「……へ?」
随分間抜けな声を出したと、我ながらに思う。
頼まれているのは席の交換という、頷くだけで解決するようなことなのに、困惑する頭でなぜか彼が「ホルマリン漬けに見守られながら授業を受けたいのではないか」と突飛な想像までしてしまった。
穂香が顔をしかめたからか、敷島は「えっと」と一つ置いて続ける。
「頼むよ。ここだといろいろと不味いんだ」
「不味いって……内申点が足りないとか?」
授業の取り組みの点では良く見られるかもしれないが、仮にも選択教科だ。通常授業に組まれている授業のほうがよほど重要だろう。
「そうそう。内申点もだけどこの身長だろ? 目立ちたくないし、そっちの席の方がいろいろと都合がいい。もしかして先生に怒られるとか考えているなら、俺から言って――」
「い、いや、いいけど……でもいいの?」
「何が?」
「も、もれなく背後霊がついてくるけど」
「……はぁ?」
穂香がそっと横に身体を避けると、戸棚の向こうでこちらを見ていたホルマリン漬けが現れる。心なしか、先程見たときより顔が正面を向いているような気がした。
すると、敷島はさらに前のめりに身体を倒して戸棚の奥を見つめる。よく見えていないのか、前髪で隠れた左目を限界まで細めていた。そしてようやく身体を引くと、大きな溜息をついた。
「なるほどな。隠さなくてもアレの近くが良いのなら言ってくれたらいいのに」
「ち、ちがうよ! 私だって嫌だもん!」
「嫌なら素直に変わればいいだろ。それに、さっきからお前が屈むたびに俺と目が合っているから」
「えっ……⁉」
「気付いてなかったのか。その棚の位置なら、俺の背中で隠れるからお前も目を合わせるようなことはないと思う。……頼むよ、今朝の借りを返すと思ってさ」
「……わ、わかった」
誰も好んで座りはしないだろうホルマリン漬けの特等席に執着するのは、ただ端の席だからではないのか――なんて、聞けるわけもなく、穂香はそれ以上何も聞かずに席を交換した。
実際に座って、改めて彼との身長差を感じた。敷島の長身と背中の広さ、そして姿勢の良さによって棚のホルマリン漬けは隠され、穂香と目を合うことは一度もない。こんなことなら、渋ることなくすぐに交換すればよかったと、内心で大きな溜息をついた。
しばらくして同じグループになる生徒がやってくると、それぞれの位置に座った。そのうち一人は敷島と仲が良いのか、授業が始まるギリギリまで談笑していた。勝手に席を変えたことについては誰も触れることはなかった。
授業開始のチャイムが鳴ると同時に、慌しく入ってきた若狭先生が出席を取るとすぐに板書が始まった。今日の実験は準備に時間がかかるらしい。
通常の教室なら、顔を上げれば正面に黒板があるが、実験室のテーブルは黒板を前に縦に長く、生徒は横向きで座ることになる。
席を交換した穂香は板書のために左を向いてはノートに書き写すのを繰り返していた。ふと、視界に敷島の顔が映る。背筋の伸びた美しい姿勢でノートをとる姿は、どう見ても問題児という噂からはかけ離れていた。横目で見た彼のノートは鈴乃と同様に綺麗にまとめられている。今朝助けて貰ったときといい、聞いていた人物とは考えられなかった。
随分間抜けな声を出したと、我ながらに思う。
頼まれているのは席の交換という、頷くだけで解決するようなことなのに、困惑する頭でなぜか彼が「ホルマリン漬けに見守られながら授業を受けたいのではないか」と突飛な想像までしてしまった。
穂香が顔をしかめたからか、敷島は「えっと」と一つ置いて続ける。
「頼むよ。ここだといろいろと不味いんだ」
「不味いって……内申点が足りないとか?」
授業の取り組みの点では良く見られるかもしれないが、仮にも選択教科だ。通常授業に組まれている授業のほうがよほど重要だろう。
「そうそう。内申点もだけどこの身長だろ? 目立ちたくないし、そっちの席の方がいろいろと都合がいい。もしかして先生に怒られるとか考えているなら、俺から言って――」
「い、いや、いいけど……でもいいの?」
「何が?」
「も、もれなく背後霊がついてくるけど」
「……はぁ?」
穂香がそっと横に身体を避けると、戸棚の向こうでこちらを見ていたホルマリン漬けが現れる。心なしか、先程見たときより顔が正面を向いているような気がした。
すると、敷島はさらに前のめりに身体を倒して戸棚の奥を見つめる。よく見えていないのか、前髪で隠れた左目を限界まで細めていた。そしてようやく身体を引くと、大きな溜息をついた。
「なるほどな。隠さなくてもアレの近くが良いのなら言ってくれたらいいのに」
「ち、ちがうよ! 私だって嫌だもん!」
「嫌なら素直に変わればいいだろ。それに、さっきからお前が屈むたびに俺と目が合っているから」
「えっ……⁉」
「気付いてなかったのか。その棚の位置なら、俺の背中で隠れるからお前も目を合わせるようなことはないと思う。……頼むよ、今朝の借りを返すと思ってさ」
「……わ、わかった」
誰も好んで座りはしないだろうホルマリン漬けの特等席に執着するのは、ただ端の席だからではないのか――なんて、聞けるわけもなく、穂香はそれ以上何も聞かずに席を交換した。
実際に座って、改めて彼との身長差を感じた。敷島の長身と背中の広さ、そして姿勢の良さによって棚のホルマリン漬けは隠され、穂香と目を合うことは一度もない。こんなことなら、渋ることなくすぐに交換すればよかったと、内心で大きな溜息をついた。
しばらくして同じグループになる生徒がやってくると、それぞれの位置に座った。そのうち一人は敷島と仲が良いのか、授業が始まるギリギリまで談笑していた。勝手に席を変えたことについては誰も触れることはなかった。
授業開始のチャイムが鳴ると同時に、慌しく入ってきた若狭先生が出席を取るとすぐに板書が始まった。今日の実験は準備に時間がかかるらしい。
通常の教室なら、顔を上げれば正面に黒板があるが、実験室のテーブルは黒板を前に縦に長く、生徒は横向きで座ることになる。
席を交換した穂香は板書のために左を向いてはノートに書き写すのを繰り返していた。ふと、視界に敷島の顔が映る。背筋の伸びた美しい姿勢でノートをとる姿は、どう見ても問題児という噂からはかけ離れていた。横目で見た彼のノートは鈴乃と同様に綺麗にまとめられている。今朝助けて貰ったときといい、聞いていた人物とは考えられなかった。