人が落ちていた。深夜の細い路地に。大の字で手足はバラバラの方を向いている。
暗い道で事件でも起きたのかと、ぎくりと心臓がはねた。幸太郎はランニングの足を止めて近付いていく。
「どうしました、大丈夫ですか?」
身を屈めてたずねても返事はない。代わりに軽いいびきと酒の臭いが、ぷんと漂う。酔っ払いだ。救急車が必要な重病人ではなかったことにホッとする。
「こんなところで寝ていたら、あぶないですよ」
起こそうと腕をつついてみたが、反応はない。深更の路地に人影は見えない。
だがもし誰かが見つけて、悪心を揺り起こされたら、この男性の財布は空っぽになるだろう。
犯罪に合うのはつらいことだが、人を犯罪に駆り立てる状況をつくることは、より深い罪だと幸太郎は思っている。
見渡すと、道の先に自動販売機の明りが見える。小走りに駆けていき、ミネラルウォーターを買って戻った。
「起きてください、風邪を引きますよ」
肩を叩いてみても、腕を掴んで揺すっても、反応がない。呼吸はしっかりしているわけだし、寝ているだけだと思うのだが。
少々不安になり、幸太郎は膝を折って、水のボトルを男性の首に押し付けた。
「う、んん、うお?」
寝ぼけたような唸り声を出して、男性は焦点の定まらない様子で目を開け、ぼんやりした顔つきで上体を起こした。
ほっと息を吐いて、幸太郎は立ち上がる。
「大丈夫みたいですね。お水、飲んでください」
キャップを外して男性の手にボトルを持たせると、男性は頭をぐらぐら揺らしながらも、ボトルの半量ほどを一気に飲んだ。いくらか意識も戻ったらしい。地面に両手をついて立ち上がろうとする。
幸太郎は腕をとって引っ張り上げてやった。
男性はよろけながらも立ち上がり、幸太郎の肩に肘をのせて、至近距離で幸太郎の顔をじいっと覗き込む。酒臭い息に顔をしかめそうになったが、幸太郎はぐっとこらえた。
「あんた、かわいい顔してるねえ」
「え?」
「もてるだろ」
「いえ、全然」
「そりゃ、いかん! ほら、行こう!」
男性はグイグイと幸太郎の腕を引っ張って歩きだした。
車道の真ん中を歩こうとする酔っ払いを深夜の街に放り出すわけにもいかない。幸太郎は男性を歩道に誘導しつつ、大人しくついていった。
男性は幸太郎より四、五才年上だろう。三十代前半くらいに見える。なんの仕事をしているのか、薄紫色のスーツに金色のネクタイをぶらさげている。
服装だけ見ると、堅気の商売ではないのかもしれないとも思う。だが、あぶない人でもない気がする。どこか剽けていて人好きがする。
「はらへったねえ」
男性は千鳥足で舌もよく回っていない。典型的な酔っ払いだ。幸太郎は面白くなってきて、くすくすと笑い出した。
「どうしたの、お兄ちゃん。ごきげんだねえ」
どちらかと言えば、ごきげんなのは男性の方だと、ますます楽しくなった。
「あなたに会えて楽しかったんです」
男性は照れたようで、酔いのせいで赤い顔をさらに赤くした。
「なんだよ、お兄ちゃん。いい口説き文句持ってんじゃないの。本当にモテるでしょ」
「そうですね、まあまあ」
男性は幸太郎の背中を力強くバンバンと叩く。
「素直でいいじゃないか。お兄ちゃん、名前はなんていうの」
「鈴木幸太郎です」
「幸ちゃんね。俺はねえ、まっちゃん。あ、こっちこっち」
足元はおろそかなのに、まっちゃんは道ははっきり覚えているらしい。住宅街を抜けて、ビジネス街に向かう大きな交差点を目指している。
その行く手に、ぽうっと黄色い灯りを燈した屋台が見えた。
「こんなところに屋台?」
「そそそ。穴場なの。2時からしか開けないからね、酔っぱらいの最後の聖地よ」
まっちゃんは幸太郎の腕から離れて、ふらふらと屋台に近づく。今まで危なげに見える足取りだったものが、聖地を目指すとなると途端にしっかりしている。
現金なものだと幸太郎はまた一人でひっそりと笑った。
「大将、お客さん連れてきたよ」
勢いよく暖簾を上げて、まっちゃんは幸太郎を手招く。
「幸ちゃん、急いで、急いで。満席になっちゃう」
急かされて小走りに近づき、暖簾をくぐる。満席どころか、客は一人もいない。
「いらっしゃい。満席にはならんけん、好きなところに座りんしゃい」
「いいや、大将。今晩はわんさか客が来るよ。なんせ、幸ちゃんがいるから」
木製のベンチタイプのイスのど真ん中に、どっしりと腰掛けたまっちゃんは、急にしっかりした口調になった。店主もまた重大なニュースを聞いてでもいるかのように真剣だ。
「そりゃ大変や。今日は、あんまし仕込みばしとらんとよ」
幸太郎がまっちゃんの隣に腰掛けると、まっちゃんは天井から吊るされた黒板を指差した。
「ここはね、ラーメンとおでん以外は日替わりなの。今日のオススメは、ニラ玉炒めでしょ、大将」
「大当たり。いつも通り、まっちゃんの前で隠し事は出来んばい」
がはははは、と豪快に笑う大将に指を突きつけて、まっちゃんはさらに指摘する。
「今日はビールが少ないんでしょ。俺は芋ロックでいいよ。幸ちゃんは何飲む?」
「烏龍茶で」
ランニングのすぐあとだ。アルコールを飲めばあっという間に酒が回って、今度は幸太郎が千鳥足になるだろう。
「幸ちゃんは自転車の人でしょ。自転車を漕ぐだけじゃなくて、ランニングもするんだね」
「どうしてわかったんですか!?」
「はいよ、お待ち」
驚いて立ち上がりかけた幸太郎の前に烏龍茶のグラス、まっちゃんの前にはなみなみと溢れんばかりの氷に芋焼酎が注がれたロックグラスがやってきた。
幸太郎の疑問に答える間もなく、まっちゃんはグラスを高く掲げて「出会いに乾杯!」と言って、芋ロックを半分ほども飲み込んだ。
いい飲みっぷりを見ていると、まっちゃんは酒好きで本当に害のない男に見える。幸太郎はまっちゃんが口を開くのを大人しく待とうとイスに腰を落ち着けた。
「大将、ニラ玉と、白菜の浅漬。あと、俺はスジとダイコンね」
さっさと注文を通して、まっちゃんは幸太郎の顔を覗き込む。
「俺のオススメは角天。それとトマト」
トマトがメニューにあるのかと見上げてみるが、そこには書かれていない。
まっちゃんが幸太郎の腕をつついて、おでん鍋を指差す。見ると、赤くて丸いトマトのおしりが浮かんでいる。
「おでんにトマトが入ってるんですか」
「そそそ。美味いよお」
勧められるままにおでんを頼み、烏龍茶をすする。
「で、なんだっけ?」
やっと、まっちゃんが話を聞いてくれるようだと口を開こうとしたが、暖簾を上げて客がやってきた。
「いらっしゃい」
大将の挨拶に軽く頭を下げたのは、一人呑みらしい小柄な女性だ。
「よお、華世ちゃん。今夜もごきげんだね」
まっちゃんが手招くと、華夜は素直にまっちゃんの隣にやってきた。
「まっちゃんは、もうすっかり出来上がってますね」
「わかるう? べろべろだよーん」
「誰かに迷惑かけてないですか?」
半分笑いながら眉を潜めてみせる華夜の前に、なにも言わず大将がコップを差し出す。こちらもなみなみと注がれている。日本酒のようだ。
「かけっぱなしだよう。今日は幸ちゃんに面倒見てもらってさあ」
まっちゃんにバシバシと背中を叩かれ、幸太郎はこぼれそうになった烏龍茶のコップを下ろした。
「大変でしたね、幸ちゃん」
華夜が優しく微笑む。幸太郎は大変だったような、そうでもないようなと思いながら、しかし苦笑いしか出てこない。
「はい、幸ちゃん。角天とトマトね。まっちゃんはスジとダイコン。それと白菜」
幸太郎の眼の前に置かれた深皿のへりには少量の黄色いカラシが塗りつけられている。角天と言われるのは博多ではオーソドックスなおでん種、魚のすり身を四角に形成した揚げ物だ。
その横に、野球のボールより少し小さいくらいの真っ赤なトマト。生の状態よりもダシを吸って水気が多そうだ。
珍しさに気を引かれて、トマトに箸をつける。トマトの皮はしっかりと張りがあり、簡単に千切れそうにない。幸太郎は皿を持ち上げて、トマトにかぶりついた。
「!!」
あまりの熱さにトマトを口から取りこぼしてしまった。まっちゃんが幸太郎の顔を指差して笑う。そんなことに頓着している余裕もなく、幸太郎は烏龍茶を飲み干した。
「大将、トマトは噛み付いたらだめだって教えてあげなくちゃ」
華夜はそう言いながらも笑いをこらえている様子だ。
「おお、忘れとったばい。幸ちゃん、トマトは地獄のごたる熱さやけん、気をつけんといかんばい」
大将も烏龍茶のお代わりを注いでくれながら言う。
三人でかわるがわる幸太郎をからかう。熱さのせいが半分、恥ずかしさが半分で幸太郎は赤面した。
「そうでした、答えを聞いてなかったです」
三人の言葉を遮ろうと、幸太郎は咳払いをして、まっちゃんに向き合った。
「答えって、なんの?」
「なんで僕が自転車乗りだってわかったんですか?」
「そりゃあ、ガタイが良いからだよお」
適当なことを言っていることは、ニヤけた表情でわかる。それに、自転車競技を生業にしている幸太郎は、細身で小柄だ。
「もう、まっちゃんはすぐ、そういうことを言うんだから。あのね、幸ちゃん。まっちゃんは、占い師なの。それも、腕利きの」
「占い師?」
「いらっしゃい」
くわしく話を聞こうと口を開きかけたのだが、大将の挨拶に出迎えられた客たちのおしゃべりが幸太郎の声を遮ってしまった。
「あー! まっちゃんだ!」
水商売をしているらしい、美しく髪を結い上げた妙齢の女性が三人、まっちゃんの背後に回った。まっちゃんは三人それぞれと握手をしている。
「まっちゃんの占いは当たるけんねえ。今夜はまだまだお客さんの来るばい」
そう言いながら大将が店の裏に回って、小さめの丸椅子を何脚か店の前に並べている。
幸太郎は女性三人をちらりと観察する。まさか屋台に予約制などないだろう。彼女たちは偶然、今夜、この時間にここに来た。それを見抜いていたと言うなら、まっちゃんの占いは人知をこえるのではないだろうか。
幸太郎は一人でそう思い、一人で首を横に振る。
まさか、占いなんてただの遊びだ。未来なんて誰にもわかるはずがない。
「はい、お待ち。ニラ玉ね」
大将が幸太郎の前に皿を置く。
「え、これはまっちゃんの注文では……」
「いいけん、食べなっせ。まっちゃんな、忙しかけん」
たしかに、まっちゃんは女性三人につつかれながらうろたえている。
「まっちゃんって、こう見えて、うぶなんですよ」
華夜がニラ玉の皿に箸を伸ばしながら笑う。
「運命とか占うからですかねー。自分のことはほったらかしなのに」
ごっそりとニラ玉を掬って口に放り込む華世ちゃんは、まっちゃんとかなり親しいのかもしれない。
「ちょっと、華世ちゃん! それ、俺のニラ玉炒めだから」
「またまたあ。まっちゃん、卵アレルギーじゃないですかあ。幸ちゃんに奢るつもりだったんでしょう」
まっちゃんは言葉に詰まり、視線を宙に浮かした。
「あー、おでんが美味しいなあ! もっと食べたいなあ!」
三人の美女がケタケタ笑いながら華世ちゃんの向こうに腰を下ろした。
「華世ちゃん、相変わらず食いしん坊ね」
美女Aが言う。
「お兄さん、幸ちゃんっていうの? ここのおススメはねえ、トマトだよ、おでんの」
美女Bのセリフに大将が大笑いする。華世ちゃんがスマートフォンの画面を美女たちに見せる。
「もう食べたんですよ、幸ちゃん。ほら、トマト写真」
美女三人組は画面を見たとたんに吹き出した。
「やだあ! 引っかかったんだ!」
「幸ちゃん、まっちゃんの言うことを信じたらだめよお」
「二つ名はホラ吹きまっちゃんだからね!」
美女三人にまざった可愛い系の華夜が不敵に笑う。
「まっちゃんの占いは信憑性があるのかないのかわからないところがウリだから」
「いらっしゃい」
大将の声を追って振り返ると、暖簾を上げてどう見ても堅気のサラリーマンといった男性二人が顔を出していた。濃紺のスーツと濃灰色のピンストライプのスーツ。一見さんなのか、心持ち雰囲気が硬い。
「空いてますか」
「はいよ、そちらの席どうぞ」
幸太郎の隣を指し示され、男性二人は恐る恐るといった風情でイスに腰掛けた。曖昧な笑顔で幸太郎と会釈をかわす。
その後も次々と客がやってきて、すぐに屋台の中は満員になり、店の前の丸椅子も埋まっていく。
「ビールください」
「すんません、今日はもうビールがなかとですよ」
まっちゃんが言った通り、大量の来店客と売り切れるビール。
「そうそう、答えだったね」
唐突にまっちゃんが幸太郎に向き直った。いつの間にそんなに飲んでいたのか、ロックグラスには氷が残っているだけで、まっちゃんの顔はまた真っ赤になっている。
「まあ、種も仕掛けもないんだ。ただたんに俺が競輪ファンなだけ」
ぎくりと幸太郎の肩が揺れた。
「鈴木選手が怪我して休場になったときはファンみんなで心配したよお、幸ちゃん」
まっちゃんの顔を見ることも出来ず、可能であったならば声すら聞きたくはない。幸太郎はうつむいて唇を噛んだ。
「大将、芋ロックおかわり」
がやがやと屋台は賑わっている。女性四人は花が開いたかのように笑い、ビジネスマン二人はしんみりと語り合う。暖簾の外の人たちは今にも踊りだしそうなほど明るく騒いでいる。
そのすべてが、幸太郎の気持ちを暗くさせた。
ここは自分がいるべき場所ではない。
勢いよく立ち上がると、ベンチが倒れそうになるかと思うほどに激しく揺れた。同じベンチに座っているビジネスマンと華夜が驚いて幸太郎を見上げる。
「あ……すみません」
深々と頭を下げて、視界から人を追い出した。誰にも見られたくない。誰も見たくない。
「僕、おいとまします。お会計をお願いします」
「いやいや、もう一品、食べ忘れとるよ。座りんしゃい」
大将の言葉にそっと顔を上げる。大将は我関せずといった風情を見せている。ただいつものように淡々と仕事をこなしているように見える。
「なにも頼んでないですけど……」
「まっちゃんから予約が入っとうと」
まっちゃんに目をやると、視線を合わせないように宙を見て芋ロックをすすっている。なにか言いたげな気配を感じて、幸太郎は静かに腰を下ろした。
大将は屋台の隅に置いている大きな保冷ケースから鶏胸肉を取り出し、カウンターにのっている寿司屋にあるような保冷器からブロッコリーを出した。
鶏胸肉をそぎ切りにして日本酒と片栗粉を揉み込む。
ブロッコリーは一口大に切り、塩水に浸けて洗う。
竹串に鶏肉とブロッコリーを交互に刺して炭火にかける。
ブロッコリーにこんがり焦げ目が付き、鶏胸肉に火が通ったところで皿にとり、青のりを振りかけた。
「ブロッコリーに塩気のあるけん、鶏胸肉と一緒に口に放り込んでやってんない」
言われたとおりに鶏胸肉とブロッコリーを串から食い離す。あつあつの串焼きを熱に負けないように意地になって噛みちぎる。塩気と旨味と熱と、青のりから上り立つ潮の香り。
レースに出られなくなってから走らなくなった海沿いのサイクリングロードを思い出す。競輪場のある市から実家のある博多に戻ってからは意識して海を避けていた。
懐かしくて。潮の香りが懐かしくて。母がケガの回復食にと作ってくれた鶏肉料理が、父が栄養食だと買ってきてくれたブロッコリーの香りが、祖父がわざわざ苦手なネット検索で見つけてくれたアミノ酸を含むという青のりの歯ざわりが。ケガをして休場すると知ったファンからの励ましの手紙が。
幸太郎のケガを癒そうとしている。
「幸ちゃんはさ、黄金色に輝いてるんだよね、走ってるとき」
まっちゃんが視線をそらしたまま言う。目はそらしているのに、手はひょいと伸びて幸太郎のもとから串焼きを1本奪っていった。
「うん、間違いないね。美味いわ」
もごもごと噛みながら喋る。そんなまっちゃんに大将が胸を張ってみせる。
「そりゃあ、俺が作ったけん。間違えるはず、なかろうもん」
「そりゃそうだ」
ハハハと笑うまっちゃんは、がつがつと串焼きを口に放り込み、喋れないほど頬を膨らませた。
大将が苦笑いで大きなため息をひとつ。
「いけんなあ、まっちゃんは。いくつになりんしゃっても恥ずかしがり屋で」
大将の言葉が聞こえなかったふりをしてまっちゃんは女性四人組に視線を送る。女性たちはおしゃべりをやめ、まっちゃんを見つめていた。
「ああ、もう!」
まっちゃんが大声で吠えて芋ロックを飲み干した。
「ええ、ええ。今日、幸ちゃんに食べさせるために大将と一緒に考えたメニューですけど! ケガが早く治るようにって考えましたけど! それがなにか!?」
真っ赤になったまっちゃんを見て、女性たちが吹き出す。大将も笑いのツボにはまったのか、くっくっくと忍び笑いをこぼした。
「そげん、恥ずかしがらんでも良かろうもん。何度も幸ちゃんが来たときのシミュレーションば重ねとってから……」
「大将、それは言わぬが花ですよ!」
華夜が目を吊り上げて大将を叱る。大将はゴマ塩頭に手のひらを乗せて「あいたた、こりゃ、いけんかったばい」と小さな声を漏らした。
「あの、もしかして、まっちゃんは本当に当たる占い師なんですか?」
まっちゃんの代わりに大将が大きくうなずく。幸太郎は食いつきそうな勢いでたずねる。
「それなら、レースの勝敗もわかるんですか!?」
思わず立ち上がりそうになった幸太郎の肩を、まっちゃんは押さえて座らせた。
「いや、わからないよ。わかっちゃいけないんだ」
大将が幸太郎の前にコップを置いた。鼻がすーすーする、温かく爽やかな香りの飲み物だ。
口をつけると、ころころと舌の上を爽やかさが走っていく。
「最近、ハーブティば始めたったい。まっちゃんのオススメのペパーミントティ。体に良いげな」
「たかがお茶って思うか、幸ちゃん」
まっちゃんに聞かれて、幸太郎は首を横に振る。幼い頃から祖母手作りの薬草茶を飲んで育ったのだ。健康優良児だったのはそのおかげだったと思っている。
「そうだよな。人間ってのはさ、飲んだり食べたりしたもので出来てるんだ。口に入れたものが肉体に影響ないなんてありえない」
それは幸太郎の敬愛する先輩も、幸太郎の祖父母、両親も、ケガを見てくれた医師も、リハビリ療法士も。だれもが言っていたことだ。
「でもさ、じゃあなんで、ちゃんとした食事を摂ってたのにケガなんかするんだって、ちらっと思うよね」
幸太郎は深くうつむく。それは本当に毎日思っていることだ。だが、ケガをしたのは自分のミスで、経験が足りなかったからで、レースで気がはやって注意力散漫になったせいだ。
「違うよ、幸ちゃんはちゃんとしてた。ちゃんと食べて、ちゃんとトレーニングして、ちゃんと精神力も鍛えてた」
「じゃあ、なんで!」
思わず幸太郎の口から大きな声が出た。
「なんで俺はケガなんかしたんだ! あんたが本当の占い師ならわかるだろう! なんでだよ!」
「幸ちゃん。占い師は、それだけは占っちゃいけないってのが、2つある。2つもあるんだ」
まっちゃんはグラスを置くと、幸太郎の目をまっすぐに見つめた。
「1つは、勝負事の行方。だから俺は、賭け事はしない」
じゃあ、なんで俺なんかのことを知ってるんだ。
「2つ目は人の生き死に。だから俺は病院に行かない」
じゃあ、なんで栄養学なんか知ってるんだ。
「占いなんてね、当たるも八卦、当たらぬも八卦。それくらいがちょうどいいんだ。だからね、幸ちゃん。俺の今日の占いを聞いてよ」
まっちゃんは、消えそうな、弱々しい笑みを浮かべた。
「幸ちゃんのケガは、今日、完治する。怖がらないで、病院に行っておいで」
「でも、まっちゃん。医者はさ、一生治らないかもって……」
「やぶ医者だな。俺の占いのほうが当たるよ」
「でも、まっちゃん。病院には行かないって言ったじゃないか。医者がやぶかどうか、どうしてわかるんだよ」
まっちゃんは芋ロックをぐっと飲み干して、グラスを大将に手渡した。
「美味かったよ、大将。この世の最後に食べるのは大将のおでんがいいなって、ずっと思ってたんだよ」
「なんだよ、人生の最後って」
幸太郎の言葉に、まっちゃんはまた視線をはずした。
「俺はさ、幸ちゃん。見ちゃったんだよ、俺の寿命を。だから、もう幸ちゃんの試合結果も見ちゃおうって。そうしたらさ、幸ちゃんがケガするってわかって。でもなんにも出来ないじゃない、1ファンになんかさ。なんにも」
大将が芋ロックのお替りを静かにカウンターに置く。
「だからさ、せめて食べてもらいたかったんだよ。幸ちゃんの復帰を願ってる、1ファンの思いをさ」
「まっちゃん……、なんでそんなに透けてるんだよ。なに、まっちゃんって透明人間だったの?」
「自分の寿命ってさ、知ってみると『ふーん』って感じだよ。それより、自分の大切な人たちが長生きしてくれることにほっとしたよ」
「やめてよ、まっちゃん。死んじゃったみたいなこと言うのやめてよ。俺たち、会ったばかりじゃないか。俺のためにメニューも考えてくれたんでしょ」
「幸ちゃん」
「一緒に長生きしようよ。俺、もう負けないから。ケガもしない。だからさ……」
「幸ちゃん」
「なに、まっちゃん」
「かっこいいこと言ってくれてるのに悪いけど。前歯に青のりついてるよ」
まっちゃんはニカッと笑って、空気に取り巻かれたかのようにキラキラした光を残して消えた。
「……まっちゃんこそ。青のりだらけじゃないか」
騒々しい屋台が、急に静かになったようで、幸太郎は嗚咽を漏らさないように唇を噛み締めた。
※※※
「おお。いらっしゃい、幸ちゃん」
暖簾をくぐると、懐かしい黄色の灯りと、ゴマ塩頭の大将が待っていた。
「二年ぶりやないと?」
「そうですね、ちょうど二年目です」
「すごか活躍ばしとるってねえ」
大将にちょっと頭を下げる。あまりに深くうつむくと、泣いてしまいそうだ。幸太郎は新幹線でも抱え続けた花束を、大将に差し出す。
「これ、飾ってくれませんか」
大将は水を注いだビール瓶を3本、幸太郎に差し出した。
「今日はビールを、ようけ準備しとるけん。好きなだけ飲んでやってんない」
幸太郎は花束を3つにわけてビール瓶に挿そうとしたが、とても入りきらない。
大将はいっぱいに水を入れたビール瓶を、もう3本、幸太郎に渡した。
なんとかぎゅうぎゅうとビール瓶に花を詰め込んで、幸太郎は自分の隣に据えて置いた。
「幸ちゃん、なにか飲む?」
「ビールをください」
大将は黙って瓶ビールとコップを幸太郎の前に置いた。
手酌でビールを注いでいると、大将がもう一つコップを渡してくれた。そちらにもビールを注いで花を活けたビール瓶の森にコップを置く。
「まっちゃんは、芋ロックよりビールが好きだったんですか?」
幸太郎がたずねると、大将は大口を開けて笑い飛ばした。
「まっちゃんに酒の好みなんて、なか! あん人は本物の酒飲みたい。なんでも飲んで、なんでも愛しとう。どんなに苦い酒でもたい」
幸太郎もつられて吹き出す。
「なんだ。あの日、ビールをしぶしぶ断念したみたいな言い方だったから、よっぽど好きなのかと思ってた」
「いらっしゃい」
大将の声につられて首を回すと、暖簾をくぐって華夜がやってきた。懐かしい顔を見て、幸太郎は笑みを浮かべる。
「こんばんは、お久しぶりです」
華夜はきょとんとして、幸太郎の顔をじっと見つめる。
「えっと、どこかでお会いしました?」
ああ、あの晩のことは、みんな幻だったのか。不思議な出会いと、不思議な酒宴。あの席に居合わせた人はみんな、あの晩のことを覚えてはいない……。
「あ! あー、あー、あー! 幸ちゃんだ! まっちゃんのお友達の! お久しぶりー!」
「え?」
華夜は幸太郎の隣に座ると、肩をドンと小突いた。
「やだあ、何年ぶりですか? ご無沙汰すぎるう! あ、それとも私とタイミングが合わなかっただけかな」
「あ、いや、2年ぶりです」
「そうなんだ! ねえ、まっちゃんにはもう会った?」
「え?」
「え?」
もう会った? なんのことだ? まっちゃんは寿命が尽きたって……。
「いらっしゃい」
振り向くと、暖簾をくぐってきたのは薄紫のスーツに金色のネクタイ。
「……まっちゃん」
「おー! 幸ちゃん! 久しぶりじゃないの」
「ど、どうして生きて……」
まっちゃんは恥ずかしげに襟元を掻く。
「俺の占いさ、当たらなかったみたいなの」
ぽかんと幸太郎の口が開く。
「医者がさ、百歳まで生きられるだろうってさ」
「そ、え、な、じゃ、え!?」
「まだまだ飲めるよお。お、そのビール瓶、どうしたの。幸ちゃんが全部飲んだの?」
「違いますよ! これはまっちゃんへのはなむけで……」
「優しいなあ、幸ちゃんは」
ニカッと笑ったまっちゃんの歯に、なにを食べてきたのやら、たっぷりと青のりがついている。
「今日もかっこいいセリフ聞かせてよな」
幸太郎が頭を整理しきれないまま大将を仰ぎ見ると、大将は「ちょっとした奇跡はいつもすぐそばで起こりよると」とにやりと笑った。
暗い道で事件でも起きたのかと、ぎくりと心臓がはねた。幸太郎はランニングの足を止めて近付いていく。
「どうしました、大丈夫ですか?」
身を屈めてたずねても返事はない。代わりに軽いいびきと酒の臭いが、ぷんと漂う。酔っ払いだ。救急車が必要な重病人ではなかったことにホッとする。
「こんなところで寝ていたら、あぶないですよ」
起こそうと腕をつついてみたが、反応はない。深更の路地に人影は見えない。
だがもし誰かが見つけて、悪心を揺り起こされたら、この男性の財布は空っぽになるだろう。
犯罪に合うのはつらいことだが、人を犯罪に駆り立てる状況をつくることは、より深い罪だと幸太郎は思っている。
見渡すと、道の先に自動販売機の明りが見える。小走りに駆けていき、ミネラルウォーターを買って戻った。
「起きてください、風邪を引きますよ」
肩を叩いてみても、腕を掴んで揺すっても、反応がない。呼吸はしっかりしているわけだし、寝ているだけだと思うのだが。
少々不安になり、幸太郎は膝を折って、水のボトルを男性の首に押し付けた。
「う、んん、うお?」
寝ぼけたような唸り声を出して、男性は焦点の定まらない様子で目を開け、ぼんやりした顔つきで上体を起こした。
ほっと息を吐いて、幸太郎は立ち上がる。
「大丈夫みたいですね。お水、飲んでください」
キャップを外して男性の手にボトルを持たせると、男性は頭をぐらぐら揺らしながらも、ボトルの半量ほどを一気に飲んだ。いくらか意識も戻ったらしい。地面に両手をついて立ち上がろうとする。
幸太郎は腕をとって引っ張り上げてやった。
男性はよろけながらも立ち上がり、幸太郎の肩に肘をのせて、至近距離で幸太郎の顔をじいっと覗き込む。酒臭い息に顔をしかめそうになったが、幸太郎はぐっとこらえた。
「あんた、かわいい顔してるねえ」
「え?」
「もてるだろ」
「いえ、全然」
「そりゃ、いかん! ほら、行こう!」
男性はグイグイと幸太郎の腕を引っ張って歩きだした。
車道の真ん中を歩こうとする酔っ払いを深夜の街に放り出すわけにもいかない。幸太郎は男性を歩道に誘導しつつ、大人しくついていった。
男性は幸太郎より四、五才年上だろう。三十代前半くらいに見える。なんの仕事をしているのか、薄紫色のスーツに金色のネクタイをぶらさげている。
服装だけ見ると、堅気の商売ではないのかもしれないとも思う。だが、あぶない人でもない気がする。どこか剽けていて人好きがする。
「はらへったねえ」
男性は千鳥足で舌もよく回っていない。典型的な酔っ払いだ。幸太郎は面白くなってきて、くすくすと笑い出した。
「どうしたの、お兄ちゃん。ごきげんだねえ」
どちらかと言えば、ごきげんなのは男性の方だと、ますます楽しくなった。
「あなたに会えて楽しかったんです」
男性は照れたようで、酔いのせいで赤い顔をさらに赤くした。
「なんだよ、お兄ちゃん。いい口説き文句持ってんじゃないの。本当にモテるでしょ」
「そうですね、まあまあ」
男性は幸太郎の背中を力強くバンバンと叩く。
「素直でいいじゃないか。お兄ちゃん、名前はなんていうの」
「鈴木幸太郎です」
「幸ちゃんね。俺はねえ、まっちゃん。あ、こっちこっち」
足元はおろそかなのに、まっちゃんは道ははっきり覚えているらしい。住宅街を抜けて、ビジネス街に向かう大きな交差点を目指している。
その行く手に、ぽうっと黄色い灯りを燈した屋台が見えた。
「こんなところに屋台?」
「そそそ。穴場なの。2時からしか開けないからね、酔っぱらいの最後の聖地よ」
まっちゃんは幸太郎の腕から離れて、ふらふらと屋台に近づく。今まで危なげに見える足取りだったものが、聖地を目指すとなると途端にしっかりしている。
現金なものだと幸太郎はまた一人でひっそりと笑った。
「大将、お客さん連れてきたよ」
勢いよく暖簾を上げて、まっちゃんは幸太郎を手招く。
「幸ちゃん、急いで、急いで。満席になっちゃう」
急かされて小走りに近づき、暖簾をくぐる。満席どころか、客は一人もいない。
「いらっしゃい。満席にはならんけん、好きなところに座りんしゃい」
「いいや、大将。今晩はわんさか客が来るよ。なんせ、幸ちゃんがいるから」
木製のベンチタイプのイスのど真ん中に、どっしりと腰掛けたまっちゃんは、急にしっかりした口調になった。店主もまた重大なニュースを聞いてでもいるかのように真剣だ。
「そりゃ大変や。今日は、あんまし仕込みばしとらんとよ」
幸太郎がまっちゃんの隣に腰掛けると、まっちゃんは天井から吊るされた黒板を指差した。
「ここはね、ラーメンとおでん以外は日替わりなの。今日のオススメは、ニラ玉炒めでしょ、大将」
「大当たり。いつも通り、まっちゃんの前で隠し事は出来んばい」
がはははは、と豪快に笑う大将に指を突きつけて、まっちゃんはさらに指摘する。
「今日はビールが少ないんでしょ。俺は芋ロックでいいよ。幸ちゃんは何飲む?」
「烏龍茶で」
ランニングのすぐあとだ。アルコールを飲めばあっという間に酒が回って、今度は幸太郎が千鳥足になるだろう。
「幸ちゃんは自転車の人でしょ。自転車を漕ぐだけじゃなくて、ランニングもするんだね」
「どうしてわかったんですか!?」
「はいよ、お待ち」
驚いて立ち上がりかけた幸太郎の前に烏龍茶のグラス、まっちゃんの前にはなみなみと溢れんばかりの氷に芋焼酎が注がれたロックグラスがやってきた。
幸太郎の疑問に答える間もなく、まっちゃんはグラスを高く掲げて「出会いに乾杯!」と言って、芋ロックを半分ほども飲み込んだ。
いい飲みっぷりを見ていると、まっちゃんは酒好きで本当に害のない男に見える。幸太郎はまっちゃんが口を開くのを大人しく待とうとイスに腰を落ち着けた。
「大将、ニラ玉と、白菜の浅漬。あと、俺はスジとダイコンね」
さっさと注文を通して、まっちゃんは幸太郎の顔を覗き込む。
「俺のオススメは角天。それとトマト」
トマトがメニューにあるのかと見上げてみるが、そこには書かれていない。
まっちゃんが幸太郎の腕をつついて、おでん鍋を指差す。見ると、赤くて丸いトマトのおしりが浮かんでいる。
「おでんにトマトが入ってるんですか」
「そそそ。美味いよお」
勧められるままにおでんを頼み、烏龍茶をすする。
「で、なんだっけ?」
やっと、まっちゃんが話を聞いてくれるようだと口を開こうとしたが、暖簾を上げて客がやってきた。
「いらっしゃい」
大将の挨拶に軽く頭を下げたのは、一人呑みらしい小柄な女性だ。
「よお、華世ちゃん。今夜もごきげんだね」
まっちゃんが手招くと、華夜は素直にまっちゃんの隣にやってきた。
「まっちゃんは、もうすっかり出来上がってますね」
「わかるう? べろべろだよーん」
「誰かに迷惑かけてないですか?」
半分笑いながら眉を潜めてみせる華夜の前に、なにも言わず大将がコップを差し出す。こちらもなみなみと注がれている。日本酒のようだ。
「かけっぱなしだよう。今日は幸ちゃんに面倒見てもらってさあ」
まっちゃんにバシバシと背中を叩かれ、幸太郎はこぼれそうになった烏龍茶のコップを下ろした。
「大変でしたね、幸ちゃん」
華夜が優しく微笑む。幸太郎は大変だったような、そうでもないようなと思いながら、しかし苦笑いしか出てこない。
「はい、幸ちゃん。角天とトマトね。まっちゃんはスジとダイコン。それと白菜」
幸太郎の眼の前に置かれた深皿のへりには少量の黄色いカラシが塗りつけられている。角天と言われるのは博多ではオーソドックスなおでん種、魚のすり身を四角に形成した揚げ物だ。
その横に、野球のボールより少し小さいくらいの真っ赤なトマト。生の状態よりもダシを吸って水気が多そうだ。
珍しさに気を引かれて、トマトに箸をつける。トマトの皮はしっかりと張りがあり、簡単に千切れそうにない。幸太郎は皿を持ち上げて、トマトにかぶりついた。
「!!」
あまりの熱さにトマトを口から取りこぼしてしまった。まっちゃんが幸太郎の顔を指差して笑う。そんなことに頓着している余裕もなく、幸太郎は烏龍茶を飲み干した。
「大将、トマトは噛み付いたらだめだって教えてあげなくちゃ」
華夜はそう言いながらも笑いをこらえている様子だ。
「おお、忘れとったばい。幸ちゃん、トマトは地獄のごたる熱さやけん、気をつけんといかんばい」
大将も烏龍茶のお代わりを注いでくれながら言う。
三人でかわるがわる幸太郎をからかう。熱さのせいが半分、恥ずかしさが半分で幸太郎は赤面した。
「そうでした、答えを聞いてなかったです」
三人の言葉を遮ろうと、幸太郎は咳払いをして、まっちゃんに向き合った。
「答えって、なんの?」
「なんで僕が自転車乗りだってわかったんですか?」
「そりゃあ、ガタイが良いからだよお」
適当なことを言っていることは、ニヤけた表情でわかる。それに、自転車競技を生業にしている幸太郎は、細身で小柄だ。
「もう、まっちゃんはすぐ、そういうことを言うんだから。あのね、幸ちゃん。まっちゃんは、占い師なの。それも、腕利きの」
「占い師?」
「いらっしゃい」
くわしく話を聞こうと口を開きかけたのだが、大将の挨拶に出迎えられた客たちのおしゃべりが幸太郎の声を遮ってしまった。
「あー! まっちゃんだ!」
水商売をしているらしい、美しく髪を結い上げた妙齢の女性が三人、まっちゃんの背後に回った。まっちゃんは三人それぞれと握手をしている。
「まっちゃんの占いは当たるけんねえ。今夜はまだまだお客さんの来るばい」
そう言いながら大将が店の裏に回って、小さめの丸椅子を何脚か店の前に並べている。
幸太郎は女性三人をちらりと観察する。まさか屋台に予約制などないだろう。彼女たちは偶然、今夜、この時間にここに来た。それを見抜いていたと言うなら、まっちゃんの占いは人知をこえるのではないだろうか。
幸太郎は一人でそう思い、一人で首を横に振る。
まさか、占いなんてただの遊びだ。未来なんて誰にもわかるはずがない。
「はい、お待ち。ニラ玉ね」
大将が幸太郎の前に皿を置く。
「え、これはまっちゃんの注文では……」
「いいけん、食べなっせ。まっちゃんな、忙しかけん」
たしかに、まっちゃんは女性三人につつかれながらうろたえている。
「まっちゃんって、こう見えて、うぶなんですよ」
華夜がニラ玉の皿に箸を伸ばしながら笑う。
「運命とか占うからですかねー。自分のことはほったらかしなのに」
ごっそりとニラ玉を掬って口に放り込む華世ちゃんは、まっちゃんとかなり親しいのかもしれない。
「ちょっと、華世ちゃん! それ、俺のニラ玉炒めだから」
「またまたあ。まっちゃん、卵アレルギーじゃないですかあ。幸ちゃんに奢るつもりだったんでしょう」
まっちゃんは言葉に詰まり、視線を宙に浮かした。
「あー、おでんが美味しいなあ! もっと食べたいなあ!」
三人の美女がケタケタ笑いながら華世ちゃんの向こうに腰を下ろした。
「華世ちゃん、相変わらず食いしん坊ね」
美女Aが言う。
「お兄さん、幸ちゃんっていうの? ここのおススメはねえ、トマトだよ、おでんの」
美女Bのセリフに大将が大笑いする。華世ちゃんがスマートフォンの画面を美女たちに見せる。
「もう食べたんですよ、幸ちゃん。ほら、トマト写真」
美女三人組は画面を見たとたんに吹き出した。
「やだあ! 引っかかったんだ!」
「幸ちゃん、まっちゃんの言うことを信じたらだめよお」
「二つ名はホラ吹きまっちゃんだからね!」
美女三人にまざった可愛い系の華夜が不敵に笑う。
「まっちゃんの占いは信憑性があるのかないのかわからないところがウリだから」
「いらっしゃい」
大将の声を追って振り返ると、暖簾を上げてどう見ても堅気のサラリーマンといった男性二人が顔を出していた。濃紺のスーツと濃灰色のピンストライプのスーツ。一見さんなのか、心持ち雰囲気が硬い。
「空いてますか」
「はいよ、そちらの席どうぞ」
幸太郎の隣を指し示され、男性二人は恐る恐るといった風情でイスに腰掛けた。曖昧な笑顔で幸太郎と会釈をかわす。
その後も次々と客がやってきて、すぐに屋台の中は満員になり、店の前の丸椅子も埋まっていく。
「ビールください」
「すんません、今日はもうビールがなかとですよ」
まっちゃんが言った通り、大量の来店客と売り切れるビール。
「そうそう、答えだったね」
唐突にまっちゃんが幸太郎に向き直った。いつの間にそんなに飲んでいたのか、ロックグラスには氷が残っているだけで、まっちゃんの顔はまた真っ赤になっている。
「まあ、種も仕掛けもないんだ。ただたんに俺が競輪ファンなだけ」
ぎくりと幸太郎の肩が揺れた。
「鈴木選手が怪我して休場になったときはファンみんなで心配したよお、幸ちゃん」
まっちゃんの顔を見ることも出来ず、可能であったならば声すら聞きたくはない。幸太郎はうつむいて唇を噛んだ。
「大将、芋ロックおかわり」
がやがやと屋台は賑わっている。女性四人は花が開いたかのように笑い、ビジネスマン二人はしんみりと語り合う。暖簾の外の人たちは今にも踊りだしそうなほど明るく騒いでいる。
そのすべてが、幸太郎の気持ちを暗くさせた。
ここは自分がいるべき場所ではない。
勢いよく立ち上がると、ベンチが倒れそうになるかと思うほどに激しく揺れた。同じベンチに座っているビジネスマンと華夜が驚いて幸太郎を見上げる。
「あ……すみません」
深々と頭を下げて、視界から人を追い出した。誰にも見られたくない。誰も見たくない。
「僕、おいとまします。お会計をお願いします」
「いやいや、もう一品、食べ忘れとるよ。座りんしゃい」
大将の言葉にそっと顔を上げる。大将は我関せずといった風情を見せている。ただいつものように淡々と仕事をこなしているように見える。
「なにも頼んでないですけど……」
「まっちゃんから予約が入っとうと」
まっちゃんに目をやると、視線を合わせないように宙を見て芋ロックをすすっている。なにか言いたげな気配を感じて、幸太郎は静かに腰を下ろした。
大将は屋台の隅に置いている大きな保冷ケースから鶏胸肉を取り出し、カウンターにのっている寿司屋にあるような保冷器からブロッコリーを出した。
鶏胸肉をそぎ切りにして日本酒と片栗粉を揉み込む。
ブロッコリーは一口大に切り、塩水に浸けて洗う。
竹串に鶏肉とブロッコリーを交互に刺して炭火にかける。
ブロッコリーにこんがり焦げ目が付き、鶏胸肉に火が通ったところで皿にとり、青のりを振りかけた。
「ブロッコリーに塩気のあるけん、鶏胸肉と一緒に口に放り込んでやってんない」
言われたとおりに鶏胸肉とブロッコリーを串から食い離す。あつあつの串焼きを熱に負けないように意地になって噛みちぎる。塩気と旨味と熱と、青のりから上り立つ潮の香り。
レースに出られなくなってから走らなくなった海沿いのサイクリングロードを思い出す。競輪場のある市から実家のある博多に戻ってからは意識して海を避けていた。
懐かしくて。潮の香りが懐かしくて。母がケガの回復食にと作ってくれた鶏肉料理が、父が栄養食だと買ってきてくれたブロッコリーの香りが、祖父がわざわざ苦手なネット検索で見つけてくれたアミノ酸を含むという青のりの歯ざわりが。ケガをして休場すると知ったファンからの励ましの手紙が。
幸太郎のケガを癒そうとしている。
「幸ちゃんはさ、黄金色に輝いてるんだよね、走ってるとき」
まっちゃんが視線をそらしたまま言う。目はそらしているのに、手はひょいと伸びて幸太郎のもとから串焼きを1本奪っていった。
「うん、間違いないね。美味いわ」
もごもごと噛みながら喋る。そんなまっちゃんに大将が胸を張ってみせる。
「そりゃあ、俺が作ったけん。間違えるはず、なかろうもん」
「そりゃそうだ」
ハハハと笑うまっちゃんは、がつがつと串焼きを口に放り込み、喋れないほど頬を膨らませた。
大将が苦笑いで大きなため息をひとつ。
「いけんなあ、まっちゃんは。いくつになりんしゃっても恥ずかしがり屋で」
大将の言葉が聞こえなかったふりをしてまっちゃんは女性四人組に視線を送る。女性たちはおしゃべりをやめ、まっちゃんを見つめていた。
「ああ、もう!」
まっちゃんが大声で吠えて芋ロックを飲み干した。
「ええ、ええ。今日、幸ちゃんに食べさせるために大将と一緒に考えたメニューですけど! ケガが早く治るようにって考えましたけど! それがなにか!?」
真っ赤になったまっちゃんを見て、女性たちが吹き出す。大将も笑いのツボにはまったのか、くっくっくと忍び笑いをこぼした。
「そげん、恥ずかしがらんでも良かろうもん。何度も幸ちゃんが来たときのシミュレーションば重ねとってから……」
「大将、それは言わぬが花ですよ!」
華夜が目を吊り上げて大将を叱る。大将はゴマ塩頭に手のひらを乗せて「あいたた、こりゃ、いけんかったばい」と小さな声を漏らした。
「あの、もしかして、まっちゃんは本当に当たる占い師なんですか?」
まっちゃんの代わりに大将が大きくうなずく。幸太郎は食いつきそうな勢いでたずねる。
「それなら、レースの勝敗もわかるんですか!?」
思わず立ち上がりそうになった幸太郎の肩を、まっちゃんは押さえて座らせた。
「いや、わからないよ。わかっちゃいけないんだ」
大将が幸太郎の前にコップを置いた。鼻がすーすーする、温かく爽やかな香りの飲み物だ。
口をつけると、ころころと舌の上を爽やかさが走っていく。
「最近、ハーブティば始めたったい。まっちゃんのオススメのペパーミントティ。体に良いげな」
「たかがお茶って思うか、幸ちゃん」
まっちゃんに聞かれて、幸太郎は首を横に振る。幼い頃から祖母手作りの薬草茶を飲んで育ったのだ。健康優良児だったのはそのおかげだったと思っている。
「そうだよな。人間ってのはさ、飲んだり食べたりしたもので出来てるんだ。口に入れたものが肉体に影響ないなんてありえない」
それは幸太郎の敬愛する先輩も、幸太郎の祖父母、両親も、ケガを見てくれた医師も、リハビリ療法士も。だれもが言っていたことだ。
「でもさ、じゃあなんで、ちゃんとした食事を摂ってたのにケガなんかするんだって、ちらっと思うよね」
幸太郎は深くうつむく。それは本当に毎日思っていることだ。だが、ケガをしたのは自分のミスで、経験が足りなかったからで、レースで気がはやって注意力散漫になったせいだ。
「違うよ、幸ちゃんはちゃんとしてた。ちゃんと食べて、ちゃんとトレーニングして、ちゃんと精神力も鍛えてた」
「じゃあ、なんで!」
思わず幸太郎の口から大きな声が出た。
「なんで俺はケガなんかしたんだ! あんたが本当の占い師ならわかるだろう! なんでだよ!」
「幸ちゃん。占い師は、それだけは占っちゃいけないってのが、2つある。2つもあるんだ」
まっちゃんはグラスを置くと、幸太郎の目をまっすぐに見つめた。
「1つは、勝負事の行方。だから俺は、賭け事はしない」
じゃあ、なんで俺なんかのことを知ってるんだ。
「2つ目は人の生き死に。だから俺は病院に行かない」
じゃあ、なんで栄養学なんか知ってるんだ。
「占いなんてね、当たるも八卦、当たらぬも八卦。それくらいがちょうどいいんだ。だからね、幸ちゃん。俺の今日の占いを聞いてよ」
まっちゃんは、消えそうな、弱々しい笑みを浮かべた。
「幸ちゃんのケガは、今日、完治する。怖がらないで、病院に行っておいで」
「でも、まっちゃん。医者はさ、一生治らないかもって……」
「やぶ医者だな。俺の占いのほうが当たるよ」
「でも、まっちゃん。病院には行かないって言ったじゃないか。医者がやぶかどうか、どうしてわかるんだよ」
まっちゃんは芋ロックをぐっと飲み干して、グラスを大将に手渡した。
「美味かったよ、大将。この世の最後に食べるのは大将のおでんがいいなって、ずっと思ってたんだよ」
「なんだよ、人生の最後って」
幸太郎の言葉に、まっちゃんはまた視線をはずした。
「俺はさ、幸ちゃん。見ちゃったんだよ、俺の寿命を。だから、もう幸ちゃんの試合結果も見ちゃおうって。そうしたらさ、幸ちゃんがケガするってわかって。でもなんにも出来ないじゃない、1ファンになんかさ。なんにも」
大将が芋ロックのお替りを静かにカウンターに置く。
「だからさ、せめて食べてもらいたかったんだよ。幸ちゃんの復帰を願ってる、1ファンの思いをさ」
「まっちゃん……、なんでそんなに透けてるんだよ。なに、まっちゃんって透明人間だったの?」
「自分の寿命ってさ、知ってみると『ふーん』って感じだよ。それより、自分の大切な人たちが長生きしてくれることにほっとしたよ」
「やめてよ、まっちゃん。死んじゃったみたいなこと言うのやめてよ。俺たち、会ったばかりじゃないか。俺のためにメニューも考えてくれたんでしょ」
「幸ちゃん」
「一緒に長生きしようよ。俺、もう負けないから。ケガもしない。だからさ……」
「幸ちゃん」
「なに、まっちゃん」
「かっこいいこと言ってくれてるのに悪いけど。前歯に青のりついてるよ」
まっちゃんはニカッと笑って、空気に取り巻かれたかのようにキラキラした光を残して消えた。
「……まっちゃんこそ。青のりだらけじゃないか」
騒々しい屋台が、急に静かになったようで、幸太郎は嗚咽を漏らさないように唇を噛み締めた。
※※※
「おお。いらっしゃい、幸ちゃん」
暖簾をくぐると、懐かしい黄色の灯りと、ゴマ塩頭の大将が待っていた。
「二年ぶりやないと?」
「そうですね、ちょうど二年目です」
「すごか活躍ばしとるってねえ」
大将にちょっと頭を下げる。あまりに深くうつむくと、泣いてしまいそうだ。幸太郎は新幹線でも抱え続けた花束を、大将に差し出す。
「これ、飾ってくれませんか」
大将は水を注いだビール瓶を3本、幸太郎に差し出した。
「今日はビールを、ようけ準備しとるけん。好きなだけ飲んでやってんない」
幸太郎は花束を3つにわけてビール瓶に挿そうとしたが、とても入りきらない。
大将はいっぱいに水を入れたビール瓶を、もう3本、幸太郎に渡した。
なんとかぎゅうぎゅうとビール瓶に花を詰め込んで、幸太郎は自分の隣に据えて置いた。
「幸ちゃん、なにか飲む?」
「ビールをください」
大将は黙って瓶ビールとコップを幸太郎の前に置いた。
手酌でビールを注いでいると、大将がもう一つコップを渡してくれた。そちらにもビールを注いで花を活けたビール瓶の森にコップを置く。
「まっちゃんは、芋ロックよりビールが好きだったんですか?」
幸太郎がたずねると、大将は大口を開けて笑い飛ばした。
「まっちゃんに酒の好みなんて、なか! あん人は本物の酒飲みたい。なんでも飲んで、なんでも愛しとう。どんなに苦い酒でもたい」
幸太郎もつられて吹き出す。
「なんだ。あの日、ビールをしぶしぶ断念したみたいな言い方だったから、よっぽど好きなのかと思ってた」
「いらっしゃい」
大将の声につられて首を回すと、暖簾をくぐって華夜がやってきた。懐かしい顔を見て、幸太郎は笑みを浮かべる。
「こんばんは、お久しぶりです」
華夜はきょとんとして、幸太郎の顔をじっと見つめる。
「えっと、どこかでお会いしました?」
ああ、あの晩のことは、みんな幻だったのか。不思議な出会いと、不思議な酒宴。あの席に居合わせた人はみんな、あの晩のことを覚えてはいない……。
「あ! あー、あー、あー! 幸ちゃんだ! まっちゃんのお友達の! お久しぶりー!」
「え?」
華夜は幸太郎の隣に座ると、肩をドンと小突いた。
「やだあ、何年ぶりですか? ご無沙汰すぎるう! あ、それとも私とタイミングが合わなかっただけかな」
「あ、いや、2年ぶりです」
「そうなんだ! ねえ、まっちゃんにはもう会った?」
「え?」
「え?」
もう会った? なんのことだ? まっちゃんは寿命が尽きたって……。
「いらっしゃい」
振り向くと、暖簾をくぐってきたのは薄紫のスーツに金色のネクタイ。
「……まっちゃん」
「おー! 幸ちゃん! 久しぶりじゃないの」
「ど、どうして生きて……」
まっちゃんは恥ずかしげに襟元を掻く。
「俺の占いさ、当たらなかったみたいなの」
ぽかんと幸太郎の口が開く。
「医者がさ、百歳まで生きられるだろうってさ」
「そ、え、な、じゃ、え!?」
「まだまだ飲めるよお。お、そのビール瓶、どうしたの。幸ちゃんが全部飲んだの?」
「違いますよ! これはまっちゃんへのはなむけで……」
「優しいなあ、幸ちゃんは」
ニカッと笑ったまっちゃんの歯に、なにを食べてきたのやら、たっぷりと青のりがついている。
「今日もかっこいいセリフ聞かせてよな」
幸太郎が頭を整理しきれないまま大将を仰ぎ見ると、大将は「ちょっとした奇跡はいつもすぐそばで起こりよると」とにやりと笑った。