翌日の放課後、文化祭の準備をしていると一ノ瀬くんに話しかけられた。
「佐々木、海行くか。」
予想もしてなかった。私から距離を取るか、心配して必要以上に話しかけてくれるかの二択かと思っていた。
「日曜日、空いてる?」
絶対行くようだ。昨日の一件について勝手に弱みを握られている気になった。行かなきゃ何か言われるかと思った。いや、それよりも父にあんなに物申した一ノ瀬くんをもう少し知りたいと思ってしまったのかもしれない。
「え、あ、うん。空いてる…」
つい空いてると言ってしまった。この選択が更なる不幸を呼び寄せるなんて夢にも思わずに。

さて、海に何を着ていこう。ワンピース?ズボン?いや海にズボンは無いな。じゃあスカートか。ミニスカート?いや、軽いロングスカートのほうがいいな。薄ピンクのワンピースにシルバーのネックレスとイヤリング。これにするか。てゆうか、たかがクラスメイトと海に行くくらいで何をこんなに悩んでるんだ私は。それより一ノ瀬くんとは友達なのか…?いやでも友達というには距離がある気がする。いやいや、友達ですらない人を海に誘う?色んな考えで頭がパンクしそうだ。一ノ瀬くんはやっぱり考えていることが分からない。今日だってなんで私なんかを海に誘ったのだろう。考えたらキリが無い。そんな感じでどんどん時間が過ぎてしまった。行かなくては。
「ごめん、待った?」
待ち合わせ場所は家から二駅の大きな駅だった。待ち合わせ場所に着くともう一ノ瀬くんはいた。
「別に待ってない。行こっか。」
やっぱり一ノ瀬くんが分からない。難しい人。一ノ瀬くんが半歩先にいる。
「あのぉ…どこ行くの?」
一ノ瀬くんは振り返らずに言った。
「海。」
一ノ瀬くんが何を考えてるのか分からなくて少し怖い。いつも乗らないような地方に行ける電車に乗った。それはそれは遠くまで行ける電車に。電車に乗ると一ノ瀬くんはいつものように接してくれた。
「佐々木って前からこの辺住んでたの?」
いつもの口調といつもの一ノ瀬くん。さっきの少しの恐怖はすぐにどこかへ行ってしまった。
「そうだよ。ずっと家の近くの学校選んできたから。」
「そっかぁ…ねぇあのさ、真田由貴(さなだ ゆき)って知らない?」
全然知らない子の名前が出てきて驚いた。真田由貴。名前を聞いたこともない。その子と一ノ瀬くんはどんな関係なのか気になった自分がいた。
「真田由貴…?んー知らないなぁ。どうして?」
一ノ瀬くんが残念にしていた。もしかして初子の人だったりするのかな。なんて思った。それとも忘れられない元カノ?モヤモヤした。どんな人かどんな関係なのか知りたい。だから軽いノリで聞いてみることにした。
「なになに〜。一ノ瀬くんの好きな人ぉ?」
明らかに一ノ瀬くんの表情が曇った。これはまずい。私は家の事情で両親の顔色を伺うことが多い。だから大抵の人は表情で何を考えてるか分かるようになってしまった。そしてこの顔は全力で拒絶しているような心底迷惑そうな顔だった。
「違う。なわけねぇよ。あんなやつ。」
初対面の時、私は一ノ瀬くんをフレンドリーな人だと思った。一緒に帰った夜、私は一ノ瀬くんを強い人だと思った。今日の朝、私は一ノ瀬くんを難しい人だと思った。そして今の一ノ瀬くんは怖くて分からない人だ。
「そう…なんだ。」
これ以上詮索するのは良くない。一ノ瀬くんも嫌だろう。話題を変えよう。
「そういえば、もう文化祭だね。誰と回るの?」
我ながらいい話題の選択だ。
「まだ決めてないよ。誰でも良いかな。なんなら1人でも良い。」
「え!一ノ瀬くん色んな人から誘われてるでしょ!?」
意外だった。いつでも人に囲まれている彼はもう決まっているものだと勝手に思っていた。
「あいつら、別に俺が好きなわけじゃねぇだろ。」
悲しそうにそう笑った彼は孤独に見えた。なぜ一ノ瀬くんが自分をそう蔑んでいるのか私には分からない。だけどこれは言える。
「え?そんなわけなくない?だって私、好きじゃない人と海行ったりしないよ?みんなそうでしょ。」
もしかしたら彼にはもう一つの一面があるのかもしれない。それでも彼は良い人だから。
一ノ瀬くんが驚いた顔をした。それから笑って。
「ありがと。」
少し照れてる。その顔が綺麗だった。私が今まで見てきたのは暗く醜いものばかりだった。彼の笑顔はいつでも爽やかで美しかった。しばらくするとこじんまりとした駅に着いた。
「降りるぞ。」
一言そういうと一ノ瀬くんが歩き出す。遅れないように早足で近づいてまた話始める。やっぱり一ノ瀬くんといるのは楽しい。四葉といる時も楽しいかもしれない。けどそれとはまた違ってちゃんと楽しいって思える。止まっていた時間が動き始めるように。
「ここ。綺麗だろ。人も少ねーんだ。」
5分ほど歩くとそこには一面の海があった。白い砂に水晶のように綺麗な海。涼しげな風。ちょうどお昼時で人も少ない。画面の向こうでしかこんな景色はないと思っていた。実際に見るとやはり目を見張るような美しさだ。白い砂浜にポツンとある一つのベンチに腰をかけて海を眺める。
「佐々木。なんか飲み物いる?」
「あ、自販機行くの?私も行く。」
ふと声をかけられて答える。一ノ瀬くんは気配りができる。もうすぐ秋とはいえ、まだ暑さが残っている。そんな日にサラッとこんなことを聞ける彼はすごいのだろう。
「いいよ。海、見てたいんだろ?俺買ってくるから。」
「え!いいの!?ありがとう…じゃあ美味しそうなジュースで。一ノ瀬くんのおすすめ。」
一ノ瀬くんはすごいな。優しい。海をまだ見ていたかったから嬉しい。海に来て良かったと心底思う。
「おすすめぇ?好きじゃなくても文句言うなよ?」
正直、どれでも良かったから文句は言わないと思う。好き嫌いだってないし。
「うん。言わない言わない。」
笑ってそう言う。すると彼は分かったよと言って自販機がある方へ歩いて行った。そこで気がついたが彼の一歩は大きかった。それもそのはずだ、彼は私より二十センチ以上身長が高い。なぜ今まで気が付かなかったのだろう。彼は私に歩幅を合わせてくれていた。顔が熱くなった。これはきっと暑さのせい。そうだ。大丈夫。私は恋なんてしてはいけないのだから。
「おまたせ。迷ったわー。」
そう言って平然と戻ってくる彼を見て、また熱くなった。
「大丈夫。海見るの楽しかったから。」
「そ?ならいいけど。」
ふと一ノ瀬くんの手元を見ると見た事のない黄緑色のラベルが貼ってある缶ジュースがあった。
「何買ってきたの?」
「マスカットジュースだっけ?たしかそんなん。なんか美味しそうじゃね?」
私の家の地域では全く見ないので気になってラベルを見るとそこにマスカットという字はなかった。
「ねぇ、一ノ瀬くん?これ…マスカットじゃなくない?」
「え、なわけ。」
そう言って一ノ瀬くんもラベルの字を見て驚いた。
「わらび…ジュース?何だこれ…」
堪えきれずに笑いが込み上げてきた。
「あははっ!なにこれ!わらびって!」
笑いすぎて涙が出てきた。そして一口飲んでみる。やっぱりマスカットの味はしなかった。
「はぁー。おもしろ。ほんっと。」
「良かった。」
一ノ瀬くんが安堵した顔になった。私にはそれがなぜかは分からななかった。ただそれだけを言って嬉しそうな顔になってとても美しかった。なんとも美しく儚い顔だった。
「あ、お金…何円だった?」
「いらないよ。勝手に買ってきただけ。それよりさぁお前もう白状しちゃえばあ?」
サラッとお金はいらないっていう彼はかっこよかった。多分女子の理想なんだろう。そして、白状。なんの話か心当たりが無いわけじゃない。けど一応聞いてみる。
「何の話?」
「知ってるくせに、無理してんだろ。」
「分からないなあ。」
頑なに否定する。無理かもしれないけど私はこれしか方法を知らない。
「お前さぁ、妹に似てるんだよなあ。だからなんか気になるっつーか、分かっちゃうみたいな?」
寂しそうな顔だった。
「すごいね。なんでも分かるんだね。羨ましい。」
もう詮索して欲しくなかった。これ以上話したくなかった。だから少し皮肉を込めて言ったつもりだった。
「なわけねえだろ。俺は…妹を殺した。そんなやつ羨ましい?」
殺した…?今、殺したって言った…?妹に似てる人を気になってしまうくらいに想っている妹なのに?矛盾している気がした。そしてあまりにも衝撃的だった。
「どう…して?」
声が震えた。私の隣にいる男はもしかしたら罪を犯した人かもしれない。私を恐怖が包んだ。
「…佐々木なら話してもいいけど…これを話したらお前も話してくれよ。頑張って話すから。」
内容によると思う。けれどやっぱり話が聞きたくて無言で一ノ瀬くんの目を見た。
それは一ノ瀬くんの壮大な、残酷な過去だった。