玄関でチャイムの音が鳴った。
 ぱちっとまぶたが開いて、急速に意識が戻ってくる。
 いつの間にか眠っていたらしい。

「まあまあ先生。いつもありがとうございます。今日はね、パウンドケーキをご用意したんですよ。よろしかったら、先に少し召し上がりません?」
「お誘いはありがたいんですけど、まだ仕事もしてないのにそれはちょっと。親父にも怒られちゃいますし」
「そんな堅いことおっしゃらず。さあどうぞどうぞ」

 ドアの向こうから聞こえてくる会話に苦笑する。
 私はベッドから飛び降りると、その勢いのまま部屋を飛び出した

「先生、待ってたんですよ。新しい教科書、一緒に見てくれますか」
「千佳ちゃん、そんないきなり……桜田先生に失礼よ」
「いやいや。それが仕事ですから。じゃあ、予習も兼ねてざっと目を通そうか」

 階段を上がりながら、私たちはママに気付かれないよう、こっそりと視線を交わし合う。

「……あー、助かった。ぴーちゃん、サンキュ」

 部屋に入ってドアを閉めた瞬間、瑛輔(えいすけ)くんが、ホッとしたように漏らした。

「もう、瑛輔くん、そんなビジュアルで気弱すぎ」
「それとこれは関係ないだろ。人間性の問題だよ」

 瑛輔くんは、シルバーアッシュのツンツン頭をがりがりと掻いた。
 派手な頭髪に、卑猥な英単語が羅列された穴だらけの長袖Tシャツに赤いレザーパンツ。
 そんなパンキッシュなスタイルにも関わらず、私より五つ年上の瑛輔くんは、有名大学医学部の優秀な学生であり、総合病院の院長の一人息子という、輝かしい将来が確約された存在でもある。
 R製薬という製薬会社に勤める私のパパと、瑛輔くんの父親が仕事を通じて仲良くなったのが縁で、三年前から瑛輔くんは私の家庭教師をしている。
 それにしても、初めて瑛輔くんがこの家に来たときのことを思い出すと、今でも笑いがこみ上げてくる。
 長い金髪を後ろで結わえ、あちこち鋲が打ち込まれたジャケットに膝小僧が丸出しになるダメージジーンズ、歩くたびにじゃらじゃらとぶら下がったチェーンが鳴る、そんなスタイルで現れた青年が、

「初めまして。桜田瑛輔です。ふつつかものですが、よろしくお願いします」

 と、うやうやしく差し出した菓子折りを、愕然とした表情のママが受け取るというカオスな状況だったからだ。
 ママは「あんな人と千佳ちゃんを二人きりにするなんて」とパパに抗議したが、パパは「彼は優秀だから」と答えるだけだった。
 あとでママから教えてもらったけれど、こんなふうに(主にビジュアル面で)奔放な瑛輔くんを心配した病院長が「人様の人生に責任を持つことを知ってほしい」と、パパに頼み込んだらしい
 たしかに、瑛輔くんは家庭教師として超一級の人物だった。
 もともと私の成績も悪くはなかったけれど、星山高校の新入生代表になれたのは瑛輔くんのおかげだ。
 あんなに瑛輔くんを拒絶していたママも、いつの間にかすっかり瑛輔くんを気に入っていた。たぶん瑛輔くんは、天性の人たらしなんだと思う。
 だけど、瑛輔くんが本当に優れているのは、人を見る目だった。
 瑛輔くんは、出会ってすぐに私を「ぴーちゃん」と呼んだ。

「籠の中の鳥。だからぴーちゃん。でしょ?」

 嘘が通用しない、本当を見抜ける人。だからこそ上手に嘘が付ける人。
 だから私は、瑛輔くんを共犯者に選んだ。
 私の目的は二つ。
 星山高校で再会するというチーと遥の約束を守ること。
 そして、チーの初恋を叶える――つまり、遥にチーを――チーの振りをした(・・・・・・・・)私を好きになってもらうこと。

「んで、ぴーちゃん。首尾は?」
「バッチリ」

 今日のできごとをすべて報告すると、瑛輔くんは「うへ」と変な声を漏らした。

「死んだ友達の初恋を引継ぐなんて、絶対ムリだと思ったんだけどなぁ」
「ちょっと。協力者がそういうこと言わないでよ」

 私がにらみつけると、瑛輔くんはがりがりと頭を掻いた。

「いやいや。俺、けっこう頑張ったと思わない? 探偵事務所でバイトしたことある後輩使って、遥くんの写真もゲットしたし、志望校が星山高校だってことも調べ上げたんだぜ?」
「それは瑛輔くんじゃなくて、その後輩さんが頑張ったんでしょ」
「俺は俺で、入学式で感動的な再会ができるような完璧なシナリオを作ってやったろ。ぴーちゃんがぶち壊しちゃったみたいだけど」
「だってあんな三流ドラマみたいにベタな演出、私、最初っからおかしいと思ってたし。スピーチの途中で『……遥』なんてさ。ダサすぎ、クサすぎ、時代遅れすぎ」
「えー。ぴーちゃんだってイケると思ったから俺のシナリオに乗っかったんでしょ? 生半可な気持ちで星山高校の新入生代表なんかなれるわけないんだからさ」
「仕方ないでしょ。私みたいにロマンの欠片もない女は、押しかけるくらいしか思いつきませんから」

 協力を持ちかけたとき、私が「同じ高校に入って話しかければどうにかなると思う」と言ったら、瑛輔くんは唖然として、

「ぴーちゃんってロマンの欠片もないね。それで人の心をどうこうしようなんてぜったい無理」

 と言ったのだった。
 それを未だに根に持っている私に、瑛輔くんが大きくため息をつく。

「とにかく、ぴーちゃんの勝負はここからだろ? どうにかしてその遥くんに自分を好きになってもらうか」
「なんかいい案、ある?」
「うーん」

 瑛輔くんは目を閉じて腕組みをすると、ぴん、と人差し指を立てた。

「一つ、これだってのはある」
「なに?」
「ぴーちゃんが遥くんに恋すること」
「は?」

 呆れた声を出す私に、瑛輔くんは「これだからなぁ」と呟いた。

「本当に自分を好きになってくれた相手ってのは、多少なりとも魅力的に見えるものなんだよ。ぴーちゃん」
「でもそれは無理。私はぜったい遥を好きにならない。これは、チーの恋なんだから」
「一生自分に嘘をつき続けるのはキツイと思うけどなぁ」
「いいの。私、嘘は得意だから」

 そう、私は最悪の嘘つきだ。
 誰かの大切なものを簡単に奪ってしまうくらいの、ひどい嘘つき。

「その歳で男を騙そうなんて、ぴーちゃんもひどい女だね」

 瑛輔くんがまた頭を掻く。

「さて、それはさておき、本来の仕事をしようか。そろそろおばさんがお茶を持って来る時間だしね。ほら、教科書出して」
「はいはい。瑛輔くんの分のパウンドケーキは、ちゃんと食べてあげるね」
「いつもすみませんね」

 瑛輔くんは、他人が作ったものは苦手で、家族や家政婦さんが作ったものや既製品以外はあまり口にしない。
 それなのに、はっきり断れないだけでなく、相手を喜ばせるように「おいしそう」「すごい」「大好物なんですよ」なんて言っちゃうものだから、ママのような手作り至上の人を喜ばせて、次から次へと押し付けられる羽目になるのだ。

「優しすぎるのも考えものだよ」

 瑛輔くんはちょっと笑って、また頭を掻いた。
 瑛輔くんが帰ってからママと二人きりの夕食を済ませた私は、パンパンになったお腹をさすりながらベッドに横たわっていた。
 さすがに二人分の(しかも瑛輔くんのほうは特別ビッグサイズの)パウンドケーキも食べたあとだと、ちょっとキツかったな。
 ベッドのマットレスの下に手を入れて、隠していたノートを引っ張り出した。何度も出し入れするせいで、黒い厚手の表紙は角が擦れてぼろぼろになっていた。
 チーがいなくなって初めてのお正月、私はお年玉でこのノートを買った。
 六歳の子どもにはずいぶんと大人びたデザインだったけれど、一生持ち続けなければいけないものだからと、店で一番丈夫そうなものを選んだ。
 ここには、私が知ってるチーのすべてを書き込んである。
 チーが話したことはもちろん、好きなもの、嫌いなもの、どんなときに怒ってどんなときに悲しくなるのか。笑うときの癖、話しかたの特徴、仕草……。
 このノートはチーそのものだ。
 たとえ明日、私がすべての記憶を失ってしまっても、チーのことだけはちゃんと残しておかなくちゃいけない。忘れることなんか許されない。
 本当はもっと大切にしまってあげたいけど、ママはときどき勝手に私の部屋に入るから隠しておかなくちゃ。ごめんね、チー。
 表紙を開くと、端が黄ばんだ一ページ目に五歳の私がシャープペンシルで書き込んだ文字が並んでいた。何度も指でなぞったせいで、ずいぶん薄くなってしまった。

『ふじわらはるかと、せいざんこうこうで会う』

 一つ目の目的はクリアした。
 次は、二つ目。

――わたし、はるかのこと大好きなの。世界でいちばん、大好き。

 チーの初恋は私が叶えてみせる。
 私はひどい嘘つきだけど、チーにだけは、もう嘘をつかない。
 約束するよ。