〈ユウヤ @ktrmqy7DmFWQ
動物園行ってきました〜。パンダかわいい!〉
「誰と行ったんだよ、誰とぉ」
気づくとスマホに話しかけていた。同時に、部屋に響いた自分の湿っぽい声に驚愕した。昨夜、リビングでテレビのコメンテーターに相槌を打っていたお母さんに「中の人と友達じゃないんだから」なんて言って笑っていた私だけど、どうやら私も同じ部類の人間になってしまったらしい。不覚だ。オバサンと呼ばれる年齢になるまでは絶対、デジタル機器に話しかける人間になんかならないと誓っていたのに。
深夜一時、私はベッドの上に寝そべり、真っ暗な自室でスマホを見つめていた。
気づけばもう真夜中だ。明日は一限から授業があるから十一時には寝るはずだったのに、もうこんな時間とは泣けてくる。寝る前のネットサーフィンほど無駄なものはない。寿命を無意に消費しているだけ。生産性もない。だからといって、早く寝ても明日の一限でうたた寝しないという保証なんてないし、〝早起きは三文の徳〟という言葉のとおり、朝っぱらから優弥くんよりすてきな男性とめぐり会える気もしていないのだけど。
優弥くんは高校の頃の同級生だ。同級生といっても同じクラスになったことはなくて、私が一方的に知っているだけ。話したこともなければ面識もなし。彼は私が彼のことを〝優弥くん〟などと馴れ馴れしく下の名前で呼んでいることも知らないし、私、狭山双葉という人物が同じ高校にいたという事実さえ知らないだろう。
なのになぜ私が大学生になった今も優弥くんのSNSを追い続けているかというと、単純に彼のことが忘れられないからだ。
高校一年の頃の体育祭で、はじめて優弥くんと出会った。ていうか見かけた。優弥くんは一年生の応援団員で、厚くもなく薄くもないちょうどいい具合の胸板を突き出し、グラウンドの中央で全力で叫んでいた。
あのときのこめかみに光る汗と凛々しい瞳、そして引き締まった上腕二頭筋が目に焼きついて離れない。人生はじめての一目惚れだった。
体育祭が終わり、私は教室で制服に着替えながら次に彼と会えるのはいつだろうと考えていた。でも無理だ。高校に入学してから体育祭までの五ヶ月間、私は彼に会った覚えがない。だから今後も見かける可能性は低い。それどころか、二年生のクラス替えで同じクラスにでもならない限り、二度とお目にかかれないかもしれない。そんなの悲しい。ジャージを丸めて体操袋に突っ込みながら、あれこれと考えた。走り幅跳びをしたときに体操服についた砂がすそから溢れてさらさらと上履きに降りかかる。どうしたらいいんだろう。どうしたら彼に近づける?
そして私は帰りの電車の中で、〝彼はSNSをやっているかもしれない〟というすばらしい発想にたどり着いた。唯一フォローしている友人の恵のアカウントを開き、彼女のつながりからクラスの女子のアカウントへ飛んだ。そこからさらに他クラスの生徒のアカウントへと飛んでいく。そうして小一時間ネットの波を泳ぎ続け、私はとうとう優弥くんのアカウントを割り出した。
そして今、私は毎日彼のアカウントを観察している。
苦節三年の片思いだ。
『優弥くんって絶対彼女いるよね? 死にたい』
耐えられなくなって恵にDMを送った。
彼女はいつも二時に寝る。そして起きている限りは必ず私のメッセージに即レスしてくれる。私はぼっちの中のぼっち、恵しか友達がいない、さみしい女なのだと理解してくれているからこそ、彼女はそのやさしさでかまってくれている。
ベッドの上で左右に寝返りを打ちながら悶えていると、不意にスマホが、ぽん、と音をあげてメッセージを映し出した。
ほら、来た。
『またストーキングしてんの? くだらないこと言ってないで早く寝なよ』
『無理。優弥くんのポスト見た? 大学一年生の健全な男子が動物園に親だの男友達だのと行くわけないよね。終わった、私の恋は散り果てた』
『今確認したよ。まぁ、三連休だったんだから普段行かないところに行くこともあるでしょ。年下の親戚が上京してきてて、観光がてら一緒に動物園に行ったってことにしときなよ。知らんけど』
『なにその妄想、無理がありすぎる。もっと現実的なパターンちょうだい』
恵は高校の頃のクラスメイトで、大学が離れた今も私の闇を生暖かく見守っていてくれる。私が三年もの間不毛な片思いをしているなんて、とてもじゃないけどほかの友達には話せない。ほかに友達いないけど。
どうして私はこんなに優弥くんに執着してしまうんだろう。
優弥くんのアカウントが更新されれば〝彼女といるのかな〟などと落ち込み、更新されなければ〝彼女といるのかな〟などと落ち込む。結局落ち込んでる、なんだこのスパイラルは。財宝が眠っていると噂の洞窟に忍び込み、「もう宝物は勇者たちが手に入れて持って帰ったらしいよ」と先行の冒険者に教えられても、まだ右に進むか左に進むか迷っている。どっちの道に進んでも行き着く先には博打に敗れた冒険者たちの亡骸しかない。わかってる、今の私はどうあがいても幸せにならない。なのに私の親指は一分おきに、優弥くんのあざとかわいい猫のアイコンをタップしてしまう。
涙をパジャマの袖で拭きながら再度寝返りを打った。ちなみに私がジャージ派からパジャマ派になったのは、優弥くんが〝パジャマ女子ってきゅんってするよね〟と投稿していた影響である。パジャマ女子って誰のことだよ。どうせパジャマ女子界隈全体のことを言ってるんじゃなくて、ある特定の女を想像してんだろ。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
今日も生きてる心地がしない〉
心の声をコンマの速さでポストした。優弥くんを監視するために作ったアカウントだけど、気づけばただの病みアカウントになっている。痛々しい。最初は投稿する予定なんてなかったはずなのに、この場所で自分の気持ちを吐露するようになったのはいつからだろう。どこかに吐き出さないとやってられない。この気持ちを体の中に押し込めていたら、胃液でも胆汁でも消化されずにいつかヘドロとなって、体中の内臓に蓄積されてしまう。
スマホを枕元に放り出して目をつむった。でも眠れそうにない。明日の一限は間に合うだろうか。今日までちょいちょい休んでいるから、単位のためにも休むわけにはいかないのだけれど。
あぁ、今夜は長い夜になりそうだ。
*
〈MEG @u03CUP6zPfiw
今日は美容院行ってました。前回よりちょっとアッシュ入れた! 色味どうかな、ちゃんと写ってる?〉
「なぁんちゃって」
自分のポストにツッコんでしまった。私は昔からひとりごとを言う癖があるのだけれど、ひとりで虚空に向かってつぶやくなんて話し相手のいないさみしい女の典型だから、まわりに人がいないときだけに留めている。いい女のまわりには常に人がいる。ぼっちになる瞬間なんて一秒もないほど友達や恋人に囲まれて賑わっている。だから私はひとりごとなんて言うはずがないのだ。唯一、ひとりごとを許可されている場所はここ、大学入学と同時にひとり暮らしをはじめた家賃五万二千円の我がアパートの中だけ。大丈夫、ちゃんと理性は働いている。私は孤独なんかじゃない。さみしい女にはならない、絶対に。
深夜一時、私はベッドの上に寝そべり、真っ暗な自室でスマホを見つめていた。
明日は一限から授業があるのだけど、正直どうでもよかった。なんなら一日くらい休んだってかまわない。それより大事なのはSNSだ。〝投稿が拡散されやすいのは何時と何時〟なんてIT関係のすごい人が言っていたけれど、私はだいたいその時間を逃してしまう。今日も櫛についた髪の毛を掃除していたらハマり出してしまい、気づけば夜の一時になっていた。バズるには時間的に遅すぎる、けど、更新はしなければ。
六ヶ月前に髪を切ったときの写真を撮り溜めていたので、髪色を変えて投稿した。最近のアプリは優秀で、自撮り写真の髪の毛だけをいろんな色に変えてくれる。ひと月に一度髪を染め直す私は、どこからどう見ても美を追求するおしゃれのエキスパートだろう。美容院代だってバカにならないのだからうまく立ち回らなくちゃいけない。
まだインフルエンサーと呼ばれるにはほど遠いけれど、一万人のフォロワーの中から何人がこのポストに反応してくれるかを見守る。そうしながら、私は今夜送られてくるであろう狭山双葉からのDMを待っていた。
先ほど、〝彼〟が今日動物園に行ったという投稿をしていた。だから双葉は必ず私に連絡してくる。今夜はそれを読むまで眠れない。彼女の第一声が楽しみでしかたなかった。
双葉とは高校の頃からの腐れ縁だ。双葉と出会ったときのことはよく覚えている。肌はツヤツヤ、唇はぽってり、毛量の多い地まつ毛は瞬きのたびに微風を生み出していた。間違いなくクラスいち、いや、学校いちの美少女だった。
正直、双葉と一緒にいるのはつらかった。彼女の横にいると私は彼女の引き立て役にならざるを得なかったから。双葉は顔に似合わず性格が暗くて、私以外に友達がいなかったから一緒にいてあげたけど、おかげで私の高校生活は双葉に対する嫉妬で散々なものになってしまった。
〝狭山さんって彼氏いるか知ってる?〟〝今度ご飯会しようよ。狭山さんも誘って〟〝狭山さんにこの手紙渡してくれないかな〟——はいはい、狭山さん狭山さん。私は狭山さんに近づくための仲介業者なんですね。でもいくらうちの高校はバイト禁止だからって、人を無償で働かせるのはいかがなものかしら。託された手紙は、廊下の角を曲がった瞬間に散り散りに破いて捨ててやった。
そんなこんなで三年間痛めつけられた私だから、今度、彼女にこのセリフを言うことをとてもとても楽しみにしている。
〝ごめんね。私、本当は高校のとき優弥に告られて、今日までずっと付き合ってたの。でも双葉があまりにも優弥のこと気に入ってたみたいだったから言えなかった。本当にごめんなさい〟
そう伝えたら、双葉はどんな顔をするだろう。
泣く? 卒倒する? それとも、双葉は私のことを純粋に好いていてくれてるから、案外涙を堪えて喜んでくれるかもしれない。
そのリアクションを自分の目で見たいから、この件を話すときは直接会って、と決めている。DMやLINEではだめだ。会って、対面で座って、ほかに邪魔する人もいない、そんな環境がベスト。双葉の家に遊びに行ったときなんかがいいだろう。
深夜一時過ぎ。そろそろ双葉からメッセージが来る頃だ。〝優弥くんって絶対彼女いるよね? 死にたい〟なんて泣き言を言ってくるに違いない。目をこすりながら睡魔と戦う。
ほら、来た。
『優弥くんって絶対彼女いるよね? 死にたい』
にやにやしながらSNSをいったん閉じ、画像フォルダを開く。キリン、ライオン、アライグマ、いろいろな動物たちと優弥のツーショット。今日はこれでもかというほど写真を撮った。中でもパンダが一番好きらしくて、パンダの横でダブルピースをする彼は本当にかわいかった。
双葉の泣き言の返信として、この画像を送ってやりたい。そのあと〝あっ、ごめん間違えた!〟なんてメッセージを送るとすぐさま双葉から電話がかかってくるから、私は笑いを堪えながら彼女に謝るのだ。〝優弥と今日動物園デートをしていたのは私なの、ごめんね〟。でもそれは今じゃない。会って伝えないと双葉の反応が見られない。それに、日が経てば経つほど失恋のダメージは大きいというものだ。
『またストーキングしてんの? くだらないこと言ってないで早く寝なよ』
『無理。優弥くんのポスト見た? 大学一年生の健全な男子が動物園に親だの男友達だのと行くわけないよね。終わった、私の恋は散り果てた』
『今確認したよ。まぁ、三連休だったんだから普段行かないところに行くこともあるでしょ。年下の親戚が上京してきてて、観光がてら一緒に動物園に行ったってことにしときなよ。知らんけど』
今確認したというか、優弥のアカウントは裏アカで監視してるから最初から知ってた。でも〝興味はないけど双葉が言うから確認したよ〟というスタンスにしないと私と優弥の関係がバレてしまう。双葉にすべてを告白するまでは、一ミリたりとも匂わせなんかしたくない。
そのあと双葉に『もっと現実的なパターンちょうだい』などと言われ、百とおりほどの〝原田優弥が動物園に行った理由〟を提案したところでようやくやり取りが終わった。ふう、と息を吐く。ホーム画面に戻り自分のポストを見ると、いいねは二十になっていた。一万人のフォロワーのうち、反応してくれた人は一パーセントにも満たない。といっても、一万人のうちのほとんどが業者から買ったフォロワーだから、反応が少ないのも当然か。
承認欲求という言葉があるけれど、私はそれが悪いことだとは思わない。
だって、他者からの承認を得ることこそが人間の生きるモチベーションなのだから。生きがいなのだから。みんなもそうでしょ? それがあるから私は私でいられるし、〝MEG〟は〝岩永恵〟でいられる。
私は双葉に勝つ。双葉よりもてはやされて、双葉にも羨ましがられる女になる。もう高校時代には戻らない。それが私の生きる目的。
どんな手段を使ってでも、私はいい女になってみせる。
*
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
三連休やることなくて泣いてる〉
「……大丈夫かな……」
胸が痛くなってついつぶやいてしまった。普段の俺はひとりごとを言うタイプではないのだけど、彼女のポストを見るとどうしても画面に向かって話しかけてしまう。そんなことをしてないで〝大丈夫ですか?〟なんてコメントしてあげればいいのだろうけど、一度も話したことがない元同級生の男に急に話しかけられたら引くに決まってる。誰ですか、え、ポスト遡ったんですけど出身校同じですよね、知ってて話しかけたんですか、まさか私のことずっと見てたんですか、気持ち悪いんですけど……。返ってくる返事を想像するとおそろしくて踏み出せない。だから今日も、俺は伝えられない言葉を自室に吐き出して、ひとりよがりな焦燥がおさまるのを待っている。
深夜一時、教科書とノートを並べた机の前で、俺は勉強も手につかずにぼんやりとスマホを見つめていた。
裏アカウントを作れば他人のふりをして彼女に近づくこともできるのだろうけど、偽名を名乗るのは抵抗があった。本名の〝優弥〟以外の名前を自分につけるのは違和感があるし、なにより彼女を騙すようなことはしたくない。俺は嘘をつくとことがきらいだ。SNSの中でもありのままの自分でいることを心がけている。最近ではインフルエンサーがフォロワーを買って人気者を装ったり、自撮り画像を加工して自分を偽って載せたりするらしいけれど、正直そういう人はあまり好きにはなれない。
ため息をつき、天井を見上げるとふと、高校生の頃のことを思い出した。狭山双葉をはじめて見かけたときのことだ。
彼女との出会いは高校一年の夏だった。移動教室の途中らしく、彼女はひとりで廊下を歩いていた。上履きのラインは俺と同じ学年を示す青。真下を向いているせいで表情は読み取れない。もう入学して三ヶ月が経つのに、誰とも連れ添わずひとりでいるところを見るに、まだ友達がいないのだろう。
そのときの俺は彼女に対しそれ以上の感想は持たなかったのだけれど、すれ違った瞬間に彼女がハンカチを落としたので反射的に声をかけた。
〝あ。落としましたよ〟
ハンカチを手に取り彼女に近寄った。彼女はびくりと大袈裟に肩を揺らし、足を止める。
おそるおそるこちらを振り返る彼女の、その顔がようやく見えた。
美しい横顔だった。
やさしげな目もと、まっすぐ線を引いたような鼻筋、やわらかな弧を描く眉。化粧はしていないように見えるけれど、きれいな頬は薄くチークを乗せたように色づいている。
彼女は怯えるような視線で俺の手元のハンカチだけを捉えると、小さく答えた。
〝あ……の。えっと……。さしあげます、それ……〟
そう言い残し、彼女は全速力で走り去ってしまった。俺はぽかんとしたまま、その場に取り残された。
俺が狭山双葉の噂を聞いたのはそのあとのことだった。人付き合いが極端に苦手で、おそろしく美人だという孤高の美少女。彼女が歩いた跡にはネモフィラの花が咲き乱れると言われ、うちのクラスでも彼女に近づこうとした男子が秒で逃げられたという噂が絶えなかった。話を聞いて、あぁ、廊下で会ったあの人だとすぐに気づいた。
なんだか不思議な人だった。
たしかにきれいな人だったけど、そうじゃなくて。それだけじゃなくて。
まるで海岸から離れた道路に落ちている意味深な貝殻のように、妙に気になる、惹きつけられるなにかが彼女にはあるような気がした。
それから数ヶ月後、SNSを眺めているとおすすめユーザーに〝フタバ〟というアカウントが表示されるようになった。
その名前を見て一瞬狭山双葉のことが頭をよぎったけれど、そんなわけがないと頭を振った。フタバなんて名前はこのSNSの中に山ほどいる。おすすめユーザーには自分と近しい行動をとるアカウントが表示されるらしいけれど、だからといって彼女なわけがない。そんな偶然あるわけない。きっと同名の別人だ——そう思いつつも、俺の親指はなぜか無意識に彼女の過去のポストを確認してしまう。
そしていくつかの投稿を見て、俺はこのアカウントが間違いなく狭山双葉のものだと確信した。
その根拠は画像だった。彼女の投稿には本人の画像は見られなかったものの、時折彼女の所持品が写り込んでいた。ポーチ、ボールペン、メモ帳にトートバッグ。それらにはすべて同じパンダのキャラクターがついていて、俺が返すことのできなかった彼女のハンカチにもパンダのキャラクターがついていた。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
ペンケース忘れたけど、隣の人に書くもの貸してって言えなかった〉
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
大学生、陽キャ多くてこわいな〉
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
学食に入る勇気はないので今日もお弁当です〉
彼女の過去のポストを眺めながら、引き出しを開けてハンカチを取り出す。彼女が落としたハンカチは三年が経った今でもふわふわで、真っ白な生地の上でパンダが困った顔をしながら笑っていた。
彼女は、なんてアンバランスな人なんだろう。
あんなにもまわりを魅了する力を持っているのに、自分の魅力に気づいていない。気づかないまま、今でも人を怖がり交流を避け続けている。落ちたハンカチすら受け取れなかった三年前となにも変わっていない。
もっと自信を持ってもいいのに、なんて思ってしまうのは俺が他人だからだろうか。
もっとさらけ出せばみんな受け入れてくれるのに、なんて思ってしまうのは俺が第三者だからだろうか。
それとも……。
〈今日は動物園楽しかったね! ポスト見たよ。優くんかわゆ〜。ほかにも画像あったから送るね〉
DMが届いた。ハンカチを引き出しにしまい、返事をしようと文章を考える。でも頭が働かない。今はそんな気分になれなかった。諦めて、ホーム画面へと戻る。
フタバの最新ポストが流れてきた。
〈フタバ @C4cI2PVPvT9t
今日も生きてる心地がしない〉
「……大丈夫かな……」
彼女は今もひとりなのだろうか。高校の頃は時々友達といるところを見かけたけれど、その友達はいつも同じ人だったと思う。ひとりでも友達ができたことは喜ばしい。でも高校を卒業した今は、新しい友達はできているのだろうか。思考は彼女の深層心理を探ろうと、どんどん地下へと潜っていく。
どうして俺はこんなに狭山双葉に執着してしまうんだろう。
気づくといつも彼女のことを考えている。もう高校だって卒業したのに、まるで時が当時のまま止まっているかのようだ。この前も、大学の友人と好きな若手女優を言い合っていて、友人の好きな女優がパジャマ集めが趣味だと聞いた瞬間、狭山双葉のことを思い出してしまった。彼女もパジャマとか集めてそうだな。シンプルで肌触りのいいやつを見かけては購入し、外着よりも多くなってしまったなんて言って苦笑いしていそうだ。毎晩どれを着ようか迷っていて、お風呂上がりにあれこれと吟味した挙句、結局お気に入りの白いパジャマを選ぶ。母親と廊下ですれ違って、母親がくすりと笑う。あなたいつもそれ着てるわね、そうかな、ローテーションしないとその服ばっかり気崩れるわよ、いいもんそれでもお気に入りなんだから——なんて、気持ち悪い妄想を繰り広げてしまった。重症だ。こんな気持ちになるのなら大学で好きな人でも作ればいいのだろうけど、悲しいことに誰を見ても心が動かされない。
深夜一時過ぎ。彼女は今頃孤独の淵で泣きはらしているのだろうか。それとも案外、あんなポストをしておいて幸せな眠りに落ちているのだろうか。知りたい、けど知ることはできない。彼女の声は聞こえるのになにもできない距離感。はぁ、と再度ため息をつき、机の上に顔を伏せた。
きっと、これは恋だ。
でも、目の前にいない人に三年も片思いをしているなんて、俺はいったいなにをしているのだろう。あまりに不毛すぎる恋。
ふと、机の端に置きっぱなしにしていたハガキが目に入った。今朝ポストに入っていたものだ。手に取ると、胸の奥がざわめきはじめる。それは不安からくるものなのか、それとも期待か。
答えを導き出せないまま、俺はすべてを諦めたように重い瞼を下ろした。
*
〈ユウヤ @ktrmqy7DmFWQ
動物園行ってきました〜。パンダかわいい!〉
「私の写真載せてくれないんだ」
ポストを見た瞬間、つい口から不満が漏れてしまった。ひとりごとは日頃我慢しているつもりなのだけど、やっぱりなにかあるとすぐ出てしまう。特にイライラしたとき。この前も、学校で先生にピアスの穴を指摘されて思い切り舌打ちしてしまった。高校一年生の女子の耳たぶに一ミリの穴が空いてたからってなんだっていうんですか? あなたがとやかく言うからピアスは外してやってんのに、これ以上私になにを求めるんですか? テストは学年一位、無遅刻無欠席で優等生やってますけどほかになんの文句があるんですか? は? は? って、ひとりごとというか思ったこと全部本人に伝えてしまった。また内申落ちたな、でもどーでもいい。私にはそんなことも気にならなくなるくらいの圧倒的学力があるから、結局先生だって私の評価を下げることはできない。
深夜一時、私は新潟に帰るはずだった新幹線に乗らず、東京の真っ暗な住宅街を歩きながらスマホを見つめていた。
これで今夜泊まるところがなくなったわけだけど、手持ちはあるから困ったら漫画喫茶か二十四時間営業のファーストフード店で夜を明かそう。それよりも、だ。私は今イライラしていた。優くんの投稿に。動物園で私と一緒の写真は何枚か撮ったはずなのに、アップしたのはパンダと自分のツーショってどういうことなの。私はパンダ以下かよ。
高校生になって、念願だったバイトをはじめた。お金を貯める目的は優くんに会うためだ。新幹線代と、優くんに見せるための洋服代と、優くんのお母さんへのお土産代。優くんのお母さんは私のお母さんのお姉さんで、私とも仲がいいから、「東京の大学に行きたいから東京見学させて!」と言ってみるとこころよく泊まらせてくれるようになった。目標は月いちで遊びに行くことだ。
そして今日は、一ヶ月ぶりに優くんと会えた日。なのに、優くんにとって私はパンダ以下の存在であることが判明してしまった。
腹が立ったので優くんにDMを送った。気を抜くとヒステリー感が出そうになる。溢れ出る感情をすべて殺して、かわいい年下の従兄妹を演じる。
〈今日は動物園楽しかったね! ポスト見たよ。優くんかわゆ〜。ほかにも画像あったから送るね〉
今さら画像を送ったところでポストを差し替えるわけないとわかっていても、気持ちがおさまらない。画像を見直して、パッと見、私たちが彼氏彼女の雰囲気であることを感じてほしい。私はデートのつもりだったのに誘い方がいけなかったのだろうか。〝動物園行きたい、東京で一番有名なとこ連れてって!〟……あの言葉を間に受けたのか、今日の優くんの態度はにこにこと私に主導権を託すばかりで、あからさまに保護者的立ち位置だったように思う。
私は優くんさえそばにいたらそれでいいのに。勉強だって、合格したら東京の大学に通わせてくれるって親が言ってくれたから今がんばってるのに。
少しずつ優くんに近づいてるのに、優くんはいつまで経っても私を子ども扱いする。
なんなの? これだけかわいい従兄妹がアピールしてるのに私は射程県外ですか? あなたの目は節穴ですか?
真っ暗な道を進む。どんどん気持ちは暗くなる。それでも諦められず、指は今日の私と優くんの写真をたどる。幸せだったはずの、優くんとのデートがぼやけていく。
私の努力は実るのだろうか。虚しい。
「……こいつ、やっぱり見覚えあるんだよなぁ」
ふと指を止め、ある写真を睨みつけた。
トラの檻の前で撮った写真だ。優くんのうしろに女が写り込んでいる。はじめは動物好きのただのひとり客かと思ったけれど、違うらしい。どの写真にも写ってる。ていうかなんなら、女が優くんの写真を隠し撮りしている姿さえある。
キモ。ストーカーかよ。
そういえば、優くんは昨日〝明日はゆめのしま動物園行ってきます。動物園なんて小学生以来だなー〟とポストしていた。ストーカーがそれを見ていたとしたら落ち合うことなんて容易だ。キモいキモい。そして優くんも優くんだ。バカ正直すぎる。優くんはそこそこかっこよくてそこそこモテるんだから、明日どこに行くとかそういう不用意なポストは控えたほうがいいのに。
ストーカー女の顔をじっと睨みつけていると、ようやく思い出した。
この人、最近現れた駆け出しのインフルエンサーだ。美容系のインフルエンサー。今はたしか、フォロワー一万人くらいだっけ。名前は〝MEG〟。
鬱陶しいな。
とりあえず彼女のアカウントに飛び、裏アカで〝フォロワー買ってるくせに有名人気取んな〟とコメントした。みんなから好かれようと必死なくせに、意中の一般人には視界にも入れてもらえずこそこそ付きまとうしかないなんてさみしい女。あーあ、また優くんに近づくようなら対策を考えなきゃ。……それより、今は。
歩いていた足を止めた。
目の前には〝フタバ〟の自宅があった。
彼女はおそらく、いま優くんが気になっている人だ。先月優くんの家に遊びに行ったとき、優くんのスマホを隠れて見ていて気づいた。画像フォルダに女性が撮ったと思わしき写真がたくさん保存されている。そこに時々写っている女性モノの小物にはどれもパンダのキャラクターがついていて、SNSを開けるとおすすめ欄にも同じパンダグッズの写真が流れてきた。それを流しているアカウントの名前は〝フタバ〟。間違いない。優くんはこのアカウントをフォローせず、こっそりチェックして画像を収集している。
そして今日、優くんがあまりにパンダと写真を撮りたがるからさりげなく指摘してみたら、〝パンダが好きな人がいて俺も好きになったんだよね〟と言いのけた。はい確定。
先月から私はフタバのアカウントを調査しはじめた。家の前で撮られたと思わしき画像をもとに、住所を割り出す。優くんの家からたったの数駅だった。近い。元同級生かなにかだな。
〈アンズ @12Pqxw4xcFMx
ライバルのお宅到着〜。外観は普通の一軒家、いや、どっちかというとお金持ちかも。腹立つぅ〜〉
ポストすると、イップレッションはみるみる増えていった。いいね数は数分で百を超えていく。裏アカでは〝年上の従兄妹にいかに接近するか〟をずっと実況してきたから、かなりの追っかけフォロワーがいる。どうするの? 攻め込んでみる? と、コメントもどんどんついていく。私はしばらくその光景を眺めると、SNSを閉じ、フタバの家を見上げた。
私の人生は、恋がすべてだ。
ほかにはなにもいらない。手に余るほどのお金も、名声も名誉もなにもいらない。私はなによりも愛が欲しい。お父さんは仕事で家に帰らず、お母さんは料理教室の先生と不倫中。私は家の中で本物の愛を感じたことがない。愛ってなんだろう。それがあるとなんかいいことあるの?
そんな私に、優くんは小さい頃からやさしく接してくれた。年に一度お母さんと優くんの家に遊びに行くと、優くんは必ず予定を開けて遊びに連れていってくれた。あぁ、これが愛なんだと子どもながらに実感した。それが仮に異性としてではなく家族愛のようなものであったとしても、優くんが私に微笑みかけてくれるだけで胸が温かくなった。
誰でもよかった。私に愛をくれる人なら、誰でも。
だから私は優くんを手に入れてみせる。
どんな手を使ってでも、愛を勝ち取ってみせる。みんなが当たり前に手にしている幸せを私も手に入れる。誰を蹴落としてでも。誰を不幸にしてでも。
愛というものさえあれば、幸せになることができるんだ。いつも笑っている、お母さんみたいに。
門を開け、私は狭山家に一歩足を踏み入れた。
*
——そういえば、ひとりごとを言う人はストレスを抱えているのだと聞いたことがある。
たとえば、不毛な恋に悩んでいたり。たとえば、自分の存在意義を人に依存していたり。そんなふうに心の靄を内に秘めているとき、感情を言葉にして外に出すことで無意識的にストレスを解消しているらしい。その感覚はわからなくもないけれど、私自身にはひとりごとを言う習慣はなかった。
では、私にはストレスはないのだろうか。まったくないと言えばうそになるけど、年齢の割に少ない部類だと思う。夫は高級取りで家族にやさしいし、私も家事に育児に忙しくも楽しく暮らせている。恵まれているほうなのだろう。あぁ、でもひとつ、娘のことは少し気がかりかもしれない。
深夜一時、夫も娘も寝静まり残されたリビングで、私はようやくひと息つき録画しておいたテレビドラマを見返していた。
テレビを見ているときに出演者の言葉に相槌を打つのは双葉の前でだけだった。そうすると双葉は笑ってくれるから。〝テレビに向かってひとりごとを言うお母さん〟というのはきっと、若い女の子から見たら奇妙でおもしろいものなのだろう。私は別になんとも思わないけれど、双葉が喜んでくれることがうれしくてつい演じてしまう。
でも、大学生になってから笑顔が減った双葉のことは前から気になっていて、それが私の悩みといえば悩みだ。
どうしたんだろう。大学でなにかあったのだろうか。勉強? 人間関係? その問いはいつも頭の中だけで展開され、口には出せない。不思議なものだ。どうでもいいひとりごとは口にするくせに、大事なことは言わない方がいい気がしてしまう。それは最近、私が〝距離感〟というものを考えはじめたからなのだろう。
そんなことを思っていると、ふと誰かが階段から降りてくる足音がしてドアのほうを振り返った。
少しして、双葉がドアを開けて入ってきた。二時間前におやすみ、と言って別れたはずなのにまだ起きていた。それより気になるのは目もとの腫れだ。泣いていたのかもしれない。
「どうしたの?」
「……眠れなくて」
「ホットミルク、飲む?」
〝なにかあった?〟——その言葉が喉元まで出かかったけれど、それを口にすることはしなかった。大学一年生。思い悩むことはあるだろう。この歳になると自分から言い出すまではなかなか立ち入られない。そろそろ私は娘との距離感を考える時期にきている。近すぎてもいけない、遠すぎてもいけない。私は昔から双葉に対して過保護になりがちだから、もう少し距離をとったほうがいいと思う。でもどうだろう、夜中に泣いていて眠れないというならそれとなく話を聞いてみるべきか。何年親をやっていても、その辺のバランスは手探りだ。
葛藤を顔に出さないように立ち上がり、キッチンへ向かう。
マグカップに牛乳と砂糖を入れ、電子レンジに入れる。音が鳴って開けると、湯気とやさしい香りが辺りを包んだ。
双葉と一緒に選んだガラス製のローテーブルにカップを置くと、双葉は少しだけ目もとを和ませて手に取った。
「お母さん、今夜はテレビにツッコまないんだね」
ホットミルクをちびちびと口にしながら双葉がつぶやいた。
私は頬杖をつきながらドラマの続きを見ていたのだけど、頭の中では双葉のことを考えていたのでいつものようにつぶやくのを忘れていた。不覚だ。
「話しかけるのは情報番組だけなの」
「そうだったっけ。なんにでも話しかけてるイメージだった」
「そうかな」
ドラマの流れが全然頭に入ってこない。やっぱりだめだ。世間的にはもう〝大人〟である双葉だけれど、私にとってはいつまでもかわいい娘なのだ。
テレビを消して、双葉と向き合った。
双葉は急にこちらを向いた私に戸惑いながらも、しばらくするとなにかを決意したように、マグカップを両手で包み込んだ。
「……あのさ。私……好きな人が、いるんだけど」
俯くその瞳には、もうすでに涙が溜まっていた。
私はなんでもないことのように、小さく頷く。
「あら、すてきね」
「全然すてきじゃないよ……。ただの片思いなの。ていうか……ストーカー? その人のネットの投稿をひとりで眺めてるだけ」
「インターネットで見てるだけならストーカーにはならないでしょ」
双葉は笑いながら首をかしげ、話を続けた。
「高校の頃の同級生なの。話したこともないんだけど、たくましい感じがかっこよくて。ずっと憧れてた。……でも、最近SNSを見てるとその人に彼女がいる気がしちゃって。なんか、悲しくて」
言い切る前に、双葉はパジャマの袖で目を拭った。私の前では涙を我慢しがちな双葉が今、泣いている。でも動揺してはいけない。私が慌てることでおおごとにしてはいけない。助けを求められる側は冷静に、穏やかに、毅然としていなければ。
しばらく間を置いて、双葉が落ち着いたところで答えた。
「まだ、恋人がいるって決まったわけじゃないのね」
「うん……。でも、今はいなかったとしても、いつかはできるかもしれないし。いつまでもこんなことしてても意味なんかないし。……だからもう、片思いなんてやめたほうがいいよね」
双葉はすでに自分で結論を出しているようだった。なにも言わずに双葉の目を見返す。
それでも、いい。恋を諦めることは別に悪いことじゃないし、今の状況なら健全な判断だ。双葉がそうしたいなら、私はどんな選択も尊重する。
ただ、私は彼女に最後の希望を提示した。
「じゃあさ、勇気出して会ってみるのはどう?」
そう言うと、双葉は一瞬きょとんとした目をして私を見つめた。
そしてひと口ホットミルクを飲み、薄く笑う。
「人ごとだと思って……。会えないよ。話したこともないのに。会える機会だってもう、ないんだから」
「渡し忘れてたんだけどね、今朝、同窓会のハガキ来てたよ」
棚の上に置いておいたハガキを手に取り、双葉の前に差し出した。
双葉はそれをすぐに手に取り、まじまじと見つめた。
「高校の同窓会。学年単位なんだって。まだ卒業して一年も経ってないのに早いよね。でもこれで、もし彼が来てたら会えるんじゃないかな」
「えー……。……でも、話せないよ。私、人前に出るとうまく話せないの。お母さんとか、仲のいい友達とならマシなんだけど」
「いいじゃない。うまく話せなくても」
双葉の潤んだ目が私を見つめる。
「そのままのこと伝えたら? もし嫌がられても、どうせもう会わないと思えば気が楽でしょ。たまたまインターネットで見かけて眺めてました、高校の頃からかっこいいなって思ってました、って伝えてみたら?」
双葉の表情は変わらなかったけれど、またハガキを眺めはじめた双葉の瞳には輝きが戻っていて、つい私も笑みがこぼれてしまった。
私は、双葉の幸せを願ってる。
彼女は小さな頃から不器用で、うまく人に心を開けないことも、あらゆる場面で生きづらそうにしていることも感じていた。それでも、彼女の人生が少しでもうまくいくように、限りない愛情で支えてきたつもりだ。
ぶつかって、くじけて、休んで。
そうしていつか、たくさんの幸せを手に入れられるといい。素朴で温かな未来が訪れるといい。
どんなにうまくいかなくても、私はずっとそばにいるから。
お父さんもお母さんも、どんなことがあっても双葉の味方だから。
だから大丈夫。なんでもやってみるといい。その結果がどうであっても、私はいつでもこの場所で双葉のことを見守っている。
双葉がこれからも、自分のペースで一歩ずつ前に進んでいくことを願ってる。
「……また、黒歴史増えちゃうかもよ」
双葉は眉根を下げつつも、口元には笑みを浮かべていた。
「いいんじゃないの。お母さんだって人生、思い返すと恥ずかしい思い出ばっかりだよ。学生時代には振られたりもした。黒くない歴史なんて、お父さんと双葉と出会えたことくらい」
「うわ、くさっ……」
いつもの笑顔が戻る。心から安心できる、娘の笑顔だ。
双葉はホットミルクを飲み干すと、マグカップをシンクに持っていった。そして戻ってきて机の上のハガキをしばらく見つめたあと、さっと手に取った。
「眠くなってきちゃった。もう寝るね」
「そっか、よかった。おやすみ」
「おやすみ。……あの、お母さん」
へへ、と笑う、双葉の顔は親バカだけれどとても愛らしい。
「ありがとう」
そう言い残すと、双葉はリビングのドアを開け、階段を駆け上がった。静まった部屋に、やさしいミルクの香りだけが漂っている。
双葉はどんな決断をするのだろう。それは私にはわからない。笑顔を取り戻してはいたけれど、やっぱり朝になって冷静になったら怖気づいて同窓会は不参加にするかもしれないし、行ったところで意中の彼に話しかけずに終わるかもしれない。
でも、どれを選んでもそれは双葉の道だ。
私は見守るだけ。気になってしまうけれど、今後はあまりかまいすぎないようにしなければ。つまりは、子離れだ。
さみしいけれど、双葉はずっと私のそばにいるわけじゃない。弱々しい娘だけれど、いつか巣立っていけるように。ひとりでも生きていけるように。親と子の距離感は、今後私が勉強していかなければならない課題なのだろう。
……さて。
ふう、とひとつ息を吐いて、立ち上がった。
棚の中に隠していたスマホを手に取り、スタンドミラーの前に立つ。一応この時間でも自分の身なりは気にする。簡単な部屋着だけれど着崩れてはないか、髪はきれいにまとまっているかを確認しながらスマホを開く。数タップで目的地にたどり着き、まじまじと画面を見つめてから髪をゆるく結んだ。
毎朝お弁当を作っているから夜はかなり早く寝る私だけれど、今夜この時間まで起きていたのには理由がある。
いいタイミングで双葉が部屋に戻ってくれてよかった。彼女には不快な場面は見せたくない。悲しい妄想に囚われず、穏やかな気持ちのまま眠りについてくれるといい。
結んだ髪をさらりと左に流し、玄関に向かう。電気をつけずにパンプスを履き、静かにチェーンを外してドアノブを握った。
勢いよくドアを開けると、目の前には庭に向かってスマホをかまえている女の子が立っていた。
「アンズさん? あ、白川杏華さん、だったかしら」
白川杏華は驚いた様子で私を見つめ返した。
背が小さくてかわいらしい、今どきの女の子だった。肩までのボブの髪を緩く巻いている。クラスにいたらそれなりにモテるタイプだろう。
インターホンも鳴らしていないのに人が出てくるなんて思わなかったのか、彼女はスマホをかまえていた手をゆっくりと下げ、そのまま体を硬直させた。
「……え。なんで、私の名前」
「もうこんな時間よ。おうちまでのタクシー代は払ってあげるから、早くお帰りなさい。きっとご家族が心配してるわ」
「は? ……なに言ってんの?」
「昨日、あなたのお母さんとランチに行ったの。新潟のお料理教室で知り合ってね、ずっとあなたのこと心配してたわ。成績はとてもいいのにおうちでは喧嘩ばかりなんですってね。まぁ、ご家庭の状況を考えたらしかたないかもしれないけれど」
後ろ手に持っていたスマホを見せる。そこにはSNSの、あるアカウントを表示させていた。
〈アンズ @12Pqxw4xcFMx
好きな人に好きな人がいるっていう地獄〜。許せん。アカウント発見したからとりあえず調査開始するわ〉
〈アンズ @12Pqxw4xcFMx
住所把握した! 私の特定能力すごすぎない? Yくんちから結構近い。行けない距離じゃないかも〉
〈アンズ @12Pqxw4xcFMx
やっぱり今日凸するわ! まずは様子見〜。動物園行ってからまた移動って、今日のスケジュール半端ないんだけどw〉
〈アンズ @12Pqxw4xcFMx
ライバルのお宅到着〜。外観は普通の一軒家、いや、どっちかというとお金持ちかも。腹立つぅ〜〉
彼女は私のスマホを凝視してから、そっと私の顔を見上げた。
さっきまで私と戦おうと息巻いていた彼女は、今は年相応というか、少しだけ怯えた表情をしている。不意打ちがだいぶ効いているようだ。
軒下に設置している防犯カメラを指差してみせると、彼女の顔はさらに青ざめた。
「あなたが今すぐこの家の敷地内から出ていくなら、私はなにも見なかったことにするわ。さっき撮ってたうちの庭なんかの写真は消してちょうだい。あと、双葉にはもう二度と近寄らないでね。できたら〝優くん〟にも関わらないでくれたらうれしいのだけど」
そう伝えると、白川杏華は踵を返し逃げていった。その後ろ姿を見送り、門を閉め、花壇やなにかが荒らされていないかを確認する。念のためあとでカメラの映像も確認しておこう。別になにされたからって、訴えたりする気はないけれど。
私が白川杏華のことを知ったのは、双葉のスマホがきっかけだった。
小さな頃から学校生活がうまくいかず、常に悩んでいた双葉。それでも家では明るく振る舞っているものだから、私はいつしか、双葉がお風呂に入っている隙にスマホを確認するのが習慣になっていた。
だから、以前から双葉がDMで高校時代の友人に想い人のことを相談しているのも知っていた。それを受けて、私は探偵を雇い〝優弥くん〟に恋人がいるかどうかを調べた。恋人がいなかったのは幸いだけど、彼の従兄妹の〝白川杏華〟という人物が度々上京して原田優弥に会いに来ているらしい。白川杏華は原田優弥の全ポストにいいねをしていたからアカウントはすぐにわかった。探偵の調査で裏アカウントも発見すると、彼女は双葉の存在を知っていて、おもしろいことに今夜うちに来てくれるとポストしている。だからお出迎えをすることにしたのだ。
私は、双葉の幸せを願ってる。
双葉が幸せになるなら、白川杏華の地元まで行って母親から情報を聞き出すなんてわけのないこと。高校の校長の過去のセクハラ疑惑を盾にして、大がかりな同窓会だって主催させてやる。すべては双葉のために。双葉のために。
でも私は双葉にとっていい距離感を保っている親なのだから、双葉にはすべて、内緒だ。
空を見上げると、きれいな月が出ていた。
深夜に外に出ることはないから、その美しさについ見惚れてしまう。まるで私の心の中のように、澄んだ、透明感のある色をしている。
「今夜は気持ちよく眠れそうだわ」
わざとつぶやいた。
私の意味のないひとりごとは、吸い込まれそうな漆黒の闇に溶けて消えていった。