声を荒げた鈴乃は、空いているほうの手で穂香を突き飛ばした。後ろに倒れこんだ穂香を敷島が受け止めると、カッターナイフがすぐそこまで迫ってくる。見下ろすようにして睨みつける鈴乃の表情は、焦りと怒りで歪んで見えた。
「もう聞きたくない! みんなみんな、嘘つきばっかり! 私はただ、私の理想で大切な人たちを守りたかっただけなのに!」
「鈴――」
「わかってるよそんなこと! 理想なんてただの空想で、程遠いものだってことくらいわかってる! ……大切なお母さんも友達も裏切って傷つけた私がこの先許されることはない。いつかの誘拐犯も、恐れる存在になりたいがために残りの人生を恐喝に捧げた。何がしたかったかもわからない、しかも未遂で終わった事件。悪名が轟くことなく死んでいった!」
すると、カッターの刃を穂香から自分の喉元へ向ける。何をしようとしているのか、一目瞭然だった。
「――なら私は、そんな無様な死に方よりも自分から選ぶよ」
目を閉じると一筋の涙があふれて頬を伝う。それと同時にカッターナイフの刃が迷うことなく喉元へ向かっていく。
しかし、あと少しのところで腕が動かない。刃が喉を食い込む痛みも襲ってこない。
鈴乃がそっと目を開くと驚愕した。刃は敷島の左手によって包まれ、喉元に当たる寸前で止められている。
「な、んで」
「……知ってるか。山小屋と違って、この倉庫は夜になると隙間風が吹いて寒いんだ。電気なんて通ってないし、かろうじて窓から届く月だけが唯一の明かり。同じ空間に複数名が閉じ込められていたとしても、生きて家に戻れる希望なんてないし、心細くて仕方がない。鍵がかかっていても食料を求めて野生動物がこじ開けて入ってくるかもしれない、怪我をしても治療するものもなにもない。下手したら、破傷風を起こして死んでいたかもしれない。――それをわかってこの場所を選んだんだよな?」
「っ……それ、は」
「お前らはそんなところに閉じ込めたんだよ! 助けを呼ぶこともできない、脅されて言うことしか聞けなかった奴らを! 自分が殺されるよりも、誰かを守るために残ることを選んだ奴らを!」
灰色に変色した木の床に、ぽたぽたと赤い血が滴る。敷島の言葉は後ろで傍観していた和香子や孝明の顔を歪ませた。主犯がすでに逮捕されているとはいえ、子どもを誘拐し、熱に苦しんだまま放置して逃げたことに変わりはない。
「……わたし、は……っ」
「――っ!」
一瞬、鈴乃が躊躇ったのを見計らって、和香子が鈴乃に飛びついた。抵抗する力もなく、カッターナイフを手から離し、二人そろって床に倒れこむ。
「お母、さん……?」
「……鈴乃が、私のことを目標だと言ってくれたとき、本当に嬉しかった。こんな自分でも家庭を持つことができるなんて思っていなかった。だからこそ、あなたの本当の母親になりたくて、仕事も家事も頑張ってきたの。もらった幸せを手放したくなくて過去から逃げてきた結果が、あなたをこんな風にしてしまった。あなたを傷つけてしまった……っ、私が、最初から向き合っていれば……っ!」
「……お母さん、ちがう、ちがうの」
「ごめんね、鈴乃。お願い、これ以上一人で強がらないで」
上体を起こした鈴乃を、和香子はしっかり抱きしめて訴える。髪もメイクも崩れ、泥まみれのスーツ姿の彼女は、鈴乃が理想と掲げていた人物とは程遠い。それでも目の前で優しく頬を撫でてくれるのは間違いなく、ひとりで泣いていた鈴乃を抱きしめてくれた母親だった。
「……私はこのまま、何も知らなければよかった。お母さんからの愛も、友達といる居心地の良さも、なにもかも嘘に包まれたまま、知らないままでいたかった……っ」
「そんなこと言わないで。自分の娘を放って逃げる親なんていないわ」
鈴乃は糸が切れたように、縋りついて泣きじゃくった。小さく震える体を、和香子はぎゅっと抱きしめる。もう二度と離さないように、「大丈夫」と言い聞かせた。
「もう聞きたくない! みんなみんな、嘘つきばっかり! 私はただ、私の理想で大切な人たちを守りたかっただけなのに!」
「鈴――」
「わかってるよそんなこと! 理想なんてただの空想で、程遠いものだってことくらいわかってる! ……大切なお母さんも友達も裏切って傷つけた私がこの先許されることはない。いつかの誘拐犯も、恐れる存在になりたいがために残りの人生を恐喝に捧げた。何がしたかったかもわからない、しかも未遂で終わった事件。悪名が轟くことなく死んでいった!」
すると、カッターの刃を穂香から自分の喉元へ向ける。何をしようとしているのか、一目瞭然だった。
「――なら私は、そんな無様な死に方よりも自分から選ぶよ」
目を閉じると一筋の涙があふれて頬を伝う。それと同時にカッターナイフの刃が迷うことなく喉元へ向かっていく。
しかし、あと少しのところで腕が動かない。刃が喉を食い込む痛みも襲ってこない。
鈴乃がそっと目を開くと驚愕した。刃は敷島の左手によって包まれ、喉元に当たる寸前で止められている。
「な、んで」
「……知ってるか。山小屋と違って、この倉庫は夜になると隙間風が吹いて寒いんだ。電気なんて通ってないし、かろうじて窓から届く月だけが唯一の明かり。同じ空間に複数名が閉じ込められていたとしても、生きて家に戻れる希望なんてないし、心細くて仕方がない。鍵がかかっていても食料を求めて野生動物がこじ開けて入ってくるかもしれない、怪我をしても治療するものもなにもない。下手したら、破傷風を起こして死んでいたかもしれない。――それをわかってこの場所を選んだんだよな?」
「っ……それ、は」
「お前らはそんなところに閉じ込めたんだよ! 助けを呼ぶこともできない、脅されて言うことしか聞けなかった奴らを! 自分が殺されるよりも、誰かを守るために残ることを選んだ奴らを!」
灰色に変色した木の床に、ぽたぽたと赤い血が滴る。敷島の言葉は後ろで傍観していた和香子や孝明の顔を歪ませた。主犯がすでに逮捕されているとはいえ、子どもを誘拐し、熱に苦しんだまま放置して逃げたことに変わりはない。
「……わたし、は……っ」
「――っ!」
一瞬、鈴乃が躊躇ったのを見計らって、和香子が鈴乃に飛びついた。抵抗する力もなく、カッターナイフを手から離し、二人そろって床に倒れこむ。
「お母、さん……?」
「……鈴乃が、私のことを目標だと言ってくれたとき、本当に嬉しかった。こんな自分でも家庭を持つことができるなんて思っていなかった。だからこそ、あなたの本当の母親になりたくて、仕事も家事も頑張ってきたの。もらった幸せを手放したくなくて過去から逃げてきた結果が、あなたをこんな風にしてしまった。あなたを傷つけてしまった……っ、私が、最初から向き合っていれば……っ!」
「……お母さん、ちがう、ちがうの」
「ごめんね、鈴乃。お願い、これ以上一人で強がらないで」
上体を起こした鈴乃を、和香子はしっかり抱きしめて訴える。髪もメイクも崩れ、泥まみれのスーツ姿の彼女は、鈴乃が理想と掲げていた人物とは程遠い。それでも目の前で優しく頬を撫でてくれるのは間違いなく、ひとりで泣いていた鈴乃を抱きしめてくれた母親だった。
「……私はこのまま、何も知らなければよかった。お母さんからの愛も、友達といる居心地の良さも、なにもかも嘘に包まれたまま、知らないままでいたかった……っ」
「そんなこと言わないで。自分の娘を放って逃げる親なんていないわ」
鈴乃は糸が切れたように、縋りついて泣きじゃくった。小さく震える体を、和香子はぎゅっと抱きしめる。もう二度と離さないように、「大丈夫」と言い聞かせた。