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「朝乃」

 ある日のホームルーム後。
 ふいに隣から話しかけられてびくりと肩がはねた。

「どうしたの、水谷くん」

 珍しいなと思いつつ問いかけると、少しだけ口の端を上げた水谷くんは「これ見て」とスマホ画面を差し出した。

「クレープ?」
「ばか、声でかい。恥ずいからあんま大きい声出さないで」
「ご、ごめん」

 唇に人差し指を当ててお決まりのポーズをする彼は、声をひそめて私に告げた。

「これから一緒に行かね?」
「ここに?」
「そ。この前の教科書のお礼」

 なんと。
 ジュースよりも高価なものになってしまった。
 そもそもジュースすら冗談のつもりだったのに、本気にしてしまったのだろうか。

「そんな、いいのに」
「いや、今は金銭的に余裕あるから。まあ俺の気分ってことにしてついてきてよ」

 にっ、と浮かべられた笑みに、思わずくらりとしてしまう。美形はおそろしい。
 私が受けとる美の量としては明らかに致死量なのだ。

「部活は大丈夫なの?」
「うん。まあ一日くらいは許してもらえるでしょ、きっと」
「ならいいんだけど……」

 どちらの部活でもエース的ポジションにいるはずの彼が休みとなると、その部活的にはわりと痛手なのではと思うけれど、本人が気にしてなさそうなので下手な口出しはしないことにした。

「じゃあ決まり。行こう」

 瞳を輝かせて立ち上がった水谷くん。私も慌てて鞄を背負い、その背中を追った。




「うわ……うんま」

 ギャップ。この言葉に尽きる。
 "甘"という響きとはまったく対極にいるような彼が、蕩けるような笑顔でクレープを頬張っている。
 誰が見ても、私のような反応になってしまうに違いない。
 ポカンと口を開けて、ただただ唖然。呆然。

「あの水谷くん……確認なんだけど、今日私を誘ったのって」
「え? ああ、もちろんこれが食べたいからだよ」
「ですよねー」

 まあ反応を見てればなんとなく分かりますけど。
 お礼とか言っときながら、自分が食べたいだけじゃん。

 感情が顔に出ていたのだろう。クスリと笑った水谷くんは「ごめんうそ」と目を細めた。

「いいよ別に。奢ってもらってることに変わりはないから」
「冗談だから拗ねないで」
「別に拗ねてない」

 なんとも可愛らしくない会話だ。悲しくなってくる。

「朝乃、甘いもの好きでしょ?」
「ううん、あんまり」

 ふるふると首を横に振ると、ニヤリと悪戯っぽく笑った水谷くんは、私の額をコツンと弾く。

「嘘だね。毎日お弁当後のチョコレートを幸せそうに食べているのを俺は知ってる」
「なにそれ、ストーカーか何か?」
「なんとでも言ってくれ」

 この人は不思議な人なんかじゃない。変人だ。
 パクッとクレープを頬張ると、頬が落ちるかと思うくらいの甘さが口内に広がる。
 ああだめだ。美味しい。
 やっぱり甘いものを前にして嘘をつくなんてできない。

「美味しいでしょ?」
「……うん」

 素直に頷くと、満足げな笑みが降ってくる。
 悔しいけれど美味しいものは美味しいんだ。美味しすぎるクレープが悪いよこれは。
 という責任転嫁を心の中で行いながら、私は夢中でクレープを食べたのだった。


「今日はありがとな」
「こちらこそ、ごちそうしてくれてありがとう」

 夕暮れの色に染まる空。
 街も、水谷くんの顔も、すべてが真っ赤に染まっている。
 くるりと踵を返して歩きだすと、ふいに後ろから「朝乃!」と私を呼ぶ声が聞こえた。
 その後で、タタッと足音が聞こえてくる。

「やっぱ、送る」
「え?」
「もう日が暮れそうだし、一人だと危ないから」

 「でも私電車だから……」と渋ると、「じゃあ駅まで」と返される。
 こういうとき、本の中の女の子たちはどう言うんだろう。

 付き合ってないから「大丈夫!」って言うのか。
 はたまた可愛く甘えて「お願い」って言うのか。

 断固として譲りそうにない水谷くんを前に、私が選んだのは後者だった。
 ただし、『可愛く甘えて』の部分は除いて。

「お願いします……」
「りょーかい」

 カハッと笑った水谷くんは、頭の後ろで手を組んで歩きだす。
 その隣に並んで、私も同じように空を見上げた。


「なあ、朝乃」

 燃えるような太陽の赤さと、カラスの鳴く声。「また明日ね!」と弾む足音と、どこからか漂ってくる香ばしい匂い。
 そんなものを感じながらゆったりと歩いている最中、ふいに届いた声。

「ん?」

 振り向くと、「朝乃ってさ」と遠くを見つめながら呟く水谷くんがいた。
 その視線は太陽が沈む方を向いている。夜の訪れを告げるように、だんだん沈んでいく太陽。
 周りも暗色に包まれ始めている。

「どんなやつが好きなの?」

 質問を頭の中で反芻する。
 それは……恋愛的な意味で、だろうか。

「それって、どういう……」
「ああ、付き合うならどんなやつがいいのかなって」

 ……やっぱり。
 質問をゆっくりと咀嚼して、思考を巡らす。
 数多くの恋愛小説を読み、恋に憧れを持っていた私。けれど恋愛経験はほぼ皆無に等しい。
 そんな私が恋人に求める絶対条件は、たったひとつだけだった。

「本が好きな人……かな」

 ジャンルはなんだっていい。
 本を通して、愛を深めることができるのなら。
 感動を分かち合ったり、ストーリーの辛さを一緒に嘆いたり、登場人物の過去に思いを馳せて涙したり、ハッピーな結末に喜び合ったり。
 そんな心の動きをともに体験できる人にそばにいてほしい。
 無関心ではなくて、私にも本にも関心を持って接してくれる人がいい。

「そっか」
「水谷くんは? どんな子がいいの?」

 正直に答えたんだから、私だって訊いてもいいだろう。
 顔を覗き込むようにして訊ねると、少し視線を泳がせた水谷くんは、小さく呼吸をした後「面白い人」と呟いた。

「わりとベタだね」
「王道って言ってもらえると助かる」

 まあ確かに小説の中でも、明るくて可愛くて、時々見せる弱さが魅力的なヒロインがいちばんモテるし愛されるしな……。
 水谷くんのタイプは面白い子。なるほど、また一つミステリアスな彼の情報が増えた。

「話してたらあっという間だったね。もう着いちゃった」

 駅に入ったところで、タイミングよく電車がやってくる。長い間電車を待つ必要がないから、とてもラッキーだった。

「今日はありがとう。また明日」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん。水谷くんもね」

 音を立てて扉が閉まる。
 軽く片手をあげた水谷くんに、胸の前で小さく手を振った。
 まるで恋人のようなその行動がなんだか無性に恥ずかしくなって、くるりと景色に背を向けた私は、薄茶色の床に視線を落としたのだった。