マーサ先生と偶然街で再会した私とアンネ。
 立ち話もなんだからと、マーサ先生を思い切ってカフェに誘ったところ、(こころよ)く了承してくれた。

 私たちが訪れたカフェは、エレガントで落ち着いた雰囲気漂う店だ。

 カフェの内装は、彫刻が(ほどこ)された木製の椅子やテーブル、豪華な装飾の天井、そして繊細なシャンデリアなどで飾られている。また、壁には美術作品や鏡が掛けられ、大理石のカウンターには高級な食器が整然(せいぜん)と並べられていた。

 それもそのはず。カフェの客層は、貴族や経済的に豊かな者が多いからだ。現に私たちのように、シルクの手袋をはめ、美しいドレスを身にまとう女性たちが、友人同士テーブルを囲み優雅におしゃべりしている。

「それにしても、まさかお二人にお会いできるだなんて」

 マーサー先生は紅茶を一口飲んでから、感慨深げに呟いた。

「先生は、どうしてこの街へいらしたのですか?」

 私が尋ねると、彼女は懐かしそうに目を細めた。

「実は……主人の使いで」
「え、マーサ先生はご結婚されていたんですか?」
「えぇ、昨年」

 先生の言葉を耳にし、私は思わず息をのんだ。

 結婚してからは、年に数回ほど季節ごとに手紙をやりとりする。そんな仲になってしまったマーサ先生と私。けれど、お互いの近況を当たり(さわ)りのないように伝え合う関係ではあったはずだ。

 そう言えば、マーサ先生から昨年引っ越されたと連絡があった。けれどその事を知らせる手紙の中には、結婚と言う単語は記されていなかった。いくら思い返してみても、マーサ先生が結婚された。そのような知らせを受けた記憶が私にはなかった。

「リディアお嬢様、私も初耳です。全然知らなかったわ」

 私が驚いた表情を浮かべたからだろう。隣に座っているアンネがすかさずフォローを入れてくれた。

 彼女も知らなかった。その事実が示すのは、私が先生に失礼な事をしたわけではなく、マーサ先生が意図的(いとてき)にご自身の結婚について、知らせてくれなかったということ。一般的にめでたいはずの結婚を隠している。それは、マーサ先生の結婚に何か問題があるという事だろうか。

 私は根堀り葉掘り、今すぐ尋ねたい気持ちに駆られる。けれど淑女のイロハを教わったマーサ先生に対し、詮索するのは流石にためらわれるというものだ。なぜなら、人のプライベートにずかずかと土足で踏み込むこみ、隠し事を暴こうとする行為は無粋な行為だと教わったから。

「そうですね。いろいろあって、あなたたちになかなか言い出せなくて」

 マーサ先生は苦笑すると、紅茶を口に運んだ。

「…………」
「…………」

 私とアンネは、先生自らが結婚に関する話を切り出すまで待つべきだろうかと。そんな意味がこもる視線を交わし合う。すると、私たちの胸の内を見透かすかのように、マーサ先生は優しくほほ笑むと、ゆっくりと口を開く。

「私の主人は貴族ではなく、教師をしている方なの。そして私は彼にとって、二人目の妻。彼の一人目の奥さまが亡くなって、それで私と再婚したのよ。今は彼と前妻(ぜんさい)の子との間に産まれた女の子とともに、家族三人でつつましく暮らしています」

 淡々と告げられた事実に私はただ、ただ、驚く。

「子育てしているのは女の子なんですか?え、あ、いいえ」

 アンネが、思わずといった感じで声をあげる。しかしすぐにまずいと思ったらしく、口にした言葉を誤魔化すように、慌てて扇子で口元を隠す。

 そんなアンネの様子を横目で確認しつつ、私も内心言いたい事はわかると、密かに同意する。

 完璧主義である厳しいマーサ先生の元で育てられる。その事実に対し、単純に大変そうだなと、お節介気味に思ってしまうからだ。

「マーサ先生、ご結婚おめでとうございます。もしご迷惑でなければ、お祝いを贈らせて頂きたいのですが」

 私はアンネの失態を過去のモノとすべく、(つと)めて明るく振る舞いながら、話を逸らすように、マーサ先生に質問する。

「ありがとう。あなた達は変わらないわね。真面目なリディア様と、明るいアンネ。二人が今でも仲良くしているのを知って嬉しいわ」
「そんな、真面目だなんて」

 真面目。その言葉は、完璧とはいい(がた)い今の私にとって釣り合わない言葉だ。そう思った私は、ついつい否定してしまった。

「そうですよ。リディア様はともかくとして、私なんてこんなに太っちゃったのに」

 アンネが私の腕に視線を落としながら、自分の腕と見比べるように告げる。

「私だって太ってしまったわ」

 私も小声で、自分の失態を暴露する。

「リディア様は変わらないように見えますし、アンネ様は健康的でとても素敵ですよ。それに、結婚すると日々の食事のスタイルや内容が変化します。少しくらい太ったとしても、気にする事はないですよ」

 マーサ先生が発した言葉に、私とアンネは驚き目を丸くする。

 かつての先生は、「貴族の女性は、身なりや体型にも気を配らなければなりません。特に太っているというのは、だらしがない、品がない事なのですよ」と、口を()っぱくして私たちに、しつこいくらい告げていたからだ。

 固まる私たちを見て、マーサ先生は申し訳なさそうな表情を浮かべると、そっと目を伏せた。

「ごめんなさい。あの頃の私は、本当にどうかしていたのよ。特にあなた達には完璧を求めすぎたと反省しているの。だから、謝らせて欲しい。ごめんなさい」

 先生の謝罪に、私たちはさらに慌てふためく。

「そんな。先生は間違ってませんわ」
「そうです。むしろ感謝しています。おかげで、私は貴族と結婚できたんですし」

 私とアンネは、全力で先生をかばおうとする。

「ありがとう。でもね、あの頃の私は、お父様が投資に失敗したせいで、世間でいうところ没落(ぼつらく)貴族といった状態。すでに地位と財産を失い、貧困に苦しんでいたの」

 マーサ先生は、初めて私たちにご自身の過去を語り始めた。

「そのせいで、幼い頃から決められていた許婚には、婚約破棄されたし、私は一人で生きていかなければならなかった。だから、いずれ公爵家に嫁ぐ事が決まっているリディア様。それから爵位こそないけれど、大きな商会の娘であるアンネ様を立派に教育すれば、家庭教師として私の名が広まり、確固たる地位を築けると思い込んでいた」

 先生はそこまで話すと、ティーカップに口をつける。

「けれど、今思えば、明るい未来が約束されたあなた達を羨む、そして嫉妬するような気持ちもあって、必要以上に厳しくしつけていたような気がするの」
「そんな事ありませんわ。先生は素晴らしい教師です。先生がきちんと私をしつけて下さったから、私はノイラート公爵家の皆様に、受け入れてもらえたんですもの」

 先生の言葉を否定しようと、私は必死に訴える。
 何故なら、先生が今口にした事を認めてしまえば、私が今まで正しいと信じてきたものが、「一体何だったの?」と根底から揺らいでしまうからだ。

「そうですね。私がお二人に教えたこと。その全てが間違っていた訳ではないし、見当違いである淑女教育をあなた方に(ほどこ)したつもりはありません。けれど、理想を求めすぎていた事、それによって、厳しくしすぎてしまったこと。それは決して、褒められたものではなかったという事も確かなんです」

 マーサ先生は、真剣な眼差しで私を見つめると、ゆっくりと語り始める。

「……私は今、主人と前妻との子。リディア様のように、お母様を亡くした子を育てています。彼女はあの頃のリディア様よりずっと可愛げなくて、生意気で、意地悪で、頑固な子です。けれど、それは自然なこと」

 マーサ先生は、お子様を思い出しているのか、ふっと(ほほ)を緩める。

「なぜなら、母親を亡くしているという過去を持つ子は、感情的に不安定になることがあるから。そういう子に必要なのは、厳しい淑女教育ではなく、子どもたちの気持ちをしっかりと受け止め、話を聞いてあげること。今はそう思うのです」

 マーサ先生は、私が知っている彼女の様々な表情の中で一度も見たことがない、とても穏やかな顔でほほ笑む。そんな彼女の笑顔を見た私は、先生もお子さんも、旦那様と共に幸せな家庭を築いているのだろうと、どこか安心する気持ちになる。

「そしてあの頃の私にはそれが足りなかった。リディア様が私に褒められるとうれしそうな顔をする。それを上手く利用し、私は自分の将来の基盤を築こうとしていたのですから。今は娘の成長を見る度に、昔自分がリディア様にした仕打ちを思い出し、後悔の念に襲われるのです」

 先生は悲しげな瞳で私を見つめる。その瞳は私の中に残る、かつての幼い私を探しているように、遠くを見つめている。

 正直いまさら懺悔されても戸惑うばかりだ。

 ただ、イレーネと最後に話した時、私は完璧を求めすぎていると言われた。そしてその原因の一つである、マーサ先生からやり過ぎていたと謝罪されたというのが現状だ。

 私は、今まで信じていた事がたった今、失われた事に気付く。けれど、不思議とマーサ先生を恨む気持ちにはならなかった。

 何故なら、長いこと私を縛り付けていたマーサ先生という、絶対的な存在から解き放たれるような、そんな解放的な気分になっていたからだ。

 ――ああ、そうか。私にとっての「完璧」とは、ある意味ただの自己満足。

 誰かに認めてもらいたい、褒められたい。そして嫌われたくないという、それだけの気持ちだったのだ。そう思い至った時、私の心の中にあった重りが、すとんと落ちた。

 どうして羽が生えたような、そんな軽い気持ちになるのかわからない。もしかしたら領地の懐かしい雰囲気に包まれ、のびのびとした生活を送っているからかも知れない。

 とにかく今私は、完璧な淑女でいなければならないという、長年の、イレーネいわく呪いと呼ぶに相応しい気持ちから解き放たれたような気がし、心が軽くなっていた。

「先生は、その子を愛していらっしゃるのですか?」

 私の口からそんな言葉が自然に飛び出した。

「ええ。愛しているわ。たとえ血は繋がっていなくとも。彼女は私の大事な娘ですわ」

 先生の迷いのない言葉を聞いた瞬間、私は胸の中にあった、もやもやとした、もう一つの何かが消えていくのを感じた。

「先生。ご結婚おめでとうございます」

 私は改めて、マーサ先生の結婚を祝う言葉を告げた。

「おめでとうございます。先生が幸せそうで、それから太ったって叱られなくて嬉しいです」

 アンネが実に彼女らしく、お祝いの言葉を述べた。

「ありがとう。リディア様。アンネ様」

 マーサ先生は、実に幸せそうな笑みを私たちに返してくれたのであった。