――いや、きっと顔を見てもわからなかった、と穂香は思う。
 紗栄子は悩みを人に言うことなく、いっぱいになるまで溜め込んで、最後に吐き出すタイプだった。
 次第に紗栄子が失踪した話は親戚だけでなく近所にも伝わり、ニュースにも取り上げられた。
 何か手掛かりが欲しいと、両親と孝明は情報提供をお願いするチラシを作っては駅前で配り歩く日々が続いた。しかし、周囲から向けられた言葉は厳しいものばかりで、中には紗栄子の失踪を楽しんでいるかのような考察がネット上で繰り広げられていた。
「スマホを置いていったのは、連絡がつかないようにしたかったからなんじゃないの?」
「社会人だし、人間関係で悩んでいてもおかしくない。旦那さんから暴力を受けていて、逃げ出したってこともありえるよ」
「本当は結婚したくなかったとか? よくあるでしょ、マリッジブルーだっけ?」
「きっと不倫して駆け落ちしたのよ。望まれた結婚じゃなかったんだわ」
「夜逃げしたってこと? それは誰にも言えないわねぇ」
「最後に連絡を取ったのが妹なんでしょ? だったら妹が嘘をついて匿っているんじゃない?」
 その言葉は皮肉にも、穂香の学校にも伝わった。
 興味本位で訊いてくる生徒が教室を訪れるたびに、穂香は無言を貫いた。ただでさえ、姉が失踪した事実を受け止めきれていないのに、容赦なく学校の前で新聞記者やフリーライターが穂香を待ち構える日々。さすがにこれ以上は他の生徒にも悪影響だと学校側が対応したが、穂香はしばらく学校に行くことを控えるほど大事になってしまった。
 さらに同じ頃、所属していた陸上部のインターハイが迫っていた。すでに先発メンバーに選ばれていた穂香は、練習でも思うようにタイムを伸ばせず、選手を辞退。それからすぐ退部を申し出た。誰も止められなかったのは、以前よりもやつれた彼女を、これ以上責めたくなかったからだ。

 穂香は、姉が自ら姿を消した意味が分からなかった。
 籍を入れて孝明と一緒に住むことになってからは、もっと料理を勉強したいと奮闘していたし、誕生日プレゼントは何を贈れば喜んでくれるのか、孝明の喜ぶ顔が見たいといつも楽しそうだった。
 なにより、結婚式当日に着るドレスを画面越しで眺めているときの横顔はとても幸せそうで、今でも忘れられない。式を誰よりも楽しみにしていたのは、間違いなく紗栄子だった。
 紗栄子は勝手にいなくなったりしない。――そう信じているのに、確証がない。
 警察の調べでは、紗栄子が孝明と仕事の関係以外に連絡を取っていたのは穂香と、高校の同級生の二人だけだという。様子が変わったことはないかと問われたとき、ふと、あの夢の話をした直後、紗栄子の様子がおかしかったことを思い出した。
「あのっ……!」
 穂香はそう言いかけて止める。夢の話をしただけで顔を歪ませたからと言って、彼女の失踪と関係があるとは考えられない。母親でさえ気にも止めなかった話だ。警察に話したところで失踪した理由に繋がるとは思えなかった。
「何かありましたか?」と一人が優しく問いかけるも、穂香は首を横に振った。
「いえ……なんでもありません」
 塞ぎ込んだ穂香を気に留めることなく、頭の上から溜息をつく声が聞こえた。
 それから毎晩、同じ灰色の夢を何度も、何度も見るようになった。
 雨が窓を叩く音も、埃まみれの小屋の匂いも、誰かに喉元を触れられる感覚も、日に日にリアルになっていく。
 灰色の夢の話をした姉はもういない。もし夢の話をしたせいで、行方知らずになってしまったのなら、これ以上誰かに話すわけにはいかなかった。
(ごめん、お姉ちゃん。私のせいだ)
 姉の失踪と、灰色の夢が関係している確証はどこにもない。それでも穂香にはどこかで繋がっている気がして、それがすべて自分のせいのような気がしてならなかった。