紗栄子が入社してすぐに交際に発展、一年後に入籍――いくら一目惚れだったからとはいえ、孝明がいつ自分の存在に気付いたかで話は変わってくる。もし入籍する前に紗栄子が誘拐した子どもの身内であることを知っていたら、彼は身を引いたのだろうかと。
孝明は躊躇いながらも口を開いた。
「入籍した後だよ。相模先輩からの指示は、指定された家から出てきた子どもを連れてくるだけ。だから俺も和香子さんも、攫った子どもの名前なんて知る必要がなかった。でも顔合わせの食事会で初めて穂香ちゃんを見て、なんとなく似ているとは思ったくらいで、気にも留めていなかったよ」
「じゃあどこで……?」
「……失踪する三か月くらい前に、紗栄子から教えてもらったんだ」
――『穂香はね、小学生になってすぐに誘拐されたことがあるの。当時の記憶は忘れてしまっているから覚えていないと思うんだけど……今後何かあるかわからないから、孝明さんにも知っておいてほしくて』
夕食後に談笑していたある晩、神妙な顔つきで紗栄子からそう切り出したのだという。そこで初めて、穂香が誘拐した子どものひとりだったことを知った。
「生涯を誓った相手の妹を傷つけていたと気付いて、俺は後悔した。こんなことなら紗栄子と結婚なんてしなければよかったと。でも本当のことを打ち明けることも、離れることもできなかった。……こんなに苦しい思いをするなら、俺が紗栄子の前から去るべきだった!」
頭を抱えて懺悔する孝明を前にして、穂香は落胆した。
(苦しい思いって……なに?)
誰とも向き合うこともせず、事実に目をそむき続けてきた結果じゃないか!
顔を隠している両手首を顔からはがし、胸倉を掴んで目線を合わせると穂香は怒鳴りこんだ。
「ふざけないでください……お姉ちゃんはあなたよりずっと苦しい思いしてきたのに、なんであなたが被害者面するんですか!」
「えっ……」
「部屋の本棚には、記入済みの離婚届がありました。孝明さんが十一年前の誘拐事件の実行犯だと知ったとき、お姉ちゃんはきっと離婚を考えた。他人のことしか頭にないような姉だから、私が思い出したときの最悪な想定でもしたんでしょう。もしかしたら、話し合いの時に出そうとしたのかもしれないけど、もっと早く渡せたはずです。でもお姉ちゃんは渡さなかった。ううん、渡せなかった! 孝明さんが好きだから、信じたいと思ったからちゃんと話そうって決めたんだと思うんです。たとえ離婚届を渡して離れることを選んでも、信じたかったはずなんです!」
「紗栄子が……? そんな、バカな……俺は、相模先輩だけに責任を押し付けて逃げた、最低な男なんだ! それを紗栄子が信じてくれていたなんて――」
喚き散らす孝明に、穂香は苛立ちを覚える。
姉の選んだ男性がこんなものだと思いたくなかった。雨の中、探しまわった孝明の姿を否定したくなかった。両親を支え、気にかけてくれた優しさを嘘だと思いたくなかったのに、目の前の彼はあまりにも哀れで無様だ。
「どうして向き合ってくれないんですか? お姉ちゃんにも自分にも逃げてばかり、そんな自分でいいんですか……っ!」
穂香は胸倉を掴む手の力をさらに強めると、敷島の手がそれを止めた。
「敷島くん……」
「嘘をついてまで守ってきたことは自分にとっては理想だ。奥さんが本当に大切なら、自分のせいで巻き込まれたかもしれないって悩んだ藤宮のことも、アンタならわかるだろ」
敷島が穂香の手を胸倉から離すと、孝明はその場に立ち崩れた。
俯いたときに左手の薬指にはめた結婚指輪が目に入る。紗栄子と二人で選んだそれは、一年前から色あせることのなく今も輝いている。
この先もずっと、灰になるその日まで、お互いの指にあるはずだった。
「紗栄子……っ」
祈るように手を組んで静かに涙を流す孝明を見て、穂香はようやく落ち着きを取り戻した。
半年間で溜まった怒りや苛立ち、悲しみをここぞとばかりに吐き出した。しかし、この二人を責めたところでこれ以上何かが戻ってくるわけでもない。
すると敷島が和香子と孝明に向けて言う。
「懺悔も後悔もまだ早い。ここからが本題なんだ」
「……どういう、こと?」
涙をぬぐいながら、和香子が眉をひそめた。
「俺たちは秦野紗栄子の失踪が、十一年前の誘拐事件の真相に近付いたのがきっかけだと思っている。だから二人には思い出してほしい。相模との昔話を誰かに話した、もしくは聞かれた覚えはないか。――この憶測が正しければ、この失踪はアンタら二人に対する脅しかもしれない」
孝明は躊躇いながらも口を開いた。
「入籍した後だよ。相模先輩からの指示は、指定された家から出てきた子どもを連れてくるだけ。だから俺も和香子さんも、攫った子どもの名前なんて知る必要がなかった。でも顔合わせの食事会で初めて穂香ちゃんを見て、なんとなく似ているとは思ったくらいで、気にも留めていなかったよ」
「じゃあどこで……?」
「……失踪する三か月くらい前に、紗栄子から教えてもらったんだ」
――『穂香はね、小学生になってすぐに誘拐されたことがあるの。当時の記憶は忘れてしまっているから覚えていないと思うんだけど……今後何かあるかわからないから、孝明さんにも知っておいてほしくて』
夕食後に談笑していたある晩、神妙な顔つきで紗栄子からそう切り出したのだという。そこで初めて、穂香が誘拐した子どものひとりだったことを知った。
「生涯を誓った相手の妹を傷つけていたと気付いて、俺は後悔した。こんなことなら紗栄子と結婚なんてしなければよかったと。でも本当のことを打ち明けることも、離れることもできなかった。……こんなに苦しい思いをするなら、俺が紗栄子の前から去るべきだった!」
頭を抱えて懺悔する孝明を前にして、穂香は落胆した。
(苦しい思いって……なに?)
誰とも向き合うこともせず、事実に目をそむき続けてきた結果じゃないか!
顔を隠している両手首を顔からはがし、胸倉を掴んで目線を合わせると穂香は怒鳴りこんだ。
「ふざけないでください……お姉ちゃんはあなたよりずっと苦しい思いしてきたのに、なんであなたが被害者面するんですか!」
「えっ……」
「部屋の本棚には、記入済みの離婚届がありました。孝明さんが十一年前の誘拐事件の実行犯だと知ったとき、お姉ちゃんはきっと離婚を考えた。他人のことしか頭にないような姉だから、私が思い出したときの最悪な想定でもしたんでしょう。もしかしたら、話し合いの時に出そうとしたのかもしれないけど、もっと早く渡せたはずです。でもお姉ちゃんは渡さなかった。ううん、渡せなかった! 孝明さんが好きだから、信じたいと思ったからちゃんと話そうって決めたんだと思うんです。たとえ離婚届を渡して離れることを選んでも、信じたかったはずなんです!」
「紗栄子が……? そんな、バカな……俺は、相模先輩だけに責任を押し付けて逃げた、最低な男なんだ! それを紗栄子が信じてくれていたなんて――」
喚き散らす孝明に、穂香は苛立ちを覚える。
姉の選んだ男性がこんなものだと思いたくなかった。雨の中、探しまわった孝明の姿を否定したくなかった。両親を支え、気にかけてくれた優しさを嘘だと思いたくなかったのに、目の前の彼はあまりにも哀れで無様だ。
「どうして向き合ってくれないんですか? お姉ちゃんにも自分にも逃げてばかり、そんな自分でいいんですか……っ!」
穂香は胸倉を掴む手の力をさらに強めると、敷島の手がそれを止めた。
「敷島くん……」
「嘘をついてまで守ってきたことは自分にとっては理想だ。奥さんが本当に大切なら、自分のせいで巻き込まれたかもしれないって悩んだ藤宮のことも、アンタならわかるだろ」
敷島が穂香の手を胸倉から離すと、孝明はその場に立ち崩れた。
俯いたときに左手の薬指にはめた結婚指輪が目に入る。紗栄子と二人で選んだそれは、一年前から色あせることのなく今も輝いている。
この先もずっと、灰になるその日まで、お互いの指にあるはずだった。
「紗栄子……っ」
祈るように手を組んで静かに涙を流す孝明を見て、穂香はようやく落ち着きを取り戻した。
半年間で溜まった怒りや苛立ち、悲しみをここぞとばかりに吐き出した。しかし、この二人を責めたところでこれ以上何かが戻ってくるわけでもない。
すると敷島が和香子と孝明に向けて言う。
「懺悔も後悔もまだ早い。ここからが本題なんだ」
「……どういう、こと?」
涙をぬぐいながら、和香子が眉をひそめた。
「俺たちは秦野紗栄子の失踪が、十一年前の誘拐事件の真相に近付いたのがきっかけだと思っている。だから二人には思い出してほしい。相模との昔話を誰かに話した、もしくは聞かれた覚えはないか。――この憶測が正しければ、この失踪はアンタら二人に対する脅しかもしれない」