「小説はある種一つのコラージュ。」だとあなたはおっしゃいました。たしかに、そうだと思います。僕が、これを書き始めるのも、衝動という一つの切り取られた紙屑からでした。物語、小説というのは、その紙屑をゴミではなく、作品へと昇華させる作業なのだと思います。しかし、それまでの道のりは長く、どうしても、作品の数よりもゴミとしてそのまま捨てられ、忘れ去られていく、無常の紙屑の方が多くなります。失敗は成功の母だと、トーマス・エジソン、インターネットの夢追い人は言いますが、その失敗、失敗に何度も心を持っていかれる僕がいます。この前の小説も3回書き直し、飽き、やめた。大まかなストーリーが決まっていても、書きたい場所まで持っていけないのです。それほど大きく、立派な継続力、忍耐力を持ち合わせてはいないのにもかかわらず、物を書こうと無理をします。それは、きっと多くの人の目には醜く映るでしょう。それを素敵とおっしゃってくださるあなたがいるのはとても幸せなことです。あなたは、たくさんの幸せを与えてくださいます。買い物へ行こう、大好きな小説の聖地巡りをしよう、アフタヌーンティーへ行こう、ライブハウスへ行こう、と、とりとめのない夢物語のようなこれから、明日を見せてくださいます。あなたとの関係は名付けようのないものとなりました。名付けるのも烏滸がましいというか、僕たち、我々の間には神聖な空間がある気がするのです。僕たちの、コミュニケーションは、僕たち以外とのコミュニケーションとは全く別物で、そしてそれは言葉にするのも烏滸がましいくらいに安心があり、同時に新鮮で、会話の時間は活力に満ち溢れていて、お互いがお互いであれるような気がするのです。僕の気というのはわりと当たります。当たるのではなく、当てているのかもしれない。未来を弄れる力が僕にはあります。どんなに屈折した未来が待っていたとしても、それを僕が僕らしくあれるために、我が道として整地することができるのです。それは誰もが持ち合わせている能力なのかもしれないけれど、それを特異な能力として見ているのは僕だけではないはずです。丁寧な言葉、表現を心がけようとしているのだけれど、その丁寧が裏目に出て、反対に、卑しく、厚かましく見える気がして途方に暮れながらも、書いている間の少しの高揚感と、書き上げた達成感を得るために僕は書き続けます。小説家の方の脳みそが見てみたい。案外、僕らと変わらないものなのかな。YouTubeで、コアラの脳みそにはシワひとつなくプリプリだと知りました。頭の良さはシワの数では決まらないそうです。全く知らないゲームのプロの公式戦を観たとて、彼ら、プロゲーマーの凄みがわからないように、小説家の脳みそを見たところで、常人の僕にはわからないのかもしれない。だからと言ってどうすることもなく、今日も僕は退屈そうに携帯をいじりながら、暇を持て余すのでしょう。