瑛輔くんが、(瑞希いわく)地獄のような勉強会を終えた私たちを連れていったのは、歩いて十分ほどの小さな洋食店だった。
 レトロなフォントで「SAYA」と書かれた看板が植え込みに隠れるようにして立っている。
「本日貸し切り」の札がかかったドアを開けると、のんびりしたドアベルの音と一緒に、はつらつとした声が飛んできた。

「いらっしゃいませ! やだ、瑛輔ってばずいぶん可愛い子たち連れてきたのね」
「うるせー、沙耶(さや)。こっちは客だぞ」

 瑛輔くんが沙耶、と呼んだ女性が、私たちを見てにっこりと微笑んだ。
 少し焼けた肌に白いTシャツがよく似合っている。ポニーテールにした黒髪が彼女の動きに合わせて揺れて、なんとなくゴムまりを連想させた。

「なによ、瑛輔のくせに偉そうに」
「なんだよ」
「おい、入口で騒ぐな」
「さあさあ、みなさんどうぞ。今日はとっておきのディナーを用意していますからね。ほら沙耶、席にご案内して」

 店の奥から顔を出した白いコックコートの男性と、沙耶さんとおそろいの紺色のエプロンを着けた女性には、沙耶さんの面影がある。

「もしかしてご家族ですか? お店の名前もSAYA(さや)だし」

 探偵よろしく桐原先輩がそうたずねると、おばさんはころころと笑った。

「あらやだ。親馬鹿がバレちゃうわね」
「お母さん、余計なこと言わないの。はい、みなさんこちらですよ!」

 沙耶さんに案内された先には、赤いチェックのテーブルクロスが敷かれた大きなテーブル。人数分の白いナプキン、カトラリーがセットされていた。テーブルキャンドルの火がゆらゆらと揺れて、ちょっと幻想的だ。

「今日はあなたたちだけだから、思いっきり騒いでもオッケーだからね。さっすが、ボンボンはやることが違うわよねー」
「お前なぁ――」
「さてと、ただいまスープをお持ちしますので少々お待ちくださいませ、お客さま」

 うやうやしく頭を下げたあと、にっこりと笑った沙耶さんは、軽やかに身を翻してキッチンへ向かった。

「沙耶さんとはずいぶん仲がいいんだね」
「勘弁してよ、ぴーちゃん。あいつとはガキの頃からの腐れ縁。親父さんの料理は絶品だからさ。昔からここの別荘を使うときは必ず来てたんだ」

 瑛輔くんはぶっきらぼうに言って、がぶりと水を飲んだ。
 きっと昔からずっとこんなふうに、沙耶さんにやり込められていたんだろうな。容易に想像できて、私はそっと笑いをかみ殺した。
 沙耶さんとおばさんが運んできてくれたビシソワーズは、冷たくて滑らかな口当たりが心地よかった。長距離ドライブと(瑞希いわく)地獄のような勉強会でくたびれた心と体に染み渡っていく。

「すごく美味しいです」

 器を下げにきた沙耶さんにそう伝えると、

「でしょ? お父さん、腕はいいのよ。愛想はないけどね」

 いたずらっぽく笑った。キッチンからすぐさま、聞こえてるぞ、という声が飛んでくる。

「いけない。叱られちゃった」

 肩をすくめて舌を出す沙耶さんに、おばさんが「まったくもう」と呆れたように笑う。
 三人の押し付けがましくない人懐っこさや温かい店の雰囲気が、どこか緊張していた心を少しずつほぐしていく。
 私たちが夏野菜のサラダと自家製のパンを食べ終えるころには、沙耶さんはすっかり私たちの一員のようになっていた。

「沙耶さんと瑛輔さんは同じ歳なんですね」
「そうだよ。瑛輔はこう見えて賢いから医大なんか行ってるけど、私は調理系の専門学校に通ってるんだ。いまは夏休みで帰省中」
「こう見えて、は余計だ」
「だって、瑛輔がこれからお医者様になるなんて信じられないもん。膝すりむいたくらいで、ぎゃーぎゃー泣いてたのに」
「いつの話してんだよ。ほら、親父さん呼んでるぞ」
「はいはーい。メインディッシュはお父さんの得意な牛肉のカツレツだよ。すっごく美味しいから楽しみにしててね」

 ぱちりとウインクを残して、沙耶さんはあっという間にキッチンに姿を消した。

「……あいつはホント、変わんねーな」

 瑛輔くんがぽつりと呟いたその声はたぶん、隣に座った私にしか届かなかった。
 沙耶さんが言ったとおり、牛肉のカツレツは絶品だった。
 一瞬で空になった皿を見つめる遥があまりにもしょんぼりしていたから、断腸の思いで一切れ分けてあげた。
 瑞希は桐原先輩から一切れ分捕(ぶんど)ってたけれど。
 口のなかでソースの味を反芻(はんすう)していると、おばさんがワインの瓶を手にやって来た。

「瑛輔さん、お酒飲めるようになったんでしょ? よかったらいかが?」
「いや、俺、今回はこいつらの保護者代わりなんで。遠慮しておきます」
「そんなこと言って、ホントは飲めないんでしょ」

 沙耶さんが挑発するように言うと、瑛輔くんはムッとしたように言い返す。

「なんでそうなるんだよ」
「へー、じゃあ、あとでどっちが強いか勝負しようじゃないの」

 でも、と詰まる瑛輔くんに、遥が助け舟を出す。

「夜のあいだは俺たち、大人しく部屋にいますよ。文芸部の夏合宿なんでしょ? 監督責任は部長にあると思いますけど」

 桐原先輩も、

「そうですね。お任せください」
「さすがぶちょー!」

 瑞希がぱちぱちと手を叩いた。沙耶さんは「約束ね」と瑛輔くんの肩に、するりと手を滑らせた。
 デザートはグレープフルーツのソルベ。きゅっとする酸味と少しの苦みが口の中をスッキリさせてくれる。食後の紅茶を飲みながら、私たちは満ち足りた気持ちで、ほうっと息をついた。

「貸し切りは今日だけだけど、ここにいる間、みんなの食事はぜーんぶ私たちが面倒見るから安心してね」

 私と瑞希は顔を見合わせた。その表情から同じことを心配しているのが分かる。
 ここにいる間、太っちゃうかも……。
 朝まで女子トークしようね! と意気込んでいた瑞希は、なんだかんだで疲れていたらしく、シャワーを浴びてベッドに横たわったとたんに眠ってしまった。
 仕方ないなぁ、と電気を消してベッドに入ると、私の体も眠りに落ちていきたがった。けれど、頭の芯が覚醒を手放さない。意識と体がずれていく。眠りと現実の狭間で私はチーの声を聞いた。

――もういいかい。

 まーだだよ。私は答える。

――もういいかい。

 まーだだよ。
 ざざん、と波の音がした。
 
――もういいかい。

――もういいよ。

 幼い私の声が答えた。
 だめ。だめだよ。チーが消えてしまう。
 睡魔がゆっくりと、けれど確実に私の意識をぼやけさせていく。
 波の音がすべてをかき消して、私は眠りに落ちていった。

******

 朝七時、ひどい二日酔いでフラフラと起きてきた瑛輔くんは、まるでゾンビのようだった。朝食のスモークサーモンとアボカドのオープンサンドと野菜スープを運んできてくれた沙耶さんが、腰に手を当てて呆れた顔をする。

「まったくもう、だらしないんだから。保護者代わりが聞いて呆れちゃう」
「うるせー……化け物か、お前は」

 野菜スープを一口だけ飲んだ瑛輔くんは、私たちに向かって、

「今日は一日まるまる自由時間! 俺は寝る!」

 と、宣言して、よろよろと自室に戻っていった。その後ろ姿を見ながら、沙耶さんは「あらら」と笑った。

「ランチは十二時過ぎたらお店に来てね。そんで、夜六時になったらここのテラスでバーベキューすることになってるから。あとは、あんまり羽目を外し過ぎないように!」

 引率よろしくそう言い渡すと、沙耶さんはお店の手伝いがあるからと帰っていった。
 瑞希がはしゃいだように、ぴょんと飛び跳ねた。

「ほらほらみんな、急いで準備しよーよ」
「そうだね、せっかくだし」

 瑞希と桐原先輩が、顔を見合わせてうなずく。

「準備って、なんの?」
「海に来てるんだから泳ぎに行くに決まってるでしょ! チッカの水着どんなの? あたしはねー……」
「持ってきてないけど」
「ええっ!」

 瑞希が世界の終わりでも目撃したみたいに私を見た。

「なんでよ?」
「なんでって、私、海は嫌いだし」
「え?」

 疑問の声を上げたのは、瑞希じゃなく遥だった。

「昔は、好きじゃなかったっけ」

――カー。わたしね、海で泳ぐの初めてなんだ! プールとちがうのかなぁ。

 チーはそう言っていたけれど。
 もしかしてあれはチーお得意の嘘で、本当は海に行ったことがあったのかな。
 私が知っているチーと、遥が知っているチー。ときどき、その二つがうまく重ならない。
 どっちが「本当」のチーなんだろう。

「……そうだったっけ。とにかく、私は適当にやってるから、みんなは遊んでおいでよ」

 そう誤魔化して部屋に戻ると、私はベッドに横たわって目を閉じた。
 いつもの癖でマットレスの下に手を差し込んでノートを探す。だけど、ない。チーがいない。波の音がする。まるで、絶対逃がさないとでも言っているみたいに、ずっと、ずっととどろき続けている。

******

 波打ち際できゃあきゃあとはしゃぐ水着姿の瑞希と桐原先輩が、木陰で座り込んでいる私に手を振ってきた。手を振り返して、はあ、と何度目かのため息をつく。
 昼が近付くと、太陽の日射しが強さを増していく。日焼け止めを塗っているとはいえ、ちりちりと肌が痛んだ。
 やっぱり、部屋にいればよかった。
 泳がなくてもいいから、と瑞希に強引に引っ張ってこられた私は、ただひたすらに砂浜に意味のない模様を描いては消す、を繰り返して時間を潰していた。

「ひゃっ!」

 突然、頬に冷たいものが触れて思わず飛び上がる、振り返ると、いたずらっぽく笑う遥が、ペットボトルのスポーツドリンクを手に立っていた。

「水分補給しないと、熱中症で倒れるぞ」
「……ありがと」

 遥は私の隣に座り、私に手渡したのと同じスポーツドリンクを一口飲んだ。
 紺色のサーフパンツにグレーのパーカーを羽織った遥を、横目でちらりと見る。
 着飾るものがなければないほど、遥自身の美しさがよく分かる。さっきまではただ肌を焼くだけだった日射しが、急にきらきらと輝き始めた気がした。

「なんで海を嫌いになったの?」

 遥の質問に胸がきゅっとした。本当のことは言えない。特に、遥には言えない。

「小さいころは気にしてなかったけど、海っていろんな生き物がいて、いろんなものが垂れ流された、でっかい水たまりみたいなものだから」

 私の苦し紛れの嘘に、遥はぷっと噴き出した。

「なにそれ」

 遥に合わせて笑いながら、私は胸のなかで呟く。
 私が海を嫌いになったのは、なんでも飲み込んでしまうからだよ。

「私はいいから、遥はみんなと遊んできたら?」
「彼女のこと、放っておけないだろ」

 遥の口から出た彼女、という甘い響きに少しときめくけれど、心のどこかが納得していない。遥と想いが通じ合ったはずなのに、前よりもどこか距離を感じてしまう。

「……実はさ」

 と、遥が神妙な顔をして声を小さくした。

「俺、カナヅチなんだよね」

 突然の告白に、今度は私が噴き出す番だった。まさか完全無欠の遥に、そんな弱点があるなんて。

「笑うなよ」

 唇を尖らせる遥の横で私は笑った。こんなに海が近くにあるのに笑えるなんて。
 ごめんね、チー。私はすごく薄情だ。
 いつだって「今」が「過去」を押し流そうとしてくる。必死にしがみついて、食らいつかないと、チーを忘れてしまうんじゃないかって怖くてたまらなくなる。
 チーを忘れることなんかできない。そんなの、許されない。
 だって、私は――。

「ちょっと散歩でもしようぜ。カナヅチでもそれくらいはできるからな」

 遥が差し出した手を取って立ち上がる。
 砂浜を歩いていると、子どもたちが波打ち際で砂山を作って遊んでいるのに遭遇した。

「そういえば、よく一緒に砂場でああやって遊んだよな。千佳はトンネル通すのうまかったけど、俺は雑だからいっつも崩しちゃってよく叱られたっけ」
「……そう、だね」

 遥が口にする「ちか」は私じゃなくてチーのこと。
 そんなの分かり切っているのに、うなずく前にためらってしまったのは、不意に浮かんだ言葉を飲み込まなくちゃいけなかったから。

『私もね、トンネル通すのうまかったんだよ。チーだって褒めてくれたんだから』

 潮風が吹く。なびいた前髪を慌てて押さえた。
 チーになろうと思ってた。チーがするはずだった恋を、遥としようと思っていた。
 だけど、私のなかにいるチーがどんどん小さく、遠くなっていく。そのぶん、私がどんどん大きくなる。膨らんでいく。 
 チーとカー。私たちは二人で一人。一人なら半分。
 ねえ、そうでしょ。チー。そうじゃなきゃいけないよね? 許されないよね?
 だって、私は、チーを――。
 チーを殺してしまったんだから。
 砂遊びに飽きた子どもたちは、流木を振り回しながら駆けていった。取り残された砂の山は、波に削られてかたちを変えて、最後には跡形もなく消えた。