穂香は何も言えなかった。
灰色の夢の話を真摯に聞いてくれた紗栄子は直後に失踪した。穂香が話した本音を受け止めてくれた人が、途端に目の前からいなくなる恐怖は、いつ思い出しても恐ろしい。
それが失踪と関係していなかったとしても、いつも一緒にいた身近な人がいなくなるのは、心臓をえぐり取られた気分だ。だからこそ、家族や義兄、親友の前で灰色の夢の話を持ち出すなんてできなかった。
誰かに話したら、また大切な人が消えるんじゃないかと一度思ってしまえば、口になんて出せなかった。
「だから放っておけなかった」
「……え?」
「俺よりも複雑な事情があって嫌な思いをずっとしているのに、藤宮は周りが心配しないように平然を振る舞った。部活を辞めても、部員の奴らとお揃いのチャームを付けているのだって、続けたかった後悔よりも、部員が大切だったからだろ」
敷島の視線は、穂香の隣に置いてあるリュックにつけられたオレンジ色のチャームだった。二人が話すきっかけになったそれは、今も太陽の日差しに反射してきらめいている。
「多分俺は、周りに囲まれている藤宮が羨ましかったんだ。俺みたいにならないでほしいって、放っておけなかったからあの日、声をかけた」
「……私は敷島くんが孤立しようとしても、引き留めると思う」
敷島にすべて話せたのは、彼が真摯に藤宮穂香という、ひとりの人間を見てくれていたからだ。ならば、自分も敷島尚という人間と向き合うことだってできるはずだと、揺れた瞳を見て思う。
「その、上手く言えないんだけど……私は、ひとりになんてさせない。敷島くんが私を助けてくれたように、私も敷島くんの力になりたい」
(ああ、私の言葉はいつも拙いものばかりだ)
頑張れも大丈夫も、どれだけ励ましの言葉を並べたところで、嘘のように聞こえてしまえばそれまでだ。申し訳ないと思いながらも、敷島の目を見て今伝えられる精一杯の言葉を選ぶ。
「聞こえないこと、話してくれてありがとう」
「……お互い様だろ」
敷島は躊躇いがちにそう呟いて、視線を泳がせる。耳が真っ赤に染まっているのを見て、照れているのだと察すると、不意に笑みがこぼれた。
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
「嘘つけ、お前の顔がにやついているときは大抵悪いことを考えてるときだっての」
「私、そんなに信用ない? やっと友達になれると思ったのに」
「はぁ? 友達になるならんは別問題だっつーの! ……つか、お前は友達だと思っていなかったわけ?」
「うっ……だっていつも同級生で済ますじゃん」
「同級生も友達も同じだろ! ……え、そんな他人行儀に聞こえんの?」
面倒臭ぇ、と頭を抱える敷島を見てふと、紗栄子が重なって見える。彼も本音を吐き出す場所がなかったのかもしれないと思った。
どんなに辛いことでも、本音を溜めておくほどのキャパは誰も持っていない。溜めて、溜めて、最後に吐き出すときに手遅れになっていてもおかしくはないのだ。
(……本音?)
ふと、頭をよぎったのは紗栄子の部屋だった。
秦野家の一室の、リビングとはまた違った温かみのある空間の中で、机の引き出しの奥に隠された彼女の日記にはその日あった出来事や心情が箇条書きで残されている。
しかし、それ以外に気持ちを書き記したものは見つかっていない。パソコンに残されている可能性も十分あるが、ならば毎日まとめていた家計簿や日記も、手書きで残す理由はないはずだ。
「藤宮? どうした?」
敷島が顔を上げて問う。そして、あることを思い出した。
「……敷島くん、まだ時間あるかな?」
「は? そりゃあるけど……どうした?」
「私、見落としてた。なんであの時、気付かなかったんだろう!」
穂香はリュックに乱雑に入れたランチバッグを詰め込んで背負うと、敷島の手を掴んで立ち上がらせる。
「お姉ちゃんの日記は一冊だけじゃない、まだあったんだよ!」
灰色の夢の話を真摯に聞いてくれた紗栄子は直後に失踪した。穂香が話した本音を受け止めてくれた人が、途端に目の前からいなくなる恐怖は、いつ思い出しても恐ろしい。
それが失踪と関係していなかったとしても、いつも一緒にいた身近な人がいなくなるのは、心臓をえぐり取られた気分だ。だからこそ、家族や義兄、親友の前で灰色の夢の話を持ち出すなんてできなかった。
誰かに話したら、また大切な人が消えるんじゃないかと一度思ってしまえば、口になんて出せなかった。
「だから放っておけなかった」
「……え?」
「俺よりも複雑な事情があって嫌な思いをずっとしているのに、藤宮は周りが心配しないように平然を振る舞った。部活を辞めても、部員の奴らとお揃いのチャームを付けているのだって、続けたかった後悔よりも、部員が大切だったからだろ」
敷島の視線は、穂香の隣に置いてあるリュックにつけられたオレンジ色のチャームだった。二人が話すきっかけになったそれは、今も太陽の日差しに反射してきらめいている。
「多分俺は、周りに囲まれている藤宮が羨ましかったんだ。俺みたいにならないでほしいって、放っておけなかったからあの日、声をかけた」
「……私は敷島くんが孤立しようとしても、引き留めると思う」
敷島にすべて話せたのは、彼が真摯に藤宮穂香という、ひとりの人間を見てくれていたからだ。ならば、自分も敷島尚という人間と向き合うことだってできるはずだと、揺れた瞳を見て思う。
「その、上手く言えないんだけど……私は、ひとりになんてさせない。敷島くんが私を助けてくれたように、私も敷島くんの力になりたい」
(ああ、私の言葉はいつも拙いものばかりだ)
頑張れも大丈夫も、どれだけ励ましの言葉を並べたところで、嘘のように聞こえてしまえばそれまでだ。申し訳ないと思いながらも、敷島の目を見て今伝えられる精一杯の言葉を選ぶ。
「聞こえないこと、話してくれてありがとう」
「……お互い様だろ」
敷島は躊躇いがちにそう呟いて、視線を泳がせる。耳が真っ赤に染まっているのを見て、照れているのだと察すると、不意に笑みがこぼれた。
「笑うなよ」
「笑ってないよ」
「嘘つけ、お前の顔がにやついているときは大抵悪いことを考えてるときだっての」
「私、そんなに信用ない? やっと友達になれると思ったのに」
「はぁ? 友達になるならんは別問題だっつーの! ……つか、お前は友達だと思っていなかったわけ?」
「うっ……だっていつも同級生で済ますじゃん」
「同級生も友達も同じだろ! ……え、そんな他人行儀に聞こえんの?」
面倒臭ぇ、と頭を抱える敷島を見てふと、紗栄子が重なって見える。彼も本音を吐き出す場所がなかったのかもしれないと思った。
どんなに辛いことでも、本音を溜めておくほどのキャパは誰も持っていない。溜めて、溜めて、最後に吐き出すときに手遅れになっていてもおかしくはないのだ。
(……本音?)
ふと、頭をよぎったのは紗栄子の部屋だった。
秦野家の一室の、リビングとはまた違った温かみのある空間の中で、机の引き出しの奥に隠された彼女の日記にはその日あった出来事や心情が箇条書きで残されている。
しかし、それ以外に気持ちを書き記したものは見つかっていない。パソコンに残されている可能性も十分あるが、ならば毎日まとめていた家計簿や日記も、手書きで残す理由はないはずだ。
「藤宮? どうした?」
敷島が顔を上げて問う。そして、あることを思い出した。
「……敷島くん、まだ時間あるかな?」
「は? そりゃあるけど……どうした?」
「私、見落としてた。なんであの時、気付かなかったんだろう!」
穂香はリュックに乱雑に入れたランチバッグを詰め込んで背負うと、敷島の手を掴んで立ち上がらせる。
「お姉ちゃんの日記は一冊だけじゃない、まだあったんだよ!」