「​───────黄昏刻には、狭間の世界に落ちてくる人がいる……」

「最近はめっきり…………まさか、こういうことになるとはね……」

誰かの話し声が聞こえてくる。
途切れ途切れで、あまりはっきりは聞こえない。
男の人の声だ。
二人で何か話しているような​───────男?

「うわぁっ!」

飛び込んできた景色は、知らない天井だった。
知らない木目に、暖かな色の電灯。
もちろん、私の借りている部屋では無い。

「な、ななっ、なんで……」

まだ寝ぼけている頭を懸命に働かせる。
さっきまで私はどこかの街をさまよっていたはず。
それが、今はどこだ。
見知らぬ部屋の座敷の上で横になっているではないか。
半開きの戸の向こうに、見知らぬ男性二人の姿が見える。

「あっ、良かった。目が覚めたんだね」

私が騒いでいるのに気がついた男性たちがこちらへ寄ってくる。
慌てて起き上がり、着物の裾を治した。
親切にも誰かがかけてくれたらしい羽織りものが、ひらりと私の上から落ちていく。
離れていく温もりに名残惜しさを感じつつも、私は目の前の男性をじっと見つめた。

黒い髪で長身の、人の良さそうな笑顔を浮かべている男性。
とても整った顔立ちで、白いシャツの洋装が良く似合う方だと思った。
その隣にいる彼は対照的に、どこか色素の薄い髪色が目を引く、着流しの男性だった。

「さてはお前さん、寝起きは機嫌が良い人種だな」

軽薄そうな笑みに、思わず私は器用にも座ったまま後ずさる。

「あ、あのっ……」

目覚めて突然大の男二人に囲まれて、困惑は頂点に達している。
慌てる私を見て、男性たちは苦笑してしまった。

「落ち着いて。どこか痛いところとか、悪いところはないかい?店の近くで倒れていたところを、四ツ谷くんが運んできてくれたんだよ」

「え?私が、倒れて?」

驚く私に、四ツ谷くんと呼ばれた男性が笑いかける。

「そ。びっくりしたんだぜ、こんな可愛い娘さんが落ちてるもんだから、天女か何かかと」

間違っても天女ではない。
が、まさか自分が道端で気絶していた所を助けて貰っていたとは。
特に体に痛いところはないが、まだ肩に妙な重さが残っている。疲れすぎていたのだろう。
直前までの記憶が朧気なのも、倒れたせいなのだろうか。
ともかく、座敷に座り込んでいる場合では無い。

「助けて下さりありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみません、すぐに出ていきますので……!」

ぐぅぅぅ。

「はっ」

なんと哀れなことだろうか。
ぺこぺこ頭を下げて逃げ帰ろうとしていた私の腹が、盛大な音を立てた。
無常にも、一瞬の静寂がこの場を支配する。

「えーっと……もしかして君、お腹空いてないかな?」

「……はい」

恥ずかしさで私の頬は熱くなる。
多分自分は羞恥でとんでもなく赤い顔をしているのだろう。
目の前に鏡が無くて良かったとしか言いようがない。

「だったら、ちょっとうちで何か食べてきなよ。ちょうど今色々作ってるところだからさ」

「え?で、でも」

介抱してもらったばかりかご馳走になるだなんて、これ以上人様に迷惑はかけられない。
だが、断る私の肩に四ツ谷さんがぽんぽんと手を置いた。

「ここ、飯屋なんだよ。長月堂ってんの。味は絶対保証するから、とりあえず食べてみなって」

そういえばさっき、彼は『店』と言っていた。
四ツ谷さんに背を押されるまま進めば、意外にも広い空間に出た。
食堂と言っていた通りに、四人用の机と椅子が順に置かれ、厨房と店内を仕切るカウンターには木製の背の高い椅子が並んでいる。
こちらも同様に室内は暖色の灯りに照らされているが、お客さんの姿は無い。だが、お出汁や煮物の良い香りがふわりと残っていることから、もしや、今夜は既に営業終了だったのではないだろうかと気づく。
だとしたら、一体私は何時間眠っていたのか、恐る恐る数えてみようとするが、いつ眠ったのかが分かりそうもなかった。

「改めて自己紹介をしようか。僕は店主の長月左門(ながつきさもん)。こっちは、居候の四ツ谷(よつや)くんだよ」

「どうも!清く正しく居座り続けます、四ツ谷步(よつやあゆむ)です!」

「は、はぁ……」

清く正しい居候、とは。
ニコリと微笑む長月さんと、茶化す四ツ谷さん。
とりあえず彼らが何者であるかは分かったので頷いておく。

「私もまだ名乗っていませんでしたね。私は、冴木と申します」

「名前は?」

敢えて姓だけ名乗ったのに、やはり不自然だったようだ。
長月さんの黒曜石みたいな綺麗な瞳に見つめられて、私は観念してしまった。

「寧緒です。冴木寧緒。変な名前ですよね」

きっと二人も反応に困ると思い苦笑いをしたのだが、私の予想とは大きく外れていた。

「そんなことない。お洒落な名前じゃないか。僕は好きだけどな」

隣でうんうんと四ツ谷さんが首を縦に振っている。

「俺もそう思うぜ。名前ってのは大切なもんだからな」

好きだと言ってもらえるなんて。
驚きつつも、園井さんに言われた時とは違う感覚が湧き上がってくるような、どうしてだろう。

「じゃあ寧緒さん。とりあえず席、どうぞ」

「ほい」

ガタンと音を立てて座った四ツ谷さんが、隣の椅子をスッと引いてくれる。

「ど、どうも……」

ここに座れと言うことだ。
恐る恐るゆっくり座ってみれば、緊張していたのがすっかり伝わっていたのだろう。

「こら。寧緒さんが困ってるじゃないか」

「そういう左門だってさっき寧緒ちゃんのこと怖がらせてただろ?お前は自分の体格を自覚した方がいいって何度も言ってるんだがな」

「威圧感があるって言いたいの?好きでこんな図体に育ったわけじゃない。それに、君みたいなふらふらした怪しい奴より全然マシかな」

「ひでぇや。まあそうなんだけどよ」

大口を開けて笑う四ツ谷さんと、やれやれと下がり眉で笑う左門さん。
気の置けない友人同士の会話を聞いているようで、緊張していた心が少しは和らぐようだった。

「お二人はとても仲が良いのですね」

「ああ、うんまあ腐れ縁ってやつよ。今は同じ屋根の下で暮らしてるしな!」

「早く出ていけって言ってるのに、すっかり住み着いちゃったんだよ。ほら四ツ谷くん、座ってないで手伝って」

はいはい、と面倒そうに言いつつも四ツ谷さんは長月さんに従い、私のところにお茶を持ってきてくれる。

「何が食べたい?君の好きな物が知りたいな」

「好きな食べ物、ですか……」

そう言われてみると、思い浮かばない。
好き嫌いはないが、これといって何が食べたいかというのがないのだ。
幼い頃は父が外国で食べてきたような洋食に憧れていたが、祖母が嫌がるのであまり食べる気にはなれなかった。
園井さんとの食事ではいつも彼が決めてくれていたから、自分で考える必要はなかったので、改めて思うとどうにも難しく感じてしまう。

「えっと……何か暖かいものがあれば」

「分かった。任せて、ちょうどいいのがあるんだ」

悩んだ末に捻り出した回答に、左門さんは大きく頷いてくれた。
左門さんは厨房の奥へ行き、食事の用意を始める。