君との青い時間を思い出すと切なくて。
胸がはち切れそうだったあのときからは
記憶の端まで遠ざかっている。
温かいカフェラテを飲んで一息、
空想はカフェの天井へ昇る。
タイムスリップはできなくて、
言葉につまり、思いをかき消した。
自然に弾む会話が楽しかったね。
チーズケーキを型に流し込むように
溶けた思いを混ぜて整えたいな。
iPhoneで君とのトーク履歴を開くと
あの時で時が止まっていた。
君の優しさをふと思い出して息を吐いた。
幻だった君は今、何しているかな。




 5月はいつもうんざりする。
 毎年のようにこの時期、私は何も上手くいかない。そして、7月くらいまで5月病をこじらせる。今年で26歳になるのに、どうして、右も左もわからない中学生みたいに、こんなに上手くいかないんだろう。

 今年は特に最低だ。
 なんで、私がこんなに調子が悪くなる季節に別れなくちゃいけなかったんだろう――。

 シックな雰囲気のカフェの天井でくるくるとプロペラみたいに回っているシーリングファンをぼんやり眺めながら、瓶にいっぱい詰め込んだカラフルな飴みたいな、思い出の断片をいくつか瞬間的に思い出した。
 遥斗(はると)くんとたくさん作った愛だったことを考えてカフェオレを一口飲んだ。



「付き合ってよ」
 遥斗くんにそう言われて、ドキッとしたけど、シチュエーションは最悪だ。

 そもそも、出会ったばかりなのに一夜を過ごした、このダブルベッドの上でそんなこと言わないでよって、思った。しかも、昨日の酔いが冷めて、弱い頭痛の中で、そう言われるのは、魔法から覚めて、許可されない恋に逃げて、溺れはじめた世間知らずのお姫様みたいで、私は本当にそんなことがあるんだと謎に腑に落ちていた。

 遥斗くんとはただのサークルの飲み仲間に過ぎなかった。
 ――昨日までは。

 だけど、悪い気はしなかった。ただ、シチュエーションが最悪なだけだ。昨日、勢いで行為をしたこのベッドで言わないで、チェックアウトしたあと、私をカフェに連れ出して、そう言うこと、言ってくれたら最高だったのに――。

「カフェとか、景観地とかで言ってほしかった」
「気持ち、抑えられなかったんだよ」
「大体、昨日の夢から覚めた段階で、こうやって告白するのって、大体、後悔するって聞くよ」
 その話は、LINEニュースで適当に流れてきた恋愛コラムの記事のことを言っていて、私の周りにそんなこと、言っている友達は一人もいない。
 そもそも、私は5月病の最中で、どんなこともなぜか、ネガティブに感じやすくなっている。それは毎年恒例みたいになっていて、いつもこの時期に友達と上手くいかなくなって、喧嘩別れをしたり、片思いをしていた男の子に告白をしたら、ひどい振られ方をしたりもした。この時期、5月~7月の間は、私の20年の人生の中であまりいいことが起こったことなんてなかった。
 だから、私は今、5月病の最中に告白されて、遥斗くんと上手く行く自信がない――。

「俺はマジだよ。咲菜(さな)」
 そう言って、遥斗くんは微笑んだ。私の右側に横になり、私の目をじっと見つめてきた。一重だけど、大きく開いた目に吸い込まれそうだ。色素が薄い茶色の瞳、そして、すっと通った鼻筋、こぶりな唇。完璧なバランスでいて、それで結構、面白いって、遥斗くんの人生はきっとイージーモードなんだろうなって感じるくらい眩しく感じる。

 こんなに地味な私のこと、なんで昨日、飲み会から連れ出してくれたんだろう――。

「ねえ」
「なに?」
「――私じゃなくても、簡単にヤレる子なんてたくさんいるでしょ。というか、遥斗くんなら困らないよね」
「何言ってるんだよ。好きだから連れ出したんだよ」
「順番が違うけどね」と言ったあと、別に皮肉なんて言うつもりなんて、これっぽっちもなかったのに、そんな棘のある言い方になってしまい、少しだけ自分が嫌になった。だから、私はすぐにそっと遥斗くんに微笑み返してあげると、遥斗は目を細めた。

「――なんてね」
 そう言ったあと、私は右手の人差し指で遥斗の右上のまぶたにある小さなほくろにそっと触った。昨日の夜、二人っきりになったあとの急な親密感や、尽きなかった話題や、離れたくなくなかった思いをしっかりと思い出し、その情報すべてを人差し指に意識を集中させて、遥斗くんに送ってあげた。

「いいよ。こんな私でいいなら」
「なんだよ、それ」
「私、地味なほうだし――。きっと遥斗くんとは釣り合ってないと思うよ」
「だって、好きになったんだから、仕方ないじゃん」
 遥斗くんは左手をそっと私の手を握り、遥斗くんの目元に置いたままだった、人差し指を私の右の口元までに持っていかれた。

「ほくろもかわいいよ」
 急にそんなこと言われたから、少しだけコンプレックスの口元のほくろがあってよかったって初めて思えた。




 私と遥斗くんは砂浜を歩き始めた。
 すっきりした午前中の風が弱く包まれて気持ちが良かった。あれから、1週間が経ち、気がつくと、ここ数日、LINEで通話を3時間していたり、大学の学食で一緒にごはんを食べたりしていた。

「思ったより、俺たち、合うのかもしれないな」
「なにそれ。自分から告白してきた癖に」と私は少しだけ冗談めいた口調でそう返してあげると、そうだね、俺だったわ。と遥斗くんは笑いながらそう言った。
 左側にある海岸線は半島の先まで続いていて、半島の先にはアルミボールをひっくりかえしたような低い山が見えていた。海はキラキラと黄色い太陽の光を反射して、揺れていた。

「だって、こんなに話しても話し足りないことばっかりだってことは、俺たち、合うんだよ」
「例えば、どんなこと?」
「え、例えば? どんな映画が好きとか」
「それ、昨日の夜、話したよ」
「いや、もっと、話せる気がする。咲菜とならね。例えば、嬉しいことを一緒に単純に喜んだり、つらいことを単純に励ましたり、そういうこと、できると思うんだよね」
 遥斗くんはなんでこんなに優しいんだろう――。春の終わりにはふさわしくない冷たい風が強く吹いて、私はワンピースの裾が舞わないように左手でそっと、左ももを抑えた。

 そもそも、私は今までろくな5月を過ごしたことがなかった。5月になると、ぼーっとしちゃって、18歳までに2回も事故に遭ったことがあるし、去年は採用が決まったばっかりだった、バイト先がすぐに潰れてしまった。さらに中学2年生のときは問題児ばかりのクラスに入れられてしまい、クラスで馴染むのに失敗して、5月からいじめられた。
 私が経験した春は、あんまりいいことがない――。

「――そんな深い関係になれたら、楽しそうだね」
「深めるよ。約束する」
 遥斗くんが立ち止まったから、遥斗くんの方を振り返ると、遥斗くんの重めの前髪が、右側に揺れていた。そして、右手の小指を私の方に向けていたから、私はそんなシンプルで裏表もなさそうな、約束なら簡単に結んでもいいかと思い、右手の小指で遥斗くんと繋がった。

 数秒後、そっと離されても、感触がまだ小指に残ったままだった。それなのに、遥斗くんは左手で私の右手を繋ぎなおし、またゆっくり歩き始めた。

「ねえ」
「どうした? 咲菜」
「もし、話題が尽きてさ、何も話さなくなっても、私と付き合ってられると思う?」
 こんなに地味な私と付き合える? と続けようと思ったけど、それを言うのはやめることにした。
「大丈夫だって、きっとずっと一緒にいるよ。俺たちは」
 右側をそっと見ると、遥斗くんは前を向いたままだった。

「恋って、3か月で冷めるんだよ」
「俺は冷めないよ」
「――どうして?」
「だって、めっちゃタイプだから」
 こんな私なのに? と一気に頭の中が混乱して、思わず立ち止まってしまった。だから、私に引っ張られるような格好で遥斗くんは私の一歩先で立ち止まり、そして、振り返った。

「そんなに驚くことかな」と微笑みながら、そう問われたから、私は小さく頷いた。こんなに人に優しくされる春は初めてかもって、ふと思った。

「――私、春にいいこと、今まであんまりなかったんだよね」
「えっ、どういうこと?」と遥斗くんは上がっていた口角が少しだけ下げながら、不思議そうな表情を浮かべていた。
 そんな遥斗くんの表情を見ると、こんなこと、言っても仕方ないかと思った。
 いつか、受け入れてくれそうなときに言おう――。
「――ううん。ごめん、今を楽しめたら、そんなの関係ないよね」
「今も、未来も咲菜と一緒なら、絶対楽しいよ」
 風が強く吹いて、潮の香りが辺りに立ち込めた。逆行で影になった遥斗くんは薄暗くても、綺麗だった。
 



 お互いのアパートで一緒の時間を過ごし、そして、一緒に寝て、一緒に大学へ行くという暮らしを3年くらい続けることになった。
 この3年の間、確かに遥斗くんが言ったとおり、私たちは話足りないことだらけで、何度となく、スタバに行っても、話題は尽きることがなかったし、冗談めいたことや、もうそろそろ、真剣にお互いにどうやって社会に出ていくかってことをずっと、話していた。

 4月から、私たちは同じ街に住んだまま、私は市役所で、遥斗くんは車のディーラーの営業職で働きはじめることは、もう決まっている。大学卒業とあわせて、私と遥斗くんは同棲を始めようと何度も言われたけど、私は渋ったままだった。



「嫌だって、どうして?」
「――たぶん、私、いっぱいいっぱいになって、上手くいかなくなると思う」
 下を向いたまま、私はそう言ったあと、ため息を吐いた。私に毎年のように襲いかかる5月病のことを遥斗くんには、結局、この2年10か月の間、まだ、伝えていなかった。

 というか、この3年、5月病になっているときはできるだけ、忙しいふりをして、遥斗くんには言わずにここまで来てしまった。いつも使っているカフェはお昼時で少しだけガヤガヤしていて、そんなこと話す雰囲気じゃなかった。だけど、何十回も遥斗くんと、ここで話して、何十杯のカフェラテを飲んで、いろんなことを遥斗くんに伝えてきたから、ここで言ってもいいやって思った。
 窓から外を見ると、雪が舞っていて、もうすぐ春になるなんて信じられない雰囲気だった。あと2か月もすれば、毎年恒例の5月病の影が私を覆い、きっと、7月まで生きることで精一杯になる気がする――。

「考えすぎだよ」
「――ううん。私、5月病、ひどいから、たぶん、ひどいことすると思うし、仕事覚えるので精一杯になって、きっと、遥斗くんのこと見れないような気がする」
「俺は咲菜のこと、見れるよ。しっかり」
 遥斗くんはいつもみたいに優しい目でじっと見つめられて、吸い込まれそうな感覚になった。

「遥斗くんは私のこと、見てくれると思うよ。だけど――」
「俺を見る自信がないの?」と右手で頬杖をついたまま、遥斗くんは私の方に身を乗り出して、茶化すように言ってきた。だから私は、うん、と頷くと、大丈夫だよ。考えすぎだって、と遥斗くんはそう言いながら、体勢を元に戻し、グラスを手に取り、コーラフロートを飲み始めた。

「だって、私、5月に2回も事故に遭ったことあるし、中学生のとき、いじめられ始めたんだよ。5月に」
「だけど、俺といた5月だから、えーっと。2回か。2回、俺と過ごしたけど、何も起きなかったじゃん」
 確かに、遥斗くんと過ごした5月は遥斗くんとの間では、何も起きなかった。だけど、遥斗くんには言ってないけど、去年の今頃、ゼミで何故かよくない噂を立てられて、結局、ゼミを辞めることにしたこともあった。本当の意味で、何も起きなかったのは遥斗くんと付き合い始めた、あのときだけだった。
 というか、その時期は講義を適当にサボりながら、遥斗くんとずっと遊び歩いていたから乗り越えられたのかもしれない――。

「5月って私にとって、高確率で失敗しやすいから、それが過ぎてからでもいい気がするんだ。――遥斗くんに迷惑かけちゃいそう」
 ため息を吐きながら、テーブルに突っ伏した。

「大丈夫だよ」
「大丈夫ってどういう風に大丈夫なの?」
「どんなことがあっても、咲菜のこと、支えるよ。俺が」
「だって、遥斗くんだって、大変になるのに、こんな私がいたら、きっと大変だよ。荷物になるだけだよ」
「そんなぼそっとした声で言うなよ。てか、落ち込む要素、なにもないだろ。まだ、なにも起きてないのに」
「――わかってないよ。私の5月病はひどいんだよ」
 せめて、夏から。というか、仕事に慣れてからでもいい気がする。いつになれば仕事が慣れるのかなんてわからないけど、そこから、ゆっくり遥斗くんとの生活を組み立てても、いい気がする――。
 左腕をゆっくり揺すられたから、私は顔を上げて、遥斗くんをじっと見た。遥斗くんは真剣な表情をしていて、私の予想と違って、少しだけびっくりした。

「約束しただろ。関係深めるって」
 あのとき、砂浜で言ってくれたこと、まだ、覚えてたんだ――。

「気落ちした私を見てたら、きっとイライラして、嫌いになるよ」
「嫌いにならないよ」
「――本当に?」と小さくてぼそっとした声で遥斗くんに聞くと、遥斗くんはゆっくり頷いてくれた。

「だから、一緒に暮らそう。未来を見据えて」
 そう言って、遥斗くんは無邪気に微笑んでくれたから、私はなんとなく、大丈夫かなって思った。




『悪い、30分遅れる』

 きっと、急な仕事がまた入ったんだと思って、私は遥斗くんからのメッセージに返信はしなかった。着いてるよって、メッセージを入れて、3分後に来たメッセージでまたかと思った。iPhoneをテーブルに置くと、雑な音がした。アイスのカフェオレが入ったグラスは汗をかいているけど、効きすぎってくらいのクーラーで店内は冷えていた。

 8月なのに、今年の私の5月病はまだ続いているんだと、ふと思った。
 バッグから鍵を出して、テーブルの上に置いた。見慣れたアパートの鍵だ。3年もそこで過ごしたんだと思ったら、不思議な気持ちだった。

 テーブルに置いたままのiPhoneのロックを解除して、開きっぱなしの遥斗くんとのLINEのトーク画面を人差し指でスクロールした。どんどん、上から下にスクロールしていくと、冷たかった春を抜けて、暖かかった冬、秋、夏、春を何度も繰り返して、時を遡っていった。そして、大学生だった頃のトークが表示された。

 あの頃って、なんでこんなに話すことあったんだろう――。

 もし、話題が尽きてさ、何も話さなくなっても、私と付き合ってられると思う? って付き合い始めた頃、遥斗くんに聞いたのを思い出した。
『大丈夫だって、きっとずっと一緒にいるよ。俺たちは』って言ってたけど、結局、一緒にいれなかったね。私たち。

 同棲を解消してから、3か月間、お互いに忙しくて、遥斗くんに返し忘れていた合鍵を返せないままでいた。

 3年も一緒に暮らしたけど、お互いになんでかわからないけど、その生活に慣れたり、甘えたりして、同棲し始めたときみたいに、お互いに感謝したり、お互いの嫌なところを治す努力をしなくなってしまった。最初はお互いに努力したから、私の5月病のジンクスは簡単に乗り越えることができた。2年目も乗り越えることができた。
 ――だけど、3年目はダメだった。

 やっぱり、私の5月病は重症で、私は遥斗くんに甘えすぎたんだ。きっと。

 『嫌いにならないよ』って遥斗くんが言ってくれたとき、私が本当にひどいことを言ってしまう癖なんて、全く考慮してなかったんだろうな。遥斗くんは。

 なんで、もう、これ以上、関係なんて深められないよって言っちゃったんだろう、私。

 『考えすぎだよ』
 って遥斗くんが言ってくれたことを思い出して、胸に重たさを一気に感じたあと、すぐに頬から、涙が流れる感触がした。