「部活入ってなかったっけ?」
「え? う、うん。陸上部でハードル走をやっていたけど……どうして知っているの?」
「放課後に何度か見かけたことがある。隣で練習していた走り高跳びの奴よりも跳んだときがあっただろ? 骨の代わりにバネでも入ってんのかなって」
 なるほど、と穂香は納得した。
 敷島が一方的に穂香のことを知っていたのは、陸上部の練習を校舎の中から見ていたからだとすれば納得だ。顔と所属している部活がわかれば、あとはクラスメイトでも先生でも、同じクラスの陸上部員から穂香の名前を聞けばいい。
「走り高跳びのポールの高さはさすがにないけど、何度か勢いつけすぎちゃって必要な高さ以上に跳んでいたこともあった気がするなぁ……よく覚えてるね?」
「まぁな。最近見かけないけど、なんで?」
「半年前に辞めたの。来年は受験だし、今の一年生でレギュラーになれる子が沢山いたから」
 リュックにつけていたチャームをなぞる。先日小学生に引っ張られたそれは、ウサギのキーホルダーこそ親戚が作ったものだが、オレンジ色に輝くチャームだけは同じ年に入部した生徒が男女ともに集まって「一緒に全国大会へ」と願いを込めて買ったお揃いのものだった。
 来年が全国大会へ望む最後の年になるが、その直前に穂香は諦めた。選手としても活躍は充分期待できる実力だったし、チームの精神的支柱としての役割も担っていたこともあって信頼されていた。
 しかし、引退するといった彼女を誰も責めることはなかった。心苦しくも引き留めてくれた部員もいるが、穂香の顔を見ると口を噤んだ。顧問の教師が心配そうな顔をしながら退部届を受け取っていたのを、穂香は今でも思い出す。
「でも後悔してない。きっと皆が全国大会に行ってくれるから」
 これは本心だ。小さく微笑んだ穂香に、敷島は言いたげな顔をする。
「もし私が後悔していたとしたら、それ以上に悔しい思いをしている人はもっといる。だから大丈夫。未練はないよ」
 穂香が退部をするより前にも、怪我やトレーニングに追いつけなくて挫折し、夢半ばにして辞めざるを得なくなった生徒は沢山いる。レギュラー組は辞めていった生徒らの想いを背負って練習に励み、大会に挑む――学校も想いもプライドも背負った選手は誰にも負けない。
 すると、黙っていた敷島がつまらなそうな顔をした。
「お前が納得したうえで辞めたならいいけどさ、俺は惜しいと思ったよ」
「え?」
「跳んでいるときのお前は、すごく楽しそうだったから。もう見られないのは惜しいだろ」
 思ってもみなかった敷島の言葉に、穂香は目を丸くした。
 穂香が退部したのは半年前の六月だ。その頃は連日雨が降っており、グラウンドがぬかるんでいて使えなかったため、少し離れた屋内運動場で練習していた。教室の窓から練習風景が見えていたとしても、二年生になった半年間はほとんど屋内だったため、そう何度も見ることはない。
 彼はいつから自分のことを知っていたのか? ――穂香は尋ねようか迷って言葉に詰まる。
 それを知ったからといって、何が変わるのか。彼の言葉で励まされたとしても、陸上部に復帰することも時間を巻き戻すこともできない。
 半年前に欠けてしまった日常に慣れた自分には、今更希望も励ましも必要ない。
「……ありがとう」
 穂香は小さく呟いて、敷島が覗き込まないように顔を伏せる。せめて泣かないように、唇を小さく噛み締めた。