「なあ。冴木っていうお嬢さん、昔いただろ」

とんでもなく強引な手法でお客人を送り届けた左門に、俺はそう言った。
あんなに熱を帯びた視線を送っていたくせに、細かいところの気が利かないのは相変わらずだ。

「覚えてるよ。異界の者に魅入られて、こちらの世界に引きずり込まれてしまった人だ」

向こうでなにやら作業をはじめた左門は、片手間に答えた。

「あの人が、寧緒ちゃんの母親じゃないかと俺は思うんだがよ」

「奇遇だね。僕もそう思ってた。でもそれは絶対に寧緒さんに教えてはいけないことだ」

ずっと前、元は人間だったという娘さんがここへ来たことがある。
当時の俺は居候なんかじゃなくただの常連だった。
珍しい客人に酒を勧め、あれこれ話をしていたのだが、彼女は人間だった時に旦那を亡くし、そのまま娘と引き離されてしまったという過去を持っていた。
絶望のまま行くあてもなくさまよっていたら、妖に気に入られそのままこちらへ拐かされてしまった。
自暴自棄になっていた彼女はされるがまま、妖と契りを交し人の身を捨ててしまったという。
旦那の姓が冴木だったから、今もそれを名乗っているのだそうが、そこに現れているように人間だった頃の家族を忘れられないと泣いていた。
酒が入ったせいだろうか。
娘に会いたいとしきりに泣くものだから、娘も人でなくなればよいのに、そうすればこちらへ来られるだろうと、誰かが言ったのだ。
それを聞いた彼女は、それだけはあってはならない、娘は人のまま自分の人生を歩むべきなのだと、またわんわん泣き出した。

狭間の世界には時々そういう住人がいるのだ。
人でないものの住まう世界、幽世。
妖たちの生きる世界では、妖となった人も紛れている。
冴木寧緒という名を聞いた時、嫌な予感はしたが、的中するとは。

「彼女、今はどうしてるんだろうね」

真奈美なら何かしっているだろうか。
他の常連の連中も。
生憎、俺は住んでた部屋が火事ですっかり灰になったおかげで、役に立ちそうな所持品は何も無い。
そもそも、火事のせいでこいつの所に居候する羽目になったんだ。
一階の住人の火の不始末らしいが、こんどあったらただじゃおかないからな、あの一つ目野郎。

「ていうかなんか、いい匂いがしてきたな……」

さっきから左門の返事がなく、俺が一人でべらべら喋っているだけじゃないか。
これはまさか、と思ってみれば。

「はい、油揚げ」

コトリ、と置かれた更にはこんがり焼けた輝くそれが。

「おぉ!やった!左門って本当に良い奴だな!」

俺は思わず尻尾を降って大喜びする。

「口止め料ね。今日のことは誰にも言うな」

「左門って本当に意地の悪い奴だな……」

そう言いつつ、抗うことはできなかった。
狐はあぶらげには勝てないのだから仕方ない。

「あの人のことを思うのは分かるけれど、だからこそ教えちゃいけない。あの人は、寧緒さんがこちらの世界に来ることは絶対に望んでいない。妖としての力を持った今、少しでも欲が出たら終わりだ。だから、存在自体を教えちゃいけないんだ」

もし寧緒ちゃんがこちらへ来たことを知れば、その縁を辿って引き込むことも出来なくは無い。
確かに、そう言われればそうだと頷くしかなった。

「だがそういうお前さんだって、欲が出まくってただろ」

「ちょっとぐらいいいでしょ。もう二度と会えないんだから」

ああこれは手遅れだなと痛感する。
この冷血な鬼野郎は寧緒ちゃんにすっかり心奪われてしまったらしい。
真奈美や他の奴らには小娘程度にしか思っていないであろうこいつが、寧緒ちゃんにあんなに色の滲む視線を向けるとは。
まあ、二度と会えない存在なのだから、惜しくなる気持ちも分かるし同情はするが。

「お前、寧緒ちゃんに術までかけてたじゃねぇかよ」

「最後はちゃんと寧緒さんの自分の力で思い出したでしょ。僕だけの力じゃない」

そういうが、自然な流れでさりげなく寧緒ちゃんの記憶を紐解くために術を使うとは思わなかった。

「黄昏刻にはこちらへ迷い込む人がいると知っていたけれど、僕が見つけられてよかったよ。他の誰かに奪われてたら、もう戻れなかっただろうからね」

妖は人間が好きだ。
そこには様々な意味が含まれるが、無防備な人間が迷い込んだとあれば、ずっとこちらへいて欲しいと縛り付けられてもおかしくはなかっただろう。
その上、寧緒ちゃんは怨霊に取り憑かれていた。
彼女に向けられた負の感情、彼女自身が己に向けた負の感情が集まって出来た成れの果てだ。
ほとんどこっちに片足突っ込んでるようなものだから狭間の世界に来られたのだろう。

「ま、そりゃそうだ。しっかし、迷い人なんて久々なことだが、もう二度と無いといいけどよ」

「そうだね。僕らだって毎回助けてあげられるとは限らないから」

寧緒ちゃんに取り憑いていたものは左門がとっぱらったからもう心配はいらないだろう。
払うためには寧緒ちゃん自身の精神が強く在らねばならなかったが、今ならもう大丈夫なはずだ。
怨念が入り込もうとしていた寧緒ちゃんの何も無い空白は、既に埋められている。

「さてと。そろそろ開店時間かな」

宵闇が一層深くなっていく。
狭間の世界とあちらでは時間の流れが真逆だ。
こちらでは、むしろここからが本番の時間だ。
外の通りは提灯の灯りが着き、通りを行き交う連中も増えてきた。

左門が店の暖簾を掛けに出る。
どうやら、さっそく客が来たらしい。
賑やかしい話し声が聞こえてくる。
姿のない隣の席にちらりと目をやりながら、俺も何を食べようかね、なんて考えたりして。

「ようこそ長月堂へ」

左門がそう言い、見慣れた顔の連中が入ってきた。
寧緒ちゃんのことを考えながら、こいつらにはなんにも話してやれねぇやと、俺はあぶらげをまた一口齧るのだった。