推し作家様、連載中につき。

 ***

「朝乃」

 ある日のホームルーム後。
 ふいに隣から話しかけられてびくりと肩がはねた。

「どうしたの、水谷くん」

 珍しいなと思いつつ問いかけると、少しだけ口の端を上げた水谷くんは「これ見て」とスマホ画面を差し出した。

「クレープ?」
「ばか、声でかい。恥ずいからあんま大きい声出さないで」
「ご、ごめん」

 唇に人差し指を当ててお決まりのポーズをする彼は、声をひそめて私に告げた。

「これから一緒に行かね?」
「ここに?」
「そ。この前の教科書のお礼」

 なんと。
 ジュースよりも高価なものになってしまった。
 そもそもジュースすら冗談のつもりだったのに、本気にしてしまったのだろうか。

「そんな、いいのに」
「いや、今は金銭的に余裕あるから。まあ俺の気分ってことにしてついてきてよ」

 にっ、と浮かべられた笑みに、思わずくらりとしてしまう。美形はおそろしい。
 私が受けとる美の量としては明らかに致死量なのだ。

「部活は大丈夫なの?」
「うん。まあ一日くらいは許してもらえるでしょ、きっと」
「ならいいんだけど……」

 どちらの部活でもエース的ポジションにいるはずの彼が休みとなると、その部活的にはわりと痛手なのではと思うけれど、本人が気にしてなさそうなので下手な口出しはしないことにした。

「じゃあ決まり。行こう」

 瞳を輝かせて立ち上がった水谷くん。私も慌てて鞄を背負い、その背中を追った。




「うわ……うんま」

 ギャップ。この言葉に尽きる。
 "甘"という響きとはまったく対極にいるような彼が、蕩けるような笑顔でクレープを頬張っている。
 誰が見ても、私のような反応になってしまうに違いない。
 ポカンと口を開けて、ただただ唖然。呆然。

「あの水谷くん……確認なんだけど、今日私を誘ったのって」
「え? ああ、もちろんこれが食べたいからだよ」
「ですよねー」

 まあ反応を見てればなんとなく分かりますけど。
 お礼とか言っときながら、自分が食べたいだけじゃん。

 感情が顔に出ていたのだろう。クスリと笑った水谷くんは「ごめんうそ」と目を細めた。

「いいよ別に。奢ってもらってることに変わりはないから」
「冗談だから拗ねないで」
「別に拗ねてない」

 なんとも可愛らしくない会話だ。悲しくなってくる。

「朝乃、甘いもの好きでしょ?」
「ううん、あんまり」

 ふるふると首を横に振ると、ニヤリと悪戯っぽく笑った水谷くんは、私の額をコツンと弾く。

「嘘だね。毎日お弁当後のチョコレートを幸せそうに食べているのを俺は知ってる」
「なにそれ、ストーカーか何か?」
「なんとでも言ってくれ」

 この人は不思議な人なんかじゃない。変人だ。
 パクッとクレープを頬張ると、頬が落ちるかと思うくらいの甘さが口内に広がる。
 ああだめだ。美味しい。
 やっぱり甘いものを前にして嘘をつくなんてできない。

「美味しいでしょ?」
「……うん」

 素直に頷くと、満足げな笑みが降ってくる。
 悔しいけれど美味しいものは美味しいんだ。美味しすぎるクレープが悪いよこれは。
 という責任転嫁を心の中で行いながら、私は夢中でクレープを食べたのだった。


「今日はありがとな」
「こちらこそ、ごちそうしてくれてありがとう」

 夕暮れの色に染まる空。
 街も、水谷くんの顔も、すべてが真っ赤に染まっている。
 くるりと踵を返して歩きだすと、ふいに後ろから「朝乃!」と私を呼ぶ声が聞こえた。
 その後で、タタッと足音が聞こえてくる。

「やっぱ、送る」
「え?」
「もう日が暮れそうだし、一人だと危ないから」

 「でも私電車だから……」と渋ると、「じゃあ駅まで」と返される。
 こういうとき、本の中の女の子たちはどう言うんだろう。

 付き合ってないから「大丈夫!」って言うのか。
 はたまた可愛く甘えて「お願い」って言うのか。

 断固として譲りそうにない水谷くんを前に、私が選んだのは後者だった。
 ただし、『可愛く甘えて』の部分は除いて。

「お願いします……」
「りょーかい」

 カハッと笑った水谷くんは、頭の後ろで手を組んで歩きだす。
 その隣に並んで、私も同じように空を見上げた。


「なあ、朝乃」

 燃えるような太陽の赤さと、カラスの鳴く声。「また明日ね!」と弾む足音と、どこからか漂ってくる香ばしい匂い。
 そんなものを感じながらゆったりと歩いている最中、ふいに届いた声。

「ん?」

 振り向くと、「朝乃ってさ」と遠くを見つめながら呟く水谷くんがいた。
 その視線は太陽が沈む方を向いている。夜の訪れを告げるように、だんだん沈んでいく太陽。
 周りも暗色に包まれ始めている。

「どんなやつが好きなの?」

 質問を頭の中で反芻する。
 それは……恋愛的な意味で、だろうか。

「それって、どういう……」
「ああ、付き合うならどんなやつがいいのかなって」

 ……やっぱり。
 質問をゆっくりと咀嚼して、思考を巡らす。
 数多くの恋愛小説を読み、恋に憧れを持っていた私。けれど恋愛経験はほぼ皆無に等しい。
 そんな私が恋人に求める絶対条件は、たったひとつだけだった。

「本が好きな人……かな」

 ジャンルはなんだっていい。
 本を通して、愛を深めることができるのなら。
 感動を分かち合ったり、ストーリーの辛さを一緒に嘆いたり、登場人物の過去に思いを馳せて涙したり、ハッピーな結末に喜び合ったり。
 そんな心の動きをともに体験できる人にそばにいてほしい。
 無関心ではなくて、私にも本にも関心を持って接してくれる人がいい。

「そっか」
「水谷くんは? どんな子がいいの?」

 正直に答えたんだから、私だって訊いてもいいだろう。
 顔を覗き込むようにして訊ねると、少し視線を泳がせた水谷くんは、小さく呼吸をした後「面白い人」と呟いた。

「わりとベタだね」
「王道って言ってもらえると助かる」

 まあ確かに小説の中でも、明るくて可愛くて、時々見せる弱さが魅力的なヒロインがいちばんモテるし愛されるしな……。
 水谷くんのタイプは面白い子。なるほど、また一つミステリアスな彼の情報が増えた。

「話してたらあっという間だったね。もう着いちゃった」

 駅に入ったところで、タイミングよく電車がやってくる。長い間電車を待つ必要がないから、とてもラッキーだった。

「今日はありがとう。また明日」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん。水谷くんもね」

 音を立てて扉が閉まる。
 軽く片手をあげた水谷くんに、胸の前で小さく手を振った。
 まるで恋人のようなその行動がなんだか無性に恥ずかしくなって、くるりと景色に背を向けた私は、薄茶色の床に視線を落としたのだった。
 ここ最近、私は気になっていることがある。それは、親友のようすが少しおかしいことだ。

「うーかーちゃんっ」
「うわっ……びっくりした…!!」

 ほら、今も。
 背中から覗き込むようにすれば、スッと隠されてしまう。

「ねえ、なんで隠すの!?」
「なんでも」
「誰と連絡とってるの? もしかして彼氏?」

 野暮だということは分かっていた。けれど、長い間一緒にいるのだ。
 これまで隠し事なんてしたことなかったし、されたこともなかった。
 羽花ちゃんに初めて彼氏ができたときだって、羽花ちゃんは隠すことなく私に教えてくれたのだ。

 ここまではっきりと分かるような隠し事は初めてなので、なんだかもやもやとした感情が己を支配する。

「違うよ」

 素早く鞄にしまわれた媒体は、いったいどこの誰と繋がっているのだろう。
 めったに笑わない羽花ちゃんが、口の端をちょこっとあげながら会話する相手は、そんなに面白い人なのだろうか。

「じゃあ誰なのー?」
「秘密」
「ちぇー、ケチ」

 唇を尖らせる私をちらりと一瞥した羽花ちゃんは「そんなことより」と話題を転換した。

 なんだかうまくかわされてしまった。悔しい。

「あんた、水谷くんと仲良いの?」

 どきりとした。いつ、どこで、誰に見られたのだろう。
 まあ見られていけないことは何ひとつないのだけれど。

「えー、なんで?」
「この間友達が、あんたと水谷くんが一緒に歩いてるとこみたって。放課後デートしてたらしいじゃん」
「うーん、前半はあってるけど後半は違うかな」

 たしかに放課後一緒に歩いてたことはあるけど、あんなのはデートでもなんでもない。
 ただクレープをご馳走してもらっただけだ。

 デートっていうのはもうちょっとこう、雰囲気とかムードがロマンティックなはずだ。
 人生初のデートがあれはさすがに勘弁してほしい。
 よってあれはただのお出かけ。断じてデートではないのだ。


「男女が二人きりで出かけたらそれはもうデートでしょ」
「ん? それは違うよ羽花ちゃん。ここにきて価値観のズレがあるかも」
「じゃあ付き合ってるわけじゃないんだ」
「まさかまさか! 私みたいなやつが水谷くんみたいな風変わりな美形天才くんと付き合えるわけがないでしょう」
「今の言葉聞く感じ、印象はわりとよさそうだけどね」

 ふーんと微妙な表情で納得したらしい羽花ちゃんは、ふとグラウンドに視線を遣って「あ」と声を上げた。

「なになに?」
「ほら、いるよ。水谷くん」

 ピッと羽花ちゃんが指差した方を辿ると、ちょうどボールを蹴ろうとしている水谷くんがいた。
 ゴール目掛けて蹴られたボールは綺麗な軌道でまっすぐにゴールに飛んでいき、ネットを揺らす。

 遠目から見てもうっとりするほど滑らかなその動きは、たぶん近くで見たらより魅力的に見えるのだろう。

「綺麗な顔してて頭もいいし、運動神経もいいのに気取らないところが刺さる人には刺さるらしいよ。ファンも結構いるっていうし」
「え、そうなの? 確かに美形だとは思ってたけど、ファンがついてるなんて知らなかった」
「できるだけサポートするつもりだけど、さすがに全女子からは庇いきれないからね? 自己防衛は自分でするんだよ」
「? うん、わかった」

 だめだ全然伝わってない、という羽花ちゃんのため息をにこやかに受け止めて、机にかけていた鞄を持つ。

 
「さ、そろそろ帰ろっか羽花ちゃん。今日は部活ないんでしょう?」
「うん。オフだよ」
「最近駅前にできたカフェ、どう?」
「いいね、行こ」
「あ、ついでにお勉強を教えてください」
「ついでなんだ」

 あはっと笑う羽花ちゃんは「いーよ」と呟いて同じように鞄を持った。神様。

「何を教えればいいの」
「数学ですかね……」
「先生がダメかもね」
「違うんです、私の理解力の乏しさなんです……」

 さらっと先生をディスる羽花ちゃんに縋るようにして、カフェへと足を運んだ。
「とりあえず教科書出して。教えるから」

 はーい、と間のびした返事をして、鞄から教科書を取り出そうと試みたのだけど。

「あれ、荷物が多くて……ちょっと待って羽花ちゃん」

 ゴソゴソと漁って、ようやく取り出せた教科書……と。

「ん、なにこれ」

 私は重大なミスを犯してしまったのだ。ヒラッと机に着地した紙切れを羽花ちゃんが拾う。
 随分時間があいたせいで、私もすっかり忘れていたのだ。その存在を。


 眉を寄せて、不思議そうに紙に目を通す羽花ちゃん。
 机に物を置いてふうっと息をついた私は、そこでようやく"その紙"が過去に拾った"プロットらしきもの"であることに気がついた。

「ま、まままって、まってだめそれはっ」

 親友の手から慌てて紙をさらう。けれど、時すでに遅し。

「それって……」

 訝しげに眉を寄せた羽花ちゃん。
 ふ、と小さく息をついてテーブルの上で手を組むと、チャームポイントである大きな猫目で私を見据えた。

「な、なななんでもないよ……これは」

 慌てて鞄の中に紙を突っ込む。
 けれど、「なにか隠し事してるでしょ」と頰を膨らませた羽花ちゃんは、コンコンと指で小さく机を弾き、音を立て始めた。

 あ、相当苛立ってる。わずかに耳が赤くなっているから、この状況をあまりよく思っていないみたいだ。

「どうして言ってくれないの。嘘ついてるのバレてるよ」
「べつに大したことじゃないよ」

 不確かだし、曖昧だし。私のただの妄想かもしれないし。
 そんなつもりで放った言葉は、彼女の苛立ちをより加速させてしまったようだ。

「関係ないって言われてるみたいで超ショック。大したことじゃなくても話してほしいのに」
「いや、だから……」
「言ってよ。私たち、親友だよね?」

 彼女の瞳に涙の膜が張っていく。さすがに喧嘩になるのは困る。
 うーんとしばらく逡巡したのち、私はいい事を思いついた。

「じゃあ、さっき羽花ちゃんが隠した連絡相手の情報と交換ってのは、どう?」
「え」
「それくらいはしてくれないと。羽花ちゃんも秘密ごとはなしだよ」

 ふふんと胸を張ると、ピタリと動きを止めた羽花ちゃんは、ゆっくりと息を吐き出して目を伏せた。
 それから「わかった」と小さく呟く。

「じゃあまず未理から話して。これは、なに」
「えっとそれはね……」

 拾った経緯、個人的な見解、それら諸々を話す。
 すると羽花ちゃんは大きなため息をついて「あ、そう」と言葉を落とした。

「絶対馬鹿にしてるじゃん! だから言いたくなかったんだよ…!」
「別に馬鹿にはしてないって。夢みることは大事じゃん」
「ほらー! 馬鹿にしてる!」

 乾いた笑いを洩らす羽花ちゃん。まあどのみち期待はしていなかったけれど。


「で、なんて名前の先生なの? いい加減教えてくれてもいいんじゃない?」
「え!? 言ったことなかったっけ!?」
「だっていつもはあんたが興奮しながら言葉ミサイルぶち込んでくるから、訊く暇なんてないじゃない」
「それは失礼しました! 私の推しは名高(なたか)先生です!」

 そう告げた瞬間、羽花ちゃんの顔がピキリと固まったような気がした。
 けれどそれは一瞬のこと。あまりにも一瞬だったので、気のせいだろうと流すことにした。

「私は言ったからね! 次は羽花ちゃんの番だよ!」
「……そーだよね」

 気まずそうに目を逸らした羽花ちゃん。
 うーんとしばらく渋っていたけれど、観念したようにスマホを取り出した。

「この通話アプリで知り合った人。仲良くなったから一応、SNSでもつながってる」
「……なんてこと!!」
「反応が独特すぎてコメントに困るわ」

 まさか。いわゆる"ネッ友"というやつ?

「羽花ちゃん、絶対にハダカの写真とか送っちゃダメだよ」
「送らないよそんなの!」
「顔写真もだめだよ? 中身は女子高生を装うただのおじさんかもしれないんだから」
「わかってる」

 少し前に同じようなことを羽花ちゃんから言われた気がするけれど。
 形勢逆転、ってところかな。

「仲良くなってくるとだんだんガードも緩くなるからね。惑わされちゃだめだよ、それがああいう人たちの手法なんだから」
「約束するよ。危ないことはしない」
「うん。そうして、私の大事な羽花ちゃん」

 呆れるように肩をすくめながらも、私のハグを受け入れてくれる羽花ちゃん。
 SNSで繋がっている人がいると聞かされた時、一瞬、羽花ちゃんがなんだか遠い場所に行っちゃうような気がして。少しだけ、こわかった。

「通話アプリってことは、声だけ?」
「そう。声だけ」
「じゃあそのお相手は超イケボってことですな?」
「いや、違うけど」


……違った。


「でも、男の人なんでしょ?」
「うん、まあね」
「同い年? それとも大人の人?」
「そういうのは明かしてないし、明かされてないからわかんない」
「あぶなっ!」

 そう?と首を傾げた羽花ちゃんはあまり危機的に思っていないみたいだ。
 なにかあったら私が絶対守らなきゃ。


 そんな小さな決意をカフェにて。



 ぐっとこぶしを握りしめた私に、少し視線をやった羽花ちゃんは、薄くて形の良い唇を静かに動かした。


「名高先生のどういうところが好きなの?」
「え? 興味持っちゃう? 私に語らせちゃう?」
「あ、いや。ほどほどでいいけどさ」

 私の圧を二つの目で見てギョッとした羽花ちゃんにぐぐぐと詰め寄る。

「まず、あの繊細な描写は……」


 そこから1時間、私はみっちり名高先生の良さを羽花ちゃんに話し続けた。
 へへ、にへへと顔をキモチワルク崩しながら。


 名高先生の良さを存分にきいた(語らせた)羽花ちゃんは、終盤寝そうになりながらも、なんとかうなずきを返してくれたんだ。
「おはよう、朝乃」
「お、おはよう……」

 一緒にクレープを食べに行ってからというもの、私たちの距離は縮まる……ことはなくむしろ遠くなった。
 なぜなら、私が一方的に避けているから。


 あれ以来、水谷くんの顔を見ると心臓がドキドキして、ううん。
 ドキドキなんてものじゃなくて、ドコドコドコドコ暴れ出して苦しくなるし、勝手に赤くなっていく耳は隠せないし、なにより身体も心もおかしくなってしまうから。

 目が合ったら頬がだらしなく緩んでしまうので、極力目は合わせないように。
 かと言って無視もできないから、中途半端な返事だけ。

「ねえ、朝乃」
「…なに……?」
「こっち向いて」
「え、なんで」

 向いてくれないから、という声とともにぐいっと掴まれた肩。


「っ……!」


 反射的にかちあった、瞳。体温が上昇していく。


「俺、朝乃に何かした?」

 水谷くんは、悲しそうだった。

「ち、ちちち違うの。私の問題だから、水谷くんは関係ないから!!」

 バッビューンと教室を飛び出して女子トイレに向かう。
 鏡の前には、ほんのりと顔を紅潮させる女の子がいた。


(リップ、塗ってみたんだけどな……)


 少しでも、と思って。

 ん?
 少しでも、なに?


「おかしいな……しっかりしろ! 私!」


 パンっと頰をたたいて気合いを入れる。


 水谷くんは近くで見れば見るほどキレイな顔をしている。
 そんな美顔を歪ませてしまうとなると、ものすごく心が痛い。

 けれど私がどうにかなって爆発するのに比べたら、最善の策だと言えるはず。



「……朝乃!!」

「っ……!!」


 なのに、なのに!!

 あっさりつかまってしまった放課後、目の前には細められた水谷くんの瞳。


「水谷くん、部活は……?」
「今それどころじゃない」


 はへ……と変な声が口から洩れる。

 じりじりと近づいて距離を詰めた水谷くんは、


「俺のこと避けてるよね?」


 と言って唇を噛んだ。


「えっ……」
「どうしてか教えてくれない? 嫌な気持ちにさせたんだったら謝る」
「いや、ちがくて……!」
「なにが違うの?」



 両者、必死。

 距離を縮められるたび、心臓がぎゅっと縮み上がって、顔に熱が集まる。
 どくどく、どくどくと血液が循環しているのがわかる。

「……あ、あーーーっ、! 今日は名高先生の連載が更新される日だーーっ!!」

 大声を出して、水谷くんと壁の間をするりと抜ける。

「え?」
「ってことで、私は推し作家様の急用を思い出したので、世界を明るくするために帰りますね!! 水谷くんさようならっ!」
「ちょっと、朝乃!?」

 ここは逃げ一択。
 名高先生、口実につかってしまってごめんなさい。

 心の中で謝罪して土下寝をしつつ、鞄が揺れるのもお構いなしで走る。そしてそのまま帰り道をたどる。

 その道中で、また私はとある事件に巻き込まれることになる。


 なんと、なんと。私の前方、制服のまま歩く羽花ちゃんのとなりに。

 怪しげな男が1人、立っていた。



「あやしい……」


 だって、どうみても寄り添って歩いている。距離感が他人じゃない。

 もしかして通話相手の人なんじゃ…??

 そう思ったら、それ以外の考えなんてひとつも思い浮かばなくて。


 私の頭に浮かんだのは、


「羽花ちゃんのこと、助けなきゃ…!!」


 これだけ、だった。


 わりと長身。格好からして大人の人だ。

 顔はよく見えないけれど、なんだか危ないにおいがする……。


 私は人混みをかき分けながら二人に近づいていって、はしっと羽花ちゃんの腕を掴んだ。


「だめだよ羽花ちゃん……っ、いくらなんでも危ないよ!」
「えっ……」

 思わずパッと掴んだ腕を引くと、くるりと振り返った親友。

 困惑が浮かぶその顔は、少し驚いた表情をしつつも、いつもどおりの彼女だった。


 焦りとか、不安とか、緊張とか。


 普通ならなにかが混ざっていてもいいはずなのに。
 まったくと言っていいほどに、そんなようすが微塵もみられないから、逆にこっちのほうが混乱してしまう。



「通話だけでとどめておくんじゃなかったのっ!? リアルでは会わないって約束したじゃん! なにされるか分からないんだから……っ」


 それはもう必死だった。


 少しでもはやく、この隣に並ぶ男から羽花ちゃんを救出しなければ。


 もしかすると、こんなに平気そうにしているけれど、内心助けてと叫んでいるかもしれない。


 そんな使命感に燃え、周りがまったく見えなくなって。
 たとえ殴られたり蹴られたりしても、羽花ちゃんを守るためなら、私はなんだってできるから。



「羽花ちゃんから、離れなさい…っ」



 喉までは大きな声で出かかるのに、実際に声にすると、震えとか、掠れとか、そんなものばかりが目立つ。
 それでもここで怯えるわけにはいかない。
 


「どこの誰か知りませんが、羽花ちゃんから離れなさい……!!」



 ちょうど隠れて見えなかった部分が見えたとき、私はたぶん、人生で一番驚愕することとなる。



 それは一瞬だった。
 強引に羽花ちゃんの肩を掴んで、ぐいっと自分の方に引き寄せたとき。

 彼の半分振り向いた横顔が、ちらりと視界に映って。



「……せん、せい?」



 そんな間抜けな声が、小さく響いた。
「え、いったいどういうこと? えっと、通話アプリの相手が先生で、っていうか二人ってそういう…?」

 ぐるぐる、ぐるぐる。いろんな仮説がそんな音を立てながら頭の中を回っているのがわかる。

 いや、私の目がおかしいのかもしれない。
 たぶん、目元が似ているとか、雰囲気がそれっぽいとか、そんな理由で勝手に結びつけてしまっただけだ。

 危ない。焦っても良いことはなにひとつないのだから。


 もう一度ゆっくりと視線を動かして、先生"もどき"を見る。


「え…」


 けれどやはり、何度見ても先生……我が高校の数学教師・田中先生にしか見えないのだ。
 ついに目まで狂ってしまったか、と半ば諦めのような思いが生まれる。

 こんなところまで数学に侵食されなければならないのか。本当に勘弁してほしい。


「だめだ羽花ちゃん、私完全に数学に侵されてる。すみません、あなたが数学教師にしか見えないという感覚麻痺により、取り乱してしまいました」


 ぺこぺこと謝罪をし、ため息をついて退散しようとしたのだけれど。


「ん…? 怪しいやつから羽花ちゃんを救うという根本的なミッションを達成できてないよね、私」


 重大な事実に気付いて、それではいけないと顔を上げる。



「なんか仮説が錯乱しすぎて忘れかけていましたが、羽花ちゃんは渡しません。お引き取りください」


 よく言った未理、偉すぎるぞと己を褒め称えつつ、羽花ちゃんを守るようにして二人の間に立つ。
 じっと彼を見つめ、彼の顔をくまなく観察しながら、相手の出方を待つ。


 それにしても、見れば見るほど先生にしか見えない。
 ドッペルなんちゃらっていう怖い話があるけれど、本当にいるんだね、ここまで瓜二つな人。


「ねえ、未理」
「大丈夫だよ羽花ちゃん、心配しないで。この数学教師もどきは私が退治するから」
「いやだから、その……」


 後ろからもごもごと何かを言おうとする羽花ちゃん。

 ここは冷静になったら終わりだと自分を鼓舞していたせいで、小さな声は私の耳には届かなかった。

「あ、あなたみたいに羽花ちゃんに近づく人は……は、はっきり言ってっ、キモいです…!! 今から十秒数えるので、まっ、回れ右をして帰ってください。じゃないと警察に通報しますよっ!?」

 ところどころ情けなく裏返る声。
 こんなにも文字に起こしたくないひどい言葉、生まれて初めて言ったよ。

 ぜえぜえと息を切らしつつ、キッと彼を睨む。切長の瞳が若干揺れ、それからおだやかに細くなった。

 浮かべられたその笑みに、どことなく既視感を感じてしまう。


「なかなかの物言いですね、朝乃さん」


 それはもう恐怖だった。
 課題を学校に置いて帰ったことを提出日前日の夜に気づき、そのまま朝を迎えたときの次に怖かった。

 あの絶望感は半端じゃない。
 みんな荷物をしっかり確認してから下校しようね、などと頭の中で考えられるほどに、一周まわって落ち着いていた。


「どうして私の名前を…?」
「どうしてって……それはもちろん、わたしがあなたの数学教師だからですよ」


 恐、怖。


「はっ……? じゃあやっぱり、あなた田中先生なんですか??」
「ええ」

 だからなんだと言ったみたいに、ニコニコしながらうなずく先生。
 教育委員会、先生、生徒、恋愛、禁断、異動、退職、と危険なワードが頭を高速でかけめぐっていく。

「こんなの見つかったらつかまりますよ! それに羽花ちゃん、こんなの私が言うことじゃないかもしれないけど……もっと、若い人いるじゃんか、なぜに田中先生なのだ。私にはちょっと理解しかねるよ…! ほんとにごめんだけど!!」
「落ち着いて、未理」
「だって、だってっ……」

 私はどうやら、落ち着く、ってことを知らないらしい。
 一人でしゃべり倒す私に「ストップ」と手で合図した羽花ちゃんは、「あのね未理」と言い聞かせるように視線を合わせた。

「私の苗字、思い出して」
「え、羽花ちゃんの苗字……?」

 はた、と考える。
 羽花ちゃんの苗字は……。

「田中?」
「ピンポン」
「……え」

 と、いうことは。
 考えたこともなかったパズルのピースが、かちっとはまったような気がした。


「田中先生は、私のお父さん」


 告げられた衝撃の事実。

「え、え」
「待って未理、まだ叫ばな……」
「ええええええええええ」

 地面が、いや世界が揺れたんだ、きっと。
 行き交う人たちがみんな振り返ってしまうような大声を上げた私の口を素早く塞いだ羽花ちゃんは。

「ちょっとお父さん先帰ってて!」

 と言いながら私の手を引いて走りだした。

「はいわかりましたよ」

 とお馴染みのおっとりした返事をしている先生を見て、これがいつもどおりなんだと再認識。


 手を引かれた私はというと、「そういえば羽花ちゃん、やたら数学教師に対する当たりだけが強かったな……」と今になって思い出したのでありました。
 どんなに驚く出来事があっても、毎日は変わらずに進んでいく。


「……朝乃」


 田中先生による数学の授業をぼんやりときいていると、ふいにとなりから声をかけられてびくんと肩が震える。


「これ、落ちたよ」

「あっ……ありがと」


 出来るだけ目を合わせないようにしながら手を伸ばすと、ひょいっとかわされてしまった。


「え、ちょっと」

「なか、見てもいい?」

「だめだよ。返して」


 とは言ったものの、水谷くんのほうを一度も見ていないから何の紙かまったく分からない。

 けれどいま水谷くんと目を合わせたら、きっともう後戻りはできないような気がした。


「朝乃、こっち向いて」

「や、やだ」

「じゃあ中身、見せてくれたら返してあげる」


……どうせ大したものじゃないだろうし、目を合わせるよりはマシ、か。


 そう思ってこくりとうなずいた私。



が、いけなかった。


「……」


 無言。どこまでも無言だった。

 さすがに何の反応もないから、見せたらマズい紙だったのかも、と急に不安になってくる。


 ちらっと横目で水谷くんを見てみると、彼は案の定、その紙を凝視しては固まっていた。


「……なに、書いてあるの?」

「……」


 きいても、全然答えてくれない。

 ええい、もう仕方がない。
 顔を見せて、紙を返してもらうしか────。


「……っ」


 私はてっきり、水谷くんの視線は私を向いているものだと思っていた。

 彼はしつこいくらいなぜか私に執着していたし、今だって、視線を合わせるための演技なのかなって。


 だけど、違った。


 まっすぐ、揺らがず、目を大きく見開いてずっと紙を見続けている。

 水谷くんの目線は、右に左にと紙をなぞるようにすべっていく。


「……みずたに、くん?」


 あなたは、いったい何を見ているの。

 そんなに驚くようなことが、そこには書いてあるの?



 緊張で汗が流れる。ごくりと唾を飲んだ。
 しばらく呆然としていた水谷くんは、顔面蒼白状態のまま、私に折りたたんだ紙を返した。


 そして、ガタッと席を立つと、ふらつくような足取りで先生のところまで歩いていき、


「保健室、いきます」


 と告げた。


「水谷くん、具合が悪いのですか?」

「……まぁ、ちょっと」

「これはいけません。保健室まで一人でいけますか?」

「大丈夫です」



 ガラガラと閉まった戸。


 私は水谷くんに返してもらった紙をそうっと開いてみた。


「───…え」



 それは、小説のキャラのプロフィールが書かれた、あの紙だった。

 この間カフェで羽花ちゃんと勉強したときに、紙を見せてから、筆箱に入れたんだった。

 それを私は危なっかしいことに、落としてしまったんだ。



「あれ?」



 はた、と気がつく。

 水谷くんは、どうしてこれを見てあんなに焦るんだろう。

 これが名高先生と繋がりのある紙だってことを知っているファンの私なら大興奮だけど、だったら水谷くんはどうして……?



 ぐるぐる、ぐるぐる。

 また新たな謎が追加されて、名高先生の正体が遠ざかっていく。


「①と④の解答は同じですね。では、この計算と、こちらの計算の答えはどうなりますか? では……朝乃さん」


 水谷くんの目の真剣さと言ったら、今までの比じゃなかった。

 水谷くんは、私に何か隠していることがある?



『まあ……趣味、ってやつ』



 そういえば、彼は少し前にこんなことを言っていた。

 水谷くんの趣味って、なに?


「……り、みーり。当てられてるよ。だめだ、全然聞こえてない」


 近くから誰かが私に囁ささやいているのは聞こえるけれど、耳を通過するだけで意識まで到達していない。



 ……まてよ。

 水谷くんにはひみつの趣味があって、名高先生を知っている人しか分からない紙を見て、あんなに焦った顔をした。


 ということは、あの紙はほぼ100パーセントの確率で水谷くんと何か関係があるんじゃ…?


 そこでパッと浮かんだのは、第二の、仮説。


【この学校に、名高先生がいるんじゃないか説】



(そんな……まさか……)



 自分で考えておいて、何度も違う!と首を振る。

 けれど、やっぱり何回も戻ってくるのは同じ答えで。



 名高先生と水谷嶺緒という人物は───…



「同じ?」

「残念、不正解です。こちらの答えは、⑥と一緒になります。計算の方法は一見同じように見えますが、若干違いますから。意外な答えにたどり着くこともあるのですよ」

「……水谷くんは、同一人物…」

「朝乃さん、良い間違いをしてくれました。これでみんなも一緒に学習できます」



 先生の言葉なんて何一つ頭に入ってこない。


 私はただ、知りたかった。
 ものすごく、知りたくなってしまった。



 名高先生の正体は、水谷くんなのか。



 あとは水谷くんと直接会って、問い詰めるだけだ。



 だけど……。


 今まで私は、水谷くんを避けてきた。

 一方的に傷つけて、最低なことをしてきたんだ。


 そんな私が、水谷くんに今さら、なんて。


「都合が、よすぎるんじゃない……?」


 ぽろっと落ちた本音。自分自身への問い。


 そもそも、水谷くんは別に隠す必要がなかったら、すぐにアクションを起こすはずだ。

 それに、あんなに焦った顔なんてしない。


「実は俺、小説家なんだよね〜」とか、軽い口で言いそうなのに。


 言わないってことは、誰にもバレたくないってこと。

 そんな場所に、私は踏み込めるの……?

 自分の、欲望だけで。



「そんなこと、できない」


 せっかくリーチがかかっているのに、あと一歩を踏み出せないのがもどかしい。


「朝乃さんも体調不良ですか? 顔色があまり良くないように思えますが」

「あっ……いえ、そんなことは」



 田中先生の問いかけにぶんぶんと首を振る。


 もう私の頭の中は、水谷くんでいっぱいだった。




 そして迎えた、放課後。


「朝乃。話がある」


 保健室に行って、なんとか回復したらしい水谷くんのほうが、私を呼び止めてきた。


 口封じでも、するのだろうか。

 水谷くんの瞳はとても真剣で、私たちの間に緊張が走る。



 もうみんな、部活に行ってしまった空っぽの教室。


 に、ふたりきり。

 


 これを聞いたら、すべてが変わっちゃうような気がする。


 どうせ今から水谷くんは、自分の正体を明かすんだ。

 自分は、名高先生だと。



 だったら、私から聞いても、もういいんじゃない?

 正直、私にはいま、97パーセントくらいの確信がある。



 向かい合ったわたしの頰を、窓から入ってきた優しい風が撫でてゆく。


 水谷くんが話し出そうとする直前、私はパッと口を開いた。




「もしかしてだけど、水谷くんって……名高先生…?」

 核心をついたつもりだった。

 ついに言ってやった!!って感じだった。


 怯えるような目をしていた水谷くんの目がわずかに見開かれ、それからゆるゆると気が抜けたように緩む。


 その顔は呆れの色を含んでいて、予想外の反応に少しだけ困惑してしまった。


 先程まで満ち溢れていた自信がしゅるしゅると萎んでいく。



「違うよ」



……違ったらしい。


 とんでもない早とちりだった。


 やはりこんな身近に作者がいるわけない。夢とアニメの見過ぎだ。


 二次元とリアルを切り離せなくなったら、もう救いようがない。

 それはなんとしてでも阻止しなければ。



「だよね……変なこときいてごめん」



 ふわふわしていたところから、現実に引き戻されてしまった。


 わりといい線までいっていたはずなのに、ただの勘違いで終わってしまった。


 まあよくよく考えてみれば、本を読むのも書くのもしなさそうだし。


 彼は完全に理系だ。なんとなく。



「水谷くんは、何の話だったの? ごめんね、遮っちゃって」

「あ、いや……俺の勘違いだったらしい」

「え、どういうこと?」

「朝乃じゃ、なかった……」


 なにやらブツブツ呟きながら、安堵とも落胆ともとれない複雑な表情を浮かべている水谷くん。



「じゃあ、部活頑張ってね」



 目の前で気まずそうに視線を彷徨わせる水谷くんにエールを送り、くるりと身を翻す。


 ずしりと重い荷物を背負って、教室から出ようとした時だった。




「────好きだよ」



 まっすぐ背中にかかった声に、ピタリと足が止まる。


 くるりと振り返った先、真っ赤な顔で私を見つめる水谷くんがいた。


「え?」


 窓から入ってくるあたたかい風が、優しく髪を揺らす。


 ふわ、と静かな音を立てて踊る髪を梳く。


 これはもしや、これまで幾度となく見てきた……いや読んできた、『告白』というやつではないか。


 放課後の教室に二人きり、窓からの風に揺れる髪、少しだけミステリアスな男の子。


 うん。要素は十分にある。


 ただ、大事な主人公というのが私というのは読者に申し訳ないけれど。



 でもまあ、私もぶっちゃけ自分は可愛い類の顔だと思うし、水谷くんに想いを寄せられるというのも納得できるわけで。


 あまりに突然だったから、まったく準備はできていなかったけれど。


 えっと、こういうときはどう言うんだっけ。


「少し、考えるじか────」

「名高先生の作品、俺も好き」

「……は?」



 その言葉の意味を理解した瞬間、私は二つの感情に襲われた。


 同士を見つけた喜びと、『告白』ではなかった落胆。


 これを同時に味わう私って、いったいなんなんだ。



 でも私にとっては、圧倒的に前者が勝った。



「まっ……ままままじで? ほんとのほんとに、名高先生!?」

「『狸顔の俺が、世界を救う理由』でデビューが決まって、今ちょうど新連載始まってる」



 言葉には表せないような「うへっ」「おほっ」みたいな、なんとも変な声が出た。


 同担を見つけたときのオタクはこんなものだろう。


 同担拒否ではなく、しかもわりとマイナーなもの(ケータイ小説界隈で先生は全然マイナーではない、むしろ超人気有名作家だけど!!)を知っている人がいたときの感動は、簡単には形容できない。



「いつからっ、いつから推してるの……!?」

「お嬢様作品あたりかな。それからずっと追ってる」

「せ、先輩じゃないですかぁ……!!」



 私よりもはるかに古参な彼は、少しだけ誇らしげに鼻を鳴らす。



「もしかして、先生が限定公開してくださった『桃色の絆。 -恋物語編-』とか読んだことない感じ?」

「ないない、なにそれ恋物語編なんてあるんですか…!?」

「今は非公開だけどね」

「え、どうして水谷くん知ってるの?」

「そこ聞く? 聞いちゃう?」


 にやっと笑った水谷くんは、「実は」と天を見ながらため息を吐いた。


「ファンになりたてのころに、どうしても読みたいですってお願いしたんだよ。そしたらなんと、年末までの特別公開をしてもらった」

「……え? はっ、ちょ」

「感想ノートではあまり騒げなくて黙ってたけどさ、どー考えても俺のためだと思うんだよあれ。確定ファンサもらってると思うんだよ」

「え、それさ……完全認知って、やつじゃないの?」

「そうなんだよね、実は。いやあ、実はね」


 なんだよそれ!
 ずるいじゃないか!!


 という心の叫びはなんとか堪えて、「どんなストーリーでしたか……?」と問いかけてみる。



「言っちゃっていいの? 先生の美しい描写あってのものだと思うんだけど。俺の言葉じゃ、あの良さは全て伝えきれないけど、それでもいーの?」

「だめっ! だけど知りたいよぉぉ」



 名高先生の言葉は本当に繊細で、心に溶けゆき、じんわり染み込んでいくような、そんな美しいものだ。


 素晴らしいストーリー性と表現力が合わさるからこそ、胸をうつ作品が生まれるのだ。



 それは分かっているけど、知りたい。


 だけどいちばんはこの目で実際に読みたいのだ。
 そんな葛藤に悶える私にクスリと笑った水谷くんは、「朝乃ってほんと面白いな」と呟いて、こちらに近づいてきた。

 トン、トンと小さな音が床に響く。


 目の前に来るとやっぱり背の高い水谷くん。


 少しだけ見上げるようにしないと、どんな顔をしているのかわからない。



「だからびっくりしたよ。朝乃がキャラ設定の紙持ってたから、もしかしたら朝乃が名高先生なんじゃないか、って思ってさ」

「じゃあ私たち、同じこと思ってたってこと?」

「そうみたい、だね」



 ははっ、と苦笑いを浮かべる水谷くんは、「その紙、どこから入手したの? 自作?」と首を傾げた。



 それで私は、ヒラヒラと紙が落ちてきてから今までに至った経緯を話してみた。

 しばらく腕を組んで考えるそぶりをしていた水谷くんは、「あやしいな」と呟く。



「なにが?」

「この紙、田中にも見せたんだよね」

「羽花ちゃん? うん。見せたよ」

「そのときの反応は? 何かおかしなところなかったの」

「別に? 呆れてたと思うけど」



 特に変な反応はしなかったはず。

 いやでも……まって。


 私が、名高先生の名前を出した瞬間、その一瞬だけだったけれど。



「ああああっ! あやしい反応、してた!! 羽花ちゃんだぁぁぁぁ」

「ちょ、うるさっ。いったいなによ!?」



 神様、あなたは歯車をうまく噛み合わせてくれるものですね。

 ちょうど良いところに、ご本人登場。


「羽花ちゃんっ! よくも、私にずーっと黙っていましたね!? この名探偵未理の手にかかれば……」

「で、何の話」


 部活の服を着たまま、眉根にしわを寄せた羽花ちゃんこと田中羽花。


「私がずっと探してた、名高先生って……羽花ちゃんだったんだね!!」



 ビシッと指までさして、「これは決まった……」とドラマの主人公みたいに決めポーズ。


 何度かパチパチとまばたきをした羽花ちゃんは、まいったというように頭をかかえて薄い唇を開いた。


「違うけど」


……違ったらしい。


 あっけなく撃沈してしまった私の代わりに、後ろにいた水谷くんが質問してくれる。



「以前、朝乃が出した『名高』って作家の名前に反応してたみたいだけど、それはどうしてなの」



 キョロキョロ。

 わかりやすく目を泳がせた羽花ちゃんは、小さく息を吐いて床に視線を落とした。


「知り合いなの。残念ながら名高は私じゃないけど」

「え……」

「まさかこんな近くに、名高を熱狂的に応援する人がいるなんて思わなかったから、びっくりしただけ。本当に、それだけ」



 推理、大外れ。

 探偵の世界に生まれなくてよかったよ本当に。

 ヘボ探偵でのたれ死んでたよきっと。


「なんだよ探偵の世界って」

「……っ!? 水谷くん、いま心読んだでしょ! エスパーなの?」

「違うよ。なんとなく、そう思ってそうだなって」


 ははっと満面の笑みを浮かべる水谷くん。

 そんな水谷くんと、私の顔を交互に見た羽花ちゃんは、「案外お似合いかもね」とぼやいて、引き出しからノートを取り出した。


「それっ、ネタ帳!?」

「ただの部活のノート。名高は私じゃないって言ったでしょ。これ、忘れたから取りにきただけなのに、変な疑いかけられてさんざんよ。じゃあね」


 ひと息で言い切ると、羽花ちゃんは身を翻してスタスタと去っていった。



 水谷くんでも、羽花ちゃんでもなかった。


「じゃあ結局、この学校に先生はいないんだ……大チャンスだと思ったのに」


 期待したぶん、落ち込んじゃうよ。

 でもでも、まだ分からないよね。



 あれだけの文章力があるんだもん、子供じゃなくて大人の可能性だってあるんだから。

 たとえばほら、汐●先生は国語の先生をしながら小説を書いていたわけで。



 そうだ、明日は国語の先生にちょっとだけ探りを入れてみよう。



「朝乃、一緒に帰るか」

「え、部活は?」

「行こうと思ってたけど、予定変更。サボることにしました」



 いいの?という言葉は、向けられた人全員気絶するんじゃないかレベルの彼の微笑みによって消されてしまった。



「どこ行く?」

「えー、どこ行こう」



 たいして意味のないこの会話も、なんか青春っぽくていいぞ。


 シチュエーション的には完璧なんだが……!


 名高先生、もし今この近くにいて私たちを見ているのであれば、ぜひとも新作のネタにどうぞ…!



「……とか思ってる?」

「だから、エスパーですかあなたは。ぴったり当ててくるのほんとによくないです、やめてください」


 相当きもい思考回路を見事に当てられた私は、恥ずかしがることも項垂れることもなく、白状して開き直っていた。



「やっぱり面白い。そういうとこわりとね、うん」

「……わりと?」

「あ。これから本屋さん行くのはどう?」

「……あり。大あり。ありすぎる」



 なんだかうまくかわされてしまったような気がするけど、ナイス提案だったので許そう。



「いいねえ、最近行けてなかったんだよね」

「新刊たくさん出てると思うよ」

「スタート出版の御本はぜんぶサイトで把握済みです!!」

「なんとなくそんな気がしてた」


 あはは、と笑う水谷くんと一緒に教室を出て、廊下を曲がると。


 桜色の風とともに、ドンっと肩に走る衝撃。



「うわ……っ!」



 思わず尻もちをついてしまった。


 普通、ここは水谷くんの出番じゃないのか。


 曲がり角で誰かとぶつかるという、これまた物語らしいあるあるシチュエーション。


そこを颯爽と助ける王子様ポジでしょ君は!

……いや、ないか。



「すみません」



ぶつかった拍子に床に落ちたのは、一冊の文庫本。


カバーがかけられていて表紙は見えなかったけれど、扉の部分にあった題名と作者名に、逃せない文字が並んでいた。



「え……!? 名高先生のデビュー本?! まってもう出てるの、うっそでしょ!?」



 オタクとして失格だ。


 発売日を見誤っていたのだろうか。



「大切な御本を本当にすみません! もし汚れたり折れたりしてたら弁償しますんで!!」



 ガバッと顔を上げた先、あったのは塩顔フェイス。


「じゃあ私急用ができましたのでこれで! 水谷くん行くよ緊急事態!!」

「え、でも発売日ってまだ……」

「はやく! はやくしないと!」



 もう少し冷静になっていれば。


 落ち着いて考えることができていたのなら。



 きっと私は、いまの段階で第二の仮説を立証できていただろう。



「先生も名高先生のファンなんですね! また語り合いましょー!!」



 叫ぶようにして廊下を走る。


 待ってて文庫本、いや名高先生。


 今すぐ迎えに行きますからね!!



「廊下は走ってはいけませんよ」



 と私たちの背中に向かって言う塩顔────数学教師の言葉を聞き流し、水谷くんの手を引いて駆ける。



「未理……たぶん大チャンス逃してると思うんだけど」

「え、なんのこと? 今そんな場合じゃないんだけど」

「……なんでもない」



 呆れたように肩をすくめる水谷くんは、どこか嬉しそうだった。


 そしてさらっと呼ばれた名前に、不覚にも胸がときめいた。



「おもしろ。んで……かっわい」



 小さく呟かれた言葉は、私の耳には届くことはなかったけれど。





 先生がいてくれるから、私の世界は色づいていく。


 先生の小説があるから、どんなにつらいことがあってもまた立ち上がることができる。


 先生の存在が、私に力を与えてくれる。


 先生の連載があるから、私は───…。




「なんか嬉しそうじゃん」

「幸せそー」



 通りすがりのお友達の声掛けに、私は思いきり叫ぶ。



「推し作家様、連載中につき、今日も私は幸せです!!!」



って。











「水谷くんと朝乃さんですか……なかなか面白いですね」



 ものすごい勢いで駆け出した背中を見つめながら、数学教師……田中は小さく息を吐いた。


 ふと床に落ちた視線の先、小さな紙切れ。

 拾い上げてみると、それはキャラクター設定のメモだった。


「朝乃さん、これ落としましたよ……って、ただ戻ってきただけですね」


 丁寧に畳んで、ポケットにしまい込む。



(気づくのはいつになるんでしょうね。鋭いようで鈍いんですから)



「それにしても危なかった。発売日はまだなんだから、持ち歩くものではないですね。気をつけないと」



 どうか良い青春を、と二人の未来に思いを馳せ、田中は"見本誌"と呼ばれるそれを大切そうに腕に抱えた。








推し作家様、連載中につき。 了

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