「死んだことも、彼の元同僚の不正が公に出ることもなかった。誰にも忘れられることのない、恐ろしい存在になりたいと言った彼が成し遂げられたのは、お世話になった他社の部長との取引を無かったことにしただけ。……有終の美というには、虚しい人生だった」
 和香子は話し終えると、ふう、と溜息をついた。
「その後、私は結婚して西川に。楠田――ううん、秦野くんは両親の離婚で苗字が変わり、就職する前にずっと変えたかった『たかあき』の読み方に直した。本当に偶然だったのよ。むしろあの頃、私たちはすぐに捕まるんじゃないかって怯える日々だった。……これが十一年前、穂香ちゃんが巻き込まれた事件の真相よ」
「……待ってください、病気を患っていた人がたばこを吸って、現場に残して逃げるようなことしますか?」
 穂香が思わず声を上げる。
 事件の話を聞いて残った疑問が解決されていない。たとえ相模が病気を軽く見ていたり、自棄を起こしていたとしても、持病が悪化すると言って和香子と孝明が止めに入ったはずだ。
「……先輩、大学の頃は俺たちの前でも吸っていたからね。持病があっても急に吸いたくなることもあったと思うよ」
「痕跡を消して逃げたんですよね? でも見つかったってことは、わざと――」
「完全に消すなんて素人にできるわけがないじゃない。……相模はね、いつもそうだった。一人前に人に命令しておいて、自分でミスしたら開き直って辺りに押し付ける。特に秦野くんはよくそのとばっちりを受けていたわ。そんな自分に甘い奴が、私たちを庇うなんて絶対にありえない!」
 和香子は荒々しく穂香に怒鳴った。手元にある、端から中央にかけてしわくちゃになった写真は色あせており、映っている顔も誰のものかわからない。
 震える声を抑えながら、和香子は吐き捨てた。
「アイツは嘘を吐いては人を傷つけるような人だった! それにあの計画の最後は、何も知らないふりをしろ、警察が来ても『大学を卒業した後に喧嘩別れをした、それ以来会っていない』と口裏を合わせろって……でも私と秦野くんのもとに警察は来なかった。警察は、すべて相模ひとりの犯行として処理したの。なんでそうなったのか……私たちには、わからない」
「――それが、相模がついた嘘だったとしたら?」
 ずっと黙ったままの敷島がぽつりと呟く。それを孝明が目を疑った。
「なんだって……?」
「誘拐して身代金を元同僚に支払わせるなんて計画、どう考えても成功する確率は低いだろ。警察が会社関係者を調べないわけがない。恨んで退職した奴なんて、優先的に容疑者として目につけるはずだ」
 相模が考えていた計画は、最初から抜け穴が多い。わざわざ元同僚を指名し、解雇へ追い込んだことを思い出させようとする時点で、答えを教えているのと同じだ。
 つまり、相模は最初から逃げるつもりはなかったのではないか。
「誘拐した子どもはただのとばっちり。残り少ない自分の時間を使った最後の集大成を、自分のためだけに使うことを躊躇った。もちろん、アンタら二人を巻き込んだ罪悪感も拭えなかった。自分の犯した過ちが、正しいものなんて思っていない。だから二人を逃がすために無理にたばこを吸い、痕跡をあえて残した」
「……なによ、それ。憶測に過ぎないわ! だってアイツが他人のことを大切にするなんて……」
「猫が死ぬ前に目の前から立ち去るように、人間だって死に際に後悔して、せめてもと手を伸ばすことだってあるんじゃないのか?」
 敷島は和香子の手からしわくちゃの写真をそっと取り上げ、指で丁寧に皺を伸ばした。ちょうど相模の顔にまっすぐ亀裂が入っている。それはずっと和香子が大切に持ち歩き、手に取るたびに端を掴んでは悔やんで涙をこぼした証拠だ。可能な限り綺麗に伸ばすと、和香子の前に差し出した。
「相模にとってアンタらは、大切な仲間だったんだろ」
「……っ」
 震える手で受け取ると、しわくちゃになった写真を見入った。
 あの頃には二度と戻れない。再び会うことも叶わない。
 相模透一は、死んだ。
「う……うわあああ!」
 和香子は写真を抱きしめるようにして泣き崩れた。零れる大粒の涙がスケジュール帳を濡らし、ボールペンで書かれた予定をぼかしていく。
 その姿を見て、孝明は穂香に深く頭を下げた。
「君には申し訳ないことをした。謝って済む問題じゃないことはわかってる」
「……私が誘拐した子どものひとりだって気付いたのはいつですか?」