「皆さんおはようございます」
白いコックコートに身を包んでせっせかと調理している厨房の人たちに、入口から明るく挨拶をする。
その拍子に、すっかり胃袋を掴まれてしまった、毎朝お馴染みのその卵の甘い香りがどこからともなく漂ってきて。
――ああ。なんて気持ちの良い朝だろう。
起きてすぐに、こんな最高の料理たちの香りを存分に楽しめるなんて。
と、頬を緩めながら三角巾を結んでいたら。
「つっ、紬生様 ? ! なぜこちらに」
「まだ朝の六時でございますよっ」
「これはまずい、若様に本気で怒られる案件だ」
私の姿を目に入れた途端、厨房にいた人たち全員がぎょっとして、冗談じゃなく本当に五センチくらい飛び跳ねた。
さながら視てはいけないものを視てしまった時のような反応だ。
かと思えば、次の瞬間にはずずずいっと私の周りにすごい勢いでとんできて、蒼白な顔で見つめてくる。
無言の圧力に負けそうになりながらも、私はおずおずと口を開いた。
「え、ええと。拙い腕ではありますが、何かお手伝いできたら、と……」
「そんなっ。滅相もございません!」
「紬生様の御心は誠に嬉しい限りなのですが、こんな朝早くに……どうか、睡眠をしっかりとってくださいませ!」
あわあわとフライ返しや菜箸を握ったままどうにか私を休ませようと頭を抱えるコックさんたち。
対する私は、逆にどうしたらお手伝いさせてもらえるか頭を悩ませる。
この家の人全員、私のことを思ってくれているのは十分すぎるほど伝わってくるんだけど……。
ここに越してきて早2週間。
短いようで長い、ここでの暮らしを支えてくれていたのは紛れもない彼らなわけであって。
やっぱり、私もよそ者なりに皆さんの役に立ちたい。
そう願ってしまうのは我儘だろうか。
膠着状態に困ったように視線を巡らせて――厨房の奥に、もうすっかり馴染みの背中がちらりと覗いた。
「あ、絹恵さんっ。おはようございます」
「おは……紬生様 ! ? これまた随分とお早いご起床でございますね」
例に漏れず、絹恵さんもきっちり五センチ飛び跳ねて、だけどもう慣れっこなのか落ち着いた手付きでお玉を置く。
側に彼女が来ると、あたたかみのある柔らかい香りが鼻をくすぐった。
「紬生様。今朝はよくお眠りになられましたか」
「はい。毎日ありがとうございます。そのお礼、には見合わないですけど……その、料理の腕だけはまともなので」
暗にそれ以外は駄目だというようなニュアンスは、彼女には伝わっただろうか。
“ 癖 ” によって早朝に目覚めてしまう私に、毎朝体を気遣う言葉をかけてくれる絹恵さん。
時々ふっと滲ませる哀しげな色は、恐らく私に対してのものだろう。
そう考えるのは、はたしてそれこそ自意識過剰だろうか。
「紬生様はお料理が得意なのでございますね。それはたいへん頼もしゅうございます」
皆さん、強力な助っ人様がおいでくださいましたよ。
絹恵さんが明るい口調で周りの人たちに声をかけると、解ける様子のなかった空気が少し緩んだ気がした。
「し、しかし、紬生様のお手を煩わせるわけには……っ」
「紬生様自らが手伝いたいとおっしゃっているのですから、いいじゃありませんか。それに誰より、きっと坊ちゃまがお喜びになられると思いますよ」
坊ちゃま、燈矢のことだ。
今ここに燈矢がいたらたぶんまた恒例の討論が繰り広げられるのだろうなぁ、と想像すると、なんとも言えない笑いが込み上げてくる。
絹恵さんに「では紬生様、お味噌汁の支度をお手伝いいただけますか」と奥に連れられ、私は早くも達成感が身にたぎってくるのを感じたのだった。