警察署を出たのは、夕方の十六時を回ったところだった。
 両親は先に家に帰り、穂香は警察で再度確認を受けた後、孝明の車に乗り込んで高校の近くにある河川敷に向かった。孝明から穂香に案内役として頼まれたのだ。といっても、穂香は街中を流れる下流に近い道を通りかかる程度で、発見現場はなんとなくとしか知らない。
「無理を言ってごめんね。どうしても見ておきたくて」
「いえ、このまま家に帰っても何も手に付かないので……孝明さんは、まだ諦めていないんですか?」
「……そうだね。諦められない。でもそれは穂香ちゃんも同じじゃないかい?」
 孝明の問いかけに黙り込む。
 穂香が贈ったスニーカーも、仕事用で買ったお気に入りのジャケットも河川敷で見つかったというだけで孝明はまだ諦めていない。その姿勢を目にするたびに両親もどうにか気力を持ち直し、今日まで懸命にビラ配りをしてきたのだ。
 それが、川から流れてきただけで簡単に崩れてしまった。
「……正直、もう諦めてしまいたいんです」
 これ以上、両親の辛そうな姿を、無理に笑った顔を見たくない。
 それでも諦めるだけの証拠が、自分の中でも見つけられない。
「どうしたら、私たちは報われるんでしょうか」
 呟いた穂香の問いかけに、孝明は何も答えられないまま、目的地の河川敷に着いた。
 警察はすでに撤収した後だったようで、いつもと変わらない風景が広がっている。学校帰りの学生が談笑しながらにぎやかに横を通りすぎていくのを見ると、担任の許可があったとはいえ、鈴乃に黙って教室を出てきてしまったことを思い出した。さっきスマホを見たときに届いていた通知は、鈴乃だけで十件も溜まっている。返す気力がなくて今もリュックに入れっぱなしだ。
 すると、肌を刺すような冷たい風が吹いて、穂香は身を震わせる。空は厚い雲に覆われて、遠くのほうでは灰色がどんどんと濃くなっていくのが見えた。
 孝明の視線は川の上流に向けられていた。もしジャケットとスニーカーが流れてきたとしたら、この場所よりももっと上の方から流されてきたのかもしれない。しかし、穂香には孝明の視線が、川ではなく遠くの山を見ているようで、どこか不自然に思えた。
「孝明さん? どうかしましたか?」
「ん? ……ああ、ごめん。ちょっと、懐かしくて」
「懐かしい?」
「ここに来るまで忘れていたんだけど、一度だけこの道を通ったことがあるんだ。大学の先輩と一緒に、コテージを借りて泊まり込んでね、サークルの集まりで声をかけてもらって、ずっとボードゲームしていたなぁ」
 もう十何年も前の話だけどね、と力なく笑うと、孝明はまた上流のほうへ目線を戻す。
 思い出の場所の近くで、姉が身を投げたかもしれない――そう思うと、穂香は胸が絞めつけられた。
「そろそろ帰ろうか。ひと雨来そうだし。今朝の天気では夜まで天候が持つはずだったんだけどなぁ」
 孝明が車に戻ろうとする中、穂香は山の方にある空から、地響きのような音が聞こえて目を向ける。近くに飛行機でも飛んでいるのか、それとも先程から吹きつける風なのか。音の正体はわからないものの、穂香は灰色に覆われた空から目が離せない。
 すると一滴、頬に空から降ってきた。手で拭って雨だとわかると、狙ったかのようにぽつぽつと降り出し、地面に斑点模様を作り出していく。
 その様子を、穂香はいつも見ている夢に無意識に重ねた。
 誰もいない河川敷はとても殺風景で広いのに、圧迫された部屋に入れられた時と同じ息苦しさが込み上げてくる。
 顔を上げれば、辺りは一変し、あの部屋の中心に立っているものと錯覚した。
「あ、ああ……」
 これは罰だ。
 自分があの時、電話に出ていたら。
 話した時に何か気付けていたら。
 灰色の夢の話を相談しなかったら――今も姉はここに居たかもしれない。
 生涯添い遂げると決めた人の隣にいて、幸せそうに笑っていてくれていたかもしれない。
 家族も義兄も、こんな辛い思いを抱えて生きていくことはなかった。半年なんて時間で薄れていくものなんかじゃない。
 私が、姉を殺したのも同然だ。
「……ごめん、ごめんなさい、お姉ちゃん……っ!」
 ごめんなさい。
 冷たい雨が体に叩きつけるように降り始める。穂香は意識を手放した。