*
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
三連休やることなくて泣いてる〉
「……大丈夫かな……」
胸が痛くなってついつぶやいてしまった。普段の俺はひとりごとを言うタイプではないのだけど、彼女のポストを見るとどうしても画面に向かって話しかけてしまう。そんなことをしてないで〝大丈夫ですか?〟なんてコメントしてあげればいいのだろうけど、一度も話したことがない元同級生の男に急に話しかけられたら引くに決まってる。誰ですか、え、ポスト遡ったんですけど出身校同じですよね、知ってて話しかけたんですか、まさか私のことずっと見てたんですか、気持ち悪いんですけど……。返ってくる返事を想像するとおそろしくて踏み出せない。だから今日も、俺は伝えられない言葉を自室に吐き出して、ひとりよがりな焦燥がおさまるのを待っている。
深夜一時、教科書とノートを並べた机の前で、俺は勉強も手につかずにぼんやりとスマホを見つめていた。
裏アカウントを作れば他人のふりをして彼女に近づくこともできるのだろうけど、偽名を名乗るのは抵抗があった。本名の〝優弥〟以外の名前を自分につけるのは違和感があるし、なにより彼女を騙すようなことはしたくない。俺は嘘をつくとことがきらいだ。SNSの中でもありのままの自分でいることを心がけている。最近ではインフルエンサーがフォロワーを買って人気者を装ったり、自撮り画像を加工して自分を偽って載せたりするらしいけれど、正直そういう人はあまり好きにはなれない。
ため息をつき、天井を見上げるとふと、高校生の頃のことを思い出した。狭山双葉をはじめて見かけたときのことだ。
彼女との出会いは高校一年の夏だった。移動教室の途中らしく、彼女はひとりで廊下を歩いていた。上履きのラインは俺と同じ学年を示す青。真下を向いているせいで表情は読み取れない。もう入学して三ヶ月が経つのに、誰とも連れ添わずひとりでいるところを見るに、まだ友達がいないのだろう。
そのときの俺は彼女に対しそれ以上の感想は持たなかったのだけれど、すれ違った瞬間に彼女がハンカチを落としたので反射的に声をかけた。
〝あ。落としましたよ〟
ハンカチを手に取り彼女に近寄った。彼女はびくりと大袈裟に肩を揺らし、足を止める。
おそるおそるこちらを振り返る彼女の、その顔がようやく見えた。
美しい横顔だった。
やさしげな目もと、まっすぐ線を引いたような鼻筋、やわらかな弧を描く眉。化粧はしていないように見えるけれど、きれいな頬は薄くチークを乗せたように色づいている。
彼女は怯えるような視線で俺の手元のハンカチだけを捉えると、小さく答えた。
〝あ……の。えっと……。さしあげます、それ……〟
そう言い残し、彼女は全速力で走り去ってしまった。俺はぽかんとしたまま、その場に取り残された。
俺が狭山双葉の噂を聞いたのはそのあとのことだった。人付き合いが極端に苦手で、おそろしく美人だという孤高の美少女。彼女が歩いた跡にはネモフィラの花が咲き乱れると言われ、うちのクラスでも彼女に近づこうとした男子が秒で逃げられたという噂が絶えなかった。話を聞いて、あぁ、廊下で会ったあの人だとすぐに気づいた。
なんだか不思議な人だった。
たしかにきれいな人だったけど、そうじゃなくて。それだけじゃなくて。
まるで海岸から離れた道路に落ちている意味深な貝殻のように、妙に気になる、惹きつけられるなにかが彼女にはあるような気がした。
それから数ヶ月後、SNSを眺めているとおすすめユーザーに〝フタバ〟というアカウントが表示されるようになった。
その名前を見て一瞬狭山双葉のことが頭をよぎったけれど、そんなわけがないと頭を振った。フタバなんて名前はこのSNSの中に山ほどいる。おすすめユーザーには自分と近しい行動をとるアカウントが表示されるらしいけれど、だからといって彼女なわけがない。そんな偶然あるわけない。きっと同名の別人だ——そう思いつつも、俺の親指はなぜか無意識に彼女の過去のポストを確認してしまう。
そしていくつかの投稿を見て、俺はこのアカウントが間違いなく狭山双葉のものだと確信した。
その根拠は画像だった。彼女の投稿には本人の画像は見られなかったものの、時折彼女の所持品が写り込んでいた。ポーチ、ボールペン、メモ帳にトートバッグ。それらにはすべて同じパンダのキャラクターがついていて、俺が返すことのできなかった彼女のハンカチにもパンダのキャラクターがついていた。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
ペンケース忘れたけど、隣の人に書くもの貸してって言えなかった〉
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
大学生、陽キャ多くてこわいな〉
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
学食に入る勇気はないので今日もお弁当です〉
彼女の過去のポストを眺めながら、引き出しを開けてハンカチを取り出す。彼女が落としたハンカチは三年が経った今でもふわふわで、真っ白な生地の上でパンダが困った顔をしながら笑っていた。
彼女は、なんてアンバランスな人なんだろう。
あんなにもまわりを魅了する力を持っているのに、自分の魅力に気づいていない。気づかないまま、今でも人を怖がり交流を避け続けている。落ちたハンカチすら受け取れなかった三年前となにも変わっていない。
もっと自信を持ってもいいのに、なんて思ってしまうのは俺が他人だからだろうか。
もっとさらけ出せばみんな受け入れてくれるのに、なんて思ってしまうのは俺が第三者だからだろうか。
それとも……。
〈今日は動物園楽しかったね! ポスト見たよ。優くんかわゆ〜。ほかにも画像あったから送るね〉
DMが届いた。ハンカチを引き出しにしまい、返事をしようと文章を考える。でも頭が働かない。今はそんな気分になれなかった。諦めて、ホーム画面へと戻る。
フタバの最新ポストが流れてきた。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
今日も生きてる心地がしない〉
「……大丈夫かな……」
彼女は今もひとりなのだろうか。高校の頃は時々友達といるところを見かけたけれど、その友達はいつも同じ人だったと思う。ひとりでも友達ができたことは喜ばしい。でも高校を卒業した今は、新しい友達はできているのだろうか。思考は彼女の深層心理を探ろうと、どんどん地下へと潜っていく。
どうして俺はこんなに狭山双葉に執着してしまうんだろう。
気づくといつも彼女のことを考えている。もう高校だって卒業したのに、まるで時が当時のまま止まっているかのようだ。この前も、大学の友人と好きな若手女優を言い合っていて、友人の好きな女優がパジャマ集めが趣味だと聞いた瞬間、狭山双葉のことを思い出してしまった。彼女もパジャマとか集めてそうだな。シンプルで肌触りのいいやつを見かけては購入し、外着よりも多くなってしまったなんて言って苦笑いしていそうだ。毎晩どれを着ようか迷っていて、お風呂上がりにあれこれと吟味した挙句、結局お気に入りの白いパジャマを選ぶ。母親と廊下ですれ違って、母親がくすりと笑う。あなたいつもそれ着てるわね、そうかな、ローテーションしないとその服ばっかり気崩れるわよ、いいもんそれでもお気に入りなんだから——なんて、気持ち悪い妄想を繰り広げてしまった。重症だ。こんな気持ちになるのなら大学で好きな人でも作ればいいのだろうけど、悲しいことに誰を見ても心が動かされない。
深夜一時過ぎ。彼女は今頃孤独の淵で泣きはらしているのだろうか。それとも案外、あんなポストをしておいて幸せな眠りに落ちているのだろうか。知りたい、けど知ることはできない。彼女の声は聞こえるのになにもできない距離感。はぁ、と再度ため息をつき、机の上に顔を伏せた。
きっと、これは恋だ。
でも、目の前にいない人に三年も片思いをしているなんて、俺はいったいなにをしているのだろう。あまりに不毛すぎる恋。
ふと、机の端に置きっぱなしにしていたハガキが目に入った。今朝ポストに入っていたものだ。手に取ると、胸の奥がざわめきはじめる。それは不安からくるものなのか、それとも期待か。
答えを導き出せないまま、俺はすべてを諦めたように重い瞼を下ろした。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
三連休やることなくて泣いてる〉
「……大丈夫かな……」
胸が痛くなってついつぶやいてしまった。普段の俺はひとりごとを言うタイプではないのだけど、彼女のポストを見るとどうしても画面に向かって話しかけてしまう。そんなことをしてないで〝大丈夫ですか?〟なんてコメントしてあげればいいのだろうけど、一度も話したことがない元同級生の男に急に話しかけられたら引くに決まってる。誰ですか、え、ポスト遡ったんですけど出身校同じですよね、知ってて話しかけたんですか、まさか私のことずっと見てたんですか、気持ち悪いんですけど……。返ってくる返事を想像するとおそろしくて踏み出せない。だから今日も、俺は伝えられない言葉を自室に吐き出して、ひとりよがりな焦燥がおさまるのを待っている。
深夜一時、教科書とノートを並べた机の前で、俺は勉強も手につかずにぼんやりとスマホを見つめていた。
裏アカウントを作れば他人のふりをして彼女に近づくこともできるのだろうけど、偽名を名乗るのは抵抗があった。本名の〝優弥〟以外の名前を自分につけるのは違和感があるし、なにより彼女を騙すようなことはしたくない。俺は嘘をつくとことがきらいだ。SNSの中でもありのままの自分でいることを心がけている。最近ではインフルエンサーがフォロワーを買って人気者を装ったり、自撮り画像を加工して自分を偽って載せたりするらしいけれど、正直そういう人はあまり好きにはなれない。
ため息をつき、天井を見上げるとふと、高校生の頃のことを思い出した。狭山双葉をはじめて見かけたときのことだ。
彼女との出会いは高校一年の夏だった。移動教室の途中らしく、彼女はひとりで廊下を歩いていた。上履きのラインは俺と同じ学年を示す青。真下を向いているせいで表情は読み取れない。もう入学して三ヶ月が経つのに、誰とも連れ添わずひとりでいるところを見るに、まだ友達がいないのだろう。
そのときの俺は彼女に対しそれ以上の感想は持たなかったのだけれど、すれ違った瞬間に彼女がハンカチを落としたので反射的に声をかけた。
〝あ。落としましたよ〟
ハンカチを手に取り彼女に近寄った。彼女はびくりと大袈裟に肩を揺らし、足を止める。
おそるおそるこちらを振り返る彼女の、その顔がようやく見えた。
美しい横顔だった。
やさしげな目もと、まっすぐ線を引いたような鼻筋、やわらかな弧を描く眉。化粧はしていないように見えるけれど、きれいな頬は薄くチークを乗せたように色づいている。
彼女は怯えるような視線で俺の手元のハンカチだけを捉えると、小さく答えた。
〝あ……の。えっと……。さしあげます、それ……〟
そう言い残し、彼女は全速力で走り去ってしまった。俺はぽかんとしたまま、その場に取り残された。
俺が狭山双葉の噂を聞いたのはそのあとのことだった。人付き合いが極端に苦手で、おそろしく美人だという孤高の美少女。彼女が歩いた跡にはネモフィラの花が咲き乱れると言われ、うちのクラスでも彼女に近づこうとした男子が秒で逃げられたという噂が絶えなかった。話を聞いて、あぁ、廊下で会ったあの人だとすぐに気づいた。
なんだか不思議な人だった。
たしかにきれいな人だったけど、そうじゃなくて。それだけじゃなくて。
まるで海岸から離れた道路に落ちている意味深な貝殻のように、妙に気になる、惹きつけられるなにかが彼女にはあるような気がした。
それから数ヶ月後、SNSを眺めているとおすすめユーザーに〝フタバ〟というアカウントが表示されるようになった。
その名前を見て一瞬狭山双葉のことが頭をよぎったけれど、そんなわけがないと頭を振った。フタバなんて名前はこのSNSの中に山ほどいる。おすすめユーザーには自分と近しい行動をとるアカウントが表示されるらしいけれど、だからといって彼女なわけがない。そんな偶然あるわけない。きっと同名の別人だ——そう思いつつも、俺の親指はなぜか無意識に彼女の過去のポストを確認してしまう。
そしていくつかの投稿を見て、俺はこのアカウントが間違いなく狭山双葉のものだと確信した。
その根拠は画像だった。彼女の投稿には本人の画像は見られなかったものの、時折彼女の所持品が写り込んでいた。ポーチ、ボールペン、メモ帳にトートバッグ。それらにはすべて同じパンダのキャラクターがついていて、俺が返すことのできなかった彼女のハンカチにもパンダのキャラクターがついていた。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
ペンケース忘れたけど、隣の人に書くもの貸してって言えなかった〉
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
大学生、陽キャ多くてこわいな〉
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
学食に入る勇気はないので今日もお弁当です〉
彼女の過去のポストを眺めながら、引き出しを開けてハンカチを取り出す。彼女が落としたハンカチは三年が経った今でもふわふわで、真っ白な生地の上でパンダが困った顔をしながら笑っていた。
彼女は、なんてアンバランスな人なんだろう。
あんなにもまわりを魅了する力を持っているのに、自分の魅力に気づいていない。気づかないまま、今でも人を怖がり交流を避け続けている。落ちたハンカチすら受け取れなかった三年前となにも変わっていない。
もっと自信を持ってもいいのに、なんて思ってしまうのは俺が他人だからだろうか。
もっとさらけ出せばみんな受け入れてくれるのに、なんて思ってしまうのは俺が第三者だからだろうか。
それとも……。
〈今日は動物園楽しかったね! ポスト見たよ。優くんかわゆ〜。ほかにも画像あったから送るね〉
DMが届いた。ハンカチを引き出しにしまい、返事をしようと文章を考える。でも頭が働かない。今はそんな気分になれなかった。諦めて、ホーム画面へと戻る。
フタバの最新ポストが流れてきた。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
今日も生きてる心地がしない〉
「……大丈夫かな……」
彼女は今もひとりなのだろうか。高校の頃は時々友達といるところを見かけたけれど、その友達はいつも同じ人だったと思う。ひとりでも友達ができたことは喜ばしい。でも高校を卒業した今は、新しい友達はできているのだろうか。思考は彼女の深層心理を探ろうと、どんどん地下へと潜っていく。
どうして俺はこんなに狭山双葉に執着してしまうんだろう。
気づくといつも彼女のことを考えている。もう高校だって卒業したのに、まるで時が当時のまま止まっているかのようだ。この前も、大学の友人と好きな若手女優を言い合っていて、友人の好きな女優がパジャマ集めが趣味だと聞いた瞬間、狭山双葉のことを思い出してしまった。彼女もパジャマとか集めてそうだな。シンプルで肌触りのいいやつを見かけては購入し、外着よりも多くなってしまったなんて言って苦笑いしていそうだ。毎晩どれを着ようか迷っていて、お風呂上がりにあれこれと吟味した挙句、結局お気に入りの白いパジャマを選ぶ。母親と廊下ですれ違って、母親がくすりと笑う。あなたいつもそれ着てるわね、そうかな、ローテーションしないとその服ばっかり気崩れるわよ、いいもんそれでもお気に入りなんだから——なんて、気持ち悪い妄想を繰り広げてしまった。重症だ。こんな気持ちになるのなら大学で好きな人でも作ればいいのだろうけど、悲しいことに誰を見ても心が動かされない。
深夜一時過ぎ。彼女は今頃孤独の淵で泣きはらしているのだろうか。それとも案外、あんなポストをしておいて幸せな眠りに落ちているのだろうか。知りたい、けど知ることはできない。彼女の声は聞こえるのになにもできない距離感。はぁ、と再度ため息をつき、机の上に顔を伏せた。
きっと、これは恋だ。
でも、目の前にいない人に三年も片思いをしているなんて、俺はいったいなにをしているのだろう。あまりに不毛すぎる恋。
ふと、机の端に置きっぱなしにしていたハガキが目に入った。今朝ポストに入っていたものだ。手に取ると、胸の奥がざわめきはじめる。それは不安からくるものなのか、それとも期待か。
答えを導き出せないまま、俺はすべてを諦めたように重い瞼を下ろした。