広大な領地を緑に染める木々は、あふれる生命力を感じさせる。木漏れ日が降り注ぐ森林は、美しいシダや色とりどりの花で彩られ、野鳥のさえずりや小川のせせらぎが耳に心地よい音を響かせていた。草原には風になびく早緑(さみどり)色の草が広がり、その中に飛び跳ねる小さなウサギやキツネがいる。青々とした丘陵地帯には、大きな牛群が草を()み、のどかな風景を作り出していた。

 私の故郷、ビッテンフェルト伯爵領は、そんな自然あふれる場所だ。

 フェリクス様と離れて暮らすようになってから、二週間ほど経った。

 最初こそ、これを機にフェリクス様に離縁を言い渡されるという事実に、塞ぎ込み、うっかりすると、涙がとまらない。そんな日々を送っていた。けれど一日、また一日と、辛くとも逃げ場のない新しい毎日を重ねていくうちに、段々と私の中に諦めの気持ちが強くなってきた。

 それはきっとフェリクス様が隣にいないから。

 視界に入らなければ、人はどんなに悲しくともそれなりに現状を受け入れるようだ。全員が全員そうではないだろうけれど、少なくとも自分に非がある私は、諦めの気持ちになりつつあった。

 城下と違い、自然豊かでのどかな風景は、私の心を優しく包み込み、そして確実に癒やしを与えてくれているようだ。そして一ヶ月が経った頃。離縁される事を覚悟した私は、「完璧な公爵夫人」という肩書をすっかり手放していた。

「お兄様、可愛げのない子をどうにかしてよ」

 私は人が変わったように、言葉遣いも、言動も、すっかり田舎の領地仕様に戻り、兄の執務室に殴り込みをかけていた。

「おいおい、大事な私の跡取り息子であり、君の可愛い甥っ子だろうに」
「可愛くないわ。部屋の壁にクレヨンで落書きしたのよ」
「うわぁぁん、リディ、こーわーいー」

 ここぞとばかり、私の足元で泣きじゃくるふりをするのは兄の息子。現在三歳になったばかりのカミルである。さりげなく鼻水を私のドレスで(ぬぐ)っているところが、ますます憎たらしい。

 もちろん全てがミニマムな彼にも、憎たらしく思わない時はある。それはすばり、寝ている時だ。寝ている時は、本当に天使。いつまでも眺めていたいくらい可愛い。しかし、一度起きれば、もはや悪魔と化す。

 どうやらそれが、子どもという存在らしい。

 そもそも、私がうっかり完璧な淑女でいられなくなったのは、全て兄のせいだ。

 兄の妻フローレンス様は、現在第二子となる子を出産し、実家に馴染みの乳母(うば)ごと帰省中。そして領主である、父や兄には仕事がある。よって必然的に、フェリクス様により、実家に戻され、暇を持て余す私が、カミルの面倒を見る羽目になっている。

「お兄様、私はもう無理。新しい乳母に頼めばいいじゃない」
「無理だよ。カミルは人見知りするし、今は母親を取られたような、そんな気分になってやさぐれているだけだ。寂しさゆえ、構って欲しくてお前にイタズラをしているのだろうからな。付き合ってやってくれ」

 兄は仕方ないという表情を私に向ける。

「付き合ってやれって、そんなのもう無理よ。私だって限界」
「うわぁぁぁん!!」

 私が声を荒らげ、兄に告げると、カミルはこちらの良心に訴えかけるかのように、これ見よがしに、大きな声で泣きじゃくる。

「それに、リディはこちらに来た時より、随分と元気そうじゃないか。つまり君を元気にさせているのは、カミルだ。何だかんだそれは間違いない事実だと思うけどな」

 兄はケロリとした顔で言い放つ。

「それは……」

 確かに認めざるを得ない。私は生まれ育った領地の、何処までも続く青い空の下。カミルに振り回され、ウジウジ悩む暇がないくらい、毎日忙しく過ごしている。そして、何だかんだ、この我儘極まりない甥の世話をする日々を、楽しいと思っている自分がいる。けれどそれを素直に認めるのは悔しくて、つい反論してしまう。

「そもそも三歳は大事な時期だって、育児書に書いてあったわ。だからきちんとした人に面倒を見てもらうべきよ」
「リディでも大丈夫だよ。それに、永遠に面倒を見ろと言っているわけじゃない。あと数日の我慢だろう?悪いが頼む」

 話は終わりとばかり、兄が机の上に広げていた書類を手に取る。その瞬間ノックの音と共に、執事が入室してきた。

「失礼します。若旦那様、馬車の用意ができました」
「ああ、わかった。すぐに行く」

 執事に答えた兄は、手に取ったばかりの書類を机に置くと、私に微笑む。

「悪いが、出掛けてくる。カミルをよろしく頼む」

 実に爽やかに微笑むと、私の足元にまとわりつくカミルに「リディの言う事を聞くんだよ」などと、ひとごと全開の言葉をかけ、部屋を出て行ってしまった。

「お兄様の子じゃない。って、カミル。指を舐めちゃ駄目。バイ菌がいっぱいなのよ」
「だっこー」

 兄がいなくなった途端、泣き止んだと思ったら、甘えるように私に両手を伸ばすカミル。

「……仕方ないわね」

 私はため息をつくと、渋々甥を抱き上げたのであった。


 ***


 その日私は、屋敷の中庭でカミルと散歩していた。すると、花壇に色とりどりの花を見つけたカミルは、猫まっしぐらという勢い。急に走り出してしまった。

「カミル、走っちゃだめよ」

 兄の子に怪我でもさせたら大変だと、私は日傘を片手に慌てて追いかける。しかし、子どもの足というのは、なかなかに速いもの。おまけにこちらは重いドレス姿だ。

「あ、カミルってば、だめ!」

 私が追いつく前にカミルは花壇に咲く、白いマーガレットを摘んでしまった。

「カミル、花壇のお花は摘んではいけないのよ」

 私は「とんでもない事をしてくれた」と驚きつつ、カミルを注意する。するとカミルは目を丸くしたのち。

「リディにあげる」

 カミルはそう言って、小さな手で掴んでいた、白のマーガレットを差し出す。
 私は純真な言葉に触れ、思わず頬を緩めてしまう。

「……ありがとう。だけど、そういうことじゃなくてね」

 カミルにきちんと花壇の花を摘んではいけない理由を説明しようと、彼の前にしゃがみ込み、視線を合わせる。

「あげる」

 カミルは笑顔のまま、私の髪にそっとマーガレットを挿す。

「えーと、あの……カミル」
「リディ、かわいい」

 戸惑う私を見て、カミルは嬉しそうな笑顔を見せる。この瞬間、完全に私の負けが確定した。とは言え、きちんと躾をしなければ、今後カミルが困る事になってしまう。

「ありがとう、カミル。とっても嬉しいわ。でもお花を勝手に採ったらダメなのよ。次からはちゃんとハリスに許可を貰ってからにしましょう」
「うん」

 理解しているのか、していないのか。カミルは笑顔で私の手を掴む。

「じゃ、お散歩の続きを」
「あ、ありさんだ」

 目を輝かせ、カミルはその場にしゃがみ込んでしまう。そして花壇から列をなして歩くアリを、ジッと観察し始めてしまった。

「カミル……あなたってば、自由すぎるわ」

 思わず脱力し、本音を呟く。

「まるで、かつてのお嬢様のようですね」

 私は声のした方に顔を向ける。すると草むらにしゃがみこみ、手に持った鋤で土を掘り返す、ビッテンフェルト伯爵家お抱えの庭師ハリスの姿があった。彼はしっかりとした体格で、顔には深い皺が刻まれている老年男性だ。着用している作業服には、泥汚れや草の(くず)がついており、そばには古びた(はさみ)や鎌が置かれてある。

「ごきげんよう、ハリス」
「こんにちは、お嬢様」

 私は幼い頃から顔なじみであるハリスに、笑顔を向ける。

「私はもう少し、落ち着きがあったように思うのだけれど」
「そうですかねぇ。未だ私の記憶の中にいらっしゃるお嬢様は、あちらこちらへと。まるでヒラヒラと花の間を舞う蝶のように、庭を元気に走りまわっておりますよ。むしろカミル様の方がおとなしいくらいじゃないですかねぇ」

 私達の様子を一部始終見ていたらしい、庭師のハリスが見知った顔で告げる。

「カミルよりも、という点について異論はあるけれど、私が元気だった事は、まぁ、間違いないわね」

 私はすんなり、ハリスの指摘を認める。確かにマーサ先生が来てもしばらくのあいだ、私がお転婆(てんば)だった事は疑いようのない事実だからだ。

「懐かしいですねぇ。そうだ。お嬢様もノイラート公のお坊ちゃまに、ここの花壇から、堂々とマーガレットを引き抜き、差し上げてましたよ。まさに今の今のカミル様のように」

 ハリスが懐かしむように目を細め、風に揺れるマーガレットを見つめる。

「それは、よく覚えているわ」

 しかも当時の私は今のカミルより年齢が上だったはずだし、花壇から花を抜くこと。それが悪い事だと知っていて、引っこ抜いた。

「マーガレットの花言葉が「真実の愛」だって、あなたに聞いたから。だから嬉しい気持ちになって、フィル様に告白したつもりだったのよ」

 私はあの時、ハリスに明かさなかった理由を自然と口にする。

「でもフィル様は、今の私と同じだったわ」

 花壇から花を引っこ抜いたこと。その事に戸惑いながら、それでも「ありがとう」と少し頬を染め、私が差し出したマーガレットを受け取ってくれた。そしてその後、きちんとハリスに頼むようにと、付け加えていた。

「懐かしいな」

 あの頃も今も、私はフェリクス様をお慕いしている。けれど今の私はあの頃のように、ただ純粋な気持ちで、無邪気な気持ちだけで、フェリクス様を想う事ができなくなってしまった。

「一パーセントの確率だそうですよ」

 ハリスが手を止め、突然そんな事を言い出した。

「何の話?」
「いえね、一般的に、初恋の人と結婚出来る確率だそうです」
「でも私は、政略結婚だもの」

 ハリスの言葉にすぐに訂正を入れる。
 私とフェリクス様は、物心つく前から、それこそ私達の意志など関係なく、結ばれる事が決まっていた。よって、「一般的」というくくりには入らない。

「それでも、です。お嬢様は叱られるとわかっていても、ノイラート公のお坊ちゃまに、花壇のマーガレットを差し上げたのですよね?」

 ハリスの言葉にハッとする。そして、彼の言いたい事を私は理解した。

「……そうね。それでもだわ。私の初恋は間違いなく、フィル様だものね」

 私は揺れるマーガレットを見つめながら、純粋な気持ちでフェリクス様が好きだった。その頃の懐かしい気持ちを思い出す。

「あの頃に戻ってもう一度やり直せたらいいのに」

 もし記憶を残したままやり直せたら、私はフェリクス様と結婚しない未来を選んだかも知れない。そう思いたいのに、王都で彼と共に過ごした日々を思い出し、泣きそうになる。
 なぜなら、今のように悩める気持ちになる前の、輝く日々が頭の中を駆け巡るから。

 初めて「おかえりなさい」と屋敷でフェリクス様の帰りを迎えた、幸せで誇らしい気持ちを思い出す。

 あの頃の私は、世界で一番幸せだと信じて疑わなかった。

「そうね、私は幸せだったわ」

 彼への未練を断ち切ろうと、あえて過去形で呟く。そんな私の頭の中を埋めるのは、「ただいま」と少し照れくさそうに私に手を伸ばす、フェリクス様のはにかんだ優しい笑みだった。