始まりはほんの些細な出来事だった。
このところ、園井さんからお出かけの予定を断られることが多かった。
園井さんが私との時間より、劇場に通うことを優先していたのは分かっていたし、容認していた。
園井さんは観劇がなによりも大好きなことは知っていた。
私は園井さんが楽しくいられるのならそれが一番だと、私との時間を優先して欲しいとは一度も言わなかったし、楽しそうな彼を見て微笑ましくさえ思っていた。

それがまさか、こんな結末になるなんて。


『園井さん……。正直に答えてください。あなたは昨晩、いつもの劇場で舞台女優さんと密会していたんですよね』

仕事を終えたあと、私はなんとか園井さんに約束を取り付けて、近くの路上で彼を待ち受けていた。
戸惑いを滲ませた私の声に、園井さんはまるで動じない。

『密会?おいおい何を言う、あの劇場は僕のお気に入りだって君も知っているだろう。顔見知りの役者と少し話をするぐらい、おかしなことはないだろう』

確かにそうだ。
園井さんは常連で、オーナーと知り合いだったことから楽屋に何度も入らせてもらっていたようで、顔見知りの役者さんは何人もいる。
普段なら特に気にも止めなかっただろうが、今回ばかりはそうもいかなかった。

『少し話をするぐらい?園井さんにとって、抱き合って口付けをすることは、軽くお喋りすることと同義なのですか?』

『はぁ……なんの事を言っているんだい、寧緒さん。僕は何か君の機嫌を損ねるようなことをしてしまったかな。とにかく落ち着いて話をしようじゃないか』

私は我慢できずに、鞄から紙束を取り出すと園井さんに突きつけた。

我が愛しき明香里へ。

そんな気障っぽい一文で始まるそれは、園井さんが明香里という名前の舞台女優に宛てた恋文だった。
明香里さんからの返信も何通もあり、その他にも劇場関係者や園井さんの知人からの証言がいくつもある。

『これはなんだい』

私から紙束を受け取り、ぱらぱらと薄笑いで眺めている。

『商社の坂木さんからいただきました。これは、園井さんの不貞の証拠だと。他にも、いくつも自分の手でかき集めてきました』

発端となった恋文は、園井さんの同僚から渡されたものだった。
坂木さんは商社で一際業績を上げている園井さんが出世の妨げになると思い、なんとか貶めたかったのだろう。
園井さんが浮気をしていないと、どうにか信じたくて必死で調べた。
けれど現実は無常にも、園井さんと舞台女優の関係性が私にはっきりと突きつけられた。

『園井さん、あなたは私を愛してくださっては、いなかったのですか』

震える声で私は彼に問いかける。
少しの沈黙の後、園井さんはただ、ため息を吐いた。

『つまらないなぁ』

心底残念そうに。心底うんざりしたように。

『君がこんなところでしゃばってくるなんて、いつからそんな性格になってしまったのかな』

『なっ……』

私は絶句した。
園井さんはちゃんと謝ってくれるだろうと、心のどこかで信じていたからだ。
だが園井さんは、私に謝るどころかむしろ私が悪いとでも言うかの様子。

『あのねェ、分かるだろう。僕も男なんだ、不埒な色恋を楽しむことぐらい、誰だってするだろう。こんなことでいちいち腹を立てるなんて、君らしくない』

『……私らしく、ない?』

突然豹変した園井さんに、私は恐怖を隠すことができなかった。

『そうだよ。いつだって君は僕の思った通りには動かないよね。本当につまらない人だ。出会った時は、僕の輝かしい人生に花を添えてくれるものだとばかりに期待していたのに、蓋を開けてみれば世間知らずで根暗な小娘だなんて、僕がどれほどがっかりしたのか、君には分からないだろうね』

数々の罵詈雑言に、目眩がしそうだった。
出会った時、確かに彼は目を輝かせて私の手を握ってくれた。
今思い返せば、あれは『親に反抗してまで就職した、時代の最先端を行く可憐でありながらも自立した娘』という誰かが勝手に想像した肩書きを信じ込んでしまっていただけなのだ。
私は時代の最先端どころか旧い時代に取り残された祖父母に縛られ、形だけは自立しているように見えても精神ではあと何年かかることやら分かりやしない。
だから彼は、がっかりした、と。

園井さんはいつだって優しくて、頼れる素敵な人だと思っていた。
しかしそれは園井という人の表側だけで、裏側はひどく歪んでいた。
今目の前にいる彼は、とても今まで見てきた人物と同じだとは思えない。
いや、むしろこれが本当の園井さんなのだ。
今更、ようやく私は本当の彼を知ったのだ。
それに気づくのが、遅すぎた。

『君は大人しくて僕に従順で、一人じゃなんにもできない娘だっていう役回りだろう。それがなんだ、今は生意気にも僕に楯突こうだなんて、馬鹿馬鹿しくてしょうがないよ』

だから、私らしくない。
園井さんはそう言うのだった。

『大体、今回のことが発覚した所で君になにかできるのかい?実家には帰れないんだろう?僕に捨てられた女として、商社で一人でやっていけるのかい?』

『そ、それは……』

『ほらね、出来ないだろう。また今度埋め合わせをしてやるから、そう怒るな。頭の悪さが余計に目立つだろう』

園井さんは私がどんな反応をするのか最初かは分かった上でこの質問をしたのだ。
私を鼻で笑い、完全に見下している。

『……』

言い返したいのに言い返せない。
悔しいが、園井さんの言う通りだった。
園井さんに捨てられたのだと、周りからは嘲笑され、祖父母はひどく怒り、祖父母が決めた見知らぬ誰かとのお見合いが始まる。
そうなれば商社に勤めることはほとんど不可能だろう。
祖父母が選ぶような相手が、職業婦人に理解のあるものか。
結局、私一人ではどうすることもできなかったのだ。

『分かったのならもういいだろう。まったく、腹立たしいことだ』

私を押し退けて去っていく園井さんの、後ろ姿を眺めることしかできなかった。
そうして一人寂しく残された私は、ふらふらと街をさまよい続け、そして今に至る。