その日、私はビッテンフェルト伯爵領で一番大きな街に出かけるため、馬車の中にいた。
なぜなら、領地で伸びのびと生活しているうちに、ドレスのウエストが若干キツく感じるようになってしまったからだ。そのため、いくつか公爵家から持ってきたドレスのウエストサイズを、不本意ながらも街にある洋品店でサイズアップしてもらう予定なのである。
路面の凹凸や坂道などにより変化する不規則な揺れ。それから馬車の車輪が地面と接触するときに伝わる振動。それらを体に感じながら、私を乗せた馬車は小石や砂利で覆われた、舗装されていない道を軽快に街へと進む。
私は馬車の中のつり革をしっかりとつかみ、窓の外。流れる風景を楽しみながら揺られているという状況だ。
「食事が美味しい。そう思えると、こうも太ってしまうのね」
私は不本意極まりない目的で街へと向かう事に罪悪感を感じ、かつて、私の侍女をしていたアンネに言い訳を口にする。
「でも、お嬢様。結婚して四年です。体型が変わらない事のほうが珍しいと思いますよ。私なんてもう何度、サイズアップする羽目になったか分かりませんわ」
アンネは苦笑しながら、ドレスの脇腹をつまむ。
今や、男爵家の妻となっている彼女は、ビッテンフェルト伯爵領を拠点とし、国中に支店をいくつも構える商会の娘。いわゆるブルジョワジーと呼ばれる階級出身の友人だ。
『いずれ貴族にアンネを嫁がせたい』
彼女の父親がそんな野望を背負っていた為、アンネは私の侍女として、私のそばに置かれた。そして私の話し相手と身の回りの世話をする係をしつつ、マーサ先生の元、共に淑女教育を受けていた仲でもある。
私にとってアンネは、私が結婚するまでずっと一緒にいてくれた、良き友人であり、戦友。そして忠実な侍女でもある。
今回もアンネは私の帰省に合わせ、わざわざ侍女を申し出て、駆けつけてくれた。そんな心優しい彼女は、イレーネ同様、私の人生にかけがえのない友人であることは間違いない。
「アンネのそれは、幸せ太りでしょ?」
私は気心知れた彼女に、つい軽口を叩く。
「幸せを付けたって、太ってしまったという事実に変わりはありません」
アンネは少し頬を赤らめながらも、嬉しそうだ。
それは彼女が今、確実に幸せであるという、何よりの証拠だろう。
「昔は、私もお嬢様に負けないくらい、可憐だったはずなのに」
アンネはわざとらしく悲しげな表情を作ると、自分の体を見下ろしてため息をつく。
「あら? 今でも十分可愛いと思うわよ?」
私は本音を告げる。
かつてのアンナは小柄で華奢な体型。目鼻立ちが整っており、微笑むと愛らしい笑顔で周囲に可憐な印象を与える容姿をしていた。確かにその頃に比べると、現在のアンネは、程よく日焼けした肌に、丸みを帯びた女性らしい体型に変化していた。けれど、それは悪い事ではない。年相応、快活な印象を受ける夫人といった感じだし、彼女が気にするほど太ってもいないと、私は感じた。
「お世辞だとしても嬉しいです。ありがとうございます。……でも、うっかりマーサ先生的には、この体型はやっぱりまずいとおっしゃると思うんです」
アンネは自分のウエスト部分に手を当て、不安げに首を傾げる。
「……そうね。確かに完璧を目指すマーサ先生にお会いしたら、お小言は言われそうだわ。でもあなたは命懸けで立派な跡継ぎを残してる。だからきっと許して貰えると思うわ。問題は私の方よ」
アンネは昨年すでに、第一子となる男子を出産済み。貴族の夫人として、大きくて責務を果たしている。それに出産後、体型が崩れるのはある程度仕方のない事だ。そんなアンネに比べ私は、領地でリフレッシュしてしまったせいか、出産未経験なのにもかかわらず太ってしまった。
これは由々しき事態だ。
「お嬢様だってきっと大丈夫ですよ。まだお若いんですし。それに何より、旦那様とはまるで新婚のように仲も良いじゃないですか」
アンネは明るく笑いながら告げる。彼女の屈託のない笑顔に、胸がチクンと痛む。
「……そうね、フィル様はとっても優しいわ」
子に恵まれない私たちは、いつまでたっても新婚気分のまま。はたから見たら、そう感じるのかも知れない。けれど言い換えれば子がいないせいで、親になれないせいで、いつまでたっても恋人同士のまま、浮かれた夫婦に見えているということだ。それは決して褒められたことではない。そして、そうなってしまう全ての問題は、やはり私にあるのだ。
私は、突然思い出したかのように、襲いかかる憂鬱な気分のまま、窓の外に顔を向ける。
馬の足音や鞍の音、車輪の音などを耳にしながら、車内にかすかに吹き込む風が頬をなでる感触に、何とか心を落ち着けようと、窓の外を見つめるのであった。
***
「――それでは、こちらのドレスは数センチほど。そして新たに仕立てられるドレスについては、後日お屋敷のほうにおうかがいさせて頂きます」
「えぇ、それでお願い」
私は無事洋品店で、居た堪れない気持ちに包まれたまま、ウエストのサイズアップについて手配を完了させた。そして、私とアンネは数時間ぶりに、店の外に出た。
「アンネ、まだ時間があるもの。久しぶりだからカフェでお茶でもしていかない?」
久々訪れた故郷の街並みを懐かしみ、そして様変わりした景色に驚きながら気分転換をしたかった私は、隣を歩くアンネに問いかけた。
「いいですね!」
彼女は満面の笑みを浮かべると、私の提案に賛成してくれる。そして、私たちは近くのカフェまで徒歩で移動することにした。
ビッテンフェルト伯爵領地の街は、土地の豊かさに恵まれたため、市場や商業活動が盛んで、人々の往来が絶え間ない。朝早くから農民が持ち込んだ新鮮な野菜や果物、肉、卵などが市場に並び、多くの主婦たちが買い物にやって来る。商店街では、裁縫道具や家庭用品、文房具、服飾品、食器など、さまざまな商品が店先に並び、見ているだけで楽しい。
市場や商店街以外でも、多くの人々が忙しく動き回っている。商業地区は、商人たちが商品を運ぶために従業員を連れ、荷物を運ぶ馬車が次々と通り過ぎていく。香辛料や食べ物の香りが漂う中、街には人々の喧騒やにぎわいの声が響き、活気溢れるものとなっていた。
目的地であるカフェを目指し歩いていると、私は人混みの中、一人の中年女性に目を奪われた。
「あら、あれは……」
思わず声を漏らす。そして、その姿を見失わないように、慌てて駆け寄った。
「えっ、リディアお嬢様?」
背後でアンネが驚く声が聞こえる。けれど私は構わず人混みの中に飛び込み、見つけた女性に声をかける。
「マーサ先生!!」
背後から声をかけた私に、ゆっくりと振り向く女性。
現在三十代後半と思われるマーサ先生は、相変わらず背が高く、長い黒髪をふんわりと束ねた上品な髪型。顔は細く、シワが目立たず、鼻筋が通った整った顔立ちのまま。目は深く澄んだ色合いで、瞳の奥には昔と変わらず厳しい印象を持ち合わせている。マーサ先生にしては珍しく明るい緑色の上品なドレスを身に着けていた。それでも以前と変わらず、全体的に落ち着いた雰囲気を持ち、品のある女性といった印象を私は彼女から受けた。
淑女のお手本といった感じで、ピンと張った姿勢でこちらに向き合った彼女は、私の記憶の中に未だ、色濃く印象に残るマーサ先生で間違いない。
「まぁ!」
マーサ先生は目を丸くし、心から驚いたという表情を浮かべた。
「リディア様、お久しぶりです。お元気でしたか?」
マーサ先生は優しく微笑んで、私に近づいた。その優しい声に、かつての厳しいマーサ先生とはまるで別人のようだと感じた。
「マーサ先生、お久しぶりです」
私は久々お会いした先生にかつて教えられた通り、丁寧に深く頭を下げた。すると、マーサ先生は私の姿勢に満足そうな表情を浮かべた。
「リディア様。そちらの方はお知り合いですか?あ、え?マ、マーサ先生!?」
少し遅れて驚きの声をあげたアンネが私達に合流する。
「まぁ、アンネ様とご一緒だったのね」
マーサ先生は、私たちに目を細める。
私は駆け寄ってしまったこと。それから少し太ってしまったこと。それらを叱られないかどうか、不安に思いつつも、懐かしい思いでマーサ先生に向き合うのであった。
なぜなら、領地で伸びのびと生活しているうちに、ドレスのウエストが若干キツく感じるようになってしまったからだ。そのため、いくつか公爵家から持ってきたドレスのウエストサイズを、不本意ながらも街にある洋品店でサイズアップしてもらう予定なのである。
路面の凹凸や坂道などにより変化する不規則な揺れ。それから馬車の車輪が地面と接触するときに伝わる振動。それらを体に感じながら、私を乗せた馬車は小石や砂利で覆われた、舗装されていない道を軽快に街へと進む。
私は馬車の中のつり革をしっかりとつかみ、窓の外。流れる風景を楽しみながら揺られているという状況だ。
「食事が美味しい。そう思えると、こうも太ってしまうのね」
私は不本意極まりない目的で街へと向かう事に罪悪感を感じ、かつて、私の侍女をしていたアンネに言い訳を口にする。
「でも、お嬢様。結婚して四年です。体型が変わらない事のほうが珍しいと思いますよ。私なんてもう何度、サイズアップする羽目になったか分かりませんわ」
アンネは苦笑しながら、ドレスの脇腹をつまむ。
今や、男爵家の妻となっている彼女は、ビッテンフェルト伯爵領を拠点とし、国中に支店をいくつも構える商会の娘。いわゆるブルジョワジーと呼ばれる階級出身の友人だ。
『いずれ貴族にアンネを嫁がせたい』
彼女の父親がそんな野望を背負っていた為、アンネは私の侍女として、私のそばに置かれた。そして私の話し相手と身の回りの世話をする係をしつつ、マーサ先生の元、共に淑女教育を受けていた仲でもある。
私にとってアンネは、私が結婚するまでずっと一緒にいてくれた、良き友人であり、戦友。そして忠実な侍女でもある。
今回もアンネは私の帰省に合わせ、わざわざ侍女を申し出て、駆けつけてくれた。そんな心優しい彼女は、イレーネ同様、私の人生にかけがえのない友人であることは間違いない。
「アンネのそれは、幸せ太りでしょ?」
私は気心知れた彼女に、つい軽口を叩く。
「幸せを付けたって、太ってしまったという事実に変わりはありません」
アンネは少し頬を赤らめながらも、嬉しそうだ。
それは彼女が今、確実に幸せであるという、何よりの証拠だろう。
「昔は、私もお嬢様に負けないくらい、可憐だったはずなのに」
アンネはわざとらしく悲しげな表情を作ると、自分の体を見下ろしてため息をつく。
「あら? 今でも十分可愛いと思うわよ?」
私は本音を告げる。
かつてのアンナは小柄で華奢な体型。目鼻立ちが整っており、微笑むと愛らしい笑顔で周囲に可憐な印象を与える容姿をしていた。確かにその頃に比べると、現在のアンネは、程よく日焼けした肌に、丸みを帯びた女性らしい体型に変化していた。けれど、それは悪い事ではない。年相応、快活な印象を受ける夫人といった感じだし、彼女が気にするほど太ってもいないと、私は感じた。
「お世辞だとしても嬉しいです。ありがとうございます。……でも、うっかりマーサ先生的には、この体型はやっぱりまずいとおっしゃると思うんです」
アンネは自分のウエスト部分に手を当て、不安げに首を傾げる。
「……そうね。確かに完璧を目指すマーサ先生にお会いしたら、お小言は言われそうだわ。でもあなたは命懸けで立派な跡継ぎを残してる。だからきっと許して貰えると思うわ。問題は私の方よ」
アンネは昨年すでに、第一子となる男子を出産済み。貴族の夫人として、大きくて責務を果たしている。それに出産後、体型が崩れるのはある程度仕方のない事だ。そんなアンネに比べ私は、領地でリフレッシュしてしまったせいか、出産未経験なのにもかかわらず太ってしまった。
これは由々しき事態だ。
「お嬢様だってきっと大丈夫ですよ。まだお若いんですし。それに何より、旦那様とはまるで新婚のように仲も良いじゃないですか」
アンネは明るく笑いながら告げる。彼女の屈託のない笑顔に、胸がチクンと痛む。
「……そうね、フィル様はとっても優しいわ」
子に恵まれない私たちは、いつまでたっても新婚気分のまま。はたから見たら、そう感じるのかも知れない。けれど言い換えれば子がいないせいで、親になれないせいで、いつまでたっても恋人同士のまま、浮かれた夫婦に見えているということだ。それは決して褒められたことではない。そして、そうなってしまう全ての問題は、やはり私にあるのだ。
私は、突然思い出したかのように、襲いかかる憂鬱な気分のまま、窓の外に顔を向ける。
馬の足音や鞍の音、車輪の音などを耳にしながら、車内にかすかに吹き込む風が頬をなでる感触に、何とか心を落ち着けようと、窓の外を見つめるのであった。
***
「――それでは、こちらのドレスは数センチほど。そして新たに仕立てられるドレスについては、後日お屋敷のほうにおうかがいさせて頂きます」
「えぇ、それでお願い」
私は無事洋品店で、居た堪れない気持ちに包まれたまま、ウエストのサイズアップについて手配を完了させた。そして、私とアンネは数時間ぶりに、店の外に出た。
「アンネ、まだ時間があるもの。久しぶりだからカフェでお茶でもしていかない?」
久々訪れた故郷の街並みを懐かしみ、そして様変わりした景色に驚きながら気分転換をしたかった私は、隣を歩くアンネに問いかけた。
「いいですね!」
彼女は満面の笑みを浮かべると、私の提案に賛成してくれる。そして、私たちは近くのカフェまで徒歩で移動することにした。
ビッテンフェルト伯爵領地の街は、土地の豊かさに恵まれたため、市場や商業活動が盛んで、人々の往来が絶え間ない。朝早くから農民が持ち込んだ新鮮な野菜や果物、肉、卵などが市場に並び、多くの主婦たちが買い物にやって来る。商店街では、裁縫道具や家庭用品、文房具、服飾品、食器など、さまざまな商品が店先に並び、見ているだけで楽しい。
市場や商店街以外でも、多くの人々が忙しく動き回っている。商業地区は、商人たちが商品を運ぶために従業員を連れ、荷物を運ぶ馬車が次々と通り過ぎていく。香辛料や食べ物の香りが漂う中、街には人々の喧騒やにぎわいの声が響き、活気溢れるものとなっていた。
目的地であるカフェを目指し歩いていると、私は人混みの中、一人の中年女性に目を奪われた。
「あら、あれは……」
思わず声を漏らす。そして、その姿を見失わないように、慌てて駆け寄った。
「えっ、リディアお嬢様?」
背後でアンネが驚く声が聞こえる。けれど私は構わず人混みの中に飛び込み、見つけた女性に声をかける。
「マーサ先生!!」
背後から声をかけた私に、ゆっくりと振り向く女性。
現在三十代後半と思われるマーサ先生は、相変わらず背が高く、長い黒髪をふんわりと束ねた上品な髪型。顔は細く、シワが目立たず、鼻筋が通った整った顔立ちのまま。目は深く澄んだ色合いで、瞳の奥には昔と変わらず厳しい印象を持ち合わせている。マーサ先生にしては珍しく明るい緑色の上品なドレスを身に着けていた。それでも以前と変わらず、全体的に落ち着いた雰囲気を持ち、品のある女性といった印象を私は彼女から受けた。
淑女のお手本といった感じで、ピンと張った姿勢でこちらに向き合った彼女は、私の記憶の中に未だ、色濃く印象に残るマーサ先生で間違いない。
「まぁ!」
マーサ先生は目を丸くし、心から驚いたという表情を浮かべた。
「リディア様、お久しぶりです。お元気でしたか?」
マーサ先生は優しく微笑んで、私に近づいた。その優しい声に、かつての厳しいマーサ先生とはまるで別人のようだと感じた。
「マーサ先生、お久しぶりです」
私は久々お会いした先生にかつて教えられた通り、丁寧に深く頭を下げた。すると、マーサ先生は私の姿勢に満足そうな表情を浮かべた。
「リディア様。そちらの方はお知り合いですか?あ、え?マ、マーサ先生!?」
少し遅れて驚きの声をあげたアンネが私達に合流する。
「まぁ、アンネ様とご一緒だったのね」
マーサ先生は、私たちに目を細める。
私は駆け寄ってしまったこと。それから少し太ってしまったこと。それらを叱られないかどうか、不安に思いつつも、懐かしい思いでマーサ先生に向き合うのであった。