「お帰りなさい。千佳ちゃん! ああよかった……」
合宿から戻った私を、ママは強く抱きしめた。バターと卵と砂糖の混じった甘いにおいがする。
「今日はね、マドレーヌを焼いておいたの。千佳ちゃん、大好きでしょう?」
いそいそとキッチンに向かうママに、私はずっとずっと飲み込み続けた言葉を放つ。
「ママ、私、チーのお母さんに会いに行きたいの」
私の言葉にママの笑顔が固まった。
「私、おばさんに本当のことが言いたい」
どんな嘘をついたって、私はチーにはなれない。
私のなかにいるのは私だけ。私以外のものになんかなれないんだ。
だったら――私は、しなくちゃいけないことがある。
「あれは千佳ちゃんのせいじゃないわ。大丈夫、もう全部忘れていいのよ。そうそう、いいアッサムの茶葉をもらったの。ミルクティーにしましょうか」
やかんを火にかけるママの手がわずかに震えていた。
「もう嘘をつきたくない。お願い、教えて。おばさんは。いまどこにいるの? 電話が来るってことは、パパもママもなにか知ってるんでしょう?」
「だめよ、千佳ちゃん。わがまま言わないで。ね、いい子だから」
「ママ――」
「だめだって言ってるでしょう!」
ママが手にしていた紅茶の缶をテーブルの上に叩きつけた。蓋が開いて茶葉が飛び散る。華やかな香りがした。
「もう終わったことなの! 全部、全部終わったの! あなたはなにも心配しなくていいの。このまま幸せになればそれでいいのよ」
「これが幸せなの? 私がついた嘘でパパもママも私もこんなに苦しんでるのに」
「やめなさい!」
やかんが、もうもうと水蒸気を吐き出している。コンロの火を消すママの背中が震えていた。
「海にさらわれた子どもがいるって連絡をもらったとき、あなただと思ったの。服装がよく似ていたから。でも、あなたは生きてた。――心の底から『よかった』って思ったの。死んだのがあなたじゃなく、あの子でよかったって」
――千佳ちゃん! よかった! あなたじゃなかったのね!
バターと卵をたっぷり使ったお菓子が得意なママ。あの日からずっと不安そうな顔ばかりしていたママ。どこかふわふわと子どもっぽかったママが、急に歳を取ったように見えた。
「本当のことを伝えたいっていうのは、あなたの自己満足よ。あの人にもっと悲しい思いをさせるだけ。忘れなさい。あの人に
憎まれるのは私が全部引き受けるから」
自己満足。そうかもしれない。だけど――。
嘘を抱えたまま、遥の前には立てない。
私は、私の「本当」を手にしなきゃいけないんだ。
「私、やっぱり会いに行く」
ママはふっと息を吐いた。テーブルの上に散らばった茶葉を指先でもてあそびながら「パパに聞きなさい」と言った。
ママから連絡を受けて帰ってきたらしいパパは、私を書斎に呼んだ。
初めて入った書斎は、パパのオーデコロンのにおいがした。
パパが差し出したハガキの束の差出人は、沢野美也子。癖のある文字でチーの母親の名前が記されていた。
「毎年正月に贈られてくるんだ。あの年からずっとな」
そう言われてよく見ると、一番下は十年前の、一番上は今年の年賀状だった。裏面には金色で印字された「謹賀新年」以外、なにも書かれていなかった。住所は十年前から変わらず、私たちが昔暮らしていた町――私とチーが出会った町の、二人が住んでいたアパートのものだった。
「行くのか」
「――行くよ」
「そうか。気を付けて行きなさい」
書斎を出るときに振り返ると、パパはうつむいていた。
「ありがとう、パパ。行ってくるね」
ドアを閉める瞬間に見えたパパの顔は、少し歪んで見えた。
******
八月の終わり。夏休みも残りあと三日になった今日、私は電車を乗り継いで、チーと私が出会った町にやってきた。
見覚えのあるものが古くなっていたり、見慣れぬ真新しい建物がそびえ立っていたりと、記憶にある景色とはだいぶ変わっていたけれど、歩くたびに懐かしさが募ってくる。
存外、私は迷わずにチーとおばさんが住んでいたアパートの前にたどり着いた。もともと古ぼけていたせいか、昔とちっとも変わらないように見える。
決意してきたはずなのに、私の足は寸前で止まって動かなくなった。
行くって、自分で決めたんじゃない。
どんなに言い聞かせても、気を抜けば回れ右して逃げ出しそうになる。
チー。お願い。ちゃんと本当のことを話すから。だから、少しだけ応援して。
ふ、と風が吹いた。その風には少し甘いにおいが混じっていた。甘くて、懐かしいにおい。
お腹が、きゅる、と鳴って、引き寄せられるように歩き出していた。
階段を上がる。
昔は一段一段が高くて大変だったのに、今の私は軽々と上っていける。それだけの時間が経ったんだと実感した。
砂埃がひどい廊下に、換気扇がぶーんと鳴っている。油のにおいがした。
廊下に面した窓の前で立ち止まる。そして、昔の私たちがしていたように、魔法の言葉を唱えた。
「くーださい」
がらりと窓が開いたとき、一瞬あのときに戻ったような気がした。窓の向こうにはおばさんがいて、私の隣にはチーがいた、あのときに。
「ほら」
窓から差し出された菜箸に突き刺さっていたのは、もう二度と食べられないと思っていた、あのまん丸のドーナツ。カリカリの長いしっぽがついている。
「そこが好きなんだろ? 知花が教えてくれた。熱いから気を付けな」
目の前にいるおばさんは私が知っている姿より少し老けていたけれど、その目元はチーを思わせた。
菜箸からドーナツを抜き取ってかじる。じゅわりと染み出た油が、口の中を焼いた。
はふ、と息を漏らした私に、おばさんは、
「言っただろうが」
と、少し笑った。
アパートには何度も来ていたけれど、部屋の中に入ったのは数えるほどだった。
通されたリビングは驚くほど物が少なく、きっちりと整理整頓されていた。寝室として使っているらしい奥の部屋とは、ふすまで仕切られている。
丸いドーナツを山盛りにした皿と麦茶のコップを二つテーブルに置いたおばさんは、しげしげと私を見つめた。
「大きくなったね。生きてたら知花もこれくらいデカくなってたってことか。きっとこのアパートじゃ狭いって文句言ってただろうな。……まあ、いまも言ってるか」
おばさんは小皿にドーナツを三つ取り分けて立ち上がると、ふすまを開けて隣の部屋に入っていった。その動きを目で追った私は、思わず息をのんだ。
そこにはチーがぎゅうぎゅうに押し込められていた。
チーの写真、チーが描いた絵、チラシの裏にひらがなの練習をしたもの、なにを作ろうとしたのか分からないくらいぐちゃぐちゃの折り紙、幼稚園で母の日に紙で作ったカーネーション、運動会のお遊戯で使ったポンポンまで――ありとあらゆるものが、壁一面に貼りつけられていた。
パイプハンガーには見覚えのあるチーの服が掛かっている。海にさらわれてたときに着ていた私とおそろいのあの小花が咲いたワンピースもあった。
学習机には赤いランドセルと小さな仏壇が置かれていた。そこにドーナツを供えると、おばさんは私の前にどかりと座った。そして、手づかみでドーナツをッ口に放り込んで、
「で? いまさらなんの用で来たんだ?」
と、聞いた。
だけど、私は開け放されたふすまの向こうから目が離せないでいた。
「捨てられないんだよ」
私の視線に気付いたおばさんが苦笑した。
二つ目のドーナツを口元まで運んで、少し迷ってから皿に戻すと「食べな」と、私のほうに押してよこした。
おばさんはあの部屋で寝ているんだろうか。不自然なまでにチーを押し込めたあの空間の中で、おばさんはどんな夢を見るんだろう。
「ごめんなさい」
擦り切れた畳に手をついて頭を下げる。ここにも油のにおいが染み付いていた。
「チーが死んだのは、私のせいなんです」
換気扇がぶーんと回り続けていた。少し間があって、おばさんがぽつりと言った。
「あんたは殴られに来たの? それとも許してもらいに来たの?」
「分からないけど、でも、これが、私のしなくちゃいけないことだから」
歪なのは私やパパやママだけじゃない。おばさんもだった。
忘れたくない、忘れたい、忘れちゃいけない、会いたい、会えない。チーはこの世界のどこにも、もういない。
この部屋と私がマットレスの下に隠したノートは同じだ。チーを狭いところに詰め込んで隠して、それとともに眠る。そんなのおかしい。
チーは、もっと広いところにいるべきだ。
「そうか」
おばさんが私の肩をつかんで起き上がらせる。食い込んだ指が痛い。
十センチも離れていないところに、おばさんの目が――チーによく似たその目が私を見つめている。
「ごめんなさい」
十年前に私がしなきゃいけなかったことは、チーに、おばさんにちゃんと謝ること。
みんなに怒られて、憎まれること。チーのために泣くこと。
そうすれば、みんなはチーを正しく思い出にできたのかもしれない。
私の嘘はチーを死なせてしまっただけじゃない。みんなの中にチーを閉じ込めて、歪めて、触れてはいけないものにしてしまった。
「嘘をついて、本当にごめんなさい」
おばさんの手がふっと緩んだ。そして、私を強く抱きしめた。
油のにおいの奥に、記憶の中に残っていたチーと同じにおいがした。
誰かに触れられるのは嫌い。大嫌い。
それなのに、おばさんの温もりが私の心をほぐしていく。
うぅっ、と声が漏れた。
「ご、めんなさい」
涙が一つ落ちると、あとはもう止まらなかった。私は、五歳の私に戻ったように泣いた。
おばさんはそんな私の背中をさすり続けてくれた。
どれくらいの時間泣き続けたのか、部屋に差し込む光はすっかり弱くなっていた。コップの麦茶を立て続けに二杯飲み干したおばさんは、隣の部屋へと私を促した。
日当たりが悪く、少し湿った感じのする部屋で、無数のチーが私を見つめた。
仏壇に手を合わせたあと、チーが背負えなかった赤いランドセルに触れた。
チー、私もね、約束どおり、ちゃんと赤いランドセルにしたんだよ。
「――あたしね、この子があんたを探して外に出たってこと、知ってたんだ」
私が驚いて顔を上げると、おばさんは苦笑して鼻の頭を掻いた。
「あんたの親父さんがここに来て、話してくれた。さっきのあんたみたいに土下座して『娘の責任は自分が取る。憎むなら私を憎んでほしい』ってさ。腹が立ってね。つい言っちまったんだ。じゃあ、あんたも娘を失ってみなよってさ」
あの日から急に仕事が忙しくなったパパ。出張だなんだと家にあまり帰ってこなくなったパパ。私を見なくなったパパ。
ずっと、責めているんだと思っていた。本当はそうやって、私を守ってくれていたの?
「ここぞとばかりにたくさん責めたよ。嫌がらせみたいに電話したり、年賀状送りつけたりさ。だけど、月命日には必ず来てくれて、花を供えて、何時間だって話を聞いてくれた。あたし以外にちゃんとあの子を覚えている人がいるんだって、それが救いだった」
じゃなきゃ、とおばさんは鼻をすすった。
「あたしは自分を責めて、きっと耐えられなかった」
「おばさんが、どうして?」
「あの子の父親とは、いま思えばどうでもいいことで言い争って離婚したんだ。もしあのとき、あたしが堪えて離婚なんかしなかったらとか、離婚したとしても仕事を休んで一緒に行ってたらとか、最後にかけた言葉が『悪い子は海に放り投げられる』だなんてとか、そんなことを考えると、たまらなくなるんだよ」
「でも、悪いのは私で」
「この十年、誰が悪いのかってずっと考えたよ。あんたはもちろん、あたしも、離婚してさっさと再婚して葬式にも来なかったあの子の父親も、あの子から目を離したあんたの両親も。だけど、分からなかった。たぶん……みんな、少しずつ悪かったんだ」
おばさんは私の頭をそっと撫でた。
「これからもあたしは、どうしてあの子がって思い続ける。寂しいとも悲しいとも思う。でも、もういいよ。それは一生あたしが抱えていくものだから。あんたは、あの子の思い出を抱えて生きていって」
壁に貼られた写真一つひとつに目をやる。チーに語りかけるように、胸のなかで呟く。
私ね、遥に会ったよ。チーが大好きな人。
チーにも会いたいな。
私と同じ高校生になったチーと話してみたかったことがたくさんある。
星山高校のこと、私にあんまり似合ってない制服のこと、新入生代表になったこと、私が読んだ本のこと、瑞希のこと、桐原先輩のこと、吉田さんたちのこと――そして、遥のこと。
でも、こんなに会いたいと願うのは、もう会えないからなんだ。
チーはもういない。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと生きられない。あのとき、間違いなくそれが私たちの「本当」だった。
だけど、いまは違うんだね。
それが分かるまで、私はずいぶん時間がかかっちゃったよ。
帰るとき、おばさんはチーに供えたドーナツをティッシュに包んで私に持たせた。
「久々に一緒に食べてやって。それと……よかったらまた来てよ。あの子の――知花のことを話したいし、今のあんたのことも教えてほしい」
「はい――必ず」
もらったドーナツを落とさないよう、しっかりと胸に抱いて私は走った。汗をかいて、心臓を鳴らして、いつもチーと一緒におやつを食べていた公園に走った。
二人が並んで座っていた青いベンチは、ペンキを塗り替えられて緑色になっていた。
一人座ってドーナツをかじる。口中の水分が吸い取られ、うまく飲み込めない。カリカリだったしっぽも時間がたってすっかりふにゃふにゃ。
「やっぱり揚げたてが一番だね、チー」
ドーナツを食べながらくすくす笑う私を、犬を連れたおばさんが怪訝そうな顔で見ていた。
******
家に帰ると、パパとママが私を待っていた。
二人の間でどんな話し合いがあったのか、ママの目は真っ赤で、パパの着ているシャツのボタンが二つ飛んでいた。
いつも綺麗なリビングは荒れて、雑然としていて、でもなんだか生々しさがあっていいなって思った。
「ちゃんと謝ってきたよ。パパのことも聞いた。いままでずっとありがとう」
「――私に黙って一人で全部背負うなんて。話してくれればよかったのに。そんなに私は頼りないのかしら」
「すまん」
乱れた頭を掻きながら、パパは申し訳なさそうな顔をした。ケンカの原因はそれか。
「すまん、で済むなんてずいぶん簡単ね」
ここ数日の出来事がショック療法になったのか、あの日からずっとふわふわしていたママが急にしゃんとした気がする。
「ねえ、今度チーのお墓参りするときはみんなで行こうよ」
「――そうね。あの子は千佳ちゃんと同じでマドレーヌが好きだったから、たくさん焼かないと」
私はパパの手を取った。
いままで本当にありがとう。
ずっと一人で私の嘘を背負い続けてくれて。
それからママの手を取る。
ずっと心配かけてごめんなさい。ずっと私をまもってくれて、ありがとう。
でも、私はもう五歳の子どもじゃないから。これからは私が、私の嘘と向き合うよ。
「――ああ、そうだな」
パパが笑った。それは、十年ぶりに見る笑顔だった。
合宿から戻った私を、ママは強く抱きしめた。バターと卵と砂糖の混じった甘いにおいがする。
「今日はね、マドレーヌを焼いておいたの。千佳ちゃん、大好きでしょう?」
いそいそとキッチンに向かうママに、私はずっとずっと飲み込み続けた言葉を放つ。
「ママ、私、チーのお母さんに会いに行きたいの」
私の言葉にママの笑顔が固まった。
「私、おばさんに本当のことが言いたい」
どんな嘘をついたって、私はチーにはなれない。
私のなかにいるのは私だけ。私以外のものになんかなれないんだ。
だったら――私は、しなくちゃいけないことがある。
「あれは千佳ちゃんのせいじゃないわ。大丈夫、もう全部忘れていいのよ。そうそう、いいアッサムの茶葉をもらったの。ミルクティーにしましょうか」
やかんを火にかけるママの手がわずかに震えていた。
「もう嘘をつきたくない。お願い、教えて。おばさんは。いまどこにいるの? 電話が来るってことは、パパもママもなにか知ってるんでしょう?」
「だめよ、千佳ちゃん。わがまま言わないで。ね、いい子だから」
「ママ――」
「だめだって言ってるでしょう!」
ママが手にしていた紅茶の缶をテーブルの上に叩きつけた。蓋が開いて茶葉が飛び散る。華やかな香りがした。
「もう終わったことなの! 全部、全部終わったの! あなたはなにも心配しなくていいの。このまま幸せになればそれでいいのよ」
「これが幸せなの? 私がついた嘘でパパもママも私もこんなに苦しんでるのに」
「やめなさい!」
やかんが、もうもうと水蒸気を吐き出している。コンロの火を消すママの背中が震えていた。
「海にさらわれた子どもがいるって連絡をもらったとき、あなただと思ったの。服装がよく似ていたから。でも、あなたは生きてた。――心の底から『よかった』って思ったの。死んだのがあなたじゃなく、あの子でよかったって」
――千佳ちゃん! よかった! あなたじゃなかったのね!
バターと卵をたっぷり使ったお菓子が得意なママ。あの日からずっと不安そうな顔ばかりしていたママ。どこかふわふわと子どもっぽかったママが、急に歳を取ったように見えた。
「本当のことを伝えたいっていうのは、あなたの自己満足よ。あの人にもっと悲しい思いをさせるだけ。忘れなさい。あの人に
憎まれるのは私が全部引き受けるから」
自己満足。そうかもしれない。だけど――。
嘘を抱えたまま、遥の前には立てない。
私は、私の「本当」を手にしなきゃいけないんだ。
「私、やっぱり会いに行く」
ママはふっと息を吐いた。テーブルの上に散らばった茶葉を指先でもてあそびながら「パパに聞きなさい」と言った。
ママから連絡を受けて帰ってきたらしいパパは、私を書斎に呼んだ。
初めて入った書斎は、パパのオーデコロンのにおいがした。
パパが差し出したハガキの束の差出人は、沢野美也子。癖のある文字でチーの母親の名前が記されていた。
「毎年正月に贈られてくるんだ。あの年からずっとな」
そう言われてよく見ると、一番下は十年前の、一番上は今年の年賀状だった。裏面には金色で印字された「謹賀新年」以外、なにも書かれていなかった。住所は十年前から変わらず、私たちが昔暮らしていた町――私とチーが出会った町の、二人が住んでいたアパートのものだった。
「行くのか」
「――行くよ」
「そうか。気を付けて行きなさい」
書斎を出るときに振り返ると、パパはうつむいていた。
「ありがとう、パパ。行ってくるね」
ドアを閉める瞬間に見えたパパの顔は、少し歪んで見えた。
******
八月の終わり。夏休みも残りあと三日になった今日、私は電車を乗り継いで、チーと私が出会った町にやってきた。
見覚えのあるものが古くなっていたり、見慣れぬ真新しい建物がそびえ立っていたりと、記憶にある景色とはだいぶ変わっていたけれど、歩くたびに懐かしさが募ってくる。
存外、私は迷わずにチーとおばさんが住んでいたアパートの前にたどり着いた。もともと古ぼけていたせいか、昔とちっとも変わらないように見える。
決意してきたはずなのに、私の足は寸前で止まって動かなくなった。
行くって、自分で決めたんじゃない。
どんなに言い聞かせても、気を抜けば回れ右して逃げ出しそうになる。
チー。お願い。ちゃんと本当のことを話すから。だから、少しだけ応援して。
ふ、と風が吹いた。その風には少し甘いにおいが混じっていた。甘くて、懐かしいにおい。
お腹が、きゅる、と鳴って、引き寄せられるように歩き出していた。
階段を上がる。
昔は一段一段が高くて大変だったのに、今の私は軽々と上っていける。それだけの時間が経ったんだと実感した。
砂埃がひどい廊下に、換気扇がぶーんと鳴っている。油のにおいがした。
廊下に面した窓の前で立ち止まる。そして、昔の私たちがしていたように、魔法の言葉を唱えた。
「くーださい」
がらりと窓が開いたとき、一瞬あのときに戻ったような気がした。窓の向こうにはおばさんがいて、私の隣にはチーがいた、あのときに。
「ほら」
窓から差し出された菜箸に突き刺さっていたのは、もう二度と食べられないと思っていた、あのまん丸のドーナツ。カリカリの長いしっぽがついている。
「そこが好きなんだろ? 知花が教えてくれた。熱いから気を付けな」
目の前にいるおばさんは私が知っている姿より少し老けていたけれど、その目元はチーを思わせた。
菜箸からドーナツを抜き取ってかじる。じゅわりと染み出た油が、口の中を焼いた。
はふ、と息を漏らした私に、おばさんは、
「言っただろうが」
と、少し笑った。
アパートには何度も来ていたけれど、部屋の中に入ったのは数えるほどだった。
通されたリビングは驚くほど物が少なく、きっちりと整理整頓されていた。寝室として使っているらしい奥の部屋とは、ふすまで仕切られている。
丸いドーナツを山盛りにした皿と麦茶のコップを二つテーブルに置いたおばさんは、しげしげと私を見つめた。
「大きくなったね。生きてたら知花もこれくらいデカくなってたってことか。きっとこのアパートじゃ狭いって文句言ってただろうな。……まあ、いまも言ってるか」
おばさんは小皿にドーナツを三つ取り分けて立ち上がると、ふすまを開けて隣の部屋に入っていった。その動きを目で追った私は、思わず息をのんだ。
そこにはチーがぎゅうぎゅうに押し込められていた。
チーの写真、チーが描いた絵、チラシの裏にひらがなの練習をしたもの、なにを作ろうとしたのか分からないくらいぐちゃぐちゃの折り紙、幼稚園で母の日に紙で作ったカーネーション、運動会のお遊戯で使ったポンポンまで――ありとあらゆるものが、壁一面に貼りつけられていた。
パイプハンガーには見覚えのあるチーの服が掛かっている。海にさらわれてたときに着ていた私とおそろいのあの小花が咲いたワンピースもあった。
学習机には赤いランドセルと小さな仏壇が置かれていた。そこにドーナツを供えると、おばさんは私の前にどかりと座った。そして、手づかみでドーナツをッ口に放り込んで、
「で? いまさらなんの用で来たんだ?」
と、聞いた。
だけど、私は開け放されたふすまの向こうから目が離せないでいた。
「捨てられないんだよ」
私の視線に気付いたおばさんが苦笑した。
二つ目のドーナツを口元まで運んで、少し迷ってから皿に戻すと「食べな」と、私のほうに押してよこした。
おばさんはあの部屋で寝ているんだろうか。不自然なまでにチーを押し込めたあの空間の中で、おばさんはどんな夢を見るんだろう。
「ごめんなさい」
擦り切れた畳に手をついて頭を下げる。ここにも油のにおいが染み付いていた。
「チーが死んだのは、私のせいなんです」
換気扇がぶーんと回り続けていた。少し間があって、おばさんがぽつりと言った。
「あんたは殴られに来たの? それとも許してもらいに来たの?」
「分からないけど、でも、これが、私のしなくちゃいけないことだから」
歪なのは私やパパやママだけじゃない。おばさんもだった。
忘れたくない、忘れたい、忘れちゃいけない、会いたい、会えない。チーはこの世界のどこにも、もういない。
この部屋と私がマットレスの下に隠したノートは同じだ。チーを狭いところに詰め込んで隠して、それとともに眠る。そんなのおかしい。
チーは、もっと広いところにいるべきだ。
「そうか」
おばさんが私の肩をつかんで起き上がらせる。食い込んだ指が痛い。
十センチも離れていないところに、おばさんの目が――チーによく似たその目が私を見つめている。
「ごめんなさい」
十年前に私がしなきゃいけなかったことは、チーに、おばさんにちゃんと謝ること。
みんなに怒られて、憎まれること。チーのために泣くこと。
そうすれば、みんなはチーを正しく思い出にできたのかもしれない。
私の嘘はチーを死なせてしまっただけじゃない。みんなの中にチーを閉じ込めて、歪めて、触れてはいけないものにしてしまった。
「嘘をついて、本当にごめんなさい」
おばさんの手がふっと緩んだ。そして、私を強く抱きしめた。
油のにおいの奥に、記憶の中に残っていたチーと同じにおいがした。
誰かに触れられるのは嫌い。大嫌い。
それなのに、おばさんの温もりが私の心をほぐしていく。
うぅっ、と声が漏れた。
「ご、めんなさい」
涙が一つ落ちると、あとはもう止まらなかった。私は、五歳の私に戻ったように泣いた。
おばさんはそんな私の背中をさすり続けてくれた。
どれくらいの時間泣き続けたのか、部屋に差し込む光はすっかり弱くなっていた。コップの麦茶を立て続けに二杯飲み干したおばさんは、隣の部屋へと私を促した。
日当たりが悪く、少し湿った感じのする部屋で、無数のチーが私を見つめた。
仏壇に手を合わせたあと、チーが背負えなかった赤いランドセルに触れた。
チー、私もね、約束どおり、ちゃんと赤いランドセルにしたんだよ。
「――あたしね、この子があんたを探して外に出たってこと、知ってたんだ」
私が驚いて顔を上げると、おばさんは苦笑して鼻の頭を掻いた。
「あんたの親父さんがここに来て、話してくれた。さっきのあんたみたいに土下座して『娘の責任は自分が取る。憎むなら私を憎んでほしい』ってさ。腹が立ってね。つい言っちまったんだ。じゃあ、あんたも娘を失ってみなよってさ」
あの日から急に仕事が忙しくなったパパ。出張だなんだと家にあまり帰ってこなくなったパパ。私を見なくなったパパ。
ずっと、責めているんだと思っていた。本当はそうやって、私を守ってくれていたの?
「ここぞとばかりにたくさん責めたよ。嫌がらせみたいに電話したり、年賀状送りつけたりさ。だけど、月命日には必ず来てくれて、花を供えて、何時間だって話を聞いてくれた。あたし以外にちゃんとあの子を覚えている人がいるんだって、それが救いだった」
じゃなきゃ、とおばさんは鼻をすすった。
「あたしは自分を責めて、きっと耐えられなかった」
「おばさんが、どうして?」
「あの子の父親とは、いま思えばどうでもいいことで言い争って離婚したんだ。もしあのとき、あたしが堪えて離婚なんかしなかったらとか、離婚したとしても仕事を休んで一緒に行ってたらとか、最後にかけた言葉が『悪い子は海に放り投げられる』だなんてとか、そんなことを考えると、たまらなくなるんだよ」
「でも、悪いのは私で」
「この十年、誰が悪いのかってずっと考えたよ。あんたはもちろん、あたしも、離婚してさっさと再婚して葬式にも来なかったあの子の父親も、あの子から目を離したあんたの両親も。だけど、分からなかった。たぶん……みんな、少しずつ悪かったんだ」
おばさんは私の頭をそっと撫でた。
「これからもあたしは、どうしてあの子がって思い続ける。寂しいとも悲しいとも思う。でも、もういいよ。それは一生あたしが抱えていくものだから。あんたは、あの子の思い出を抱えて生きていって」
壁に貼られた写真一つひとつに目をやる。チーに語りかけるように、胸のなかで呟く。
私ね、遥に会ったよ。チーが大好きな人。
チーにも会いたいな。
私と同じ高校生になったチーと話してみたかったことがたくさんある。
星山高校のこと、私にあんまり似合ってない制服のこと、新入生代表になったこと、私が読んだ本のこと、瑞希のこと、桐原先輩のこと、吉田さんたちのこと――そして、遥のこと。
でも、こんなに会いたいと願うのは、もう会えないからなんだ。
チーはもういない。
チーとカー。私たちは二人で一人。一人だと生きられない。あのとき、間違いなくそれが私たちの「本当」だった。
だけど、いまは違うんだね。
それが分かるまで、私はずいぶん時間がかかっちゃったよ。
帰るとき、おばさんはチーに供えたドーナツをティッシュに包んで私に持たせた。
「久々に一緒に食べてやって。それと……よかったらまた来てよ。あの子の――知花のことを話したいし、今のあんたのことも教えてほしい」
「はい――必ず」
もらったドーナツを落とさないよう、しっかりと胸に抱いて私は走った。汗をかいて、心臓を鳴らして、いつもチーと一緒におやつを食べていた公園に走った。
二人が並んで座っていた青いベンチは、ペンキを塗り替えられて緑色になっていた。
一人座ってドーナツをかじる。口中の水分が吸い取られ、うまく飲み込めない。カリカリだったしっぽも時間がたってすっかりふにゃふにゃ。
「やっぱり揚げたてが一番だね、チー」
ドーナツを食べながらくすくす笑う私を、犬を連れたおばさんが怪訝そうな顔で見ていた。
******
家に帰ると、パパとママが私を待っていた。
二人の間でどんな話し合いがあったのか、ママの目は真っ赤で、パパの着ているシャツのボタンが二つ飛んでいた。
いつも綺麗なリビングは荒れて、雑然としていて、でもなんだか生々しさがあっていいなって思った。
「ちゃんと謝ってきたよ。パパのことも聞いた。いままでずっとありがとう」
「――私に黙って一人で全部背負うなんて。話してくれればよかったのに。そんなに私は頼りないのかしら」
「すまん」
乱れた頭を掻きながら、パパは申し訳なさそうな顔をした。ケンカの原因はそれか。
「すまん、で済むなんてずいぶん簡単ね」
ここ数日の出来事がショック療法になったのか、あの日からずっとふわふわしていたママが急にしゃんとした気がする。
「ねえ、今度チーのお墓参りするときはみんなで行こうよ」
「――そうね。あの子は千佳ちゃんと同じでマドレーヌが好きだったから、たくさん焼かないと」
私はパパの手を取った。
いままで本当にありがとう。
ずっと一人で私の嘘を背負い続けてくれて。
それからママの手を取る。
ずっと心配かけてごめんなさい。ずっと私をまもってくれて、ありがとう。
でも、私はもう五歳の子どもじゃないから。これからは私が、私の嘘と向き合うよ。
「――ああ、そうだな」
パパが笑った。それは、十年ぶりに見る笑顔だった。