孝明の自宅は、穂香たちが合流した駅から地下鉄に一時間ほど揺られ、バスで十分ほど離れた団地にある。その四階建てのマンションは入籍後に引っ越してからもうじき二年が経つ。
「いらっしゃい、穂香ちゃん。……と、敷島くんだね。どうぞ」
 玄関のチャイムを鳴らすと、孝明が快く出迎えてくれた。中に入ると、以前訪れたときと変わらない、木目調で落ち着いたインテリアを揃えたリビングに通された。室内は孝明のこだわりで、白熱電球のオレンジ色の温かい明かりがいつ帰ってきても落ち着くのだと、紗栄子が嬉しそうに惚気ていたのを思い出す。
ただ少し寂しげな雰囲気に見えたのは、紗栄子がいないからだろうか。
「二人はコーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「あの、私、コーヒー飲めなくて……」
「そっか、紗栄子もそうだったっけ。紅茶にするね。敷島くんはどうする?」
「いえ、お構いなく」
「ちなみに俺はコーヒーにするよ。良かったらどうかな」
「……じゃあ、いただきます」
 人当たりの良い孝明の笑みを前には断れない――以前、紗栄子がそう言っていたのを思い出す。
 二人が出会ったきっかけは、孝明の務めている会社に紗栄子が新卒で入ってきたことだと聞いている。指導係として接し、恋人に発展。交際一年で結婚した。早すぎるのではと戸惑う両親も、紗栄子の説得と孝明の寛大で気配りの良さから了承した。穂香は両家の顔合わせの際に孝明と出会ったが、笑顔が眩しい印象がよく残った。
「お待たせ。……それで、今日はどうしたの?」
 テーブルにコーヒーと紅茶が入ったマグカップを三つ置いて、定位置であろうソファの端に座ると、孝明はさっそく二人に問う。
 穂香はリュックから財布を取り出すと、多く残ったお釣りと母から渡された治療費、領収書も併せて差し出した。
「これ、お借りしていた治療費と領収書です。迷惑をかけて本当にすみませんでした」
「律儀に返さなくていいって、お義母さんたちにも言ったんだけどな。大切な妻の妹なんだから気にしないで。穂香ちゃんだって辛いのに、気付いてあげられなくてごめんね。俺が無理に河川敷に行きたいって言ったから……」
 そんなことない、と喉まで出かかって留まる。
 皮肉の一つが言えたなら、どれほど気が楽になっただろう。自分が自分を追い詰めていただけのことを、他人である孝明が謝る必要はない。むしろ今一番辛いのは、孝明ではないか。
「でもただの風邪で良かった。これで二人ともいなくなったら、どうしたらいいか……」
「孝明さん……」
「……ごめん、こんな話をして。本題に入ろう。穂香ちゃんが彼氏を実家ではなく俺の家に連れてきたってことは、紗栄子のことなんだろう?」
「か……かれっ⁉」
 思ってもいない言葉が飛び出し、穂香は一気に顔が真っ赤に染まった。ここに来るまで急展開ではあったし、敷島をそんな風に考えたこともない。一人で動揺していると、ずっと黙ったままだった敷島が口を開いた。
「じゃあお義兄さんって呼んだ方がいいですか?」
「えっ……」
「し、敷島くん⁉」
「嘘ですよ。席を交換した程度の同級生で、誰もいないところで倒れたら心配だからお目付け役を買って出ただけです。あまり詮索しないでくれると嬉しいんですけど」
 へらっと笑って返す敷島を前に、孝明は呆気をとられて言葉も出ない。穂香もまさか彼がそんなことを言うとは思ってもおらず、心臓に悪くて胸を抑えた。
「ご、ごめん……」
「なら、心置きなく本題に入らせてもらおうか。藤宮」