*
――十一年前、夏。
相模透一は新卒で入社し二年ほど務めた商社から突然、解雇を言い渡された。
理由は業務態度に問題ありと言われたが、まったく身に覚えがない。心当たりがあるとすれば、社内コンペ用で準備していた資料を同僚に盗まれ、すぐに抗議したことだ。
しかもその同僚は学生時代の親友だった。その時は直接訴えても無駄だと思い総務部に相談したが、証拠となる資料の原本を提出したにも関わらず、呆気なく無かったことにされてしまった。
解雇を言い渡された日、同僚はこう告げた。
『お前の態度は周りの空気を悪くする。風通しを良くしなければならないと、社長自ら決めた処分だ』
納得できる理由など言われるわけがない。同僚の歪んだ口元が憎たらしくて仕方がない。何より、ずっと高め合ってきた同僚に、親友に裏切られるなんて思ってもいなかった。それが何よりも腹立たしくて、悲しかった。
しかしその数日後、相模はさらにどん底に陥ることになる。
『すぐ治療に移りましょう。……このまま放っておけば、五年ももつかどうか……』
半年に一度の健康診断で引っかかり、病院を受診した際、白衣を羽織った医師の第一声に、相模は耳を疑った。
腹部の内臓に悪性腫瘍が見つかったようで、今から治療をすれば完治する可能性があるという。しかし、職を失った今、毎月治療費を払えるほどの余裕はない。すぐにでも働き手を探さなければ、治療を受けることなどできなかった。
診察室を出てすぐ、次の診察を待っていた患者が、相模を見て思わず顔を背けた。前を通り過ぎて聞こえてきたのは、外見だけで判断した陰口ばかり。つい先日までスーツを着こなして、身だしなみを整えたサラリーマンだったのに、不当解雇を言い渡されて荒れないわけがない。
それからは清掃員のアルバイトを始め、大手企業のオフィスを担当することになった。以前の会社で取引をさせてもらっていた相手で、何度も通っていた時期がある。しかし、それでも相模のことを覚えているような人は誰もいなかった。
オフィスフロアの掃除をしていると、エレベーターのほうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
顔を上げると、以前親身に話を聞いてくれた営業部長と、自分を蹴落とした元同僚だった。隣には見慣れない男性もいて、皺ひとつないスーツに身を包んでいる。
『いやぁ、課長になられたとか。以前よく来てくれていた相模くんは元気でしょうか?』
『恥ずかしながら、少々問題を起こしまして……。その関係で御社の担当が変わりまして、今日はその御挨拶に参りました』
――ふざけるな!
相模は喉から出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。ありもしない不祥事に濡れ衣を着せて言いふらすなんて、ここまで中身が腐っているとは思いもしなかった。
怒りに任せて乗り込まないように、雑巾臭い手袋をしたまま口を覆い、気付かれないように顔を逸らす。
『今後は彼が対応いたします。最近入ったばかりの中途社員ですが、腕は確かです』
『よ、よろしくお願いいたします』
『おや、珍しい苗字ですね。こちらこそよろしくお願いします。……それにしても残念ですね。相模くんのわかりやすくてユニークなプレゼン、仕事に対して真摯に向き合っているのが感じられて好きだったんだけどなぁ。寂しいですね』
その言葉が聞こえて横目で営業部長の姿を確認する。複数考えてきた案をプレゼンすると、必ず突っ込んでくれたのは彼だった。他社の人間にも関わらず気にかけてくれることに安堵して、涙が零れそうになる。
しかし元同僚は『はぁ……』と面倒くさそうに吐き捨てた。
『では、こちらで打合せしましょうか。フジミヤさーん、こられるかい?』
『は、はい!』
営業部長が入口から中へ声をかけると、フジミヤと呼ばれた男性が慌ただしく荷物を持って駆け寄っていく。
相模はその場から離れ、人気のない非常階段でようやく口から手を離した。埃っぽい空気が入ってくるが、雑巾臭い手袋よりマシだ。
――十一年前、夏。
相模透一は新卒で入社し二年ほど務めた商社から突然、解雇を言い渡された。
理由は業務態度に問題ありと言われたが、まったく身に覚えがない。心当たりがあるとすれば、社内コンペ用で準備していた資料を同僚に盗まれ、すぐに抗議したことだ。
しかもその同僚は学生時代の親友だった。その時は直接訴えても無駄だと思い総務部に相談したが、証拠となる資料の原本を提出したにも関わらず、呆気なく無かったことにされてしまった。
解雇を言い渡された日、同僚はこう告げた。
『お前の態度は周りの空気を悪くする。風通しを良くしなければならないと、社長自ら決めた処分だ』
納得できる理由など言われるわけがない。同僚の歪んだ口元が憎たらしくて仕方がない。何より、ずっと高め合ってきた同僚に、親友に裏切られるなんて思ってもいなかった。それが何よりも腹立たしくて、悲しかった。
しかしその数日後、相模はさらにどん底に陥ることになる。
『すぐ治療に移りましょう。……このまま放っておけば、五年ももつかどうか……』
半年に一度の健康診断で引っかかり、病院を受診した際、白衣を羽織った医師の第一声に、相模は耳を疑った。
腹部の内臓に悪性腫瘍が見つかったようで、今から治療をすれば完治する可能性があるという。しかし、職を失った今、毎月治療費を払えるほどの余裕はない。すぐにでも働き手を探さなければ、治療を受けることなどできなかった。
診察室を出てすぐ、次の診察を待っていた患者が、相模を見て思わず顔を背けた。前を通り過ぎて聞こえてきたのは、外見だけで判断した陰口ばかり。つい先日までスーツを着こなして、身だしなみを整えたサラリーマンだったのに、不当解雇を言い渡されて荒れないわけがない。
それからは清掃員のアルバイトを始め、大手企業のオフィスを担当することになった。以前の会社で取引をさせてもらっていた相手で、何度も通っていた時期がある。しかし、それでも相模のことを覚えているような人は誰もいなかった。
オフィスフロアの掃除をしていると、エレベーターのほうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
顔を上げると、以前親身に話を聞いてくれた営業部長と、自分を蹴落とした元同僚だった。隣には見慣れない男性もいて、皺ひとつないスーツに身を包んでいる。
『いやぁ、課長になられたとか。以前よく来てくれていた相模くんは元気でしょうか?』
『恥ずかしながら、少々問題を起こしまして……。その関係で御社の担当が変わりまして、今日はその御挨拶に参りました』
――ふざけるな!
相模は喉から出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。ありもしない不祥事に濡れ衣を着せて言いふらすなんて、ここまで中身が腐っているとは思いもしなかった。
怒りに任せて乗り込まないように、雑巾臭い手袋をしたまま口を覆い、気付かれないように顔を逸らす。
『今後は彼が対応いたします。最近入ったばかりの中途社員ですが、腕は確かです』
『よ、よろしくお願いいたします』
『おや、珍しい苗字ですね。こちらこそよろしくお願いします。……それにしても残念ですね。相模くんのわかりやすくてユニークなプレゼン、仕事に対して真摯に向き合っているのが感じられて好きだったんだけどなぁ。寂しいですね』
その言葉が聞こえて横目で営業部長の姿を確認する。複数考えてきた案をプレゼンすると、必ず突っ込んでくれたのは彼だった。他社の人間にも関わらず気にかけてくれることに安堵して、涙が零れそうになる。
しかし元同僚は『はぁ……』と面倒くさそうに吐き捨てた。
『では、こちらで打合せしましょうか。フジミヤさーん、こられるかい?』
『は、はい!』
営業部長が入口から中へ声をかけると、フジミヤと呼ばれた男性が慌ただしく荷物を持って駆け寄っていく。
相模はその場から離れ、人気のない非常階段でようやく口から手を離した。埃っぽい空気が入ってくるが、雑巾臭い手袋よりマシだ。