この世に在るのは、金と理不尽と、欲にまみれた人間だけ。
――ずっと、そう思っていた。
前から歩いてきた人物に肩がぶつかる。
しかし、相手は目立った反応はせず、無言で通り過ぎ去った。
まるで、私の存在すら見えていないかのように。
……所詮、こんなものだろう。
早々に深く考えることを諦め、以前から目をつけていたマンションに入り込む。
守衛はいるが、どっぷりと暗くなった時間に女子高生が一人でうろついていることに驚いたのだろう。案外、簡単に嘘を信じてくれた。
せめてもの償いとして、エレベーターは使わずに階段をひたすらのぼる。
上へ、上へ。
重い金属製の扉を押し開け、迷わずフェンスの方まで進んだ。
肌を生温い風が撫でていく。
眼の前に広がるのは、空。月が照る闇空。
そんな景色さえ自分の存在を否定しているようで、現実から目をそらす。誤魔化し偽る。また逃げる。
でも、逃げるのだって今日でおしまい。
ぼんやり落とした視線の先は、アスファルト。
遠くの喧騒が耳の奥まで響く。
「私が消えたって、誰も困らないだもんね」
だから、しょうがないよね。
誰にともなくつぶやいた言葉が、静かな屋上に融けてゆく。
都会のネオンが明るく闇夜を照らしている。まぶしいほどに。
とっくに、門限は過ぎていた。
それなのにメールの一つすら来ないということは、本当に、私ってどうでもいい存在なんだなぁ。
とうに諦めていたはずなのに、まだ一縷の希望を抱いていたのか。
そんな自分に少し驚くけど、でも、もう全部全部、関係ない。
フェンスに手を掛けて、ひと思いに、身を乗り出した。
「……っ、」
内臓がひっくり返る感覚。
逆さまに反転する世界。
反射的に手を伸ばした時――視界の端に、大きな手のひらが映った。
「バッ、お前!人殺しになりたいのかっ!?」
「――っ」
少々乱暴な手付きで引っぱり上げられて、その胸に飛び込む。
無言でうつむく私。
顎を掴まれて、強制的に視線が交わる。
同じ年頃だろうか。若い男だ。
腰まである括られた白銀の髪が、妖しく揺れている。
肩で息をしている様子を見るに、よほど急いでここまでやってきたのだろう。
この、十四階建てのマンションの屋上まで。
頭の中は、ついさっき身を投げたとは思えないほど、意外にも落ち着いていた。
男は、ふいに目を見開く。
一瞬、息をのんだように言葉を詰まらせたのは、きっと、頬を伝う水滴のせい。
「行き場がないのなら、俺の所へ来い」
低く、傲岸不遜で、でもどこか頼もしい声が私に差し出される。
出逢ったばかりのこの男を、信じていいのか、とか。
そもそも私は、この需要のない命を捨てたかったんじゃないのか、とか。
色んな感情が胸の内でうずめく中、一つの結論が出る――。
この世に在るのは、金と理不尽と、欲にまみれた人間だけ。
ずっと、そう思っていた。
でも違う。
「俺が、お前の居場所になってやる」
例外も、けっしてなくはないのだと、五月九日、小花衣紬生は思い知るのだった。
「……行き、ます」
「そうか」
気づけば、私はこの見知らぬ恩人に、ついていくことにしていた。