怒りがこめられた目をする敷島に睨まれると、森崎は汗をにじませ、ガタガタと震え上がった。これ以上は言い返す気力もない、ただ恐怖で怯える蛙のようだった。そのだらしない姿を前にして、容赦なく敷島は固めた拳は大きく振りかぶった。ハッタリなどではない。渾身の力を込めて、本当に森崎を殴ろうとしている。
「敷島くん、待って――」
 慌てて穂香が手を伸ばそうとするが、これで留めてくれるとは到底思えない。どうすれば彼を止められるのかと考えていると、横から誰かが追い抜いていく。
「敷島ぁ!」
 森崎に向かって拳が振り下ろされる――その瞬間、敷島の動きがピタリと止まった。
 見れば、近くにいた男子生徒が数名束になって、しがみつくようにして敷島を押し戻そうとしていた。敷島も途端に我に返る。振り上げた腕を間一髪で森崎の鼻先すれすれで止めたのは、あの新田だった。
「落ち着けよ! 暴力はダメだって!」
「……離せよ。コイツは一発殴らねぇと気が済まねぇ」
「この人が藤宮を殴ったところは動画に撮ってあるから! 先生ももうすぐ来る! 今殴ったら、全部お前のせいになるぞ!」
「でも!」
「そんなことしてる暇があるなら、藤宮を連れてどっか行け!」
「そうだそうだ! 手当てしてやれ!」
「早く行けよ! 女子の顔に傷残ったら、俺らがお前をぶん殴りに行くからな!」
 新田だけでなく、周りの男子生徒からも野次が飛ぶ。すると、こっそり逃げようとする森崎に、周囲にいた男子生徒が逃がさないようにと掴みかかった。廊下の奥から「先生、こっちです!」と女子の声とともに数名の慌ただしい足音が聞こえてくる。
 敷島が横目で困惑の表情を浮かべる穂香を見て、小さく舌打ちをした。
「……っ、悪い!」
新田が手を離した瞬間、敷島は穂香の手を取って走り出す。
穂香は振り返ろうとするが、歩幅の違う敷島に引っ張られるまま走るので精一杯だった。後ろから教師の怒鳴り声とともに森崎の悲鳴が響いたが、聞こえないふりをしてただまっすぐ走った。

 保健室に逃げ込んだ二人に、保険医の(なか)(はら)先生は珍しい組み合わせだとたいそう驚いた。
 事情を説明すると、慌てて穂香を座らせて手当てに移る。出血してはなかったが、熱を帯びているようで、念のため保冷剤をハンカチにくるんで上から冷やすように渡した。かすめた場所からじりじりと痛みを感じると、穂香は顔をしかめる。掴まれた腕も痛みはなかったがうっすらと赤くなっていた。
「これで様子見るしかないわね……気になるようなら、病院行ってらっしゃい」
「はい、ありがとうございます」
「さて、どうしようかしら。教室に戻ったらまた厄介なことになりそうね。葉山先生に連絡するから、ちょっと待ってて」
 中原先生はそう言って、内線電話から電話をかける。ここに来る途中も、騒ぎは大きくなっていたのを考えると、職員室に人がいるか怪しい。
 それをよそに、残された二人の間にはなんとも気まずい空気が流れた。
「あ、あの、助けてくれてありがとう、敷島くんは怪我してない?」
「…………」
 いたたまれない空気に耐え切れずに穂香から切り出すが、敷島はムッとした顔のまま、無言で見てくるだけ。
「敷島くん?」
「……なんで」
「え?」
「なんで庇った? 避けようと思えばできただろ」
 それはそうかもしれないけど、と言いかけて止める。
 敷島の瞳が揺れて、心配そうに眉をひそめる顔を見てしまうと、適当な言い訳は通用しない。
「ひ、引っ張った反動で、つい」
「体格の差を考えたらそうなるってことくらいわかるよな。本当は?」
「それは……」
 ふと、敷島の後ろにあるデスクで電話をしている中原先生の姿が視界に入る。まだ通話中だが、話している内容が聞こえてしまうかもしれないと思うと、穂香は躊躇って視線を逸らした。
 敷島はそれを察したのか、小さく溜息をついてから無理やり穂香の顔を自分のほうへ向けて、再び問う。
「俺の左耳が聞こえてないこと、いつから気付いてた?」