授業を終え、備品を片付け終えたところで終了のチャイムが鳴った。次回は今日の実験結果をグループごとに発表するという。挨拶を終えて穂香が荷物をまとめていると、敷島が声をかけた。
「今日は助かった。アレのことは言っとくから!」
「あ、うん……って、ちょっと待って!」
 若狭先生が理科実験室から出ていくのが見えたのか、敷島は慌てて飛び出していく。途端、抱えた荷物からプリントが一枚、ひらりと舞って床に落ちていった。前の授業のものなのか、赤ペンで丸ばかりついた数学の小テストだ。そんなことにも目もくれず、敷島は先生の名を呼びながら出て行ってしまう。
「えぇ……」
 ガラスの靴に比べたら採点済みの小テストなんて安いものだが、放置するわけにもいかない。
 仕方なしに追いかけると、敷島は少し離れた先で先生と真剣な顔つきで話しながら歩いていた。すらっとしたスタイルが存在感を醸し出しており、不意に近付くことを躊躇う。まだ走れば届く距離にいるのに、そこにいるのが敷島ではなく別人のように見えた。
(あんなに近くにいたのに、急に遠い人になってしまった)
 茫然と見つめていると、穂香の後ろから数名の女子生徒が追い越していき、彼の元へと向かっていく。そのまま囲うようにして話しかけているが、彼は応じることなく先生と一緒に先に行ってしまう。いつかの先輩のアプローチにも振り向かなかった冷酷さは健全のようだ。
(冷酷? ううん、話を聞く気がないというよりあれは……)
「穂香、やっと見つけた!」
「わぁっ⁉」
 突然、後ろから羽交い絞めにされる。振り返れば授業終わりの鈴乃が片腕で穂香に抱き着いていた。驚いた穂香の顔を見て満足したのか、解放して「こんなところでなにしてるの?」とケロッとした顔で訊いてくる。
「鈴乃だって、古典のクラスはこの階じゃないでしょ?」
「早めに授業が終わったから穂香を待ってたの。私たちの教室も、別の選択科目がまだ授業中だから入れないしね。それより……」
 鈴乃は穂香が見ていた方向をじっと見つめる。先を歩いていた敷島たちはすでに立ち去っており、廊下には穂香たち以外誰もいない。
「さっき、先生に声をかけようとしてたの?」
「ううん。その……敷島くんに忘れ物を……」
 彼が落とした小テストのプリントを見せると、鈴乃は途端に顔をしかめた。
「敷島って、あの敷島尚? 授業同じだったの?」
「うん。席が近かったんだ。初めて話したけど、聞いていたより全然話しやす――」
「ダメって言ったでしょ⁉」
 穂香の言葉に被せるように、鈴乃は強い口調で声を荒げた。
 今まで見たことがない、苛立っている彼女を前に、穂香は驚いて言葉をひっこめる。ここまで声を荒げることなど、今までなかった。
「鈴乃……?」
「……ごめん、でも良い話は聞かないからさ。この間も他校の男子と喧嘩したらしいし、取り巻きも多いらしいよ」
「そうなの?」
「そうだよ。ああいう奴は猫被っていてもおかしくないんだから。だから何度も近付いちゃダメって言ったでしょ?」
 自分のクラスに戻ったら、理科実験室で話した彼とは別人がいるのかもしれない。アウエーが苦手で猫を被っている可能性もあるだろうが、穂香はそう思えなかった。
 敷島は、授業に支障が出るからといって席を交換してきた。見た目だけで問題児と認定されているが、熱心に授業を聞いていたし、積極的に実験に参加して意見を出していた。なにより、車道に飛び出した自分を助けてくれたのだ。簡単に悪い人というレッテルを貼るには早すぎる気がした。
 今朝のことを含めて鈴乃に話すも、呆れた顔で穂香に言い聞かせる。
 それは嘘だ、あとで何かされるかもしれない――と。垣間見る鈴乃の目がぎらりと光る時は、大抵苛立っている時だと穂香は知っていた。
「穂香は疎いんだから、警戒したほうがいいよ。男なんて何を考えているのか分からないんだから。そんなことより早く教室に戻ろう。次の授業に遅れちゃう」
「……うん」
 敷島くんはそんな人じゃないよ。――声が出そうになるが、必死になって飲み込んだ。
 今朝が初めて言葉を交わした彼を擁護できるほど、自分は彼について何も知らない。
 胸の奥がモヤモヤしたまま、先を行く鈴乃を重い足取りで追った。