「ちょっと聞いて聞いて! ついに、ついにだよ羽花ちゃん……っ!」
「聞いてるから落ち着け、未理」
「だって、だってねっ」
ダンッと机に手をついて覗き込んだ親友の瞳には、呆れの色が浮かんでいた。いつもそんな顔をさせてしまってごめんよと心のなかで謝りつつ、態度は全く変えないのがこの私。こんな私のそばにいてくれるんだから、相当な物好きだなーとどこか他人事のように思いながら日々を過ごす、いたって普通の女子高生。
勉強、部活、人間関係。いつでもうまくいくわけじゃないし、むしろ嫌だなって思うことの方が多い。そのたびに笑顔が消え、心がズタボロになって涙にくれる夜だってある。
けれどそんな私がここまで元気になれるのは、日々に"生きがい"というものを見つけてしまったからだ。
「なんでこんなにいい小説が書けるんだろう……もういっそ頭のなかをのぞいてみたいね」
私の生きがい。
それは、携帯小説投稿サイトで知った推し作家様の神小説を読むことなのだ。
きっかけは、いたってシンプル且つ偶然。
部活の帰り、電車が遅延していた待ち時間に、なにか読もうと思ったのがきっかけ。
疲労で身体が動かないなか参考書を読むのも気が引けて、おもむろにスマホを触っていたときだった。
『へー、これ、新刊出るんだ……』
以前好きで読んでいたとある本の新刊が出るという情報をキャッチした私は、その本が小説投稿サイト発のものであることをそのとき初めて知った。
昔から本は好きだったので、本屋さんや図書館などの本に囲まれたところに行くことは好きだったけれど、大きくなるにつれて読書の時間も減り、だんだんと紙の本離れをしてしまっていた。
本屋さんに並ぶ多くの本が、いったいどのようにして製本され、ここに並んでいるのか。そんなことを考えたこともなかったので、専門の大学に行ったり、本業を【作家】としている人たちばかりの作品だけではないのだと知ったとき、私はひどく驚いた。
投稿サイトのページにとんだ先、真ん中に大きくはられていたトピック……ではなく、少し下にスクロールしたところに小さく表示されていたいくつかのキーワード。
それをタップして、くるくると回る進捗インジケータを見つめること数秒。
パッとうつったその表紙に、私は一気に吸い込まれた。
藍色と薄紫色が鮮やかに混ざり、湖に反射して溶け合うように広がっている空の画像。どこまでも不思議で、繊細で、気づけば【読む】というボタンを押していた。
「で、ついに何よ」
呆れた声音でも一応聞いてくれるようすの親友に、ぐぐっと身を乗り出して寄せる。少し引き気味の目には、「はやくしろ」という圧が垣間見えていた。
「じつは……」
「ためるな。はやくして」
相変わらず冷たい親友にムッとしつつ、やはり聞いてもらえるだけありがたいと気を取り直して姿勢を正す。
ゆっくりと肺いっぱいに息を吸い込んで、声を出す準備はオーケー。
目の前で頬杖をついている親友にバチッと視線を合わせて。
「実はこのたび、推し作家様のデビューが決まりましたぁぁ!!」
よっしゃぁぁぁとガッツポーズをすると「おめでとー」とたいして色のない声が返ってくる。お祭り騒ぎの私と、どうでもよさそうな親友。対照的すぎて周りからは、私が馬鹿騒ぎしている迷惑女だと思われているだろう。否、間違いではない。
「ちょっとこの感動やばくない? スマホ使わなくても紙媒体でいつでもどこでも一緒ってことだよ? 作者の息吹を感じるよ」
「末期だからそれ」
「べつにいいよ、推しだもん。そして私はオタクだもん」
自分でも相当キモいことを口走っているのは知っている。けれど止められないのもオタクの性だ。
「あのさあ、もしその作者さんが中年のおじさんだったらどうするわけ?」
はあ、と分かりやすくため息をつく親友に、私は何度も言った言葉をもう一度繰り返す。
「だーかーら、そんなの関係ないの! 私はさ羽花ちゃん、あくまでもその作者さんの小説が好きなわけであってだね」
「今さっきの発言的に、作者まるごと愛してる感じだったけどね」
「まあ……そうなんですけど」
年齢、性別、出身。
本人が明言しないかぎり、それらは包み隠されて読者には分からない。
だからこそ、最初は小説を好きになってその作者さんに興味を持っても、だんだんと作者の素性が知りたくなってくる。
無論、無理やり知りたいとは思わないのだけれど、まったく気にならないかと言われたら、私は素直に首肯できないだろう。
「まあね羽花ちゃん、もし仮にもその作者さんがおじさまだったとしても、私は一生愛すと決めてるよ」
「危ないあぶない……あたしあんたの将来が心配」
わりと真剣に心配されてしまった。
もはや心配を通り越して呆れに近いような気がするけど。
でもさっきの言葉は嘘偽りのない本心。
仮にイメージとは違ったとしても、もっと好きになるだけだ。
年齢とか性別とか、正直私にとってはあまり関係ない。それくらい作品と作者に沼っている自覚があるので、がっかりするとか推しじゃなくなるとか、そんなことは絶対にないのだ。
「しかもね!! 書籍発売記念にサイト限定書き下ろしを投下してくださるんだって!! そして来週からはまさかの新連載。いやあ、まだまだ生きないとね」
一息で言い切ると、「ああ...よかったね」と呟いた親友はちらりと教室の時計を見やった。
「もうすぐ五限始まる。そろそろ着席しな」
「うわー、次なんだっけ」
「数学」
「くっ.....!」
親友の言葉に顔を顰めつつ、廊下側の自席に座る。さらさらっと教科書を読んで、軽めの予習をしていると。
「はいじゃあね、今日も始めますよ〜」
のんびりとした口調で教室に入ってきた数学教師。
その後にすべり込むようにして入ってきた一人の男の子。
「あっぶね〜、さすがにセーフ?」
チャイムが鳴っていないのでギリギリセーフといったところだけれど、高校生であれば3分前着席が望ましい。
ふ、と小さくため息を吐いた先生は、視線だけを動かして席につくよう促した。
「もう少し時間に余裕を持って行動しましょうね。それと水谷くん、日本語がおかしいです」
「サーセン」
悪びれる様子もなくケラケラと笑う彼の机の上には、当然教科書など用意されていない。
「悪い朝乃、教科書見せて」
「えー……忘れたの?」
「ご名答。なあ頼むよ、隣の席のよしみでさ」
ドカッと自席に座った彼は、パチンと目の前で手を合わせて私を見つめた。
「……今度ジュース奢ってね」
「まじで。今金欠なんだけど」
「うそうそ。いいよ、見せてあげる」
ジュース一本すら買えないほどピンチなのかと心の中で哀れみつつ、渋い顔をする彼に微笑む。
「サンキュ」と笑った彼は、机を少し動かして私の机とくっつけた。
「なにしてて遅れそうになったの」
同じものをかけているわけですから当然ルートが外れますよね、という数学教師の説明を聞き流しながら、頬杖をついている彼────水谷嶺緒にコソッと訊ねてみる。
ボーッと黒板を見つめていた彼の視線がスッと流れ、私を向いた。
その瞳がまっすぐに私をとらえたとき、無意識にも綺麗だと思ってしまった。
普段あまり意識してみていなかったけれど、よくみると彼はものすごく美形なのではないか。
学年で目立ち、騒ぎになるほどの顔のつくりではないはずなのに、どうしてか引き込まれて仕方がない。
不思議な感覚に陥ってしまうような、そんな妖しい瞳だった。
彼の薄い唇が少しだけ動き、音を紡ぐ。
「まあ……趣味、ってやつ」
フッとかすかな音を立てて細められた目、少しだけ上がった口角、そんなものに簡単に高鳴ってしまう私の心臓。
彼は危険かもしれない。
脳内で警鐘が鳴り響いている。
彼のようなタイプはきっと、沼ってしまえば抜け出せなくなってしまうだろう。
「へぇ、そうなんだ。スポーツ?」
たしか水谷くんはサッカー部と剣道部を兼部するという、凄まじい毎日を送っているはずだ。
どちらかひとつだとしても相当ハードなはずなのに、いったいどこに両方を掛け持つ時間と体力と才能があるのだろうか。
私は不思議で仕方がない。
そんな水谷くんだから、部活は趣味に直結していると思っていたし、先ほどの言葉も部活に関することだと思ったのだけれど。
「いや、違う」
ふるふると首を横に振った水谷くんは、私の予想をあっさりと否定した。
「え、じゃあなに────」
「水谷くん、この問題は」
訊こうとしたところで、先生の声が飛んできた。
当てられたのは水谷くん。
話をまったく聞いていなかったので、私が当てられていたら確実に終わりを迎えていた。
すっくと立ち上がった水谷くんを、ビクビクしながら見上げると。
「1です」
「おっと……相変わらず途中式全部飛ばしましたね」
涼しい顔をして答えた水谷くんは、先生の苦笑を受けて、静かに着席した。
そう。この人は頭もいいのだ。
色々な意味で、この人は不思議な人。
頭脳明晰、運動神経抜群、眉目秀麗な不思議っ子。
きっと小説のなかのキャラクターでいうと、自信をなくしたヒロインを救う、ちょっと風変わりな天才くん、ってところだろう。
*
事件が起きたのは、推し作家様の新連載が始まって一週間ほど経った日のことだった。
神小説を心の安定剤とし、平穏な日々を送っていた私の目の前にひらりと落ちてきた一枚の紙きれ。
桜の花びらのように空からひらひらと舞い落ち、私の足元に着地するのだから、無意識にも拾ってしまった。
校舎を出て少し歩いたところで拾ったそれは、どうやら校舎の上の階から風に乗ってここまで来たようだ。
普通に考えて天から落ちてくるはずがないので、そう考えるのが妥当だろう。
「なんだろう、これ……」
裏返したのは、本当に興味本位。急に落ちてきた紙の裏面に何かが書いてあるのであれば、誰だって見たくなるだろう。私だけではないはずだ。
「神谷時雨……茜爽……」
どこかでみた文字の配列だ、などと不思議に思う暇などなく。バチッと合ってしまった記憶と記憶は、私の興奮をあっという間に爆発させた。
「ちょ、ちょちょちょちょ、どういうことこれは…!?」
何度もその文字を目でなぞる。目を擦って、瞬きをして、深呼吸をして見てみても、やはりその文字が変わることはなかった。
間違いない。
「これ……小説のキャラじゃん」
しかも、新連載の。
個性的な名前だから、間違うはずがない。探せばこの世界のどこかにいるかもしれないけれど、この書き方からして実名ではなさそうだ。
ヒーローとヒロイン、どっちも合致。しかもキャラクター設定まで事細かに書いてある。
思考回路は一気に停止、それからすぐにフル稼働。
「キャラ設定細か……しかもこんな情報出されてない…よね?」
となると、だ。
私のなかで、二つの仮説が浮上した。
まずひとつ目。
「先生のファンによる二次創作……」
そしてもうひとつ目。
「この学校に、先生がいる……?」
ぶつぶつとつぶやく私は、はたから見たら要注意人物だ。
それでも、こんな漫画のような紙展開ならぬ神展開に遭遇するオタクは、果たしてこの世に何人いるのだろうか。
私自身、気づいていないだけで相当な強運の持ち主なのかもしれない。
「ていうか、もしこれが本物のキャラ設定だったとしたらネタバレじゃん…!むりむり、読めないよこんなの!!」
素早く折り畳んで、鞄の奥深くに滑り込ませる。
これで少しは安心だ。もし適当な場所に捨てようものなら、誰が拾って見るか分からない。
みんながみんな、私のような【節度のある】オタクだとは限らないのだから。
拾ったのが私でよかった、本当に。
「おーい、未理!そんなとこで何してんのー?」
「あ、羽花ちゃん!」
ぶんぶんと手を振って駆け寄ってくる親友は、どこか嬉しそうだ。
「一緒に帰ろ」
「あれ、部活は?」
「今日は顧問が体調不良で、奇跡的に休みになった」
なるほど。だからそんなに嬉しそうな顔を。
「そっか。じゃあ一緒に帰ろう」
拾った紙のことは、なんとなく羽花ちゃんには言わない方がいいような気がして。
鞄の奥で眠ったまま、当分の間出てくることはなかった。
***
「朝乃」
ある日のホームルーム後。
ふいに隣から話しかけられてびくりと肩がはねた。
「どうしたの、水谷くん」
珍しいなと思いつつ問いかけると、少しだけ口の端を上げた水谷くんは「これ見て」とスマホ画面を差し出した。
「クレープ?」
「ばか、声でかい。恥ずいからあんま大きい声出さないで」
「ご、ごめん」
唇に人差し指を当ててお決まりのポーズをする彼は、声をひそめて私に告げた。
「これから一緒に行かね?」
「ここに?」
「そ。この前の教科書のお礼」
なんと。
ジュースよりも高価なものになってしまった。
そもそもジュースすら冗談のつもりだったのに、本気にしてしまったのだろうか。
「そんな、いいのに」
「いや、今は金銭的に余裕あるから。まあ俺の気分ってことにしてついてきてよ」
にっ、と浮かべられた笑みに、思わずくらりとしてしまう。美形はおそろしい。
私が受けとる美の量としては明らかに致死量なのだ。
「部活は大丈夫なの?」
「うん。まあ一日くらいは許してもらえるでしょ、きっと」
「ならいいんだけど……」
どちらの部活でもエース的ポジションにいるはずの彼が休みとなると、その部活的にはわりと痛手なのではと思うけれど、本人が気にしてなさそうなので下手な口出しはしないことにした。
「じゃあ決まり。行こう」
瞳を輝かせて立ち上がった水谷くん。私も慌てて鞄を背負い、その背中を追った。
「うわ……うんま」
ギャップ。この言葉に尽きる。
"甘"という響きとはまったく対極にいるような彼が、蕩けるような笑顔でクレープを頬張っている。
誰が見ても、私のような反応になってしまうに違いない。
ポカンと口を開けて、ただただ唖然。呆然。
「あの水谷くん……確認なんだけど、今日私を誘ったのって」
「え? ああ、もちろんこれが食べたいからだよ」
「ですよねー」
まあ反応を見てればなんとなく分かりますけど。
お礼とか言っときながら、自分が食べたいだけじゃん。
感情が顔に出ていたのだろう。クスリと笑った水谷くんは「ごめんうそ」と目を細めた。
「いいよ別に。奢ってもらってることに変わりはないから」
「冗談だから拗ねないで」
「別に拗ねてない」
なんとも可愛らしくない会話だ。悲しくなってくる。
「朝乃、甘いもの好きでしょ?」
「ううん、あんまり」
ふるふると首を横に振ると、ニヤリと悪戯っぽく笑った水谷くんは、私の額をコツンと弾く。
「嘘だね。毎日お弁当後のチョコレートを幸せそうに食べているのを俺は知ってる」
「なにそれ、ストーカーか何か?」
「なんとでも言ってくれ」
この人は不思議な人なんかじゃない。変人だ。
パクッとクレープを頬張ると、頬が落ちるかと思うくらいの甘さが口内に広がる。
ああだめだ。美味しい。
やっぱり甘いものを前にして嘘をつくなんてできない。
「美味しいでしょ?」
「……うん」
素直に頷くと、満足げな笑みが降ってくる。
悔しいけれど美味しいものは美味しいんだ。美味しすぎるクレープが悪いよこれは。
という責任転嫁を心の中で行いながら、私は夢中でクレープを食べたのだった。
「今日はありがとな」
「こちらこそ、ごちそうしてくれてありがとう」
夕暮れの色に染まる空。
街も、水谷くんの顔も、すべてが真っ赤に染まっている。
くるりと踵を返して歩きだすと、ふいに後ろから「朝乃!」と私を呼ぶ声が聞こえた。
その後で、タタッと足音が聞こえてくる。
「やっぱ、送る」
「え?」
「もう日が暮れそうだし、一人だと危ないから」
「でも私電車だから……」と渋ると、「じゃあ駅まで」と返される。
こういうとき、本の中の女の子たちはどう言うんだろう。
付き合ってないから「大丈夫!」って言うのか。
はたまた可愛く甘えて「お願い」って言うのか。
断固として譲りそうにない水谷くんを前に、私が選んだのは後者だった。
ただし、『可愛く甘えて』の部分は除いて。
「お願いします……」
「りょーかい」
カハッと笑った水谷くんは、頭の後ろで手を組んで歩きだす。
その隣に並んで、私も同じように空を見上げた。
「なあ、朝乃」
燃えるような太陽の赤さと、カラスの鳴く声。「また明日ね!」と弾む足音と、どこからか漂ってくる香ばしい匂い。
そんなものを感じながらゆったりと歩いている最中、ふいに届いた声。
「ん?」
振り向くと、「朝乃ってさ」と遠くを見つめながら呟く水谷くんがいた。
その視線は太陽が沈む方を向いている。夜の訪れを告げるように、だんだん沈んでいく太陽。
周りも暗色に包まれ始めている。
「どんなやつが好きなの?」
質問を頭の中で反芻する。
それは……恋愛的な意味で、だろうか。
「それって、どういう……」
「ああ、付き合うならどんなやつがいいのかなって」
……やっぱり。
質問をゆっくりと咀嚼して、思考を巡らす。
数多くの恋愛小説を読み、恋に憧れを持っていた私。けれど恋愛経験はほぼ皆無に等しい。
そんな私が恋人に求める絶対条件は、たったひとつだけだった。
「本が好きな人……かな」
ジャンルはなんだっていい。
本を通して、愛を深めることができるのなら。
感動を分かち合ったり、ストーリーの辛さを一緒に嘆いたり、登場人物の過去に思いを馳せて涙したり、ハッピーな結末に喜び合ったり。
そんな心の動きをともに体験できる人にそばにいてほしい。
無関心ではなくて、私にも本にも関心を持って接してくれる人がいい。
「そっか」
「水谷くんは? どんな子がいいの?」
正直に答えたんだから、私だって訊いてもいいだろう。
顔を覗き込むようにして訊ねると、少し視線を泳がせた水谷くんは、小さく呼吸をした後「面白い人」と呟いた。
「わりとベタだね」
「王道って言ってもらえると助かる」
まあ確かに小説の中でも、明るくて可愛くて、時々見せる弱さが魅力的なヒロインがいちばんモテるし愛されるしな……。
水谷くんのタイプは面白い子。なるほど、また一つミステリアスな彼の情報が増えた。
「話してたらあっという間だったね。もう着いちゃった」
駅に入ったところで、タイミングよく電車がやってくる。長い間電車を待つ必要がないから、とてもラッキーだった。
「今日はありがとう。また明日」
「ああ、気をつけて帰れよ」
「うん。水谷くんもね」
音を立てて扉が閉まる。
軽く片手をあげた水谷くんに、胸の前で小さく手を振った。
まるで恋人のようなその行動がなんだか無性に恥ずかしくなって、くるりと景色に背を向けた私は、薄茶色の床に視線を落としたのだった。
ここ最近、私は気になっていることがある。それは、親友のようすが少しおかしいことだ。
「うーかーちゃんっ」
「うわっ……びっくりした…!!」
ほら、今も。
背中から覗き込むようにすれば、スッと隠されてしまう。
「ねえ、なんで隠すの!?」
「なんでも」
「誰と連絡とってるの? もしかして彼氏?」
野暮だということは分かっていた。けれど、長い間一緒にいるのだ。
これまで隠し事なんてしたことなかったし、されたこともなかった。
羽花ちゃんに初めて彼氏ができたときだって、羽花ちゃんは隠すことなく私に教えてくれたのだ。
ここまではっきりと分かるような隠し事は初めてなので、なんだかもやもやとした感情が己を支配する。
「違うよ」
素早く鞄にしまわれた媒体は、いったいどこの誰と繋がっているのだろう。
めったに笑わない羽花ちゃんが、口の端をちょこっとあげながら会話する相手は、そんなに面白い人なのだろうか。
「じゃあ誰なのー?」
「秘密」
「ちぇー、ケチ」
唇を尖らせる私をちらりと一瞥した羽花ちゃんは「そんなことより」と話題を転換した。
なんだかうまくかわされてしまった。悔しい。
「あんた、水谷くんと仲良いの?」
どきりとした。いつ、どこで、誰に見られたのだろう。
まあ見られていけないことは何ひとつないのだけれど。
「えー、なんで?」
「この間友達が、あんたと水谷くんが一緒に歩いてるとこみたって。放課後デートしてたらしいじゃん」
「うーん、前半はあってるけど後半は違うかな」
たしかに放課後一緒に歩いてたことはあるけど、あんなのはデートでもなんでもない。
ただクレープをご馳走してもらっただけだ。
デートっていうのはもうちょっとこう、雰囲気とかムードがロマンティックなはずだ。
人生初のデートがあれはさすがに勘弁してほしい。
よってあれはただのお出かけ。断じてデートではないのだ。
「男女が二人きりで出かけたらそれはもうデートでしょ」
「ん? それは違うよ羽花ちゃん。ここにきて価値観のズレがあるかも」
「じゃあ付き合ってるわけじゃないんだ」
「まさかまさか! 私みたいなやつが水谷くんみたいな風変わりな美形天才くんと付き合えるわけがないでしょう」
「今の言葉聞く感じ、印象はわりとよさそうだけどね」
ふーんと微妙な表情で納得したらしい羽花ちゃんは、ふとグラウンドに視線を遣って「あ」と声を上げた。
「なになに?」
「ほら、いるよ。水谷くん」
ピッと羽花ちゃんが指差した方を辿ると、ちょうどボールを蹴ろうとしている水谷くんがいた。
ゴール目掛けて蹴られたボールは綺麗な軌道でまっすぐにゴールに飛んでいき、ネットを揺らす。
遠目から見てもうっとりするほど滑らかなその動きは、たぶん近くで見たらより魅力的に見えるのだろう。
「綺麗な顔してて頭もいいし、運動神経もいいのに気取らないところが刺さる人には刺さるらしいよ。ファンも結構いるっていうし」
「え、そうなの? 確かに美形だとは思ってたけど、ファンがついてるなんて知らなかった」
「できるだけサポートするつもりだけど、さすがに全女子からは庇いきれないからね? 自己防衛は自分でするんだよ」
「? うん、わかった」
だめだ全然伝わってない、という羽花ちゃんのため息をにこやかに受け止めて、机にかけていた鞄を持つ。
「さ、そろそろ帰ろっか羽花ちゃん。今日は部活ないんでしょう?」
「うん。オフだよ」
「最近駅前にできたカフェ、どう?」
「いいね、行こ」
「あ、ついでにお勉強を教えてください」
「ついでなんだ」
あはっと笑う羽花ちゃんは「いーよ」と呟いて同じように鞄を持った。神様。
「何を教えればいいの」
「数学ですかね……」
「先生がダメかもね」
「違うんです、私の理解力の乏しさなんです……」
さらっと先生をディスる羽花ちゃんに縋るようにして、カフェへと足を運んだ。
「とりあえず教科書出して。教えるから」
はーい、と間のびした返事をして、鞄から教科書を取り出そうと試みたのだけど。
「あれ、荷物が多くて……ちょっと待って羽花ちゃん」
ゴソゴソと漁って、ようやく取り出せた教科書……と。
「ん、なにこれ」
私は重大なミスを犯してしまったのだ。ヒラッと机に着地した紙切れを羽花ちゃんが拾う。
随分時間があいたせいで、私もすっかり忘れていたのだ。その存在を。
眉を寄せて、不思議そうに紙に目を通す羽花ちゃん。
机に物を置いてふうっと息をついた私は、そこでようやく"その紙"が過去に拾った"プロットらしきもの"であることに気がついた。
「ま、まままって、まってだめそれはっ」
親友の手から慌てて紙をさらう。けれど、時すでに遅し。
「それって……」
訝しげに眉を寄せた羽花ちゃん。
ふ、と小さく息をついてテーブルの上で手を組むと、チャームポイントである大きな猫目で私を見据えた。
「な、なななんでもないよ……これは」
慌てて鞄の中に紙を突っ込む。
けれど、「なにか隠し事してるでしょ」と頰を膨らませた羽花ちゃんは、コンコンと指で小さく机を弾き、音を立て始めた。
あ、相当苛立ってる。わずかに耳が赤くなっているから、この状況をあまりよく思っていないみたいだ。
「どうして言ってくれないの。嘘ついてるのバレてるよ」
「べつに大したことじゃないよ」
不確かだし、曖昧だし。私のただの妄想かもしれないし。
そんなつもりで放った言葉は、彼女の苛立ちをより加速させてしまったようだ。
「関係ないって言われてるみたいで超ショック。大したことじゃなくても話してほしいのに」
「いや、だから……」
「言ってよ。私たち、親友だよね?」
彼女の瞳に涙の膜が張っていく。さすがに喧嘩になるのは困る。
うーんとしばらく逡巡したのち、私はいい事を思いついた。
「じゃあ、さっき羽花ちゃんが隠した連絡相手の情報と交換ってのは、どう?」
「え」
「それくらいはしてくれないと。羽花ちゃんも秘密ごとはなしだよ」
ふふんと胸を張ると、ピタリと動きを止めた羽花ちゃんは、ゆっくりと息を吐き出して目を伏せた。
それから「わかった」と小さく呟く。
「じゃあまず未理から話して。これは、なに」
「えっとそれはね……」
拾った経緯、個人的な見解、それら諸々を話す。
すると羽花ちゃんは大きなため息をついて「あ、そう」と言葉を落とした。
「絶対馬鹿にしてるじゃん! だから言いたくなかったんだよ…!」
「別に馬鹿にはしてないって。夢みることは大事じゃん」
「ほらー! 馬鹿にしてる!」
乾いた笑いを洩らす羽花ちゃん。まあどのみち期待はしていなかったけれど。
「で、なんて名前の先生なの? いい加減教えてくれてもいいんじゃない?」
「え!? 言ったことなかったっけ!?」
「だっていつもはあんたが興奮しながら言葉ミサイルぶち込んでくるから、訊く暇なんてないじゃない」
「それは失礼しました! 私の推しは名高先生です!」
そう告げた瞬間、羽花ちゃんの顔がピキリと固まったような気がした。
けれどそれは一瞬のこと。あまりにも一瞬だったので、気のせいだろうと流すことにした。
「私は言ったからね! 次は羽花ちゃんの番だよ!」
「……そーだよね」
気まずそうに目を逸らした羽花ちゃん。
うーんとしばらく渋っていたけれど、観念したようにスマホを取り出した。
「この通話アプリで知り合った人。仲良くなったから一応、SNSでもつながってる」
「……なんてこと!!」
「反応が独特すぎてコメントに困るわ」
まさか。いわゆる"ネッ友"というやつ?
「羽花ちゃん、絶対にハダカの写真とか送っちゃダメだよ」
「送らないよそんなの!」
「顔写真もだめだよ? 中身は女子高生を装うただのおじさんかもしれないんだから」
「わかってる」
少し前に同じようなことを羽花ちゃんから言われた気がするけれど。
形勢逆転、ってところかな。
「仲良くなってくるとだんだんガードも緩くなるからね。惑わされちゃだめだよ、それがああいう人たちの手法なんだから」
「約束するよ。危ないことはしない」
「うん。そうして、私の大事な羽花ちゃん」
呆れるように肩をすくめながらも、私のハグを受け入れてくれる羽花ちゃん。
SNSで繋がっている人がいると聞かされた時、一瞬、羽花ちゃんがなんだか遠い場所に行っちゃうような気がして。少しだけ、こわかった。
「通話アプリってことは、声だけ?」
「そう。声だけ」
「じゃあそのお相手は超イケボってことですな?」
「いや、違うけど」
……違った。
「でも、男の人なんでしょ?」
「うん、まあね」
「同い年? それとも大人の人?」
「そういうのは明かしてないし、明かされてないからわかんない」
「あぶなっ!」
そう?と首を傾げた羽花ちゃんはあまり危機的に思っていないみたいだ。
なにかあったら私が絶対守らなきゃ。
そんな小さな決意をカフェにて。
ぐっとこぶしを握りしめた私に、少し視線をやった羽花ちゃんは、薄くて形の良い唇を静かに動かした。
「名高先生のどういうところが好きなの?」
「え? 興味持っちゃう? 私に語らせちゃう?」
「あ、いや。ほどほどでいいけどさ」
私の圧を二つの目で見てギョッとした羽花ちゃんにぐぐぐと詰め寄る。
「まず、あの繊細な描写は……」
そこから1時間、私はみっちり名高先生の良さを羽花ちゃんに話し続けた。
へへ、にへへと顔をキモチワルク崩しながら。
名高先生の良さを存分にきいた(語らせた)羽花ちゃんは、終盤寝そうになりながらも、なんとかうなずきを返してくれたんだ。