「寧緒ちゃんは、この辺りは初めてかい」

「はい。お恥ずかしながら、ぼーっと歩いているうちに普段は来ないようなところまで出てしまったみたいで」

「そうか、そりゃあ疲れただろうな。ここはずいぶん遠いからな。まあゆっくりしていくといいさ」

ずいぶん遠い、と四ツ谷さんは言ったが、それでは私がどこから来たのか知っているような口ぶりではないか。

「あの、ここはなんという地名なのですか?」

「狭間だよ。ま、帰りは左門が送ってくだろうから気にしなくていい」

狭間。
この辺りにそんな街があっただろうか。
聞いた事のない地名だ。

「いえ、一人で帰れますよ。流石にそこまでご迷惑はおかけできません」

「いい、いい。お前さん、ただでさえつかれてるんだから一人で帰すわけにはいかねぇよ」

私はそんなに疲れた顔をしているのだろうか。
というより、帰ったところで私はどうしたら良いのだろうか。
これから先、どうすべきなのかもう分からない。
商社を辞めたところで、実家には戻れないのだ。
この所お見合いの催促が激しく、園井さんの存在を言い訳にしているものの、今となってはそれは通用しない。
そうなれば、すぐにでも冴木家の跡取りに相応しいと祖父母が決めた人と勝手に結婚させられることになる。
それでは結局、振り出しに戻ったも同然じゃないか。

「お前さんが何を悩んでるのかは知らんが、そういう時は考えるより『コレ』に尽きるだろ」

「え?」

「ほら、酒だよ。酒」

四ツ谷さんは厨房へ向かい、ゴソゴソと漁っている。
戻ってきた彼は、一升瓶を机にドンッと置いた。

「あ、私お酒はちょっと……」

酒の類はあまり得意では無い。
前に園井さんに勧められて洋酒を飲んだことがあるが、一杯だけでくらくらしてしまった。
彼はよくカフェーでビールを嗜むそうだが、私にはまだまだ未知の領域である。

「おお、そうだったか。すまんすまん。でもせっかく持ってきたんだし、コイツは俺一人で楽しませてもらうとするかな」

四ツ谷さんは特に気にした様子も無く、瓶を開けている。
と、そこへ盆を片手に現れたのは左門さんだ。

「じゃあ、酒代は家賃に上乗せしておくね」

口調は優しいが目が笑っていない。

「げっ、左門。いいじゃねえかちょっとぐらい」

文句を言いながら徳利を呷る四ツ谷さんに、左門さんは目もくれない。

「お待たせ。鶏と白菜のスープだよ。こっちはごぼうとにんじんと蓮根のきんぴら。召し上がれ」

「わぁっ……!」

コトリ、と置かれたのは椀と小鉢だ。
湯気が立ち上る椀からは、ふわりと良い香りが漂ってくる。
黄金色のスープには、一口大に切られた鶏肉とよく煮えた白菜がたっぷりよそられている。
きんぴらも美味しそうで、散らされた白ごまとにんじんの鮮やかな色が彩りを添えている。
左門さんは私だけでなく四ツ谷さんのところにも小鉢を置いた。

「おっ、俺の分もあるのか。さっすが左門だぜ、ありがとよ」

「まっ、開けちゃったものは仕方ないでしょ。でもこれもお代はちゃんと貰うよ」

「へいへい。分かってるっての」

四ツ谷さんは嬉しそうに箸を手に取る。
私もお椀を手にし、一口。

「美味しい……!とっても美味しいです!」

口に含んだ瞬間、スープの旨味が広がってきた。
さらりとしたのどごしで雑味のないさっぱりした味わいだが、コクがあって旨味が強く残る。
鶏肉も白菜も柔らかく、味が良く染み込んでいる。

「お口に合ったみたいで良かった」

「こんなに美味しいご飯は久しぶりですよ!あったかくて、染み渡ります……!」

日が落ちて冷たい外気で冷えた体が、途端に暖まるようだった。
きんぴらもしゃきしゃきとした食感が心地よく、甘辛い味付けが癖になりそうだ。
普段食べているものと同じ料理のはずなのに、いつもの何倍も美味しく感じる。

「このスープは、どういった味付けなのですか?」

「鶏と野菜を長時間煮込んで出汁をとったんだ。西洋の料理ではよく使われていて、色々な料理に使えるんだよね。材料さえあれば家庭でも作れるけれど、じっくり煮込むから根気がいるんだよねぇ」

特別な材料でも使っているのかと思いきや、家でも作れるらしい。
でも左門さんと同じ味にできるかどうかは別の話だろう。
多分、私では作れない。

「今日の分の仕込みって、昨日から煮込んでたもんな」

「せっかくいいお肉を仕入れたんだから、気合い入れないとでしょ」

えへへ、と左門さんが笑う。
シュッとした目鼻立ちの左門さんだけれど、その笑顔はなんだか可愛らしかった。

「きんぴらも美味しいです!この食感がたまりません!」

「ありあわせで作ったものだけど、喜んでもらえてうれしいなぁ。今日のお客さんにも自信を持って出せるね。寧緒さんも元気になってくれたみたいで良かったよ」

「だな。寧緒ちゃんみたいな愛らしい子だと、食べてるだけで宣伝効果ありそうだもんな。開店してからもここで食べててもらったらいいんじゃないか?」

……ん?

私は一旦手を止めた。
二人の会話を聞いていると、なんだか違和感を覚える。

「それはダメだよ。寧緒さんがいるといつもより賑やかで楽しいかもだけど、そうすると寧緒さんの帰る時間が遅くなっちゃう。それに、他のお客さんに寧緒さんは会わせられないよ」

「ああ、それもそうか」

私は、他の客に会わせられない存在なのか。
左門さんは当然のことのように言い、四ツ谷さんも頷いているが、私は二人が何の話をしているのか理解できない。
なんだかとっても気になって仕方なく、意を決して口を開いた。

「あの……もしかして、今から開店なんですか?こんな時間から?」

私の言葉に、二人は顔を見合わせた。
まるで、しまったとでも言うかのような表情だ。

「あー……」

「うん、そうだね。そんなところかな。まあ今のは気にしなくていいよ。それより、もっと食べてよ。他にも色々用意してあるからさ」

完全に誤魔化そうとしている。
ここで引き下がってなるものかと構えたくなるが、二人の勢いに完全に押されてしまった。

「お前さんは何が好きなんだい。俺は油揚げだなぁ」

「ごめん、今日は用意してない」

「んなんだよォもう。お前ほんと気が利かない奴だなー」

「嫌なら今すぐ出ていって貰っても構わないよ」

「すまん俺が悪かった」

誤魔化すはずが、私をそっちのけで二人の掛け合いになってしまっている。
いつの間にか私も、追求することを忘れて、くすくす笑っていた。

「ごめんね、寧緒さん。四ツ谷くんって酒が入ると本当にうるさい人なんだよね」

「いえ、それは別に構いませんよ。お二人が楽しそうにされている様子は、見ていて楽しいです。私にはそういう相手がいないので」

「お?」

ふと、何気なく付け足した言葉に四ツ谷さんが反応した。
余計な一言だったと気付くも、二人ともこちらをじっと見ている。

「あっ、また変なこと言っちゃいましたね……。すみません、よく怒られるんですけれど、どうしても直らなくて」

いつもそうだ。
せっかく楽しい雰囲気だったのに、余計なことをしてしまった。
周りの人からも私は根暗すぎると怒られてしまうのに、未だにその癖が直らない。
私がそんなのだから園井さんにも捨てられるのだ。
左門さんにも四ツ谷さんにも申し訳なくて、私の顔が俯いていく。
だが、そんな私に左門さんは驚くことを言った。

「本当は口出しするつもりはなかったんだけど……。寧緒さん、もし良かったらあなたの悩みを聞かせてくれないかな」

「えっ」

優しい声色に、私は顔を上げた。

「寧緒さん、ここに来た時からずっと何かに悩んでるみたいだったから。手助けできることは無いかもしれないけれど、話だけでも聞かせてくれないかい?」

左門さんの美しい瞳が、私を見つめている。
四ツ谷さんも黙ってこちらに視線を向けていた。
その静寂は、決して冷たいものではなく、私の答えをじっと待ってくれているようだった。

「私の、悩み……」

そんなもの決まっている。
園井さんのこと、祖父母のこと、この先の人生のこと。
絶対に他人に話すようなことじゃない。
こんなこと聞いたってなんにも楽しくない。
それでも、この人たちが受け止めてくれるのなら。
そう思わずには、いられなかった。

「大丈夫。ゆっくりでいいから、話してごらん」

その微笑みに、私はもう顔を逸らすことをやめた。

「私……私、勤め先に恋人がいるんです。その方は、紳士的で優しくて、私をいつも支えてくれていました。でも私は、知ってしまったのです。あの方には、他にも愛する人がいたことを」