どんなに驚く出来事があっても、毎日は変わらずに進んでいく。
「……朝乃」
田中先生による数学の授業をぼんやりときいていると、ふいにとなりから声をかけられてびくんと肩が震える。
「これ、落ちたよ」
「あっ……ありがと」
出来るだけ目を合わせないようにしながら手を伸ばすと、ひょいっとかわされてしまった。
「え、ちょっと」
「なか、見てもいい?」
「だめだよ。返して」
とは言ったものの、水谷くんのほうを一度も見ていないから何の紙かまったく分からない。
けれどいま水谷くんと目を合わせたら、きっともう後戻りはできないような気がした。
「朝乃、こっち向いて」
「や、やだ」
「じゃあ中身、見せてくれたら返してあげる」
……どうせ大したものじゃないだろうし、目を合わせるよりはマシ、か。
そう思ってこくりとうなずいた私。
が、いけなかった。
「……」
無言。どこまでも無言だった。
さすがに何の反応もないから、見せたらマズい紙だったのかも、と急に不安になってくる。
ちらっと横目で水谷くんを見てみると、彼は案の定、その紙を凝視しては固まっていた。
「……なに、書いてあるの?」
「……」
きいても、全然答えてくれない。
ええい、もう仕方がない。
顔を見せて、紙を返してもらうしか────。
「……っ」
私はてっきり、水谷くんの視線は私を向いているものだと思っていた。
彼はしつこいくらいなぜか私に執着していたし、今だって、視線を合わせるための演技なのかなって。
だけど、違った。
まっすぐ、揺らがず、目を大きく見開いてずっと紙を見続けている。
水谷くんの目線は、右に左にと紙をなぞるようにすべっていく。
「……みずたに、くん?」
あなたは、いったい何を見ているの。
そんなに驚くようなことが、そこには書いてあるの?
緊張で汗が流れる。ごくりと唾を飲んだ。
しばらく呆然としていた水谷くんは、顔面蒼白状態のまま、私に折りたたんだ紙を返した。
そして、ガタッと席を立つと、ふらつくような足取りで先生のところまで歩いていき、
「保健室、いきます」
と告げた。
「水谷くん、具合が悪いのですか?」
「……まぁ、ちょっと」
「これはいけません。保健室まで一人でいけますか?」
「大丈夫です」
ガラガラと閉まった戸。
私は水谷くんに返してもらった紙をそうっと開いてみた。
「───…え」
それは、小説のキャラのプロフィールが書かれた、あの紙だった。
この間カフェで羽花ちゃんと勉強したときに、紙を見せてから、筆箱に入れたんだった。
それを私は危なっかしいことに、落としてしまったんだ。
「あれ?」
はた、と気がつく。
水谷くんは、どうしてこれを見てあんなに焦るんだろう。
これが名高先生と繋がりのある紙だってことを知っているファンの私なら大興奮だけど、だったら水谷くんはどうして……?
ぐるぐる、ぐるぐる。
また新たな謎が追加されて、名高先生の正体が遠ざかっていく。
「①と④の解答は同じですね。では、この計算と、こちらの計算の答えはどうなりますか? では……朝乃さん」
水谷くんの目の真剣さと言ったら、今までの比じゃなかった。
水谷くんは、私に何か隠していることがある?
『まあ……趣味、ってやつ』
そういえば、彼は少し前にこんなことを言っていた。
水谷くんの趣味って、なに?
「……り、みーり。当てられてるよ。だめだ、全然聞こえてない」
近くから誰かが私に囁ささやいているのは聞こえるけれど、耳を通過するだけで意識まで到達していない。
……まてよ。
水谷くんにはひみつの趣味があって、名高先生を知っている人しか分からない紙を見て、あんなに焦った顔をした。
ということは、あの紙はほぼ100パーセントの確率で水谷くんと何か関係があるんじゃ…?
そこでパッと浮かんだのは、第二の、仮説。
【この学校に、名高先生がいるんじゃないか説】
(そんな……まさか……)
自分で考えておいて、何度も違う!と首を振る。
けれど、やっぱり何回も戻ってくるのは同じ答えで。
名高先生と水谷嶺緒という人物は───…
「同じ?」
「残念、不正解です。こちらの答えは、⑥と一緒になります。計算の方法は一見同じように見えますが、若干違いますから。意外な答えにたどり着くこともあるのですよ」
「……水谷くんは、同一人物…」
「朝乃さん、良い間違いをしてくれました。これでみんなも一緒に学習できます」
先生の言葉なんて何一つ頭に入ってこない。
私はただ、知りたかった。
ものすごく、知りたくなってしまった。
名高先生の正体は、水谷くんなのか。
あとは水谷くんと直接会って、問い詰めるだけだ。
だけど……。
今まで私は、水谷くんを避けてきた。
一方的に傷つけて、最低なことをしてきたんだ。
そんな私が、水谷くんに今さら、なんて。
「都合が、よすぎるんじゃない……?」
ぽろっと落ちた本音。自分自身への問い。
そもそも、水谷くんは別に隠す必要がなかったら、すぐにアクションを起こすはずだ。
それに、あんなに焦った顔なんてしない。
「実は俺、小説家なんだよね〜」とか、軽い口で言いそうなのに。
言わないってことは、誰にもバレたくないってこと。
そんな場所に、私は踏み込めるの……?
自分の、欲望だけで。
「そんなこと、できない」
せっかくリーチがかかっているのに、あと一歩を踏み出せないのがもどかしい。
「朝乃さんも体調不良ですか? 顔色があまり良くないように思えますが」
「あっ……いえ、そんなことは」
田中先生の問いかけにぶんぶんと首を振る。
もう私の頭の中は、水谷くんでいっぱいだった。
そして迎えた、放課後。
「朝乃。話がある」
保健室に行って、なんとか回復したらしい水谷くんのほうが、私を呼び止めてきた。
口封じでも、するのだろうか。
水谷くんの瞳はとても真剣で、私たちの間に緊張が走る。
もうみんな、部活に行ってしまった空っぽの教室。
に、ふたりきり。
これを聞いたら、すべてが変わっちゃうような気がする。
どうせ今から水谷くんは、自分の正体を明かすんだ。
自分は、名高先生だと。
だったら、私から聞いても、もういいんじゃない?
正直、私にはいま、97パーセントくらいの確信がある。
向かい合ったわたしの頰を、窓から入ってきた優しい風が撫でてゆく。
水谷くんが話し出そうとする直前、私はパッと口を開いた。
「もしかしてだけど、水谷くんって……名高先生…?」
「……朝乃」
田中先生による数学の授業をぼんやりときいていると、ふいにとなりから声をかけられてびくんと肩が震える。
「これ、落ちたよ」
「あっ……ありがと」
出来るだけ目を合わせないようにしながら手を伸ばすと、ひょいっとかわされてしまった。
「え、ちょっと」
「なか、見てもいい?」
「だめだよ。返して」
とは言ったものの、水谷くんのほうを一度も見ていないから何の紙かまったく分からない。
けれどいま水谷くんと目を合わせたら、きっともう後戻りはできないような気がした。
「朝乃、こっち向いて」
「や、やだ」
「じゃあ中身、見せてくれたら返してあげる」
……どうせ大したものじゃないだろうし、目を合わせるよりはマシ、か。
そう思ってこくりとうなずいた私。
が、いけなかった。
「……」
無言。どこまでも無言だった。
さすがに何の反応もないから、見せたらマズい紙だったのかも、と急に不安になってくる。
ちらっと横目で水谷くんを見てみると、彼は案の定、その紙を凝視しては固まっていた。
「……なに、書いてあるの?」
「……」
きいても、全然答えてくれない。
ええい、もう仕方がない。
顔を見せて、紙を返してもらうしか────。
「……っ」
私はてっきり、水谷くんの視線は私を向いているものだと思っていた。
彼はしつこいくらいなぜか私に執着していたし、今だって、視線を合わせるための演技なのかなって。
だけど、違った。
まっすぐ、揺らがず、目を大きく見開いてずっと紙を見続けている。
水谷くんの目線は、右に左にと紙をなぞるようにすべっていく。
「……みずたに、くん?」
あなたは、いったい何を見ているの。
そんなに驚くようなことが、そこには書いてあるの?
緊張で汗が流れる。ごくりと唾を飲んだ。
しばらく呆然としていた水谷くんは、顔面蒼白状態のまま、私に折りたたんだ紙を返した。
そして、ガタッと席を立つと、ふらつくような足取りで先生のところまで歩いていき、
「保健室、いきます」
と告げた。
「水谷くん、具合が悪いのですか?」
「……まぁ、ちょっと」
「これはいけません。保健室まで一人でいけますか?」
「大丈夫です」
ガラガラと閉まった戸。
私は水谷くんに返してもらった紙をそうっと開いてみた。
「───…え」
それは、小説のキャラのプロフィールが書かれた、あの紙だった。
この間カフェで羽花ちゃんと勉強したときに、紙を見せてから、筆箱に入れたんだった。
それを私は危なっかしいことに、落としてしまったんだ。
「あれ?」
はた、と気がつく。
水谷くんは、どうしてこれを見てあんなに焦るんだろう。
これが名高先生と繋がりのある紙だってことを知っているファンの私なら大興奮だけど、だったら水谷くんはどうして……?
ぐるぐる、ぐるぐる。
また新たな謎が追加されて、名高先生の正体が遠ざかっていく。
「①と④の解答は同じですね。では、この計算と、こちらの計算の答えはどうなりますか? では……朝乃さん」
水谷くんの目の真剣さと言ったら、今までの比じゃなかった。
水谷くんは、私に何か隠していることがある?
『まあ……趣味、ってやつ』
そういえば、彼は少し前にこんなことを言っていた。
水谷くんの趣味って、なに?
「……り、みーり。当てられてるよ。だめだ、全然聞こえてない」
近くから誰かが私に囁ささやいているのは聞こえるけれど、耳を通過するだけで意識まで到達していない。
……まてよ。
水谷くんにはひみつの趣味があって、名高先生を知っている人しか分からない紙を見て、あんなに焦った顔をした。
ということは、あの紙はほぼ100パーセントの確率で水谷くんと何か関係があるんじゃ…?
そこでパッと浮かんだのは、第二の、仮説。
【この学校に、名高先生がいるんじゃないか説】
(そんな……まさか……)
自分で考えておいて、何度も違う!と首を振る。
けれど、やっぱり何回も戻ってくるのは同じ答えで。
名高先生と水谷嶺緒という人物は───…
「同じ?」
「残念、不正解です。こちらの答えは、⑥と一緒になります。計算の方法は一見同じように見えますが、若干違いますから。意外な答えにたどり着くこともあるのですよ」
「……水谷くんは、同一人物…」
「朝乃さん、良い間違いをしてくれました。これでみんなも一緒に学習できます」
先生の言葉なんて何一つ頭に入ってこない。
私はただ、知りたかった。
ものすごく、知りたくなってしまった。
名高先生の正体は、水谷くんなのか。
あとは水谷くんと直接会って、問い詰めるだけだ。
だけど……。
今まで私は、水谷くんを避けてきた。
一方的に傷つけて、最低なことをしてきたんだ。
そんな私が、水谷くんに今さら、なんて。
「都合が、よすぎるんじゃない……?」
ぽろっと落ちた本音。自分自身への問い。
そもそも、水谷くんは別に隠す必要がなかったら、すぐにアクションを起こすはずだ。
それに、あんなに焦った顔なんてしない。
「実は俺、小説家なんだよね〜」とか、軽い口で言いそうなのに。
言わないってことは、誰にもバレたくないってこと。
そんな場所に、私は踏み込めるの……?
自分の、欲望だけで。
「そんなこと、できない」
せっかくリーチがかかっているのに、あと一歩を踏み出せないのがもどかしい。
「朝乃さんも体調不良ですか? 顔色があまり良くないように思えますが」
「あっ……いえ、そんなことは」
田中先生の問いかけにぶんぶんと首を振る。
もう私の頭の中は、水谷くんでいっぱいだった。
そして迎えた、放課後。
「朝乃。話がある」
保健室に行って、なんとか回復したらしい水谷くんのほうが、私を呼び止めてきた。
口封じでも、するのだろうか。
水谷くんの瞳はとても真剣で、私たちの間に緊張が走る。
もうみんな、部活に行ってしまった空っぽの教室。
に、ふたりきり。
これを聞いたら、すべてが変わっちゃうような気がする。
どうせ今から水谷くんは、自分の正体を明かすんだ。
自分は、名高先生だと。
だったら、私から聞いても、もういいんじゃない?
正直、私にはいま、97パーセントくらいの確信がある。
向かい合ったわたしの頰を、窓から入ってきた優しい風が撫でてゆく。
水谷くんが話し出そうとする直前、私はパッと口を開いた。
「もしかしてだけど、水谷くんって……名高先生…?」