったことを桐秋に気取らせるということもなかったし、何かを話すことも無かった。

 その後も特段、変わった様子はない。

 一方の桐秋は乱れた心を抑え込むことができず、研究に没頭することで何とか気をそらしている。

 妙な空気の日々がしばらく続いた月曜日。

 いつもの診察が終わると千鶴は席を外し、桐秋は中路と二人きりになる。

 中路は唐突(とうとつ)に桐秋に向け言葉を発した。

「私が代診を務めるのも今週までとなります」

 今週。それなら千鶴は・・・。

 そんな思いが桐秋の頭に浮かぶ。

「私は千鶴さんに求婚しました」

 中路はたった今、桐秋が考えていたことを声に出す。

 桐秋は驚きながらも、それを告げた男の真意(しんい)がわからず、怪訝(けげん)な顔で中路の顔を見る。

「聞いていらしたんでしょう。

 私が千鶴ちゃんに求婚した話を。

 あの時、私の座っていた席からは庭が見渡せて、あなたの後ろ姿が見えました」

 桐秋は言葉を返さない。

 それを肯定と受け取ったのか、中路は話を続ける。

「私は彼女を必要としています。

 地方病院の担い手としても、一人の男としても。

 理由は先日彼女に告げたとおりです」

 中路はきっぱりと自身の想いを桐秋に伝える。

 そんな彼に桐秋は鋭い眼光(がんこう)を向けながら問いかける。

「なぜそれを私に言う」

 中路は桐秋の全身を刺すような視線を受け止めた上で、確信めいた口調で話す。

「あなたも彼女に惹かれているでしょう」

 桐秋は中路の物言いに、向ける目をさらに鋭利なものにする。

 これまで必死に抑え込んできた黒い感情をはっきりと宿す眼。
 
 その眼力にも(ひる)まず、中路は桐秋に告げる。

「僕は、あなたよりも彼女を幸せにできる。

 看護婦としても、人としても。

 僕は、彼女がここでしているような女中でもできる仕事ではなく、看護婦としての力を存分に発揮できる場所を提供できる」

 強い口調で中路は語る。

「なにより僕は、彼女と長く、人生を歩むことができる」

 その言葉に桐秋は強く(くちびる)を噛みしめる。

 桐秋がどうしても叶えられないことを、眼前の男は、自分はできるのだ、と簡単にのたまった。

 本来なら医者として、患者の心を乱すような不用意な発言をしてはならない。

 中路が誰より、それをわかっているはず。

 しかし、今、桐秋を真直(しんちょく)に見据える男のまなざしは、

 医者ではなく、千鶴に惹かれている一人の人間として、

 同じく千鶴に惹かれている一人の人間の桐秋に言ったのだと訴える。

 桐秋は中路の強い(まなこ)に目を逸らす。

――彼女と長く、人生を歩むことができる。

 中路から告げられたこれからを生きる者の言葉に、下唇が裂け、血が(にじ)むほど肉を噛んでも、桐秋は何も言い返すことができない。

「最終日、彼女に答えを聞こうと思っています」

 思い悩む桐秋のことは構わず、中路はそう告げて、部屋を出ていこうとする。

 しかし部屋から出る直前、歩みを止めると桐秋に一言告げる。

 それに桐秋は再び顔を顰める。どこか不思議な疑心を含んだ顔。

 そのことに対する桐秋の返答は待たぬまま、中路は今度こそ部屋を出て、隙間(すきま)なく扉を閉めるのだった。