(絶対痛かったよね……)
 自分が前に出なければ、鈴乃はカッターを振り回さなかったかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちになる。すると、じっと左手を見ていることに気付いたのか、敷島は言う。
「別に腹を刺されたわけじゃない。気にするな」
「でも……」
「誰も死ななかった、結果的にそれでよかったんだよ」
 左手を開いては閉じて、問題なく動かせることをアピールする敷島に、穂香はホッと胸を撫でおろした。途端、気を張っていたのが切れたのか、力が抜けて敷島に寄りかかった。
「ご、ごめん、ちょっと疲れたのかも」
「昨日からずっと気を張ってたんだ。全部終わったんだから当然だな」
(……そっか、全部終わったんだ)
 そう思った瞬間、目頭が熱くなるのを感じて慌てて手で隠した。冷えた肌に触れるたび、割れた指先に染みてひりひりと痛む。すると、敷島が怪我をした左手を穂香の背にまわして、離れようとする穂香を留めた。
「ちょっと寝たら? お前が寝言を呟いても、俺には何も聞こえねぇから」
「……っ」
 自嘲気味に告げられた一言に、ずっと留めていた涙がこぼれた。穂香は敷島の上着にしがみつくように顔を埋めた。
 時間としては一週間程度しか経っていないが、すごく長く感じた。どんな結果だったとしても受け入れると決めて始めた独自調査は、ここまで大きく展開するとは誰も思わなかっただろう。
 すべて終わったのだ。
 半年前の失踪事件も、十一年前の誘拐事件も、すべて解決した。
 しかし、隣にいる時間が長かった親友が事件の犯行を企てたという事実は、穂香の心に深い傷を負わせた。もっと自分が寄り添っていればと、後悔ならいくらでも出てくるのに言葉として表せられない。現に警察車両に乗り込む姿を見送るだけで、何も声をかけられなかった自分が憎かった。
 穂香の背中を擦りながら、敷島は独り言のように呟く。
「お前は頑張ったよ。過去にも自分にも、友達の前でも逃げなかった。少なくとも、西川鈴乃の心は救われたと思う」
 事件の結末は、決して笑顔で終われるような結果ではない。鈴乃は逮捕され、孝明も和香子も自白した。この後は学校の退学や退職、離婚も免れないかもしれない。
 自分を納得させるための自己満足な理由で始めた真相探しは、決して少なくない人々の日常を壊したことに変わりはない。
 それでも少しでも、彼女らの心を救っていたとしたら――いつか、ともに笑い合える日が戻ってくるだろうか。
 しばらくして、捜査員が運転席に座った。これから紗栄子が搬送された病院に向かうらしい。すでに病院には穂香の両親と、敷島の兄が待っているという。
 穂香が窓の外に目を向けると、木々の間から薄暮の空が見えた。その中心には黄色に輝く上弦の月が浮かんでいる。
 ふいに、薄暗い小屋の中で見つけた月と重なった。灰色の夢の中でも月だけがはっきりと色づいていたのはまるで、あの頃からずっと変わらず静観しているように思える。
 ――きっと、大丈夫。
(……ああ、そうか)
 穂香は思わずため息を漏らす。
「お月さまは、ずっと見守ってくれていたんだね」
 嬉しいときも、悲しいときも全部、空に浮かぶ月は見ていたのかもしれない。寂しくないように、その人の道標になるように、ずっとずっと見守っていた。
 我ながら子どもっぽい言い方かもしれないと、穂香は思わず敷島に目を向ける。いつから聞いていたのか、顔をこちらに向けて「そうだな」と、いたずらっぽく笑った。