面会を終えて病院前にあるロータリーに向かうと、端のベンチで座ってスマホをいじっている敷島を見つける。随分待っていたのか、鼻先が真っ赤に染まっていた。
 穂香が近づいてきたことに気付いて、敷島はスマホから顔を上げた。
「敷島くん、寒くない? ロビーで待っていればよかったのに」
「病院独特の匂いにいい思い出なんて一つもねぇよ」
 敷島も久しぶりに学校に登校したものの、すれ違う生徒や教師から注目されていた。
 森崎に絡まれていた穂香を助けた姿を目撃したのは、購買室に並んでいた生徒や教師だ。さらに新田がその様子を隠し撮っていた動画が学校中に広まったことが重なって、『一匹狼』だと揶揄する生徒はいなくなった。
 普段からクラス内で孤立することもなかったが、以前よりも茶化すように人が集まってくるという。今日は放課後に校門前で待ち合わせしていたが、遅れてやってきた敷島の疲れ切った顔を見て穂香のほうが心配したくらいだ。
「無理に来なくてもよかったのに」
「様子が気になっただけ。それに、塗り薬の処方箋もらえたし。一石二鳥」
 なにそれ、と呆れたように笑う穂香に、敷島は立ち上がって一緒に歩き出す。
「姉さん、どうだった?」
「順調に回復してるって。退院までまだかかりそうだけど」
「そっか。……秦野孝明とはどうするんだ?」
「あー……まだ迷っているみたい」
 二人が推察した通り、紗栄子は卒業アルバムを見て孝明の以前の名前を知り、クレジットカードや住民票、さらには孝明の義母にも連絡して確認したという。息子の不倫を疑っているのではと怪しまれたらしいが、今回の件で平謝りされたらしい。十一年前の事件については何も知らなかった。
 そして、孝明本人から離婚を申し出たいとのことで、すでに記入されている離婚届を預かってきたそうだ。
「え? じゃあ離婚?」
「どうだろう、お姉ちゃん次第なんだろうけど」
 片方だけ埋められた離婚届は、未だに紗栄子が記入する欄は空白のままだった。
 そのときふと、秦野家の本棚に隠されていた離婚届を思い出した。握り潰したようにしわくちゃで、ところどころ涙で書かれた文字が滲んでいたのは、それほどまでに孝明を信じていたからだろう。他人のことを第一に考える紗栄子にとっては苦渋の決断になる。
 そう思った穂香は、先立って「自分のしたいことをしてほしい」と直接伝えた。
 紗栄子にとって誘拐された記憶は辛いものだろうが、穂香自身、何年も前から灰色の夢の中で同じ光景を目にしてきたのだ。家族の嘘によって救われた部分もあっただろうが、すべてを思い出してもそこまで驚くことも、取り乱すこともなかった。「グレースケールの光景が鮮明なカラー写真に変わっただけの話」だと言えば、紗栄子は呆れたように笑ったという。
「どんな結果になっても、後悔しないほうを選んでほしいな」
 そう言うと、敷島も「そうだな」と呟いた。
 あの日以来、穂香は灰色の夢を見ていない。脳が記憶として判断されたのかは定かではないが、これですべてが終わったのだと改めて実感した。
 病院を出て車通りが多い場所に出る。夕方ということもあり、帰路に着く人が駅に向かって歩いていく。
 穂香が敷島の左側に移ろうとすると、空いている左手で無理やり右側に寄せられた。
「……あの、この手は?」
「そっちだとお前の声が聞こえないだろ」
「でも私がこっちにいないと敷島くんが危ないよ」
「車道で遊ぶなって。ほら、こっち」
 左耳が聞こえないことを打ち明けられて以来、穂香は敷島と並ぶときは死角のある左側に立とうとしていた。その前に敷島が気付いて右側に戻されて言い合いになり、最終的には穂香が折れて収まるのだが、一向に覆せる気がしない。
 不服そうに敷島を見ると、鼻で嗤われてしまう。
「なんだよ。危ないから移動させただけだろ」
「……敷島くんに何を言い返しても無駄だってわかった」
「ほらな」
「でも一つだけ、わからないことがあるの」
 足を止めると、敷島もつられて止まって振り返る。
「私のことを高校の部活で知ったような口ぶりだったけど、本当は昔から知っていたでしょ」
「は…… なんだよ、急に」