穂香は困惑する敷島の手を掴んだまま電車に乗り込み、最寄り駅で降りると、まっすぐ自宅へ向かう。思い出したことを簡単に説明したが、敷島の顔は眉をひそめたままだった。
 自宅に着くと、穂香は階段を駆け上がった。学校から早退の連絡をしているはずだが、両親はともに仕事に出ている。この日に限ってパートの母親も遅番に入っているのは、今朝家を出るときに確認済みだ。
 二階にある穂香の部屋の隣には、一年半前まで自宅から職場へ通っていた紗栄子が使っていた部屋がある。荷物はほとんどないが、実家に帰ってくるとその部屋を使っている。半年前に失踪して以来、誰もこの部屋に立ち入ったことはない。
「しばらく掃除してないから埃っぽいかも」
「それはいいとして、本当にその日記はあるのか?」
「多分。お姉ちゃんは、毎日書く短い日記とは別に、本音を書きこむノートを持っていたの」
 幼い頃、穂香が友人と喧嘩して落ち込んでいた時、紗栄子が「本当はどうしたいの?」と問いかけてきたことがある。
 言葉にするのを躊躇った穂香を見て、紗栄子はノートにしたいことを書き出してみてはどうか、とかわいらしいノートをプレゼントしてくれたのだ。『本音を口に出せないときは、書いてすっきりするの。私もやっているから試してみて』と、言われたとおりに実践した翌日、穂香は友人と無事に仲直りできたという。
「その方法を教えてくれたお姉ちゃんが、今も続けていないわけがないよ」
 紗栄子の部屋のドアを開くと、あの頃と変わらない光景が広がっていた。
 穂香は背負っていたリュックを床に置いて窓際に置かれた机に立つ。ラックに立てかけられた本や雑誌の中から、封筒を抜き取った。後ろから敷島もやってきて、『藤宮紗栄子』と大きく書かれた宛先を見て眉をひそめる。
「これってお前が最後にメッセージでやり取りした……?」
「うん。宛先も差出人もお姉ちゃんで、なぜか実家に送られてきた封筒。最初は書き間違えたって言っていたのを鵜呑みにしていたけど、本当は孝明さんに見せられないものだったんじゃないかな」
「見せられないもの?」
「孝明さんの家、一緒に行ったでしょ。お姉ちゃんのいない半年間、どの部屋も綺麗に保つことなんて、いくら掃除が好きな人でも難しいと思うんだ」
 特に孝明は仕事に加え、休まずにチラシを配り、身近な場所を自分の足で探すほど多忙の中を親身になって紗栄子を探している。
 しかし彼の家は塵一つもないほど綺麗で、整理整頓がきちんとされていた。一見、綺麗好きな孝明のことを考えると不思議ではない。
 ただ、思っていることを溜め込んでしまう紗栄子のことだ。自分の醜い本音をノートに吐き出せたとして、それを堂々と部屋に置いておけば、孝明の目に入ってしまうとおもったのではないだろうか?
「だから日記を引き出しの奥に隠すようにしまい込んだ。でも問題は、本音を書きだしたノート。引き出しにまとめておくのは心配だし、本棚は論外。なら一番孝明さんの手が届かない場所といえば?」
「……そうか、滅多に来ない実家なら人の目は避けられる。でもお前や親御さんが見つけることだってあるだろ?」
「誰も触れないって自覚があったんじゃないかな。この部屋には、私や両親だけじゃなくて、孝明さんや警察も立ち入ってないから」
 その頃に事件性があれば家宅捜索が入ったかもしれないが、ただの家出として扱われてしまっている。警察には穂香のメッセージのやり取りを見せてはいるが、気にも留めなかったのだろう。封筒は穂香がポストから取り出し、そのままラックに差し込んだ。――つまり、記憶の片隅で覚えている程度の、些細な動作だ。
「わざと忘れ去られるように仕組んだ可能性が出てきたな」
 敷島が唸るように言う。
 穂香は近くのペン立てに入っていたハサミで器用に封筒の口を開くと、中から一冊の分厚いノートが出てきた。表紙の縁にかわいらしい絵柄が書かれているノートを見て、思わずと大きく息を吐いた。
「やっぱり……お姉ちゃんの本音ノートだ」
 中を捲っていくと、そこには紗栄子の心の叫びがつらつらと書かれていた。目も当てられないほど真っ黒なページが続く。ボールペンを無我夢中に走らせ、破った跡も残っている。
「仕事のこと、趣味のこと……全部が上手くいかないって、お姉ちゃんだけの問題じゃないのに」
「そういうもんだろ。自分がどうにかしなくちゃって思えば思うほど、底なし沼にハマっていくもんだ。なんでも簡単に飲み込めたら、きっとここまで書かなかっただろう」
 目も当てられないほど乱雑に書かれたノートを捲っていくと、あるページに目を留めた。