嘘つきは世界のはじまり

 自宅から学校まで距離が遠いこともあって、穂香は家族の誰よりも早起きだ。
 十二月の早朝はまだ外は薄暗く、うっすらと霧が出ている。穂香が制服に着替えてリビングに行くと、遅くまで残業していた父がソファで眠っていた。
 冬の寒い時期にこんなところで寝落ちしなくてもいいのに。穂香は父の肩を軽く叩いて起こし、寝起きでボソボソと喋る父のから今日の予定を聞き出す。午前中は母の通院に付き合うようで、あと小二時間は寝ていられるとのことだった。
「少しでもいいから布団で横になって。電気毛布入れてあるから、あったかいよ」
「ああ……すまんな」
 一体何時まで仕事をしてきたのだろうか。父はよれたシャツのまま、母が眠っている隣の自分の部屋へ向かう。きっと布団に着いてすぐ寝落ちして、起きてきた母に呆れた顔をされるのが目に見えた。
 穂香は父を見送ると、キッチンに向かい三人分の朝食と自分のお弁当を作り始めた。
 毎朝は必ず白米と味噌汁が決まっていて、おかずは漬物や母が作り置きする煮物を温めるだけ。
 勤務先まで近いこともあって朝は余裕がある両親に代わって、味噌汁だけ作るのが穂香の朝一番の仕事だった。
 生姜と長ねぎを炒めたところに出汁と味噌を入れ、最後に木綿豆腐と油揚げをいれて仕上げる。並行して昨晩余った鮭をほぐしたフレーク、白ごまを白米に混ぜておにぎりを作っておけば一石二鳥だ。おにぎりの粗熱を取っている間に朝食を済ませ、両親の分とは別にスープジャーに味噌汁を入れて蓋をする。おにぎりをラップに包み、スープジャーとともに巾着に入れると、通学用のリュックにつっこんだ。
 片付けをして時計を見れば、まだ六時半を過ぎたところだった。両親が起きてくる気配はない。
 食卓に書き置きをして、穂香はそっと家を出た。
 冷え込んだ朝方に思わず身を震わせ、学校指定のコートと意図的に袖口を伸ばしたカーディガンを一緒に擦りながら、穂香は今日も学校に向かう。
 電車の中は微弱ながらも暖房が入っていることにホッと息をついた。一時間ほど揺られて最寄り駅まで行くと、出勤する人の流れに紛れて改札を出る。ここからさらにバスに揺られなければならないのだが、道中には小中一貫校があるため、この時間帯は学生の利用が多い。
「さむっ……」
 駅から少し離れたバスターミナルまで行くのにだって、冷たい風が肌に刺さってくる。少しでも足を止めれば寒さが襲ってくることもあって、信号待ちはいつもより長く感じた。早く変われ、早く変われと赤く点灯した歩行者用の信号機を見つめる。
 すると突然、背後からドン!と衝撃が走った。
(えっ……⁉)
 突き飛ばされた、というよりぶつかったような感覚だった。
 穂香は勢いで前のめりに倒れ込んでいく。一歩前に踏み出せば車道だった。信号機はまだ赤く点灯したままで、ちょうど車がこちらに曲がって来るのが見えた。
(あ、終わった)
 寒さで悴んだ身体が思う通りに動くわけもなく、穂香はそのまま地面に倒れていく。
 これが自分の最後かもしれない。不思議と目の前の光景がすべてスローモーションに見えるのも納得してしまう。
 振り返れば、白い帽子を被った小学生が視界の端で揺れていた。
 もう終わった、私の人生終わった! ――そこまで考え、ぐっと目を閉じたその瞬間、後ろから勢いよく後ろから引っ張られた。
「えぐっ――⁉」
 どこぞの蛙のような声が喉から飛び出すと、掴まれたリュックとともにコートごと引っ張られた。ワイシャツの第一ボタンまでしっかり留めていたことが災いし、穂香の首が一瞬締まるが、お構いなしにそのまま後ろに引き戻されて勢いよく尻餅をついた。
 咳き込みながら顔を上げると、先程まで迫っていた車が横切っていくところだった。
「た、すかった……?」
 生きた心地がしない。心臓がこんなにもバグバグと音を立てて、生きていることを証明しているのに、座り込んだ際に触れたコンクリートのひんやりとした感覚も確かにあるのに、何が起こったのか上手く呑み込めない。ただ茫然と、信号機が青に切り替わって人が歩き出す横断歩道を見つめていた。
「――大丈夫か?」
 掴まれていたリュックから手が離れ、今度は軽く肩を叩かれる。穂香がそっと顔を向けると、同じ制服を着た長身の男子生徒が焦った表情をして屈んでいた。
「悪い、咄嗟にリュック掴んじまった。怪我は?」
 荒々しい口調と低めのハスキーな声で問われると、穂香は目を疑った。
 重ための前髪から覗く、焦りの色を浮かべた目がつり上がると、蛇に睨まれた蛙のように穂香は身を固くした。どうして彼がここにいるのかと彼の顔を見る。
「な、んで……」
「は? 大丈夫かどうか聞いてんだけど。……まぁ、人の顔を見て驚いているくらいなら平気か」
 立てるか、と男子生徒から差し出された手を思わず凝視する。
 在り得ない、この人が人助けなんてするはずがない。
 同じ目線になる彼――(しき)(しま)(なお)を見て、穂香は息を呑んだ。
 隣のクラスに在籍する彼は、一八五センチの長身と整った容姿、つり上がった眼力に加え、垣間見える気怠そうな態度で問題児扱いされるほど有名だった。話しかけても大体の生徒に対して見下ろす形になってしまい、怖がられることも日常茶飯事だという。
 差し出された手を前に穂香が躊躇っていると、「はぁ……面倒くせぇ」と大きな溜息をついた敷島が強引に手を取った。自分と二十五センチも差がある彼に引っ張られ、穂香はあっという間に立ち上がる。そして手を握ったまま、ざっと全身を見ると、敷島の眉間に寄っていたシワが消えていった。
「怪我は……なさそうだな。よかった」
「あ、ありがとう……」
 震える声でぎこちなく礼を言うと、ぶっきらぼうに「気にすんな」と穂香の手を離した。
 穂香は思わず身構えた。いきなり話しかけられたからということもあるが、何より敷島尚は校内で『一匹狼』と謳われるほど有名なのだ。

 今から一年前――穂香が高校に入学した年に行われた文化祭でのことだ。
 鈴乃から聞いたため詳しい話はわからないが、開催されていたミスコンテストで優勝した当時三年生の女子生徒からの猛烈なアプローチを完膚なきまでに無視し続けたと聞いた。女子生徒は諦めずに声をかけ続け、ようやく目が合って話をしたが彼は悪びれもなく「どちら様ですか?」と一言で終わらせたという。
 それがきっかけで血も涙もない冷徹な人間だと批判され、上級生の目の敵にされていた。

 穂香との接点は今まで一度もないが、一匹狼の話しか知らない彼女にとって、敷島尚が人を助け、手を差し出すなどという行動を目の当たりにして躊躇うには充分だった。
 敷島は周囲を見渡し、横断歩道の向こう側に渡った小学生に向けて舌打ちをした。
「あのガキンチョ……謝りもしないで行きやがった」
「ガキンチョ?」
「お前を突き飛ばした奴らだよ。それが気になって引っ張ってた」
 それ、といって敷島が指さしたのは、リュックのつけているウサギのキャラクターが描かれたキーホルダーとオレンジ色の石がついたチャームだった。
 敷島の話によれば、穂香が横断歩道前で信号機に早く変われと念じていた最中、高校に行く道中にある小中一貫校の制服を来た小学生が、キーホルダーを引っ張っていたのだという。キーホルダーは穂香の親戚が趣味で作ったものであり、銀のプレートにウサギのキャラクターが描かれている。よくテレビで見かける人気のキャラクターであり認知度は高いが、よくもこんな小さなものを見つけられたものだ。
 しかし、敷島は首を横に振った。
「ガキが気になったのは、一緒についているチャームのほうだよ」
「チャーム?」
「寒さに耐え切れずお前が小刻みに揺れたせいで、反射でキーホルダーが光って見えたんだ。気になって思わず手に伸ばしちまったってところだな。別のガキが俺の横を通り過ぎて行って嫌な予感がしていたら、そいつがキーホルダーに夢中になっていた奴の背中を叩いて、驚いた反動でお前を突き飛ばすように倒れたってわけ。ま、ウサギよりかはキラキラしたものに目に入ったってところだな。手に取らないとわからないくらい小さければ、余計気になるだろうし」
「どうして敷島くんは、ウサギだって見えたの?」
 穂香はプレートに描かれたものがウサギだとは一言も告げていない。自分よりも二十五センチ差もある身長では屈まないと見えないはずだ。もちろん一点ものでもあるため、類似品が売っているはずもない。それに対して敷島は「あー……それは」と言葉を詰まらせた。
「リュックを掴んだときに見えたから。長い耳があれば大体ウサギだろ?」
「そ、そう……」
 良いように言い包められた気がしたが、これ以上問い詰めても答えてはくれないだろう。早々に切り上げると、敷島の表情が少しだけ和らいだように見えた。
「キーホルダーが千切れなかったことが幸いだったな。……ったく、お前もボーッとしすぎ。考え事でもしていたのか」
「そういうわけじゃ……」
 初対面の彼に話すことじゃない。内心モヤモヤしながら穂香は目線を逸らした。
鈴乃からの忠告が効いていることが大きいからかもしれない。助けてもらったことに代わりはないが、それだけで信頼できるとは限らないのだ。詳しい話をするつもりは毛頭なかった。
(今日はなんて運がないんだろう)
 朝から寒いし、車に轢かれそうになるし、更には関わるとろくなことがないとまで噂される学校の問題児に遭遇してしまった。
 項垂れている穂香をよそに、敷島はあっけらかんとした口調で問う。
「別にいいけどさ。ところでお前、学校までバス通学?」
「そうだけど、何?」
「最終便、そろそろ出るぞ」
 ああ、本当についていない。
 *

 穂香が教室に自分の席に着いたのは、始業開始のチャイムが校内に鳴り響いた頃だった。敷島の指摘によって最終便ギリギリに乗り込んだものの、これでは朝早く家を出た意味がない。
 一緒にいた敷島は「間に合わねぇから」といって次の出発時刻まで待機しているバスに乗り込んでいった。遅刻前提で確実に乗車する彼の判断力が羨ましいと思う反面、堂々と遅刻する理由が穂香には不思議で仕方がなかった。
 朝からの疲れが顔に出ていたのか、席に着くと同時に鈴乃が声をかけてきた。
「遅刻しかけるのって珍しいよね、何かあった?」
「まぁ、いろいろと。学校に来るまでがちょっとね」
「ふーん……」
 何か探るようにして見てくる鈴乃を横目に、穂香はリュックから授業で使うものを引っ張り出した。文房具、教科書、参考書。鈴乃から借りていた世界史のノートと一緒に、事前にコンビニで買っておいたクッキーを添えて彼女に手渡しする。
「鈴乃、貸してくれてありがとう。すごく助かったよ」
「いいえー。相変わらず穂香はマメだね。わざわざお菓子もつけなくたっていいのに」
「でもすごく助かったから。それにほら、鈴乃が好きなクッキーを見つけちゃったし」
 中学からの付き合いということもあって、穂香は鈴乃の好物を自然に覚えていった。特にアーモンドスライスの入ったボックスクッキーは、コンビニでも手作りでも関係なく、目に入ったらすぐに手に取っているのを何度か見かけたことがある。
 鈴乃はノートとクッキーを受け取ると、クッキーを見て頬を緩めた。穂香が内心ホッとしたと同時に、教室の入口から葉山先生が入ってきて授業が始まる。
「藤宮、授業ノートは間に合ったか?」
 何もクラス全員の前で聞かなくてもいいのに。穂香は完璧に写したノートを広げて堂々と見せると、先生は感心したように「西川にちゃんとお礼を言っておけよ」と見透かされてしまった。
 そのまま何事もなかったかのように授業が進み、いつの間にか終業のチャイムが鳴り響いた。回収されたノートを抱えて先生が教室を出ていくと、一斉にクラスメイトが動き出す。
「穂香、次の選択科目ってどこ?」
「化学だから、理科実験室!」
「そっか。私、古典だから二階の自習室。方向逆じゃん、ショック……」
 この高校では二年生の後半から三年生にかけて、他のクラスと合同で自分が選択した教科を追及する授業が組み込まれる。大学進学への対策はもちろん、苦手な教科を集中的に受けられることに特化しており、そのまま卒業制作に繋がってくるのだという。
 鈴乃は得意な文系を更に伸ばしたいという理由から古典を選んだが、穂香は化学にした。昨年の授業で一番成績が悪かった教科であり、ここから巻き返すことも充分間に合うと、葉山のアドバイスを受けてのことだった。「一緒だったらよかったのに」と鈴乃が拗ねた顔をしたが、ここまで一緒にいると、自分が鈴乃に頼りっぱなしになってしまうような気がした。
 授業に使用するものを抱え、鈴乃と別れて理科実験室に向かう。早めに着いたわりには、すでに半数くらいの生徒が来ていて黒板に群がっていた。上半期の選択教科でも授業を受けているため、実験室の勝手はある程度把握しているが、誰も席に座っていないのは珍しい。
 実験室に入ってくるたびに生徒が足を止めて黒板を見つめる。それは穂香も例外ではなかった。黒板に貼られた図面には、八つのテーブルにそれぞれ生徒の名前が書かれていた。
「今日のメインは実験だってさ!」
「マジかよー……サボれねぇじゃん」
 近くにいた男子生徒が面倒臭そうにぼやいた。黒板の上に大きく「実験のため、グループを分けます。この座席で座ってください」と書かれている。学校の備品に限りがあるのは仕方がないが、内容が変わるなら事前に告知してほしい。
 一部不満の声が聞こえてくる中、穂香は自分の席を探し出す。一つのテーブルに四席。一番後ろのテーブルで、備品が置かれている棚のすぐ近くの席だった。
 人混みを抜けて、まだ誰も座っていないテーブルの自分が座る席に荷物を置こうしてと、突然背筋がぞっとした。
(誰かに見られてる……?)
 そっと後ろを向くと、機材や薬品が置かれている戸棚とちょうど穂香の目線と同じ高さに、ホルマリン漬けにされた得体の知れない生物がこちらに目を向けていた。蛙か蛇かもわからない。魚だったらどれほどよかったことだろう。
「………」
 穂香は絶句した。最悪だ。なんの生物にせよ、どうしてこちらに顔を向けて置くのか。なぜ戸棚の、しかもガラス張りの段に入れたのか。言い出したら不満しかなくて、そっと顔を背けた。
 戸棚には鍵がかかっているため、化学担当の(わか)()先生の許可なく動かすことができない。もちろん先生に事情を話して開けてもらうことは可能だろうが、いつも授業開始のギリギリに入ってきて、終わりと同時に次の授業準備で慌しい先生に話しかけるのは一苦労だ。
 鍵だけを借りられたとしても、穂香自身が動かすことに抵抗がある。移動させる際に中が揺れ、得体のしれない生物と目が合ってしまったら――。
 ああ、考えたくもない!
「――あれ、今朝の人だ」
 頭を抱えていると、今朝聞いたばかりの声がした。見れば、穂香の座る前の席に荷物を乱雑に置く敷島尚がいた。
「あっ……⁉」
「そんな化け物見たような顔するなよ。傷つくじゃん」
 選択授業は今日までに数回――片手で数える程度だが――受けてきているが、穂香の記憶には敷島の姿がない。廊下で先生と話しているだけで噂が立つほど目立つ彼が、同じ教室で授業を受けていたらすぐにわかるはずなのに、まったく覚えがない。
 ただ、今朝の時点でお互いが初対面で初めて言葉を交わしたことは、彼が穂香の名前ではなく「今朝の人」と認知していることで証明された。
「この間、選択授業を変更したい奴は申請するように、ってアンケート用紙が配られただろ? 古典が飽きたから化学に切り替えたんだよ。若狭センセーの授業、楽しいし」
「……アンケートなんてあった?」
「あったよ。一週間前に全クラスに配布されたやつ。覚えてねぇの?」
 全くもって覚えがない。懸命に思い出そうとしても、いろんな記憶が混雑して確実にあったとは断言できない。次第に穂香の顔色が青くなるのを見て、敷島は首を傾げた。
「さっきからしかめ面ばかりだな。もしかして教科変えたかったとか?」
「ううん、そうじゃないんだけど……アンケ―トを受け取った覚えがなくて」
「別に変更がなければ用紙を失くしたって問題ないだろ。変えたい奴だけが出せばいいことになってるし。……そんなことよりさ」
 敷島が突然前のめりになって穂香に近付いてくる。急に距離が近くなって、驚いて息が詰まりそうになる。
 そんなことも知らず、敷島は小さな声でこっそりと問う。
「席、交換してくんない?」
「……へ?」
 随分間抜けな声を出したと、我ながらに思う。
頼まれているのは席の交換という、頷くだけで解決するようなことなのに、困惑する頭でなぜか彼が「ホルマリン漬けに見守られながら授業を受けたいのではないか」と突飛な想像までしてしまった。
 穂香が顔をしかめたからか、敷島は「えっと」と一つ置いて続ける。
「頼むよ。ここだといろいろと不味いんだ」
「不味いって……内申点が足りないとか?」
 授業の取り組みの点では良く見られるかもしれないが、仮にも選択教科だ。通常授業に組まれている授業のほうがよほど重要だろう。
「そうそう。内申点もだけどこの身長だろ? 目立ちたくないし、そっちの席の方がいろいろと都合がいい。もしかして先生に怒られるとか考えているなら、俺から言って――」
「い、いや、いいけど……でもいいの?」
「何が?」
「も、もれなく背後霊がついてくるけど」
「……はぁ?」
 穂香がそっと横に身体を避けると、戸棚の向こうでこちらを見ていたホルマリン漬けが現れる。心なしか、先程見たときより顔が正面を向いているような気がした。
 すると、敷島はさらに前のめりに身体を倒して戸棚の奥を見つめる。よく見えていないのか、前髪で隠れた左目を限界まで細めていた。そしてようやく身体を引くと、大きな溜息をついた。
「なるほどな。隠さなくてもアレの近くが良いのなら言ってくれたらいいのに」
「ち、ちがうよ! 私だって嫌だもん!」
「嫌なら素直に変わればいいだろ。それに、さっきからお前が屈むたびに俺と目が合っているから」
「えっ……⁉」
「気付いてなかったのか。その棚の位置なら、俺の背中で隠れるからお前も目を合わせるようなことはないと思う。……頼むよ、今朝の借りを返すと思ってさ」
「……わ、わかった」
 誰も好んで座りはしないだろうホルマリン漬けの特等席に執着するのは、ただ端の席だからではないのか――なんて、聞けるわけもなく、穂香はそれ以上何も聞かずに席を交換した。
 実際に座って、改めて彼との身長差を感じた。敷島の長身と背中の広さ、そして姿勢の良さによって棚のホルマリン漬けは隠され、穂香と目を合うことは一度もない。こんなことなら、渋ることなくすぐに交換すればよかったと、内心で大きな溜息をついた。
 しばらくして同じグループになる生徒がやってくると、それぞれの位置に座った。そのうち一人は敷島と仲が良いのか、授業が始まるギリギリまで談笑していた。勝手に席を変えたことについては誰も触れることはなかった。
 授業開始のチャイムが鳴ると同時に、慌しく入ってきた若狭先生が出席を取るとすぐに板書が始まった。今日の実験は準備に時間がかかるらしい。
 通常の教室なら、顔を上げれば正面に黒板があるが、実験室のテーブルは黒板を前に縦に長く、生徒は横向きで座ることになる。
 席を交換した穂香は板書のために左を向いてはノートに書き写すのを繰り返していた。ふと、視界に敷島の顔が映る。背筋の伸びた美しい姿勢でノートをとる姿は、どう見ても問題児という噂からはかけ離れていた。横目で見た彼のノートは鈴乃と同様に綺麗にまとめられている。今朝助けて貰ったときといい、聞いていた人物とは考えられなかった。

 授業を終え、備品を片付け終えたところで終了のチャイムが鳴った。次回は今日の実験結果をグループごとに発表するという。挨拶を終えて穂香が荷物をまとめていると、敷島が声をかけた。
「今日は助かった。アレのことは言っとくから!」
「あ、うん……って、ちょっと待って!」
 若狭先生が理科実験室から出ていくのが見えたのか、敷島は慌てて飛び出していく。途端、抱えた荷物からプリントが一枚、ひらりと舞って床に落ちていった。前の授業のものなのか、赤ペンで丸ばかりついた数学の小テストだ。そんなことにも目もくれず、敷島は先生の名を呼びながら出て行ってしまう。
「えぇ……」
 ガラスの靴に比べたら採点済みの小テストなんて安いものだが、放置するわけにもいかない。
 仕方なしに追いかけると、敷島は少し離れた先で先生と真剣な顔つきで話しながら歩いていた。すらっとしたスタイルが存在感を醸し出しており、不意に近付くことを躊躇う。まだ走れば届く距離にいるのに、そこにいるのが敷島ではなく別人のように見えた。
(あんなに近くにいたのに、急に遠い人になってしまった)
 茫然と見つめていると、穂香の後ろから数名の女子生徒が追い越していき、彼の元へと向かっていく。そのまま囲うようにして話しかけているが、彼は応じることなく先生と一緒に先に行ってしまう。いつかの先輩のアプローチにも振り向かなかった冷酷さは健全のようだ。
(冷酷? ううん、話を聞く気がないというよりあれは……)
「穂香、やっと見つけた!」
「わぁっ⁉」
 突然、後ろから羽交い絞めにされる。振り返れば授業終わりの鈴乃が片腕で穂香に抱き着いていた。驚いた穂香の顔を見て満足したのか、解放して「こんなところでなにしてるの?」とケロッとした顔で訊いてくる。
「鈴乃だって、古典のクラスはこの階じゃないでしょ?」
「早めに授業が終わったから穂香を待ってたの。私たちの教室も、別の選択科目がまだ授業中だから入れないしね。それより……」
 鈴乃は穂香が見ていた方向をじっと見つめる。先を歩いていた敷島たちはすでに立ち去っており、廊下には穂香たち以外誰もいない。
「さっき、先生に声をかけようとしてたの?」
「ううん。その……敷島くんに忘れ物を……」
 彼が落とした小テストのプリントを見せると、鈴乃は途端に顔をしかめた。
「敷島って、あの敷島尚? 授業同じだったの?」
「うん。席が近かったんだ。初めて話したけど、聞いていたより全然話しやす――」
「ダメって言ったでしょ⁉」
 穂香の言葉に被せるように、鈴乃は強い口調で声を荒げた。
 今まで見たことがない、苛立っている彼女を前に、穂香は驚いて言葉をひっこめる。ここまで声を荒げることなど、今までなかった。
「鈴乃……?」
「……ごめん、でも良い話は聞かないからさ。この間も他校の男子と喧嘩したらしいし、取り巻きも多いらしいよ」
「そうなの?」
「そうだよ。ああいう奴は猫被っていてもおかしくないんだから。だから何度も近付いちゃダメって言ったでしょ?」
 自分のクラスに戻ったら、理科実験室で話した彼とは別人がいるのかもしれない。アウエーが苦手で猫を被っている可能性もあるだろうが、穂香はそう思えなかった。
 敷島は、授業に支障が出るからといって席を交換してきた。見た目だけで問題児と認定されているが、熱心に授業を聞いていたし、積極的に実験に参加して意見を出していた。なにより、車道に飛び出した自分を助けてくれたのだ。簡単に悪い人というレッテルを貼るには早すぎる気がした。
 今朝のことを含めて鈴乃に話すも、呆れた顔で穂香に言い聞かせる。
 それは嘘だ、あとで何かされるかもしれない――と。垣間見る鈴乃の目がぎらりと光る時は、大抵苛立っている時だと穂香は知っていた。
「穂香は疎いんだから、警戒したほうがいいよ。男なんて何を考えているのか分からないんだから。そんなことより早く教室に戻ろう。次の授業に遅れちゃう」
「……うん」
 敷島くんはそんな人じゃないよ。――声が出そうになるが、必死になって飲み込んだ。
 今朝が初めて言葉を交わした彼を擁護できるほど、自分は彼について何も知らない。
 胸の奥がモヤモヤしたまま、先を行く鈴乃を重い足取りで追った。
 穂香はまた、灰色の夢を見る。
 広い世界に取り残されたようなものではなく、狭い小屋に押し込まれた気味の悪いそれは、物心がつく頃から見続けている。
 年々視界が広がり、近くにあるものを認識できるほど明白になっていった。これが夢だと気付くたびに穂香は落胆した。明晰夢なんて見たくなかった。どうせならもっと楽しいものが良かったと、何度思い、願ったことだろう。
 ただこの日は、珍しく雨が降っていないことが気がかりだった。静まり返った小屋に押し込まれ、屋根と壁の隙間から漏れた光に手を伸ばす。生い茂った木々の隙間を縫うように、半分に欠けている月が顔を覗かせる。灰色一色で染まるのに、その月だけが輝いて見える。
「お月さまが見てくれているから」
 きっと大丈夫。――隣でそう言ったのは、誰だっただろうか。
 *

 枕元に置いたスマホの着信音に起こされ、穂香は顔を上げた。
 家に帰ってから夕食までに時間があったため課題をしていたが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。エアコンの暖房が心地良い室温に設定していたのが仇となったようだ。窓の外は暗く、辺りはしんと静まり返っている。
 机から身体を起こす。ふいに頬に触れると目元に涙の痕が残っていた。
「……誰だったんだろう」
 半年前のある日から、毎日のように同じ灰色の夢を繰り返している。
見るものすべてがモノクロで構成され、無機質ながらも現実味のある夢の舞台は、いつも倉庫のような質素な場所だった。乱雑に置かれた荷物の埃が被った匂い、壁やドアを叩きつけるほど強い雨音さえ肌で感じるほどだ。
 人の声が混ざって聞こえるようになったのはここ最近のことで、最初は雨音に紛れて上手く聞き取れなかったが、誰かに怒鳴りつけている声が微かにしたのを覚えている。
 周囲の様子が確認できたところで引き戸が開かれると、入り込んできた雨がハリボテの床を濡らし、床を真っ黒に染めていく。じっと正面を見つめていると、いつの間にか誰かが立っているのだ。顔まではハッキリ見えないものの、体格からして男女の二人組だったと思う。入ってくるなり、穂香に手を伸ばす。――そして、目が覚めるのだ。
 ずっと繰り返し見てきたこの夢に終わりはない。もしかしたら実際に首を絞められていたのではないかと、起きるたびに鏡の前で首元を確認するのは、いつしか習慣と化していた。
 寝落ちていたとはいえ、机のすぐ近くに置いた鏡で首元を確認する。絞められた痕はなかったことにホッと胸を撫で下ろし、穂香はスマホを手に取った。
 着信の通知に加え、母からのメッセージが入っている。リビングに義兄が来ているらしい。
 身だしなみを軽く整えてリビングに向かうと、珍しく早く帰ってきた父と母、そして姉の夫である(はた)()(たか)(あき)がソファで話をしていた。母が穂香に気付くと、二人も顔を向けた。
「穂香ちゃん、久しぶり。ごめんね、急に押しかけちゃって」
「いえ、すみません。母からのメッセージで目が覚めたので」
「もしかして寝ていた? 起こさない方がよかったかしら」
 母が心配そうに眉をひそめると、穂香は首を振った。仮眠ではなく勉強中の寝落ちだったと話せば「ちゃんと夜も寝てちょうだいね」と釘をさされる。隣で父がまぁまぁ、と宥めた。
「穂香も来年は受験生なんだから、疲れていて当たり前だろう。呼び出して悪かったな」
「ううん……孝明さんが来たってことは、何かあったの?」
 穂香が孝明の方を見ると、困ったように眉を下げた。嫌な予感がして身構えると、孝明は慎重に口を開いた。
「実は――」
「…………そっか」
「残念だけど、もう……」
 孝明は膝に乗せた拳をぎゅっと握る。はっきり告げられた言葉とは裏腹に、身体は小さく震えていた。それは両親も同じで、母は顔を伏せ、その背中を皺の寄った手で父が擦る。穂香は持っていたスマホが落ちないように握るだけで精一杯だった。
 ***

 一夜明けて、澄んだ寒空が広がる十二月の早朝は一段と冷え込んでいた。
 いつもより少し早く目が覚めた穂香は、眠っている両親を起こさないよう朝食の準備をする。長葱と豆腐の味噌汁は作れても食欲が湧かず、自分の朝食を抜いて冷蔵庫にあった高菜の浅漬けを詰め込んだおにぎりを二つ作った。それでも食欲はなく、粗熱がとれたところで包んでリュックに突っ込むと、すぐに家を出る。今は両親の顔を見たくなかった。
 学校に着いて食べればいいと思ったが、途中の自販機で買ったスポーツドリンクを空腹に流し込むと、心なしか膨れた気がした。
 一本早い急行電車に乗ると、うたた寝する乗客を横目に空いている席に座る。いつもより早い時間のせいか、外が薄暗く霧が濃い車窓を眺めながら最寄り駅まで向かう。
 バスターミナルに着くと、ここ数日で見慣れた背中が視界に入った。長身で気怠そうにバスを待つ敷島がこちらを向くと、穂香に気付いて気怠そうに手を挙げた。
「お前、いつもこんなに早いの?」
「敷島くんこそ、この間は遅刻前提でバス乗ってたのに今日は早いんだね」
「言ってろ。いつもより目が覚めるのが早かっただけだ」
 少々不貞腐れた顔をして目を逸らすと、穂香は彼の隣に並んだ。前にも何人か並んでいるが、小中学生の姿はない。よく見れば、穂香が普段から使っている路線の、反対周りのルートを走るバスだった。
「こっちの路線って遠回りだよね? いつもこっちに乗っているの?」
「人少ないし、静かでゆっくりできる。……え? お前もこっち乗るの?」
「うん。今日は早く出てきたから、時間に余裕があるし」
「……嘘だな」
 大きな欠伸をしながら言った敷島に、穂香は図星をつかれた気がした。
 真っ当な会話をしたのはここ最近のことなのに、まるで見透かされたかのような口ぶりの敷島を凝視する。それが睨んでいるように見えたのか、彼は眉をひそめた。
「何があったか知らねぇけど、そんな顔色悪そうにして普段通りを装うなよ」
「別に装ってなんか……え? 顔色?」
「自覚ねぇのかよ……真面目な人間はいつも自分の体調を気にかけないのか? ここに来るまでずっとふらついてたぞ。朝飯は?」
「……た、食べた」
「まさかその手に持っているスポドリで空腹を紛らわせたとか言わないよな? ……マジかよ」
 ちょっと待ってろ、と敷島がリュックをごそごそと漁り始める。それと同時に、バスターミナルに巡回バスが入ってきた。穂香たちが並ぶ乗り場に着くと、ドアが開いたと同時に列も動き出す。
 リュックを漁りながら乗り込む敷島の後に穂香も続いた。いつも乗車している時間帯に比べて空席が目立つ。どの乗客も、座ってすぐに身体を丸めるようにして目を瞑った。
 敷島が後ろの二人掛けの席に座ると、穂香はその前の席に座った。
「隣に来ればいいじゃん。話しにくくなるだろ」
「い、いや! こっちで大丈夫!」
 事あるごとに見透かしてくる相手の隣になんて、嫌でも警戒してしまう。
「まぁいいけど。ほら、これ」
 そういって敷島が穂香に差し出したのは、エネルギー補充重視のゼリー飲料だった。バスターミナルまでの道中で買ったのか、まだ冷たく、表面には水滴がついている。
「やるよ。食欲なくてもこれなら入るだろ」
「いいの? 自分で飲むように買ったんじゃ……」
「スポドリで空腹を紛らわせるよりマシだから。それに俺はちゃんと朝飯食ってから来てる。昼飯は別で買ってるから飲んどけ」
「…………」
「なんだ、その言いたげな顔は」
「……ううん。なんでもない。ありがとう」
 噂で聞いていた話とは正反対な、敷島の素顔に触れたような気がした。穂香は安心したのと同時に、自分しか知らない一面なのではと心なしか嬉しく思える。
 無自覚のうちに暗い顔をしていた穂香の口元が緩んだのを見て、敷島は前屈みに身を乗り出した。