「昨晩、ふと夜中に目が覚めて、君が寝ている姿を(なが)めていたんだけど」

 朝起きて、最初に私の視界を埋めるのは、カーテンの隙間から差し込む光を反射し、まるで宝石のように輝く銀色の髪。それから澄みきった空のような、青く美しい瞳だ。

 彼の名はフェリクス・シュロート。ノイラート公爵家の当主であり、私の夫だ。

 私はぼんやりと彼を見つめ、その美しさを独り占め出来る時間を楽しむ。すると、フェリクス様は微笑んだまま、私の(ひたい)に優しく唇を寄せた。

「おはよう、愛しい人。良い朝だね」
「おはようございます、フィル様」

 私は世界で一番大好きな夫が、今日も隣にいてくれる事に人知れず感謝する。

「それで、夜中に起きて、私の寝顔を盗み見して、どうだったのですか?」
「それは……」

 勿体ぶったように口を(つぐ)むフェリクス様。それからこらえきれないと言ったように、口を開く。

「よだれを垂らしていたよ」

 微笑む彼の笑顔には、少しだけ意地悪な色が浮かんでいた。

「え、よだれ?」

 私は慌てて寝返りを打ち、フェリクス様に背中を向ける。それからこっそり指先で口元を(ぬぐ)ってみる。確かにカサカサとする感触を口の端に感じた。明らかによだれが乾いた跡だ。

 その事に気付いた私は、恥ずかしさのあまり(ほほ)が熱くなる。

「ごめんなさい……」

 私は小声でフェリクス様に謝罪する。

「なんで?謝ることはないよ。むしろ僕は嬉しいんだ。君のよだれは、僕の前で気を許してくれている証拠だからね」

 フェリクス様は、落ち込む私を励ますような言葉をかけてくれる。それから私の腰に手を回した。

「リディ、君は僕の愛しい妻だ」

 フェリクス様は甘い言葉で(ささ)くと、彼の腕の中に私をギュッと抱き寄せた。そして私の頭の上に(あご)を乗せる。

「君を完璧な女性だと思っているやつらからしたら、まさか君が寝ながらよだれを垂らすだなんて、想像出来ないだろうからね。これは夫である僕だけの秘密だし、特権だ」

 フェリクス様の優しい励ましのお陰で、かさぶたになりかけていたよだれ事件。それを蒸し返され、私の心はまたもや、落ち込む方向に全力で向かう。

「フィル様は私をまだ、あなたの完璧な妻だと思いますか?」

 私は不安になってたずねる。

「無防備で可愛いところを見せられて、ますます好きになったくらいだよ」

 彼は(さわ)やかな朝にそぐわない、ひたすら甘い言葉を、私の耳元で囁く。

 その言葉に私はホッとする。と同時に、この幸せな日々が永遠ではないことを思い出し、気分がどんどん沈んでいく。

 フェリクス様と私は結婚して四年目。
 未だ私達の間に、子はいない。

 この国では、貴族同士は結婚して三年。二人の間に子が出来なければ離縁、もしくは夫が愛人を持つ事が許されている。そもそも貴族の結婚は、家同士の結び付きを強めるもの。そして代々続く、尊い血を残していく事を目的として結ばれるもの。

 しかも子が出来ない原因は、妻にあるとされるのが、この国の常識。

 よって、結婚して四年。

 愛する人に子を残せない私は、ノイラート公爵家の当主。フェリクス・シュロートの完璧な妻には、なれそうもない。私はいつ彼に離縁を言い渡されても、おかしくないという状態だ。

「リディア、髪の毛の寝癖(ねぐせ)がすごいよ。さては昨日、きちんと乾かさなかったんだな」
「昨日は、あなたが髪を乾かす前に、ベッドに私を引きずり込んだんでしょう?」

 無駄な努力なのにと、私は頬を膨らませながら、心がやさぐれる。

 そして、せめて子を残せない分、その他では完璧でありたいと願う私は、寝癖を指摘された事に、「だらしがない」と言われた気がして、またもや落ち込む気持ちになる。

 昔は軽く流せたはずの、彼の冗談。それがここ最近、私には笑い飛ばす事が難しくなってしまった。

 たかが、よだれに寝癖を指摘されただけなのに、まるで出来損ないの妻だと指摘されているように感じ、心が痛み、やさぐれていく。

「君がとても魅力的だったから、つい」

 ご機嫌な声で、私に甘えるように抱きつくフェリクス様。彼の体温を全身に感じながら私は思う。

 あとどれくらい、私は彼の隣で朝を迎えられるのだろうかと。


 ***


 ノイラート公爵家にある私の執務室は、高い天井に大きな窓があり、日差しが差し込み明るい部屋だ。床には高級な絨毯(じゅうたん)が敷かれ、重厚感たっぷりな家具が置かれている。

 執務机は、大理石の天板が載せられたもので、彫刻された装飾が美しく、周りには書類や本が整然と並べられている。机の上には、銀のペン立てとインク瓶が置かれ、さらにはフェリクスが結婚と同時に与えてくれた、繊細な細工が施された可愛らしい文房具セットがそろえられている。

 私には勿体ないくらいとても立派な部屋。そこで私は、執事のアルバート・ ザイデルと、日課となる業務をこなしていた。

「来月の第四金曜日。ブーレン伯爵家で夜会があるそうです。ご出席なさりますか?」

 アルバートは、ノイラート公爵家宛の手紙を振り分けながら尋ねてきた。

 我が家の執事、アルバート・ザイデル。
 黒いスーツに身を包み、白い手袋をしているのが印象的な彼は、高身長でがっしりとした体型をしている壮年(そうねん)の男性だ。髪は短く整えられ、口元には常に深い皺が刻まれている。厳格そうな表情と(たたず)まいから、初対面の人からは怖いと思われがちだが、実の所とても細やかな気遣いと、思いやりのある人物だ。

 現に三年前。十六歳という、デビュタントしたばかり。世間知らずで、完全に箱入り娘だった状態でノイラート公爵家に嫁いだ私に対し、公爵家の妻としてやるべきこと、心得ておく事を、懇切丁寧(こんせつていねい)に一から指導してくれた。

 いわゆる世間一般から言われる「ノイラート公爵家の完璧な妻」として評価されている私の半分は、彼のお陰で形作られたと言っても過言ではない。

「来月の第四金曜日……あ、それは残念だけれど無理ね。フェリクス様が懇意にしている商会の、慈善パーティーとかぶっているもの」
「かしこまりました。では、そのように返答いたします」

 私が答えると、アルバートは、手にしていた手紙を封筒に戻していく。

「ブレーン伯爵家に向けたお断りの手紙は、私が書くわ。今すぐに。だってマナーに厳しい、ブレーン伯爵夫人だもの。お手紙の返事を、自筆かどうかもチェックなさるに違いないものね」

 私の返答に、アルバートは満足そうに微笑む。私は正解を引き当てたと、心を弾ませながら引き出しを開け、早速レターセットを取り出した。

「ええと、お誘いありがとうございます……あ、どんどん届いた手紙を読み上げてもらえる?同時進行しちゃうから」

 時間は有限。私は招待をお断りする言葉を考えつつ、アルバートの低く落ち着いた声に耳を傾け、手を動かす。

「次の手紙は……」

 しばしの間があった後。

「アンデルス男爵家に、ご息女(そくじょ)がお誕生になったとのことでございます。瞳の色は琥珀(こはく)色で、髪色はピンクブロンドとのことでございます」

 いつまで経っても子に恵まれない私に対し、言いにくいであろう、他家における出生の知らせ。それを淡々と告げるアルバート。

 彼に余計な気を遣わせてしまっていることに罪悪感を感じつつ、それも致し方ない状況だと、私は憂鬱な気分で振り返る。

 現在二十四歳となったフェリクス様と、同年輩のご友人達。彼らは結婚ラッシュを終え、現在出産ラッシュ()只中(ただなか)だからだ。

 次世代を支える子の誕生。その知らせは嬉しい反面、私を焦らせ暗い気持ちにさせている原因でもある。

 そもそも私とフェリクス様は他の貴族同様、親同士が勝手に決めた政略結婚だ。

 ノイラート公爵家の嫡男(ちゃくなん)と、ビッテンフェルト伯爵家の長女の結婚。両家共に由緒正しい家系であり、良好な関係でもある。
 私が生まれた時に決まった私達の婚約は、結ばれる事に何ら問題のない、自然な両家の取り決め。どこからも、反対の声はあがらず、この国の貴族達にも、温かく受け入れられていた。そして、私より四歳年上のフェリクス様は、元々兄と同い年の幼馴染で仲良しだった。そのため私は、物心ついた時から彼と顔見知りで、将来の旦那様になる人だと、周囲から教えられ育った。

 その事を私が嫌だと思った事はない。なぜなら兄に意地悪される私を、いつも(かば)ってくれる、優しい王子様。それがフェリクス様だったから。

 そんな私達が結婚したのは、彼が二十歳で私が十六歳の時だ。他の人に比べると、数年ほど早い時期だった。それにはきちんと理由がある。というのも、フェリクス様のご両親が流行り病で、同時に亡くなってしまったからだ。

 その結果、十八歳という若さでノイラート公爵家を継ぐ事になったフェリクス様。彼の頑張りを見ているうちに、私はそばで彼を支えたいという気持ちになった。そのため私は十六歳になり、デビュタントとなった年。彼に願い、結婚を早めてもらったのである。

 あの頃描いていた未来では、子が出来ない可能性なんて、考えた事もなかった。
 私の予定では、今頃みんなと同じ。子の成長を楽しむ母親になっている。そう信じ、疑ってもみなかった。けれど現実は甘くない。私はまだ、子を(さず)かる兆候(ちょうこう)すら見せていない。

 うっかり落ち込みそうになる気分を、私は何とか上向きに修正しようと、心から自分を取り巻く現状について、思考を一時的に手放す。

「まぁ、ソフィア様とダミアン様のいいとこ取りね。きっと可愛く育つと思うわ。今からデビュタントが楽しみだわ」

 私は便箋(びんせん)にペン先を滑らせながら、アルバートが気にしないようにと、明るい声をだす。

「贈り物は何になさりますか?」

 アルバートの質問に、私は走らせていたペンを止め、ふと考える。

「そうね、上は男の子だったから、女の子らしい贈り物がいいわね。でも銀のスプーンはきっと他所(よそ)から頂くだろうし……。あ、絵本セットにしようかしら。上の子、ご子息の方にも年相応の絵本を一緒に送って頂ける?」

 私はこれなら他の人と被らないと、満面の笑みを浮かべる。

「お二人に贈られるのですか?」

 意外だと言った声をあげる、アルバート。

「ええ。きっとみんなが生まれたばかりの妹にかかりきりで、上の子は、寂しい思いをしてるかも知れないもの。だから上の子にも。気にかけてくれている人がいるってわかれば、小さな紳士もきっと嬉しいでしょ?」
「かしこまりました。そのように手配しておきます」
「お願いね」

 私は笑顔で微笑むと、再び机に向かう。
 手紙をしたためつつ、アルバートからかけられる手紙の質問を返していく。

 それからしばらくして、手紙を書き終えた私は顔をあげる。

「よし、これでいいかしら」

 私は出来上がったばかりの手紙を、アルバートに見せる。

「完璧でございます」

 アルバートからお褒めの言葉をもらった私は、手紙を封筒に入れ、封をした。

「では、これをお願い」
「ありがとうございます。本日中の荷受けの際に、一緒に届けておきましょう」
「ありがとう」

 それから私は家計簿をつけたり、フェリクス様の日程管理表を仕上げたり、屋敷に勤める使用人達の給料計算をしたり。

 子はなくとも、それなりにやる事は沢山ある。
 忙しくしていたほうが、余計な事を考えないで済む事は実証済み。

 そうやって私は、離縁に怯える気持ちを誤魔化し、毎日過ごしている。