オレンジ色に染まる空となった黄昏時。
ネカフェのカラオケルームを後にした3人は現場となる廃工場を足を進めていた。
夕日に照らされながら電車に乗り込み、繭から聞いた朱音の過去と今回の依頼内容を思い出す。朱音だった魔獣の最後の狙いは確実にあの女だと。
電車で揺られながら本来の依頼者である瑠璃奈の印象を思い起こす。

(釘藤瑠璃奈。馬鹿で脳無しの吐き気を催す程の邪悪なガキ。人を騙すことだけが得意なクズ……なんかもうキリがねーや。雑誌とかSNSで知ったのよりもやばい部分を繭さんから聞いてからだと嫌な言葉ばかり浮かぶ)

朱音にしていたことを思うとどうしても罵倒が先に思い浮かんでしまう。
頭から嫌な思考を振り払おうと目線を澪と繭に向ける。心地よい電車の揺れと泣き疲れたのか繭は澪の肩を借りてうたた寝をしていた。澪はそんな彼女に優しく微笑んだ。

「いろいろ衝撃的だったからなぁ。そりゃ疲れるわ」
「よく話してくれたよ。私達もそれにちゃんと応えなきゃね」
「だな。あの女の思い通りにはさせん。絶対に」

決意を新たにした3人を夕日は光を照らす。若い剣士と武器人に加護を与えているようにも見えた。
初めて魔獣を倒した時も誰かに陥れられ、未練を残したまま死に至った魂だった。今回も同様な事案だが初動が違っていた。元凶からの依頼から全ての始まり。
元凶の付き添いとして連れてこられた少女によって真実を知ってから彼女が真の依頼者となるという異例が生じた。
瑠璃奈が繭を無理矢理連れてきたのも自分を正当化させ、分が悪くなったら全て擦りつけて逃げる為の手段。誤算だったのは怜との口喧嘩に応戦せず口篭もっていた事。一向に助けてくれない繭にも瑠璃奈は苛立っていたのだ。
よくやく口を開いてくれたのも瑠璃奈が帰った後。
瑠璃奈の思い通りにならなかったのは怜達が真実に近づくことができた何よりの証拠だった。
電車はゆっくりと怜達が住むシズカラ市清区《きよく》から4駅離れた繭達が住む遠河区《えんかわく》マツシヅ町に近づこうとしている。

(多分、俺たちが来ても姿を表さない。飽く迄彼女の狙いは釘藤瑠璃奈だ。無駄な犠牲は望んでない筈。廃工場に留まっているのももしかしたらそれが原因なのかもな)

怜は持っていたスマホで"友達と遊んでるから今日は遅くなる。夕飯は後で澪と食べるから先に食べてて"とルイスにメッセージを送った。数分もしない内にわかったよっとリアクションするペンギンのスタンプが送られてきた。
怜は申し訳なさからため息をつく。本当は繭からの魔獣退治の依頼が理由だが、まだルイスに剣士である事を秘密にしているせいで嘘の言い訳を伝えなければならないので少し心が痛んだからだった。

(バレたらなんて言われるか…まさかもうバレてたり…?)
「怜。そろそろ着くよ?繭ちゃんも起きて。駅着くよ」
「あ…え…?あ、ごめんなさい。私寝ちゃってましたか…?」
「全然大丈夫だよ。いろいろあったからね」

澪の肩を借りて眠ってしまっていた繭は彼女の優しげな声で目を覚ました。繭を気遣う澪が朱音と重なる時があり気を抜くと涙腺が滲みそうになる。
繭はなんとか涙を堪えて下車の準備をし、目的の駅に電車が止まるのを待った。

3人はマツシヅ町に着き、魔獣と化した朱音が留まっている廃工場へ向かう。
怜達が住む清区よりも盛んな駅周辺は朱音と繭の思い出の場所だった。
つい数時間前に瑠璃奈とネカフェに行く時も通った場所なのに怜達と来たこともあってか楽しかった頃の記憶がふと思い起こされる。
あの朱音の水色のリボンの駅近くの雑貨屋さんで買った物だった。
瑠璃奈のいじめさえなければ、今この時間も一緒に遊んでいたかもしれない。雑貨屋さんでいろいろ見て、ハンバーガー屋さんでジュースを飲みながらお話して、帰るのが惜しくなるとても素敵な時を過ごしていたのだろうと繭は思った。
怜は思い詰める繭にそっと問いかけた。

「繭さん。ここから廃工場までどれくらい?」
「大体20分くらいです。あんまり人が寄り付かない所なんでとても静かなんですよ。そこで朱音ちゃんは…」
(誰にも迷惑をかけたくなかったから其処を選んだってことだな。辛いな本当。気持ちが分かり過ぎて余計に辛い)

そんな静かで寂しい場所で朱音がどんな思いで我が子を産み落とし手をかけて、どんな思いで自殺に至ったか。悲し過ぎる現実と悔しさだけが漂よう。

「魔獣は復讐対象を全員殺した後、瘴気によって少しずつ自我を失うの。だから、そうなる前に何とかしなきゃ。釘藤瑠璃奈が変な行動をとる前にね」
「当たり前。朱音さんの手をこれ以上穢させんよ。俺が是が非でも阻止するし、ちゃんと赤ちゃんと一緒に空に還す」
「……ありがとうございます。私だけじゃ何も出来なかった」
「何言ってるの。繭ちゃんのお陰でここまでこれたじゃない!繭ちゃんが居なかったらいろいろ大変だった気がするし」
「あの馬鹿だけだったらマジでヤバかったな。考えるだけでゾッとする」
「あ…確かにそうかもです…ね…」

朱音の過去も明らかにならず、瑠璃奈の身勝手な独断で魔獣退治が滅茶苦茶なものになっていただろうと怜と澪は安易に予想できた。
怜の手から武器化した澪を奪い取り、魔獣に斬りかかるものの返り討ちにされるところまではそうぞうできていた。
本当にそうならなくてよかったと2人はほっと胸を撫で下ろした。

(依頼報告の時ママになんて言われるか…)

様々な思いを秘めながら3人は目的地の廃工場に着く。繭の言う通りとても静かで、誰も寄り付かない寂しげで駅周辺の活気が一気に削ぎ落とされた様な所だった。
繭は怜と澪を朱音が我が子と共に最期を迎えた場所へと案内した。
周りには、埃まみれの持ち運ばれなかった機械、錆びた工具やボロボロになった段ボール、色褪せた安全第一と書かれたポスター等が散乱している。割られた窓ガラスと、誰かがスプレーで描いた落書きもと多く見られた。
先導して歩く繭が立ち止まり怜達の方は身体を向ける。その顔はとても悲しげだった。

「もうロープは警察に回収されてるけど此処が朱音ちゃんと赤ちゃんが最期を迎えた所」

瑠璃奈が見せてくれた動画の場所と同じ光景。さっきまで通ってきた場所よりも悲しく寂しげなその場所。近くには朱音と赤ちゃんにお花とお菓子とジュースが手向けられていた。

「あのクソ共はここで馬鹿騒ぎしてたわけか。クズだな。殺されて当然」
「その通り過ぎて何も言えない。でも、ここで朱音さんは待ってるのね。釘藤瑠璃奈が来るのを。あの女を殺す為にずっと」
(気配はするけど襲う気はない。澪の言う通りあの女にしか眼中に無い。大丈夫、安心しな。今アンタを此処から引き摺り出して倒すつもりはない。ちゃんと釘藤瑠璃奈をアンタの目の前に突き出す)

なんとなく気配を感じてはいたが、瑠璃奈を連れてこなかった自分達を襲う気はないと2人は悟る。
朱音と赤ちゃんの献花に来た人間を襲っていない。襲ったのはここを荒らしに来た人間だけでしかも朱音のいじめに関わった奴らばかりだ。朱音は自分を陥れた人間以外の犠牲は望んでいないのだろう。
すると、繭は不安げに2人にある疑問を問いかけた。

「…もし瑠璃奈さんを殺した後は自我を失くしてしまうんですか?そうなったら朱音ちゃんの魂はどうなるんです?」
「さっき言った通り、復讐対象を殺した後は徐々に瘴気によって魂の自我を奪われてゆくの。自我を失くした魔獣は無作為に人々を襲う様になる。そして、最後は取り憑かれた魂は瘴気に溶け込んで消えてしまう。空に還すのが難しくなる」
「そんな…!!じゃあ…赤ちゃんの魂も…!!」
「無事とは言えんな。瘴気は純粋な魂を好むから余計に。あの女の行動を考えるとあんまりもう時間はない」
「実行するなら明日の夜ね。後は釘藤瑠璃奈をどう誘き寄せるかね」
「アイツの願いを叶えるテイで誘き出す。友達の仇を取った私かっけーとか言って飛びつくと思う」
(おう…なんか想像できちゃう…)

電話越しで盛り上がる瑠璃奈が安易に想像できてしまい澪の心が萎えた。きっと、スマホで撮影しながら同行するであろうとも想像でき更に萎えた。
怜も予想はしていて、こっちにスマホを向けられた時は叩き壊してやると心の中で息巻いた。
自らの過去を話し、自分達に起きた事にしっかりと耳を傾け、必ず親友を救うと宣言してくれた怜の眼差しに繭は勇気付けられる。自分も何か2人の役に立ちたいと願う程に繭の心は少しずつではあるが強くなっていた。今の自分なら瑠璃奈に立ち向かうことができると信じて疑わなかった。

「決めた。明日の夜に決行。繭さん申し訳ないけど…」
「瑠璃奈さんへの連絡ことは任せてください。自分の思い通りになったら彼女は来ると思います」
「決まりね。あ!そうだ!繭ちゃんお願いがあるんだけど、明日の"私の変身"のことは誰にも言わないでね。動画で撮るのもやめてほしいかな」
「え?変身?」
「まぁ、その時になったら分かるから。とにかくそれだけは頭に入れといてくれる?」
「あ、はい…わかりました…(へ、変身とは一体…)」
「繭さんは大丈夫。問題はあの女のだろーが」
(変身…)

ネットの情報で2人組で魔獣を倒すとまでは書き記してあったがが何で戦うのかまでは記されてなかった。
澪の変身という言葉に繭は少し混乱し、その様子を見た怜が一旦それは忘れてくれと肩をポンと叩いた。

(まさか…魔法少女的な…まさか怜さんはサポート…?)
「ま、繭さん?多分いろいろ考えてるだろうけど大分斜めにいく変身だから。あんま期待しないで」
「明日のお楽しみにしてね♪」

繭は2人にそう言われるとますます気になってしまった。漫画やアニメの様に可愛い武闘着を着て魔獣と闘う澪と彼女をサポートする怜が繭の頭の中で浮かぶ。
実際は澪が武器に変身して怜がそれを操り魔獣を浄化する。そして、未練の魂を瘴気から解放し空へ還す。繭が全てを知るのは明日。それまで彼女のモヤモヤは尽きないだろう。
澪の変身もそうだが、1番のもやもやはやはり瑠璃奈のことだろう。

「釘藤瑠璃奈に関しては一筋縄ではいかないわね。誘い出した後も対策しないと。絶対暴走する」
「最悪な殴ってでも止める」
「私も頑張ります。飛びついてでも止めないとお2人に迷惑をかけるとしか…」
「ありがとう。でもあんまり無理しないで。私達が何とかするから」
(自分の思い通りにならなかったら澪を奪いにくるのは目に見えてる。もしそうなったら朱音さんの魂は……、くっそ、あの女の勝ち誇った顔しか浮かばねーや)

瑠璃奈を守りながら魔獣を倒す。怜にとって一番やりたくない役割。けれど、その役割は朱音と赤ちゃんの魂を救うことにも繋がる事。なりふり構ってはいられない。

(全ては釘藤瑠璃奈以外の人の為。割り切らないと)
「怜?大丈夫?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事。そろそろ行こう。繭さん。また詳しい事は後で連絡する。とりあえず決行は明日の夜」
「……分かりました…」

怜と澪は気付いていた。魔獣となった朱音がこちらを見ている。親友の繭に会いたいという気持ちと、もう何もしなくていいという想いがこもった悲しげな視線。
朱音と同じ境遇だった怜は心が張り裂けそうになった。

こんな化物になった自分を見て欲しくない。

自分の為に勇気を出してくれた繭がそれを聞いたらとても悲しむだろう。怜は視線を感じた方に目を向ける。その目に殺意はない。
明日の夜に込められた決意を朱音に捧げた。

(朱音さん。長居して悪かった。明日の夜、必ずアンタとアンタの赤ちゃんを救ってみせる。あの女の好きにさせない。絶対に)

《ま…ゆ…っ》

怜は一瞬聞き慣れない声を耳にしたが自分の前を歩く2人には伝えなかった。特に今の繭に伝えたらきっと朱音を探しに行くだろう。それは朱音が一番望んでいない事。怜の胸の中へその秘密はしまわれた。
後ろ髪引かれる思いで3人は廃工場を後にする。寂しい雰囲気が静けさを取り戻す。

3人が居なくなった後の廃工場。
寂しく音のない場所に留まる復讐心に染まった魔獣の目から一筋の涙が落ちた。

《ごめんね》






駅に戻り、改札前で繭と別れた怜と澪は電車に揺られながら清区に戻る。
怜は、瑠璃奈の身勝手過ぎる態度を思い出さない様に持ってきた持ってきたワイヤレスイヤホンで好きなバンドの曲を聴いて気を紛らわせる。澪もそれを察したかじっとスマホをいじってばかりいた。
彼女も瑠璃奈のしでかしてきた事を思い出しため息をつく。彼女が原因で澪にある不安が過っていた。

(朱音さんと赤ちゃんを救った後…怜は釘藤瑠璃奈に何かする。ヤダぁ!!!怜の綺麗な手があの女の血で汚されるなんて!!!ダメ!!!絶対絶対ぜっっったいダメ!!!!)

怜に心酔する澪にとって瑠璃奈への危害は何よりも死活問題だった。けれど、それは瑠璃奈の為では決してない。全ては愛する怜の為。
ネカフェのカラオケルームで泣きそうになったが、まだ心を開いていなかった真の依頼主である繭の手前。ここでボロ泣きして彼女をドン引かせるわけにもいかないから必死に耐えた。
それと同時に元々嫌いだった平良雅紀に対して軽蔑と殺意が芽生えた。次に学校で会った時、一発蹴りでも入れてやろうかという勢いで。

(私の知らないところで怜は苦しんでたんだ。私が転校してきた時に聞いた話よりも酷かったな…。本当許せない!釘藤瑠璃奈が朱音さんに対してしたことも本当許せない!!絶対に怜を止めなきゃ!!でも…どうしたら…)

悶々としている澪の隣で怜は思い詰めた表情で真っ暗になっていた街の風景を見つめていた。
澪はチラッと彼を見て余りの美しさに一瞬だけ悩みが止まる。
怜は視線に気付き、左耳のイヤホンを取りながら澪の方に体を向けた。思い詰めた表情はスイッチを切り替えたかの様に穏やかなものになっていた。澪は一瞬だけ驚いたが、すぐにそのギャップで更に惚れた。

「ん?どうした?」
「え?!あ、いや、なんでもない!!ちょっといろいろ考え事してたら動きが止まっちゃって…(本当は例に見惚れてただけなんだけど…)」
「まぁーいろいろ考えちゃうわな。明日の夜の任務が無事に遂行できるかさ。正直、朱音さんをちゃんと救えるか俺も不安」
「私も不安だよ…でも、やり遂げなきゃ。じゃなきゃ朱音さんと赤ちゃんの魂は瘴気に囚われたままだし…」
「まだ朱音さんの意識がある状態だからな。なんかあの馬鹿が余計なことしそうで。その時はマジでキレるかも」
(私が暴走した怜を止めなきゃなんだよね…。その前に手を打つ…あの女に危害を加える前に策を…策をを…)

考えがまとまらない澪は気晴らしに写真アプリを立ち上げて今まで撮り溜めたモノを見漁る。少し早めに指でスクロールしてゆくとある人物が澪の目に入る。
怜が住むシズカラ市に引っ越してくる前に撮った写真。その中に写るのは、澪は勿論、ふんわりとした笑顔が印象の若い黒髪の男性とぽやぽやとふんわりとした印象の金髪の女性が楽しそうな笑顔。そしてもう1人、澪にあまりよく似ていないスポーツ刈りの無表情な青年。

(ひえ…久々にバカ兄貴の顔見たわ…って…あぁ!!!そうじゃん!!良い手があったじゃない!!!)

打開策を見つけた澪は急いで写真アプリを閉じ、連絡帳を立ち上げる。さっきよりも早いスピードでスクロールさせて目的の人物の名前を探す。
なの項目に辿り着いた時、探していた自分の名前に辿りつきタップする。それと同時に次に停車する駅のアナウンスが流れる。聞こえてきたのは澪達が降りる駅の名前だった。
それを聞いた怜はイヤホンを外し片付けを始める。澪も一旦スマホの電源を切り、制服の上着のポケットにしまった。

「……澪?お前大丈夫?」
「え?なんで?」
「いや…なんかニヤニヤしてたから…。この短期間で何か良いことあったの?」
「うん♪ちょっとね♪もしかしたらこれでまるっと解決するかも♪」
「ふーん…(解決とは…?今回の依頼と関係してたり?)」
「あ、そうそう。私、ちょっと用事があるから先に帰ってて」
「用事?また急だな。1人で大丈夫?もうこんな暗いし一緒に待ってようか?」
(んえ…?今、怜に心配された…?されたよね…?ヤバ、うれし…)

突然の怜の申し出に驚きと嬉しさで思考が停止した澪。いつもは澪の激しいアプローチもあってか邪険に扱われがちだが、もう夜遅いからということもあって一緒に同行した方が安全だろうと思ってのことだった。テンションが上がり過ぎてつい返事に困ってしまった澪は黙りこくってしまった。
動きが停止した澪の顔を怜は心配そうに覗き込んだ。

「幾らお前が武器人でも1人じゃ危ないだろ。だから……って、ん?澪?」
「……」
「おい?澪?大丈夫か?」
「ふぁ?!えっと、大丈夫!大丈夫!全然大丈夫だから!!私1人で帰れるから平気!!」
「平気って言われても心配だしさ」
「本当に大丈夫だから!用が済んだらすぐ帰るし!!安心して!!」
「……そこまで言うなら…でも、何かあったら連絡しろよ?すぐに駆けつけてやるから」

心配そうに澪を案じる怜に彼女は変にニヤニヤしてしまう。普段あまり見ない不安がな表情の怜を見れたことで更ににやけが止まらなくなった。
澪は心の中で必死に「だめだめ!!しっかりしなきゃ!!」と頭を横に激しく横に振った。
そうこうしていると電車は降りる駅に停車した。澪は怜と共に下車する。改札を通りそのまま出口に向かった。2人はそこで一旦別れることになった。

(真剣な話をしなきゃなのに1人で盛り上がってちゃダメだってのにー!!!でも…怜に心配されて嬉しい…へへ…)
「父さんには俺から言っとくから。あんま遅くなるなよ」
「あ、うん!また後でね!」
「ん。後でな」

帰宅途中のサラリーマンや学生に紛れて自分から離れてゆく怜の背を澪は愛おしそうに見送る。後で会おうと約束したというのに少し寂しくなった。
けれど、今から澪がすることは全て愛する怜の為。怜を穢れから護り抜く為なら彼女はなんだってする。それがどんなに残酷だろうと。
駅の出入口近くの人気の少ない広場のベンチに座り、制服の上着のポケットにしまってあったスマホを取り出し再び電源を入れる。ロック画面のクジラのミニキャラの待ち受けに映るダイヤルを打ちパスワードを解除する。
さっきまで感じなかった緊張感がジワジワと湧き上がってゆく。
ホーム画面の待ち受けには勿論怜の写真。しかも、学校の机で突っ伏して寝ている時の怜。
その写真を見て少し心を和ませ、受話器のアイコンにタップし再び連絡帳を立ち上げる。
さっき見つけた目的の人物の名前の項目に記されている携帯番号にタップし電話をかけた。
呼び出し音が数回鳴り、ほんの少しの沈黙の後、明るくものんびりした声が澪の耳に入った。懐かしく聴き慣れた声だった。

「もしもし」
「あれ?澪ちゃん?!!めずらしー!!」
「もしかしてるぅさん?お久しぶりです。あのー…流星さんは?」
「りゅー?りゅーは今お風呂。ついさっきお仕事が終わってやっと一息ついたとこなんだ。それより急に澪ちゃんから連絡してくるなんてどうしたの?何かあった?」

るぅという女性が電話越しに澪の目的を聞き出そうとする。懐かしい声に緊張感が少しだけ緩んだ澪は短く深呼吸する。
もう迷いはなかった。寧ろ、繭から聞いた朱音の過去を知ってからその気持ちはとっくに消え去っていたと言った方が正しいだろう。
澪の怜に向けていた好意の目が冷たく恐ろしいものは変わる。全ては怜の為。そして、依頼主の繭と朱音の為。

《《誰かさん》》の未来を壊すには最も適切な判断だったと澪は微笑を浮かべた。

「流星さんとるぅさんに---少し頼みたい事があって……」




「やっと分かってくれたのね!!あのハーフくん意外と話がわかるじゃない♪」

先にネカフェのカラオケルームから退出した瑠璃奈は自宅の自室のベッドで不貞寝をしていた。
いつの間にか眠っていて、気づいたら外は真っ暗。
起きたと同時にスマホが短く鳴ると通知に繭からメッセージが届いたと映っていた。
メッセージの中身は、《魔獣退治は明日の夜。20時頃にあの廃工場に集合。スマホでの撮影はダメだそうです。》と記されていた。
そのすぐ下に瑠璃奈が最も望んでいた項目も記されていた。

《怜さん達に貴女の話を聞いてもらい、それからいろいろ考え直してもらって、今回は特別に瑠璃奈さんの望みを叶えることとなりました。》
「もーホント嬉しい♪あんな大口叩いたくせに最後はアタシ負けたわね♪」

瑠璃奈の"魔獣のトドメを刺させてほしい"という願いを叶えてくれるという文面に彼女は変に舞い上がっていた。その言葉の裏に何かあるのか全く知らずに瑠璃奈は妄想を膨らませる。

(あの元羽美朱音をどう殺してあげようかなー?廃工場だから何か重い物とかありそうだしぃー、あのハーフくんが武器持ってたら借りてぐちゃぐちゃになるまでボコしてもいいかも♪)

やっぱりこの世界は自分で回ってると疑っていない瑠璃奈は幸せの絶頂にいた。自分に歯向かってきた怜にも一泡吹かせてやるという変な決意も生まれていた。
早速、怜と澪が警告していたスマホの撮影の禁止を破ろうとセルカ棒を用意する。悪いとは全く思ってないどころか、朱音にトドメを刺す時は繭にこれを渡して撮影してもらおうと考えている。私が依頼主なんだから当然とでも思っているのだろう。
明日の夜に思いを馳せながら友人の律にメッセージを送る。

「動画撮ったら律に見せて〜それからぁ〜…」

もうとっくに自分が依頼主ではないという事実を知らない愚かな女はこれが最後になるとも知らない幸せを歪な笑みと妄想の中で噛み締める。
怜の思惑と澪が裏で始め出した計画の魔の手は既に瑠璃奈を掴んで離さないでいた。
この女が女王でいられるのは後数時間。それを知る由もない瑠璃奈は明日への準備を楽しげに進めた。






翌日。学校が終わり、既に出かける準備を終えていた怜は自室のベッドで英気を養っていた。大好きなペンギンのキャラクターペン丸のもちもち大福クッションを抱きしめながらゴロゴロしていると突然枕のそばに置いてあったスマホが鳴り響いた。スマホには発信相手が幸人だと映っている。

(幸人?どうしたんだろう?)

緑の受話器のアイコンをタップし電話に出る。聞こえてきたのは親友の幸人の声。

「あ、怜。急にすまん」
「いや、それはいいけど、突然どうした?」
「ん〜…、最近つれないなぁ〜って思ってさ。だって、ほら、ここんとこあんまり一緒に帰ってないし…、なんか忙しそうだし…、それで寂しくなって電話した次第よ」
(うう…本当にごめん幸人。思い当たる節が多過ぎて…)

澪と出会い、魔獣退治を始めてから幸人とあまり絡む時間が少なくなっていた。
前までは、お昼ご飯を食べる時も、下校する時も、放課後に遊ぶ事も常に幸人との一緒に行動していたが魔獣退治が忙しくなると全てが疎かになり彼に寂しい思いをさせてしまっていた。
いつか埋め合わせしなきゃと考えていたが、なかなか時間が作れず先延ばしばかり。幸人に申し訳ない気持ちばかりが募っていた。
けれど、任務の前に幸人からの電話は怜に安心感を与えていたのも事実だった。

「ごめん…本当は幸人と一緒に帰ったり、ゲーセン行ったり、瀧本先輩のところでたい焼き食ったりしたいけど…」
「謝んなって。怜は悪くないし。まぁ〜怜にもいろいろあるってことだろ?また時間が空いたら教えてくれい。それと…」
「え?」
「何か大変な事があったら隠さないで俺に教えてくれよ。俺も怜と澪ちゃんの助けになりたい」
「幸人…」
「ここ最近思い詰めてるような顔してるから心配してた。学校でもあんまり話してくれないし、でも、明るそうな声聞いて安心した」

電話越しでも分かる幸人の安堵した声。絶対に幸人を蔑ろにしてしまった時間を取り戻してやると心の中で誓う。
怜は部屋の壁掛け時計を見てそろそろ出かけなくてはいけない時間だと知り名残惜しそうに電話を終えようとした。

「ごめん、幸人。そろそろ…」
「あー!ごめん!長話になっちまったな。忘れないでくれよ。何かあったら隠さずに話すこと。それしゃまた学校で。おやすみ〜」
「うん。ありがとう。また学校でな。おやすみ」

赤い受話器のアイコンをタップし幸人との会話を終える。もう少し話していたいという気持ちが強く残った。
怜の脳裏に過去の自分が過ぎる。いじめられて苦しんでいた自分を最初に助けてくれたのも幸人だった。次に自分がいじめられるかもしれないという恐怖があった筈なのにそれでも怜に手を差し伸べてくれた。彼のお陰で自分は此処にいる。
寂しがる幸人への埋め合わせの為には、朱音を救い、瑠璃奈と決着をつけなくてはならない。
スマホをズボンの後ろポケットに入れ、出かける準備を終え澪の部屋に向かう。
部屋のドアをノックし、ドアの向こうの澪に「そろそろ行くぞ」と告げた。澪は「今行くー」と返した。ガタガタと物音がした後、ガチャっと勢いよくドアが開いた。

「ごめん!寝てた!」
「みてーだな。寝起きって感じするぞ」
「え、嘘。まぁ…いいや。早く行きましょ」
(いいのか…)

初めて魔獣退治に行った時同様、ルイス達に嘘の理由を述べて出かける。今回は隣町の友達と遊ぶという嘘。

(うぐ…心が痛い…)

本当は命に関わることを行っているなんて口が裂けても言えなかった。ルイスの心配する目が怜達の心にグサッと毎回突き刺さる。
だからといってここで立ち止まるわけにもいかない。
心の中で小さく"いってきます"を呟いた怜と澪はそっと歌を後にした。




電車でマツシヅ町の廃工場へ向かう。一番先に着ていたのは繭だった。瑠璃奈はまだ来ていない。

「少し遅れるそうです。なんか準備に時間がかかるそうで…」
「嫌な予感しかしねぇ」
「まぁ…とりあえず待ちましょう。釘藤瑠璃奈が来ない限り任務を遂行できないもの」

繭は朱音の事と、澪が言っていた変身についてずっと考えていた。その悩みが今夜ようやく解消されようとしていて繭の心はそわそわしていた。

(瑠璃奈さんに邪魔されることなく朱音ちゃんが救われますように…)
(まじでおせーなあの女。なめてんのか)

それぞれの思いが交差する中、ようやく今回の全ての元凶である瑠璃奈が現れた。
いかにも清楚風を装った姿だが腹黒い魂胆がただ漏れていて雰囲気が歪だった。まるで自分を被害者だとアピールさせるような装いが怜の癇に障った。

(どこまでも自分本位な女だなコイツ)
「みんなごめんねぇ♪いろいろ準備してたら遅くなっちゃった」
「あ、うん。そんな待ってなかったですし…。それじゃ皆揃ったし行きましょうか。ね?怜」

悪びれない瑠璃奈に唖然とした澪は変に言葉が片言みたいな喋り方になってしまった。それは、隣の怜の苛立ちも関係していた。相当怒っていると澪は感づいていた。
瑠璃奈もそれを知ってわざと煽る様な態度をとった。

「……釘藤さん。繭さんから聞いてるから分かってると思うけどスマホで撮影はするなよ。後、合図があるまで勝手な行動はしない」
「聞きましたけどぉ、どうしてダメなんですかぁ?だってあの化物を倒したところを皆んなに見せれば有名になれるかもしれないのに?」
「…あの…、私達、別に有名になる為に魔獣を狩ってる訳じゃないんです。名誉なんかよりも瘴気から魂を救出して空に還す方が大事なんです。飽く迄私達は影で動いてる。噂以外の事は出さないでほしい」
「(澪。どうせこんな奴に丁寧に答えても無駄だよ)馬鹿みたいにバズらせたいから撮影してSNSで晒す様な真似はするなってことだよ。理解しろ」
「理解できない!だってあの化物は…!!」
「魔獣の正体が何であろうと関係ない。幾らアンタが依頼者だからって全ての願いが叶うと思ったら大間違いだぞ。肝に銘じておけ。早く行くぞ」

納得いかない様子の瑠璃奈に構うことなく怜と澪は朱音の元へ急ぐ。
澪の言う通り、剣士と武器人は自分達の名誉の為に戦っているわけではない。全ては瘴気に囚われ成仏ができない魂を救う為。自分達で探り当てたり、もしくは、敢えて不確実な噂を流させて依頼主を頼りながら魔獣の場所を突き止める。そして、魂を救い空に還すのが彼らの仕事。写真や映像に残っていないのは影で動いていたからだ。
しかし、その説明をしても瑠璃奈は納得しない。もっと明るみになってしまえば2人の為になると勝手に思い込んでいた。その裏には魔獣になった朱音を晒してやりたいという魂胆があった。

「少しでも俺らのことを撮影したらそのスマホ叩き壊してやるからな」
「は?!なんでよ?!!いいじゃない!!少しぐらい!!記念としてでもダメなの?!」
「え、記念…」
「私が友達の仇を取った記念よ!」

瑠璃奈の思考についていけない繭は目眩を覚えた。朱音はこんな倫理観のない人間に殺されたと思うと悔しくて仕方がなかった。今にでも飛びかかってやりたいが今は朱音を救うのが優先だと思い留めた。
怜は苛立ちながらも少しずつ朱音が亡くなった場所に近付く度に気配が強くなってゆくのを感じていた。昨日来た時に感じた悲しげな気配は全くなく、殺意の気配しか感じ取れなかった。朱音の瑠璃奈への怨念の強さがヒシヒシと感じる。

(大丈夫だ、朱音さん。必ずアンタを救う。あの馬鹿のことは俺らが何とかする。だから…)
「怜。気配が近づいてる。そろそろ…」
「だな。どうせ隠れて変身しても質問攻めさせられそうだしいいだろう」
(澪さんが言ってた変身…どんなのなんだろう?隠れないでするっぽいけど…)
「え?何?急に立ち止まって。何か始まるの?変身って何?!!」
「(うるせーな)おい。だからスマホしまえっての」
「…あーはいはいしまいますよぉ〜(内緒で撮っちゃえ…)」

瑠璃奈は怜に指摘されたにもかかわらず、スマホをしまわず撮影を行おうとしていた。面倒臭そうに返事をするもバレない様に持ってきた肩掛け鞄の隙間から撮影を続行しようと試みようとしている。けれど、怜にはもうバレていたが彼は呆れて注意するのももう億劫になっていた。

(全部終わったらアイツのスマホ叩き斬ってやる…)
「怜?」
「あー…ごめん。それじゃたのむわ」

瑠璃奈と繭を安全な場所に待機させ、怜が合図した途端、突如澪の身体が眩い光を放ち出す。光に包まれた澪は百合の花弁を散らしながら太刀へと変身する。そのあまりの美しさに繭はじっと見惚れていた。それは隣にいた瑠璃奈も同じだった。
錆一つない刃に百合の模様が刻まれた美しい太刀は怜の右手に握られた。太刀を握る手に決意が込められた。

「羽美朱音とその子供を救う。何があっても」
「誰かさんの邪魔が入る前にね。空に還しましょう。私と怜ならなんだってできるもの」

変身の意味を知り、あの太刀で朱音を救うのだと知った繭は真剣な眼差しで2人を見守る。
澪達の様子を見ていた瑠璃奈はとどめを刺す時に自分がアレの握るのだと思い異常に興奮していた。こっそり撮っていた澪の変身する姿を見てその思いは更に強くなった。

怜は太刀を片手に瑠璃奈に近付く。何も言わずガシッと瑠璃奈の腕を掴むと、否応無しに引き摺り、掴んでいた手を離し立ち止まったかと思えば強い力で前に突き飛ばした。ギャーギャー文句を言う瑠璃奈に怜は無言を貫いた。緊張からするものと、彼女と会話するのも億劫だったというのもあった。
魔獣の最後の狙い。自分を陥れた最後の復讐対象である瑠璃奈を怜は差しだした。

「ちょっと!!何すんのよ!!痛いじゃない!!」
「俺はただ魔獣を誘き出そうとしてるだけ。まぁーそうだな。お前が朱音さんや繭さんにしたことを再現してあげたとだけ言っとくわ」
「な…っ!!」
「アンタはやり過ぎたんだよ。人一人死んでも気付かないで平気でいる。そのツケが今回ってきたんだよ………ほら、来たぞ」
「来たって…嘘、待って…!!」


重い引き摺るような地響きが怜達に近づく。怜は両手で柄を両手で強く握り近付いてくる脅威に構える。
さっきまで調子に乗っていた瑠璃奈もさすがに異様な物音に恐れ慄いていた。繭も動画でしか知らなかった魔獣の存在がいざ自分のすぐ近くに迫っていると感じると少しだけ恐怖を感じたが、それよりも魔獣となった朱音とその子供の魂の安否の方が気がかりだった。
すると、突然地面から赤黒い異様な手がコンクリートを打ち砕き飛び出した。鋭い爪が瑠璃奈を切り裂こうと振り下ろされるが怜の太刀がそれを受け止める。爪と太刀の刃の攻防の音が怜の耳を刺激する。
追い打ちをかけるように瑠璃奈の悲鳴も加わり耳に負担がかかった。

「重てーし!!うるせーな!!!」
「だ、だって、殺されかけたのよ?!!」
「だろーな!魔獣はお前を殺すことが目的なんだからよぉ」

怜は地面から伸びる手首におもいっきり蹴りを入れて怯ませた。バランスを崩し刃から離れた一瞬の隙を逃さず太刀で魔獣の手を斬り裂いた。真っ二つに切り裂かれた手は真っ赤な鮮血を噴かしながら地面に倒れた。
もう一本地面から伸びてきた腕も根元から切断させ瑠璃奈への攻撃を防いだ。
べっとりと血の付いた刃を一振りし、まだ出てきていない本体に備えてもう一度身構える。

(完全に釘藤瑠璃奈だけに殺意が向いてる。しかもまだ朱音さん自身は出てきてない…どこだ…?!)
「ちょっと!ちゃんとアタシのこと守りなさいよ!!さっきも殺されかけたのに!!早くあの化物女叩き斬ってよ!!」
「マジで気が散るから黙ってろ。今のアンタは囮なんだから」
「どうしてアタシが囮になるのよ!!囮なら馬鹿繭に任せなさいよ!!」
「……自分の胸に手を当てて考えてみたら?」

尚も瑠璃奈を捕らえようとする地面から伸びてくる数本の手を斬り払う。
すると、ずるずると重たく水分を含んだ様な引き摺る不気味な音が瑠璃奈の背後から聞こえてきた。
喚く瑠璃奈を後ろに退かせ、刃を音がした方に向ける。
繭も身を隠しながら音がした方に目を向ける。心臓の鼓動がいつも以上にうるさく感じながら身構える。
魔獣の高音の叫び声が廃工場に響き渡る。繭は目を瞑りながら耳を塞ぐ。
そっと目を開けて周りを見ると、そこにいたのはあの瑠璃奈のスマホに映っていた魔獣の姿。
一瞬だけ恐れ慄いたが、魔獣の頭部のある部分を見て繭は悲しさのあまり人間だった頃の魔獣の名前を叫んだ。

「朱音ちゃん…!!朱音ちゃん!!!」

魔獣の頭部に組み込まれていた水色のリボン。それは朱音が生前ずっと頭に付けていた髪飾りだった。朱音が亡くなった後、そのリボンだけどうしても見つからず彼女の母親と必死になって探していた物だった。ずっと朱音自身が持っていた事、そのリボンが魔獣の正体が朱音であるという証となった。
上半身だけ人間の様な姿で全身の皮を剥がされた様な肉質の赤黒いムカデの様な巨大な魔獣は容赦なく瑠璃奈を襲おうとする。
怜もそれに応戦し太刀を振るう。魔獣の背中から触手が飛び出す。

「げっ!!ヤバ…ってうわぁあーー!!!」

その触手は怜の右手に絡みつく。咄嗟に踏み止まろうとするも魔獣の強い力がそれを許さず、おもいっきり振り回し彼を壁にぶつけた。
壁に叩きつけられた怜の額からなんらかの拍子で切ったであろう微量の血が流れる。数滴の赤い血が怜の白いワイシャツを赤く汚す。
全身に壁に叩きつけられた痛みが走るがそれをグッと堪え、ゆっくりと立ち上がる。離すことのなかった太刀を構え直し、急いで魔獣の元へ向かう。

「怜?!大丈夫?!!」
「大丈夫だけどクッソいってぇ…油断した…」
「いろんな所から手と触手を生やしてくる。これじゃキリがないわね」
「本体をどうにかしないとどうしようもない。早く朱音さんを止めなきゃ釘藤瑠璃奈は確実に此処で死ぬ」
「それとスマホ撮影をやめさせなきゃね。彼女、バレてないと思っとるわよ?肩掛け鞄使って隠れてやってる」
「朱音さんを救ったら速攻でアイツのスマホを壊す」

きゃあー!!っと瑠璃奈の騒がしい悲鳴が響く。魔獣と化した朱音が鋭い爪を揃えた腕を振り上げ怯えて後退りする瑠璃奈に振り下ろそうとしている。
怜は勢いをつけ飛び上がり、張り上げられた腕を太刀で切断した。切断された断面からは夥しい量の血が噴き上がっていた。
瑠璃奈の殺害を妨害する怜に魔獣のは腕と触手を使い攻撃を加える。怜は太刀で応戦しながら魔獣の結晶の中にいる朱音の魂に問いかけた。

「朱音さん!もうやめろ!こんな馬鹿殺したって後悔するだけだ!!」
「こんな馬鹿ってどういう意味よ!!」
「黙れ。そのまんまの意味だよ。クソが。朱音さん、アンタがこんな奴の為に背負い込む必要なんてない」

魔獣は怜への攻撃をやめない。自分の全てを壊した釘藤瑠璃奈への復讐に駆られた今の朱音にはどんなに必死な説得も届かない。それが大切だった親友の叫びでも。

「朱音ちゃん!!もうやめてよ!!お願い!!」

《ウるさイ!!こノおんナだけは!!わたしガころス!!!アイツはワたしをコわしタ!!!ゼんぶ!!ゼんぶ!!!!》

歪な魔獣の声に怜は心を痛めた。自分達の説得が届かないだろうことは予想はしていたが、魔獣が放つ言葉にどんなに優しい言葉を投げかけてももう通用しない。
釘藤瑠璃奈が行ってきた愚行は一人の少女をここまで復讐に駆り立てたのだ。

「きしょ!!どんだけ私に執着してるの?化物でキモいし!!ちょっと!!レイさんだっけ?早くコイツ、ボコボコにしちゃってよ。あ、でもぉ、トドメは私に任せてよ?」

朱音から全てを奪い壊し尽くした女は相変わらず悪態をつく。怜は舌打ちをしながら魔獣の触手を斬り落とした。もう瑠璃奈に何も言葉を返したくなかった。その口を糸かなんかで縫い合わせてやろうかとさえ思えた。
そんな思いを振り払い、怜は顔に付いた赤い返り血を手で拭いながら魔獣からの猛攻に反撃を加える。

(今、結晶を壊して朱音さん達の魂から瘴気を払っても意味がない。瑠璃奈を殺すまで空に還らない気だ。また瘴気の格好の餌食にされて魔獣になる可能の方が高過ぎる。なんかしないと…)

魔獣を誘き出す為に前に突き出させた瑠璃奈の胸倉を掴み無理矢理立ち上がらせさせた。そして、繭が身を隠しているすぐそばの経年劣化でボロボロになった段ボールの山の方に投げ飛ばした。
叫ぶ間もなく投げ飛ばされた瑠璃奈はカダカダと脆くも崩れる段ボールの山の下敷きになり砂煙に塗れた。
痛そうなリアクションで起き上がり、すぐさま騒がしい怒号を遠くに怜に浴びせた。

「てめー!!ふざけんな!ふざけんなぁあ!!!よくもアタシにこんなしやがってよぉ!!!」
「(遂に本性出たな。きたねー言葉)アンタの役割が終わったから安全な場所に移しただけだ。感謝してほしいくらいなんだけど?」
「怜。来るわ」
「分かってる」

投げ飛ばされた瑠璃奈を追って来た魔獣の足に怜の太刀が鋭く走る。刃はブチブチと肉を引き裂き鮮血が夥しく溢れる。血が溢れ出る傷から走る痛みで魔獣は激しく唸った。
瑠璃奈の殺害を妨害する怜を捕らえようと地面から新たに触手を伸ばす。左手に触手が纏わりつくが、右手に握られていた太刀で躊躇なく斬り落とした。
邪魔をする怜に苛立った魔獣は是が非でも彼を捕らえようと無数の触手と手を生み出す。

《じゃマを、すルなァ!!!!!!》
「申し訳ないけどそうはいかないよ。アンタの為だ。釘藤瑠璃奈の汚い血でアンタをこれ以上苦しめたくない」
《なにもシらなイくせニ!!!アのおんナのテシたのくせにィ!!!》
「違う!!怜さんと澪さんは朱音ちゃんの味方!!朱音ちゃんを救う為に来てくれたの!!」
《ウソだァ!!!ウそだぁ!!うソだぁあァアアァアアァ!!!》

怜への攻撃を更に激しくさせる。
魔獣本体の両腕が鋭い鎌のような形になり怜に向かって振り下ろされる。怜は振り下ろされた片方の鎌腕から間一髪で避けきる。突き刺さった鎌腕の先端が硬いコンクリートの地面を打ち砕く。
地面から先端を引き抜き、自分に説得を試みようとする怜を切り裂こうと空を斬る。
再度、怜に振り下ろされた鎌腕は怜の太刀と交えて火花が飛び散る程の金属がぶつかり合う音が全体に響き渡る。交互からの激しく重みのある攻撃に怜はたった一本の太刀で必死に防御する。

辱めを受け、我が子を殺し、たった一人で死んでいった自分を救ってくれる人なんていない。きっと、あの瑠璃奈の差し金なのだ。
親友の繭が言っていたことも化物に自分を陥れる嘘だという疑念と瑠璃奈への怨念が今の朱音の全てだった。瑠璃奈の殺した後のことなどどうでもよかった。

「朱音さん。俺は釘藤瑠璃奈の為に此処に来たんじゃない。繭さんからアンタがあの女に受けきた事も全部聞いた。もし、今ココであの女を殺したら完全に化物なって無作為に人々を殺し始める。そうなったらアンタの魂は…!!」
《もウどうでもイイ!!!わたシはあのおンナをころスノ!!!!わたシのすベてをうばったあイつを!!!!》
「確かに釘藤瑠璃奈は朱音さんから全てを奪って踏み弄った。でも、貴女をこんな姿に変えたあの女は死にも値しない。殺す価値もない女よ。あの女を殺したら今度こそ貴女自身を失ってしまう。それは貴女も望んでないはずよ!」
《うるサイ!!!まどわスナアァああぁア!!!!》

バキバキと痛々しい音を立てながら両方の鎌腕を元の腕に戻す。激しい鎌腕の攻撃が突然止み、斬撃から来る威圧と重みがふと消えた途端、元の戻った魔獣の腕が怜の両方の二の腕をガシッと掴み宙へ持ち上げた

「しまった…っ!!!」
「怜!!!」

鋭く尖った爪が怜の二の腕に深く刺さり白いワイシャツがまた赤いシミを作る。より深く刺さる程赤い範囲が広がり腕を赤い線が伝ってゆく。血は太刀まで伝い柄巻きを赤く汚す。
突き刺さる爪の痛みが全身に走る中でも太刀を離すまいとグッと握る手に力を込める。

《ワたしのジャまをすルなら…もうこウするシかない…!!!》
「朱音さん…!!」
《わたシのカたき…あカちゃンのかたキ…もうトめラレなイノ…!!!バけもノになったワタしはモうこうすルシか…!!!》

持ち上げられた怜の目に映ったのは、繭が話していたあの水色のリボン。そして、微かに聞こえる幼い泣き声。
何処か迷いが見える声に怜は胸を締め付けられた。
瘴気に取り憑かれ、瑠璃奈の取り巻き達を手にかけた朱音に残された道は復讐を果たすか剣士と武器人の救済を受けることだけ。だが、彼女が選ぶの前者だろう。
絶望の中にいる朱音を救うことを怜は諦めたくなかった。

「……クラスの皆も頼りになる筈の大人も助けてくれない、親にも言えない、ただ苦しい日々が続くだけ。分かるよ」
《わかルわけナイ!!!おマエにわかるワけ…!!》
「分かるさ!!俺もアンタと同じだった!!見た目が皆と違うだけで軽蔑されて、突然孤独になって…!!」
《っ…!!》
「誰も助けてくれない、痛いのに苦しいのに誰も…!!繭さんからアンタのこと聞いた時感じたんだ。昔の俺と同じだって。全てに絶望して死にたくなる気持ちも…そうさせた奴を何度も殺そうと思った気持ちも全部…全部…!!」
「怜…」
《うソヨ…どうセわたシをおとシいれるタメノうそ…!!》
「そう思うなら俺の過去を覗けばいい。俺達はアンタを陥れる為にここに来たんじゃない。朱音さんと赤ちゃんを救うために来た。釘藤瑠璃奈の為じゃない。2人の為に…俺の過去を見て信じられなかったらこのまま俺を殺しても構わない」

怜の必死の訴えと、今にも泣きそうな顔でゆっくりとこちらに近づいてくる繭を見て朱音の気持ちが少しずつ揺らぐ。
魔獣の能力は瘴気に取り込まれた魂が決められる。過去を覗く事も、未来を知る事も、記憶を消し去る事も可能と言っても過言ではなかった。
心のどこかで救いを求めていたが、復讐に狂う朱音はその願いを必死に否定していた。
繭と怜達によって救いを求める自らの声にそっと光が差し込み始めていた。
戸惑う朱音に対し、砂埃にまみれた瑠璃奈はニタリと笑いながら持っていた小石を投げつけようとしていた。しかも、あかねに向けられていた投石はわざと怜にも当たるように仕向け、尚且つ澪が変身した太刀を持つ右手に当たるように集中していた。
それを見た繭は慌てて瑠璃奈を羽交締めにし彼女の愚行を無理矢理やめさせた。

「はぁ?!離せよ!!馬鹿繭!!当てられねーだろ?!!」
「いい加減にして!!自分が何してるのか分かってるの?!!絶対に離さないから!!」

瑠璃奈と繭の激しい言い争いが嫌でも耳に入る。2人のやり取りを目だけで見下ろす怜は小さく舌打ちをした。
朱音はやはり今殺すべきかと行動に移そうとするが、親友の繭の勇気ある制止と、怜の言葉が刺さり躊躇してしまう。怜はそれを見逃さなかった。

「繭さんはアンタを助けられなくてずっとずっと悔いてた。それはずっと続くと思う。釘藤瑠璃奈が引き起こした廃工場での惨劇とアンタがあの女に受けてきた事を泣きながら話してくれた。アンタを自分の全てを差し出すって」
《ウそよ…そんナノ…》
「嘘なんかじゃないわ。全部本当の事よ。彼女のお陰で私達ここまで来れたもの」

怜と澪の言葉に嘘偽りはなかった。だが、完全に信じることができない。不信感と怨念はそう簡単に消えるものではない。
けれど、"俺もアンタと同じだった"という言葉が引っかかってしょうがなかった。
朱音は、繭が託した太刀を持つ《《異国の顔》》の青年の過去を覗こうと試みさせた。信じてみたいという気持ちが突き動かす。

《アなたのことばガうそだっタら…すぐにデモくっテヤる…そのカタナもこワしてやる…》
「大丈夫。その覚悟はできてる」
「私もよ。苦しんでる人を助けられない武器人なんて意味ないもの」

朱音は意を決して怜の額に自らの額をそっと当てがいゆっくりと目を瞑った。

「すまないけど武器は持ったままにさせてくれないか?今ここで落としたらあの馬鹿が拾ったらろくなことしないと思うから」
《……ワかった…》

朱音を死に追いやった瑠璃奈は反省するどころか歪んだ思想の復讐に走っていた。怜の言う通り、太刀を地面に落としたらきっと繭を跳ね除け奪いにかかるだろう。そして、容赦なく朱音に斬りかかり勝ち誇る。ほんの少しだけ冷静になれた朱音でも安易に想像できた。
朱音の了承を得た後、怜も目を瞑り全身を集中させる。太刀の柄をぐっと握り返す。
お互いの額が合わせる。騒がしい瑠璃奈の叫びがピタッと聞こえなくなった。

(コれは…)

朱音の頭の中に怜が受けてきた理不尽な被虐がゆっくりと流れ込んでくる。
その中には、繭に話していたモノと彼女には明かさなかった非道な行為まであった。朱音が瑠璃奈達から受けてきた壮絶な被虐と大差は無い。悪意からの理不尽で身勝手な加虐はいつまでも纏わりつく。親しかった友人達がどんどん自分から離れてゆく恐怖と孤独も。
今よりも少しだけ幼い怜が血が出る程白いマジックで落書きされた肌を泣きながら掻きむしる姿が朱音の瞳に映る。
彼に駆け寄ろうとする朱音は魔獣から元の人間へと姿を変えた。

(だめ…!!)

けれど、見えない壁が邪魔してそれ以上先に進めない。助けられない悔しさと、不愉快な複数の笑い声が耳障りで仕方がなかった。
朱音は怜の言葉を理解した。彼も自分と同じ。
彼の口から放った"救いたい"という言葉に嘘偽りはなく、説得力がありとても重みがあるモノだった。
彼の過去の記憶は朱音だけに流れてきた訳ではなかった。怜の武器人でパートナーである澪の頭の中にも流れ込んできていた。
口だけでは伝わりきれない悲劇。愛する1人の男性をここまで陥れた平良雅紀《クラスメイト》が平気で笑って生きているのが腹立たしかった。

「う…っ」

朱音に掴まれた二の腕に食い込む爪が更に深く刺さる。激痛と鮮血がダラダラと流れていても怜は必死で耐えた。刃に伝う血は涙の様に見えた。

《ほんトに…ワたしと…》

怜の左頬にポタリと水滴な様なものが落ちた感覚と、朱音の震え声を聞いて驚いた怜は目を開け顔を上げる。目の前に映るのは涙を流す魔獣の姿。

「朱音さん…?」
《だって…アイツに…ルリなにたのマれテ…》
「言っただろ?俺は釘藤瑠璃奈の依頼できたんじゃない。アイツはただの囮係で連れて来ただけ。本当の依頼者は朱音さんの親友の雨宮繭さん」
《そう…ダカらアナたのカこを…》
「……うん。それにアンタが見たのは全部本当。アンタが受けたものよりも軽い。ずっと軽いよ」
《カるくナんかナい。わたシとおなじ。オナジくるしみ。くるシくて、トテもいたイ…》

2人共些細なきっかけで始まった。けれど、末路だけは違うも苦しみは同じ。
朱音は持ち上げていた怜をそっと降ろした。彼の二の腕に突き刺さっていた爪が引き抜かれる。
爪が引き抜かれた瞬間、怜は一瞬だけ苦悶の声を呟いた。太刀は離さなかったが、痛みでバランスを崩し尻もちをつく。
けれど、いつまでもうずくまっていられないとゆっくりと立ち上がった。太刀を構え直し朱音を見つめる。もう彼女に戦意がないのは一目瞭然だった。
すると、突然朱音は胸元にある結晶を両手でグッと掴むとそれを無理矢理取り除こうとしていた。肉体に組み込まれていたせいで所々から血が噴き出し始めている。
全身を走る激痛に悶え叫びながらも朱音は必死に黒い結晶を取り除こうとする。怜と澪、そして、繭はその様子に驚愕する。瑠璃奈は騒がしく気持ち悪いと悲鳴をあげていた。

「朱音ちゃん…!!」

繭は朱音を止めようとそっと近寄るが怜に制止された。怜の"大丈夫だから。見守ってやって欲しい"と言いたげな説得力のある表情を見て思い留まる。

「繭さん。大丈夫。怜と朱音さんを信じて」
「澪さん…」

涙を袖で拭い朱音を見守る。
ずるずると血を噴き出しながら黒い大きな結晶が胸元から姿を現した。そのまま血が落ちる結晶を両手で砕いた。
砕かれた結晶から瘴気に囚われた二つの魂が現れた。
その時、怜にだけ微かに聞こえた幼い声。もう泣き声ではない救済を求める声。

《ママをたすけて》

結晶と瘴気に囚われているもう一つの小さな魂の声。怜はその声に応えるように迷いも不安もない表情で瘴気がある方へ走り出す。

(大丈夫。ちゃんとお前とお前の母さんを救ってみせる。だから安心してくれ)
「待ってよ!!トドメは私がやるって言ったじゃない!!!」
「させない!!」

砂埃塗れの瑠璃奈が怜に近寄ろうとするが、それに勘づいた繭が自分を助けてくれた時の朱音のように瑠璃奈に飛びかかった。
"どけ!!"、"邪魔するな!!"、"離せよ!!"と、喚いて顔面に向けて殴りかかってきたが繭は必死に黙って耐え、怜の邪魔をしようとする怜を瑠璃奈を抑え込んだ。
繭の勇姿を見届けた朱音に未練はもうないに等しかった。一つだけ、小さな魂の救済した後の行方だけが残った。けれど、それは怜と澪の想定内。

「何も気にするな。アンタもアンタも子供もなんとかする。あの釘藤瑠璃奈(バカ)のことも。もうその手を穢すな」
《………あリがとウ…》

怜は浄化刃(じょうかとう)に変貌させる言葉を静かに呟いた。

「罪なき魂に巣食う瘴気よ。我が刃で消滅せよ。"斬鬼(ざんき)清鏡華(しょうきょうか)"」

浮遊する瘴気に向かって勢いよく飛び上がる。
白い刃と百合の花の刻印が浮かび上がった浄化刃に姿を変えた太刀を瘴気に向かって振り下ろした。
斬られた瘴気から眩い光が溢れ出す。光に悶える瘴気はゆっくりと消滅した。優しい光は怜を優しく包み込んだ。あまりの眩しさに目を瞑る。ゆっくりと目を開けると、そこには魔獣になる前の羽美朱音と彼女の腕の中に白いおくるみに包まれた赤ちゃんが立っていた。
朱音の髪にはあの水色のリボンが三つ編みに編み込まれていた。

「羽美朱音さん…?」

目の前にいる朱音は優しく微笑んだままゆっくりを頷いた。
武器化していた澪は変身を解き朱音に駆け寄る。
腕の中にいる赤ちゃんは不思議そうに澪を見つめていた。澪は目に涙を浮かべながら赤ちゃんの頬をそっと指先で撫でた。

「本当は違う形で産んであげたかった。大人になって、好きな人と結ばれて、好きな人の子として産んで…幸せにしてあげたかった。叶えられなかった。全部私のせい。私が弱かったせい。きっとこの子は私のこと…」
「何を言ってるの!!朱音さんは何も悪くない!」
「全ての元凶はあの釘藤瑠璃奈(バカ女)。アンタは本当に何も悪くない。この子だってアンタを恨んでない」
「でも…!!私がこの手で殺したの…!!生きられた筈なのに…!!私が…!!」
「もし、本当にアンタを恨んでたら一緒に魔獣になったりしない。アンタから離れて彷徨ってた。アンタの為に泣いたりしなかった」

怜は嬉しそうに朱音の腕の中にいる赤ちゃんを見て、この子は彼女のことを恨んでいない、そして、怜が微かに聞こえていた幼い泣き声は朱音を救って欲しいというサインだと確信した。
澪は赤ちゃんを抱きしめる朱音の手にそっと自らの手を添える。今にも泣きそうな澪のその表情と手の温もりに朱音は怜の言葉に偽りがないと感じた。

「アンタは十分頑張った。もうその手を穢すな。あの釘藤瑠璃奈のことは俺に任せてくれ。たのむよ」
「怜さん…」

怜の静かで力強いその言葉にこれ以上何も言えなかった。
本来は自分が果たす筈だった釘藤瑠璃奈への復讐を自分と同じ境遇である怜が自分に託して欲しいと言われ迷いが生じたが、今の彼にそれを言っても通用しないとなんとなく朱音は感じていた。

(殺すつもりだ。彼女を…釘藤瑠璃奈を)
「信じてくれ。お願いだ。アンタの手を煩わせたくない」
(さっきの私と同じ。怒りに染まってる。彼にどんな説得の言葉も通用しない)

不安げに怜を見つめる澪が朱音の視界に入る。
朱音は怜の隣にいた澪を一瞬だけ見つめ元の視線に戻す。澪を見つめたその目は何かを託そうとする様な目。けれど、まだ澪はその目線の意味が分からず困惑した。

(え?)
「…分かった。私が受けてきた全てを貴方に託す。必ず釘藤瑠璃奈(あの女)を殺して。2度と蘇らない様に完膚なきまでに殺してね。約束よ」
「ああ。約束する」
(なんだろう…さっき…)
「澪。そろそろ戻ろう。繭さんが危ない」
「え、あ、うん。そうだね。もう行かなきゃ」
「あの…いつになるか分からないし、どんな姿かわからないけれど、私達が生まれ変わったらまた貴方達に会いに行ってもいいですか?」
「なーに言ってんの!!良いに決まってるじゃない!!私も会いたいもの!!」
「俺も同じ。いつまでも待ってる」
「ありがとうございます。あと繭にもそう伝えてください。後…ごめんねって」
「うん。ちゃんと伝えるわ」

再び眩い光が怜と澪を包み込む。もう、朱音と赤ちゃんは空に還る時間だと伝えているようにも思える光でもあった。
敢えてさよならは言わなかった。お互い別れを惜しんだが再び会えることを信じたからだ。
朱音と赤ちゃんを見送った怜は光が強い方は駆け出す。先に怜が元の世界へと戻り、澪も駆け出そうとした瞬間だった。
突然、朱音は澪の腕を掴み彼女を引き留めた。驚いた澪は朱音の方に顔を向けた。

「待って!!澪さん!!」
「?!!」
「お願い!!彼を止めて!!彼こそあんな女の為に手を煩わせてはいけない人よ!!」
「朱音さん…!!分かってる…分かってるけど…!!でもどうしよう…!!私…止められないかもしれない…!!」
「大丈夫。澪さんならできるよ。神様はちゃんと見てくれているわ。あと…戻ったらコレを繭に渡して」

繭が澪達に話してくれた朱音の過去の中で彼女自身の口癖だった言葉だった。自分を信じてと訴える目が強い説得力を表した。
朱音は水色のリボンを髪から解き、不安に駆られる澪の右手にそれを託した。
キャッキャっと赤ちゃんが笑う声が聞こえる。"大丈夫、心配しないで。全て上手くいく"そう伝えているように感じてしまう。
澪は朱音の名を呼ぼうとするが元の世界へと戻そうとする光がそれを許さなかった。

「このまま不安がって何もしないより、どんなに傷ついても立ち向かって欲しい。だって…私、繭を助けたこと後悔してないもの」
「(朱音さん…)やってみる…私もあの女の為に怜の手が穢されるなんて絶対イヤ!!!!」

繭を助けた朱音がそうしたように澪も立ち向かう決意をする。まだ少しだけ不安は残るものの、その不安もいずれ消えてしまいそうな勢いだった。

「約束よ。澪さん」
「大丈夫。ちゃんとその約束を守るし果たしてみせるわ」
「あとはよろしくお願いします」
「うん。任せて」

怜と交わしたものと真逆な約束。朱音にとっても、澪にとってもその約束は違う意味を表していた。
決意を固め、右手の水色のリボンをぐっと握った途端、光が完全に澪の身体を包み込んだ。


(先に手を打っておいて正解だった。あの2人なら朱音さんを陥れた奴らを…)









先に元の世界に戻っていた怜が最初に見たのは、瑠璃奈が馬乗りになって繭を殴りつけている場面だった。
自分の要望が叶わず、頼りにしていた剣士と武器人が消え、自分を妨害してきた繭に激しい怒りをぶつけていたのだ。繭を殴りつける音と、反響して騒がしい罵倒を唾と飛び散らかしながらぶつける瑠璃奈に怜は憤怒し彼女に駆け寄った。
憎っくき繭に怒りをぶつけていて周りを見ていなかった瑠璃奈の顳顬(こめかみ)に向けて力の加減無しに蹴りを入れた。
瑠璃奈はまたぎゃっと短い悲鳴と共に吹き飛ばされた。怜はようやく瑠璃奈の激しい暴行から解放された痣と血に染まった繭を抱き起こした。

「繭さん、ごめん。遅くなった」
「あ…れいさん…」
「朱音さんと赤ちゃんをちゃんと見送ってきた。だからもう安心しろ」
「そうか…朱音ちゃんはもう魔獣じゃなくなったんだ…」
「繭さん。あの馬鹿を引き留めてくれてありがとう。よく頑張ったな。後は俺が片付けるから。アンタは休んでろ」

ボロボロになった繭を再び寝かすと、怜は瑠璃奈が蹴り飛ばされた方に近づく。優しげな表情から汚いモノを見た様な軽蔑の表情に切り替わる。
立ち上がった瑠璃奈は、鼻から血を流しながら怒りの表情で怜を睨みつける。だが、怜へのその脅しは火に油を注いだだけだった。
怜は、落ちていた錆びついた鉄パイプを拾い上げ、おもいっきり地面に振り下ろし甲高い音を立て周りに響かせた。
瑠璃奈はその音で一瞬だけ肩をびくつかせたがすぐに持ち直した。
顔を真っ赤にしながら怜を激しく罵倒する。

「よくも!!アタシにこんな!!!殺す!殺す!!この黒人野郎がぁ!!!殺してやる!!!」
「……へー…で?」
「っ!!!馬鹿にしやがってぇ!!!本当はあの羽美朱音はアタシがトドメを指す筈だったのに!!!それを破りやがって!!!ぐちゃぐちゃにして殺してやる筈だったのに全部台無し!!!!」
「ふーん。だから?」
「あーー!!!なんだよ!!さっきからその態度はよぉ?!!アタシが依頼者なの馬鹿にして!!!無視しやがってよぉ?!!!何様のつもりだ?あぁ?!!!」
「言いたい事はそれだけか?」
「何言って…あぎゃあ!!!!」

怜は持っていた鉄パイプを瑠璃奈の肩に向かって振り下ろし殴打した。再び情けない悲鳴が上がる。
地面に膝をつき、痛みでうずくまる瑠璃奈に怜は容赦なく再度鉄パイプを振り下ろす。彼女の背中を殴打するとドスっと鈍い音がした。

「痛!!いてぇな!!やめろよ!!なぁ?!!!」
「……」

声を荒げる瑠璃奈に構うことなく無言のまま何度も何度も鉄パイプは瑠璃奈の背中を打ち付ける。喚こうと、痣ができようと、血が出ようと怜は手加減なんてしなかった。
何度か打ち付けている内に瑠璃奈の威勢はどんどん弱いものへとなってゆく。涙声になっても怜は鉄パイプを持つ手を止めなかった。

「おい。いい加減顔上げろよ。いつまでうずくまってるつもりだ」
「っ…!!うぐ…いたい…!!」
「痛い?そう?でもな、朱音さんがアンタから受けた暴行の方がよっぽどいたかと思うけど?」
「お、お前こそ…よくアタシをこんな…!!こ、ころ、殺してやる…!!」

顔を涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃになった顔を向け叫ぶ瑠璃奈は背中の痛みを堪えながらのっそりと立ち上がり怜に飛びかかろうと試みるも、さっと避けられて大胆にうつ伏せに転び膝に擦り傷をつくる。せっかく整えてきた化粧も洋服もボロボロ。砂埃と痛みと傷と血が増えるだけで何の反撃にもならなかった。

「無様だな」
「うっ…ふざけんなぁ…!!ひっ、お前がそうしたんだろぉぉおぉおお?!!」
「俺はただお前らが朱音さんにしてきたことを再現しようとしてるだけ。やめてくれって言っても止めなかった。俺はそれをアンタにやり返してるだけ」
「なんで羽美朱音の為に必死になるわけ?!!!私に歯向かってきたあの女をよぉ?!!ちょっといじめてやっただけでしょ?!!!頭おかしい!!!!」
「………は?」

瑠璃奈が放ったある一言が怜の癇に障った。
ある1人の少女を追い詰め死に追い遣ったというのに釘藤瑠璃奈は反省なんて微塵もしていなかった。寧ろ、ほんの少しちょっかいを出した程度だと思っている。繭に宣言していた卒業と成人後の計画も実行するつもりだろう。
魔獣だった頃の朱音に怜自身の過去を覗かせた時に彼女の過去も怜の頭の中に流れ込んでいたのだ。流れ込んできた過去のヴィジョンは全て繭が話してくれた通りだった。
とても悲惨なヴィジョン。目を覆いたくなるようなモノばかりだった。
だから、瑠璃奈が言った"ちょっといじめただけ"という一言が許せなかった。反省もせず、未成年というだけで罪に問われず、遺族を侮辱し、周りにチヤホヤされ、笑って青春を謳歌するあの女がどうしても許せなかった。
必死に抑えていた感情を爆発させる。

「ちょっと?あれのどこがちょっとなんだ」
「ひぃ…っ!!」
「あ?大勢の目の前で恥ずかしい思いをさせて、大勢で罵倒しながら高い所から飛び降ろさせて、自分の目の前で仲間の男使って陰湿な暴行をするような犯罪のどこがちょっとなんだよ!!!!」

怜は怒りに任せて、彼を見上げていた瑠璃奈の頭部を踏みつけた。何度も躊躇なく、鼻も歯も折れればいいとさえ思えるような力で踏みつける。瑠璃奈の口からふげぇっとまた情けない声が出た。
頭部への攻撃をやめ、脇腹におもいっきり蹴りを入れる。地面にうずくまる瑠璃奈の腹にも間髪入れず蹴りを入れた。

「や"め"…!!ぐっ、がぁ、げぇぇ…!!!」

怜に腹部に力強い蹴りを入れられたことで瑠璃奈激しく嘔吐する。胃液とお菓子の残骸のような汚物が地面と瑠璃奈の足を汚す。

「怜…!!!」

ようやく元の世界に戻ってきた澪の目に映ったのは、傷ついて横たえる繭と、瑠璃奈に制裁を加えている怜の姿。
いつも見ている少し気怠そうな表情ではなく、怒りと殺意が入り混じった表情に澪は驚愕する。泣かされボロボロになった瑠璃奈の姿にも驚かされた。
そして、怜が右手に持つ錆びついた鉄パイプが瑠璃奈の頭部に振り下ろそうと狙い定めていた。澪は急いで怜に駆け寄ろうとする。

(嘘、いや、待って…だめ、ダメダメダメダメ!!!!)

澪が帰ってきたことに気付いていない、否、気付く余裕がない怜はとても冷たく汚物を見る様な目で瑠璃奈を睨んでいた。

(こんな奴に朱音さんは殺されたんか。こんな奴に繭さんは苦しめられたんか)

朱音の過去のヴィジョンで高笑いしていた瑠璃奈はその面影を残さない程惨めで情けない姿になっていた。その姿を見る度に悔しさが滲む。
怜は、こんな奴の血でこれ以上朱音さんの手が穢れなくてすんだ事だけが幸いだったと思うしかなかった。後の処理は剣士として、そして、朱音との約束として果たさなければならない。

(コイツを殺したら次はアイツを…)

怜の脳裏に浮かぶのは自分を虐め抜いたあの男の顔。今もなお怜を見下す嫌なクラスメイト。


(平良を殺してやる)

れいな目の前にいる瑠璃奈が平良雅紀と重ねて見えた。次にこの光景を見るのは時間の問題だろうとさえ思えた。
恐怖で顔が歪む瑠璃奈に怜の影が覆う。
もう嫌だ、やめてください、殺さないで、お願いしますと命乞いをする彼女に狙いを定めた鉄パイプに怜は左手を添えた。両手で構えられた鉄パイプが瑠璃奈に振り下ろされようとした瞬間だった。

「な…!!澪、お前…!!」
「ダメ!!それ以上はやめて!!お願いだから!!」

間一髪のところで澪が怜を抱きしめて、瑠璃奈への制裁を必死に止めにかかった。怜は澪を振り解こうともがくも彼女は離さまいと力強く抱きしめ続ける。

「聞いてただろ?!あの約束!!俺は朱音さんの仇を取らなきゃ、釘藤瑠璃奈を殺さなきゃいけないんだよ!!」
「知ってる!!でも、本当は朱音さん、そんなのもう望んでない!!貴方の為に嘘をついたの!!怒りに染まった怜にどんな説得も通じないって悟ってたから…!!!」
「嘘言うな!!だって俺は朱音さんと約束を…」

説得に応じようとしない怜に澪は朱音から託された右手に握りしめていた水色のリボンを見せた。
怒りと殺意に染まった怜を止められるのは澪しかいないと願い託されたリボン。怜はそれを見て驚き目を大きく開けた。

「このリボンが何よりも証拠でしょ?!私達を信じてくれた朱音さんが託してくれたの!!それに、怜も朱音さんに言ってたよね?釘藤瑠璃奈(あの女)は殺す価値も死ぬ価値もない人間だって!!」
「っ!!それは…!!」
「怜!!お願い…お願いだから…!!あんな女の為に手を穢さないで…!!あんな女の為に背負い込もうとしないで…!!」

声が震え出し、目から大粒の涙を流し始めた澪に怜は呆気に取られてしまった。怜を抱きしめる澪の腕の力が少しだけ増す。

「澪…」
「……大丈夫よ、怜。彼女、一生幸せになんかなれない…ううん、絶対させない。だって…神様はちゃんと見てくれているもの」

澪の口から出た"神様はちゃんと見てくれている"という言葉が朱音の口癖だったものと同じだというのを思い出し少し驚いた。とてもわざと言ったように思えないから余計困惑した。

「怜…私を信じて…全部上手くいくから…」

いつもと様子が違う澪の表情と変に説得力のある様な言い方に怜はこれ以上反論できなかった。振り上げていた鉄パイプから添えていた左手を離し、糸が切れた様に右手もだらりと垂れ下がった。右手から落ちた鉄パイプが地面に力なく打ち付け甲高い音が響く。
残ったのは惨めに泣き啜るボロボロの瑠璃奈だけ。

「うっ…う…殺さないで…謝るから…」
「謝る?もうおせーよ。何もかも。でも、安心しろよ。もう殺したりしないから。殺しはしないけどテメーは惨めに生きるんだこれからはな」
「そんな…!!そんなの、やだぁ…やだぁ〜…!!」
「自分が蒔いた種だろ?受け入れろ。一生惨めに生きて朱音さんに詫び続けろ。それがお前に残された唯一の贖罪。お前の残りの取り巻き共にもそう言っとけ」

怜から告げられた現実の言葉に瑠璃奈は絶望して大声で喚き泣いた。怜と澪はその様子を軽蔑の目で睨んだ。

「怜、行きましょう。時間の無駄よ。繭ちゃんの怪我も治してあげたいし」
「せやな。こんな奴の相手するのも疲れたし。全てじゃないけれどこれで朱音さんと赤ちゃんの無念を果たせた」
「そうだね」

喚き泣く瑠璃奈に構うことなく、怜は横たえていた繭を背中におぶり、澪と共にゆっくりと出口の方へ向かう。

(人を馬鹿にして、死に至らしめた馬鹿のいい末路。お前らが作った偽りの情報に守られながら堕落していけばいい)

最後にもう一度瑠璃奈を見る。勝ち誇った女王はもうここにはいなかった。煌びやかな栄光は突然現れた閃光に掻き消され本来の常闇が姿を表す。だが、その現実を肝心の本人は目を背け続けるだろう。どんな痛みと絶望が襲っても。
完全に瑠璃奈を見限った怜は繭を背負い直すと澪と共に廃工場を後にした。
贖罪から逃れようと必死にもがき苦しむ少女だけが寂しく残された。








「ん……ここ…?」

繭が次に見た光景は、廃工場の寂れた天井ではなく、星が輝く雲一つない夜空。突然の光景の変化に思わず目をパチクリさせる。
すると、頭上の方から聞き慣れた声が聞こえてきた。

「あ、繭ちゃん!」
「よかった。目が覚めたみたいだな」
「あれ…?怜さんに澪さん…?あの…ここ…?」

混乱する繭に澪は優しく状況を伝えた。
今自分達が居るのは廃工場近くの公園、朱音と赤ちゃんはちゃんと見送り空に還した事、釘藤瑠璃奈にはしっかりと制裁を加えた事、公園のベンチで澪に膝枕をされている状態だという事、そして、瑠璃奈に殴られてできた痣と傷は綺麗に治した事等全て教えてくれた。
繭はそっと顔に触れる。意識を飛ばす前まで感じていた痛みと血が乾いた感覚がないことに気付く。澪が貸してくれたコンパクトミラーで自分の顔を見ると彼女らの言う通り痣も傷も綺麗さっぱり無くなっていた。

(な、治ってる…)
「よく頑張ったな。俺らすごく助かっちゃった」
「本当本当!すごいよ!!繭ちゃん!!」
「え、えっと、なんか…恥ずかしいです…とても怖かったし…」

繭は起き上がり、恥ずかしさで真っ赤になってとても熱くなった顔の頬を両手で添える。
朱音が自ら結晶を割った時、身勝手過ぎる行動を起こそうとした瑠璃奈を身を挺して阻止した繭を怜と澪は褒め称えた。繭はあまり褒められたことがなかったせいか恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしていた。
瑠璃奈からの激しい暴行に耐え、朱音と赤ちゃんを守りきった事実に繭は安堵した。

「あの…瑠璃奈さんは?」
「工場に置いてきた。アイツなら一人で帰れるだろ?朱音さん達を笑い物にしてたアイツなら」
「まー繭ちゃんはもう気にしないでいいから。あの人がまた何かしてきたら私達に教えて。すぐに飛んでくるから!あ、そうそう。繭ちゃんに渡したい物が…」

澪は制服の上着のポケットにしまってあった薄緑色の花の刺繍が縫われたハンカチを取り出した。ハンカチをそっと開くと、その中には繭がずっと探していた朱音の水色のリボンが綺麗に折り畳まれていた。

「そのリボン…!!」
「朱音さんが私達に託してくれたの。彼女のお陰で怜も私もここにいる。でも、ずっと私達が持っているわけにはいかないわ」

澪はリボンを右手の指先で掴みハンカチだけ元のポケットにしまう。左手を繭の右手の甲にそっと添えて掴んでいたリボンを彼女の手のひらに大事そうに乗せた。
探していたリボンを見て繭は涙を流した。朱音と赤ちゃんを救ってくれた何よりの証。悲願を叶えてくれた怜と澪に感謝してもしきれなかった。
渡されたリボンを大事そうに握り締め感謝の言葉を繰り返した。

「ありがとうございます…!!本当にありがとうございます…!!私、わたし…!!!」
「朱音さんも繭さんのことすごく心配したし、生まれ変わったらもう一度会いたいって。あと…ごめんねって」
「わたしも…私も会いたい…!!生まれ変わっても朱音ちゃんに会いたい…!!会いたいよぉ…!!」
「繭ちゃん…」
「朱音ちゃんは何も悪くないのに…もう謝らなくていいのに…!!うわああ…!!」

リボンを握りしめながら繭は泣く。ネカフェのカラオケルームの時に泣いた時の悲惨さはなく、安堵と感謝と再会を願う想いが込められた涙だった。
澪もつられて涙をこぼし繭にそっと寄り添った。

(これで良かったんだよな?朱音さん?)






廃工場での一件から三日後。
怜と澪は繭と共に朱音の墓参りに訪れていた。彼女の墓には色とりどりの花が供えられていて、まだ燃きっていない線香も供えられていた。
怜は言われた通り瑠璃奈の命は奪わなかった代わりに徹底的に制裁を加えた事、澪はちゃんと水色のリボンを繭に渡せたことを報告した。

「まだ…戦いは終わってません」
「…分かってる」
「朱音さんのお母様のことね」
「はい。瑠璃奈達加害者と被害者の朱音ちゃんを守る筈だった大人との戦いがまだ残ってるんです。きっと、すぐには終わらないと思います。あの人達、逃げ続けてる。平気で嘘をついておばさん達を傷つけてる卑怯な人ばかり」
「……」
「私もおばさん達の力になりたい。もう逃げない。どんな形であろうと立ち向かいます」
「瑠璃奈側につく奴ら全員に泡吹かせてやれ。一人の人間を死に至らしめるような連中に容赦なんていらん」
「そのつもりです。この事件をかき消させない。おばさん達と協力してこの事件を多くの人に知ってもらえるように頑張ります」
「私達にも協力させてね。約束よ」

澪のその約束の願いに繭は勇気を込めて"はい"っと力強く返事をした。迷いの無い繭の眼差しに怜は希望を見出した。
繭の髪に飾られた水色のリボンが優しい風でヒラヒラと揺れる。
瑠璃奈とは一区切りを迎えたが、まだ朱音の事件が終わったわけではない。それは怜も澪も承知している。
未成年を守る筈の肝心の大人達の闇が垣間見れる。それは怜が平良にいじめられていた時もその闇は露見していた。
どんなに遺族が真実を求めようといじめ事件に関わった教師や関係者、その上の者は保身の為に事件を闇に葬ろうとする。市民を助ける筈の市長も同じ事。
けれど、そんな闇の中に必ず光は差し込む。どんなに嘘で固めようと必ず打ち砕かれる。
繭はその光の一つとなり、どんなに理不尽な行為が降り掛かろうともう彼女は逃げたりせず真っ向から立ち向かってゆくだろう。

「俺も協力する。何かあったらすぐに知らせてくれよ」
「はい。ありがとうございます」
「すぐに駆けつけるから!朱音さんのお母様と繭ちゃんを陥れる様な奴らは私達に任せて?《《いい人》》知ってるの」
(ん?いい人?)
「あ…はは…よく分かんないけど期待しちゃおうかな…?」
「私のママ結構顔が広いの。だからね…フフ」
(なんだろ…?嫌な予感しかしねぇ…)

暗黒に染まった澪の笑顔に怜と繭は少しだけ恐怖を覚えた。
会った事のない澪の母"島崎華山"に関わったことことがある人物であろうという点でも怜は少し不信感を覚える。けれど、澪の笑顔を見るによっぽど信頼がある人なのだろう。
澪は廃工場での一件の前夜に連絡をとったある人物を思い出しほくそ笑んでいた。

(そろそろ行動に移し始めてる筈。結果が出る|《無に還る》のはしばらく先の話だけどね)

澪が心の中で呟いた無に還るという意味。
朱音と怜の瑠璃奈への報復を阻止した理由の一つでもあるそれは何を意味しているのか澪にはもう分かっていた。
空に還る魂とは違う無に還るという事。そこに光が無いことだけは確かだった。





それからまた2週間経った頃のこと。
怜と澪は親友の佐々間幸人と放課後にシズカラ駅前で遊んでいた。幸人はとても楽しそうに2人と過ごし、美味しそうに好物のタキモト屋のプレミアムカスタードクリームたい焼きを頬張っていると、メガホンを使って何かを訴えている声耳にする。
声がした方に身体を向けて、たい焼きを頬張っていた手が思わず止まる。

「わ〜…まだ見つかってないんだ…」
「……」

どこかで見たことがある様な人物が大勢で駅前でビラ配りと呼びかけを行なっている。
怜は地面に落ちていたビラを拾い上げる。そのビラに載っているのはあの釘藤瑠璃奈とその妹小学5年の未紗の写真と特徴が細々と書かれていた。
上の方に大きな字で"探しています!!どこかで見かけませんでしたか?"と訴えている。
彼女らが居なくなったのは、丁度怜達が朱音の墓参りに行った時期。
突然、瑠璃奈だけでなくその妹まで消えてしまったのだ。しかも瑠璃奈の大親友で朱音のいじめに深く加担していた。曽根屋律も同様に消息を絶ってしまった。
駅前で必死に呼びかけていたのは、朱音のいじめをなかったことにしようとした瑠璃奈の両親。
自分勝手な勝利を確信していた頃とは違い、今にも倒れてしまうのではないかと言っていい程やつれていた。
怜と澪は敢えて呼びかけている方に近付く。幸人も残り少なくなったたい焼きの尻尾の部分を一口で食べきり2人を慌てて追った。
2人の存在に気が付いた瑠璃奈の母親が近づき、必死になって話しかけてきた。

「あの!貴方達、この子達見たことない?!シズマツの子なんだけど、もしかしたらこっちにいるかもしれなくて…!!!」
「……いえ。SNSで写真が回ってきたぐらいで。何も知りません」
「本当に?!この近くで見かけたって情報を聞いて…!!」
「え、あ、あの、本当に知らないんです!!!」
「彼の言ってる事は本当です。私も分からないですし、こんな派手な子なら覚えてる筈なんで…すみません。力になれなくて」
「本当に知らないの…。そう…突然ごめんなさいね…」

怜と澪は勿論知っていたが嘘をついた。この中で彼女と接触がないのは幸人だけ。
それに、怜と澪もあの廃工場の一件から瑠璃奈とは一度も会っていない。その後の彼女がどうなったかは墓参りの時に繭から少し聞いた時ぐらいで、姿を消した後は本当に何も知らなかった。
瑠璃奈姉妹が突然消息を立ったのを知ったのも、県内ニュースで報道されてようやく知ったといった具合だった。
なんの情報を得られなかった瑠璃奈の母は力なく怜達から離れ再び元居た場所に戻り呼びかけを再開させる。
よくよく見るとビラをもらってくれる人は年配の方が多く、学生や若い方は写真を見た途端気づいた者もいたのだろう。もらってもすぐにゴミ箱行きだった。いじめの首謀者を助ける様な真似はしなかった。
瑠璃奈の両親やボランティアに話しかけるのも年配者の方が多い。
必死こいて朱音と繭が通う学校の前で虚言を広めて笑っていた女の両親の衰弱っぷりに、瑠璃奈姉妹が突然消えたことは引っかかるがそれ以外、怜は何も感じなかった。

(釘藤瑠璃奈のお友達ってやつも碌な奴じゃないから消えても納得というか…)

なるべくしてなった結果なのだと一息だけため息をつきその場を離れた。
全く可哀想とも思えない瑠璃奈の両親は怜達がいなくなった後も呼びかけとビラ配りを続けてゆくのだろう。けれど、怜にはどうでもよかった。
あれだけの制裁を加えても彼女は何も変わらなかった。反省する言葉が出るなんてもっての外。釘藤瑠璃奈という女王には通用しない。

「やっぱり神様はちゃんと見てくれているのね」
「は?急に何?」
「だって急にいなくなったら皆心配するのに殆どの人見向きもしなかったじゃない。それ以外もあるんだろうし」
「まぁ〜週刊誌とかSNSとかで顔出ちゃってるからねぇ〜。可哀想っちゃ可哀想だけど自業自得よ。あんなのいじめじゃない。完全に犯罪だもん」

幸人も朱音のいじめ事件に怒りを覚えた一人であった。それは怜が平良から受けたいじめを目の当たりにしていた一人でもあったからだった。
そして、怜を絶望から救ってくれた恩人でもあった。
突然愛する我が子が消えたことはほんの少しだけ同情したが、それ以外は全くせず今までの行いのツケが回ってきたのだと軽蔑していた。

「平良もそうなるだろうと俺は思ってる」
「どうかねぇ。アイツは案外悪運強いから」
「怜は信じなきゃダメ!!アイツが怜にしたことも十分犯罪なんだから!!」
「2個目のたい焼きの頬張りながら喋ると説得力ねーぞ」
「うるへー!!俺はあの男だきゃー許さぬ!!!」

幸人が自分のことの様に過去に平良から受けたいじめに怒りを表しているのを見て怜は心の中で"やっぱりコイツが親友で良かった"と感激した。表では照れ臭さで本人には言わないが内心ではその思いを打ち明けている。幸人もそれを悟っている。
澪はそんな2人の様子を見てさらに平良に対しての株が下がり、幸人の株が上がった。

(平良雅紀のことも頼めばよかったかしら。まぁ…今はあの女だけで十分ね)

怜と幸人が話が盛り上がる中、澪は"流星"と"るぅ"に依頼が上手く進んでいることに安堵したと同時に、次の依頼は平良にしてやろうかと考えた。朱音が怜の過去を見ていた時、澪にも彼の記憶が流れ込んできていたのだ。その事もあり、いつか必ず平良雅紀にも徹底的な報復をと考える様になった。
愛する人の為なら澪はなんでもする。今回の事もその想いが"流星"に依頼することに繋がっていた。
瑠璃奈姉妹への報復の依頼は澪が関わっているが、瑠璃奈の親友である律については澪は何もしていないがきつと何かあるのだろう。だから特段不安にも思わなかった。
彼女らがどんな末路を迎えるのかそれだけが楽しみで仕方がなかった。思わず澪の顔がにやけてしまう。

(早く結果が楽しみ)
「ん?澪ちゃん?どうしたの?」
「まーたニヤニヤしてやがる」
「なんでもない。それよりさぁ…」

不思議がる怜と幸人を構う事なく澪は微笑む。怜の腕に抱きつく澪はその笑顔で秘密を隠し通した。
朱音と怜の手を穢さない為の特別な秘密は見えないところで進行している。朱音と赤ちゃんが完全に報われるのと、その秘密を明かすのはまだ先。
瑠璃奈達を庇い続ける大人達にも必ず来る不幸への道。
全ては愛する《《婚約者》》木原怜の為だ。

(怜の綺麗な手も宝石みたいな瞳も私が守りきるの。どんな手を使ってもね)

"自分はどうなろうと構わない。愛する怜が無事なら"
澪はその想いを怜の腕を掴む手に込める。
そんな事など何も知る由もない怜は、少し掴まれる腕の痛みを感じつつ幸人と話しながら歩みを進めた。澪は幸せそうに怜の腕に頬擦りをするのだった。











怜から報復を受けてまだ傷が癒えない頃。
とても寒く気味の悪い場所に突然連れてこられた瑠璃奈は目を覚ました。
近くで聞き覚えのある泣き声で目を覚ました瑠璃奈は周りを見渡そうとするも暗闇しか見えなかった。

(ん……。ここ…どこ…?)

胴体は縄で背もたれ、手は肘置きにベルトで拘束、足も椅子の脚もベルトで括り付けられているせいで身動きが全く取れない。目の周りに何か貼り付けられて何も見ることができない。
一気に恐怖が湧き上がったことで頭が急激に覚醒する。
大声で助けを求めようとするも、口元にも何か貼られている様で声がこもるだけで何も意味がなかった。
状況を把握しようとするもパニックが優って正常な判断ができない。ただ狼狽えるしかなかった。

(ちょっと本当ココどこ?!なんで私動けないの?!!私、未紗を迎えに学校に行って……み、未紗は…未紗はどこ…?!この声絶対未紗のだよ…!!)

パニックに陥っていた頭の中をなんとか落ち着かせようとする。遠くから聞こえてくる泣き声が焦りを煽る。
それでも必死に耳をすまし、唯一動く首を動かし泣き声が聞こえてきた方向に向ける。
少しでも拘束から逃れようとがむしゃらに身体を動かそうとするが、ガタガタと椅子が動くだけ。
焦りでパニくる中、突如、背後から明るく陽気な声が瑠璃奈に話しかけてきた。瑠璃奈は肩をビクつかせながら声がした方に首を向ける。

「あ!やっと起きたんだ。待っててね、今目隠し外すから」
(だ、誰なの…?!)
「大丈夫大丈夫。殴ったりしないから……今はね」

声の主は瑠璃奈の前に立ち、乱暴気味に彼女の顔面に張り付いていた2枚の黒いガムテープを剥がし取った。テープを剥がされた痛みと近くに置かれていたフロアライトの電球に明かりが灯ったことで瑠璃奈の顔が一瞬だけ歪んだ。
電球の眩しさに閉じていた目をゆっくり開けた瑠璃奈の目に映ったのは、黒いタートルネックとジーンズの全身黒尽くめの妙齢の男性だった。ついでに今の自分の状況を見て瑠璃奈は愕然とする。
椅子にガッチリと拘束され、さっきまで着ていた筈の洋服は脱がされ白く薄汚れたボロボロのワンピースな様なものを着させられていた。

(誰?誰なのコイツ?!!何なの?!どうしてこんな…!!)
「君、釘藤瑠璃奈ちゃんだよね?初めまして♪僕は波野流星♪見ての通り、お仕置き執行人だよ。短い間だけどよろしくね♪」

あまりにも陽気な口調でお仕置き執行人だと自己紹介をし始めた流星という男に怒りを覚えた瑠璃奈は飛びかかろうと椅子から身を乗り出そうとするが、身体中の拘束されているせいで椅子をガタンと動かすことしかできなかった。唯一動かせる口で涎を飛び散らしながら流星を罵倒する。
流星は聴き慣れた様な雰囲気で瑠璃奈の罵倒を聞き流していた。

「いいから早くコレ解けよ!!!!未紗を返せ!!!!此処から出せぇえええ!!!!!」
「うーん…そう言われてもなぁ〜ちゃんとした依頼で君を此処に連れてきたわけだからそうはいかないの。許してね?」
「はぁああ?!!誰だよソイツ!!!早く教えろ!!!」
「え〜ダメだよぉ♪守秘義務だもん♪もし君に教えたらどーせ依頼者殺しに行くんでしょ?」
「当たり前だろ?!!アタシと未紗をこんな目に遭わせやがった奴を殺しに行って何が悪いんだよ!!!お前も殺してやるからなぁ!!!」
「あはは♪さすが一人の何の罪のない女の子を虐め抜いて《《殺しやがった女》》だ。全く救いようがないね。全然自分が悪いなんて思ってないでしょ?」
「アタシは悪くない!!!!全部あの羽美朱音のせいだろ?!!なんでアタシが責められなきゃならねーんだよ!!!」

流星は依頼主である澪からもらっていた資料通りで大笑いしそうになるのを必死に耐えながら瑠璃奈の訴えを聞いていた。
結局、怜の激しい報復を受けても釘藤瑠璃奈という女は何も変わらなかった。澪はとっくに見越していて流星に頼ったのだろう。けれど、彼らを頼った最大の理由は大好きな怜を守ること。
あまりのやかましさに飽きた流星は、あることを思いつき、同業者を呼びに一旦瑠璃奈から離れた。

「おい!!!どこ行くんだよ!!!まだ話は終わってねーだろうがぁ!!!!」
「先に君の妹ちゃんを連れて来ようかと思ったけどこの状況を知ってもらうにはこうするしかないよね。るぅ〜?」

「んにゃ〜。ちょい待ちぃ〜」という声が遠くから聞こえてくる。流星と同じ様な陽気さとのんびりとした女性の声。

(何?もう一人いるの?!)

声がした方に顔を向けていると、暗闇から何かを押すズルズルとした音を立てながら流星と声の主が姿を現す。
金髪でふわふわした長髪で、ブレザーでベージュのスクールカーディガンという普通の女子学生風の衣装を着たるぅという女性は車椅子を押しながら瑠璃奈の前に立つ。
瑠璃奈はるぅの装いにも驚いたが、彼女が一番驚愕したのは車椅子に座っている人物だった。

「こんにちは♪ワタシは鷲巣るぅ♪よろしくねぇ♪あーそれとこの子はぁ〜」
「え……?り…つ…?りつ?律?!!ねぇ?!!律だよねぇ?!!」
「御名答だよお嬢ちゃん。この子は曽根屋律。君の大事な大事な親友ちゃんだよね?」
「なんで律まで…お前らなんかに…!!!」
「この子もワタシらに依頼された子なの。お仕置きしてくれっていうーね。瑠璃奈ちゃんが必死こいてお仲間の仇を取ろうとしてる時に影でやってたの」
「腕…律の両腕…」

確かに、瑠璃奈は魔獣になった朱音を殺してやろうと躍起になっていた頃は殆ど律と連絡することはなかった。この頃、律が学校を休むことが多くあまり接点がなかった。律の自宅に行っても彼女の母か兄弟達が「病気を移すと困るから」と接触を避けられていたのもあった。
律の二の腕から先のない包帯で巻かれた痛々しい腕を見て瑠璃奈の中で恐怖がさらに湧き上がり声が震える。

「人体実験その1。切断された手と足の先に本当に脂肪が溜まるのか実験。斬ったばっかりだからまだ分からないけどしばらくしたら結果が出るよ?両足はもう一つやってみたい実験の為に取っといてあるから気にしないでね」
「実験…?!まさかアタシ達を被験者に…」
「そうだけど?これもお仕置きにはいるでしょ?律ちゃんすんごく泣き叫んでたよ。斬らないでーって。やめて、お願いだから、謝るからって何度もね。そういえば、この子陸上で推薦取れそうなんでしょ?」
「どうして知って…」
「ワタシは半分魔獣の血が流れててそのお陰でいろいろできちゃうの♪例えば誰かに化けたりね。それでその情報を得たわけ。律ちゃん…陸上部の先輩達から相当恨まれてたみたい。能力もそうだし、見下した態度とか、先生達に媚びたりさ。羽美朱音さんのいじめ事件に関してはすんごい怒ってたし。特に律ちゃんのご家族は。もう帰ってこなくていいって」

瑠璃奈はるぅから聞いた律の家族の話でなんとなく察してしまった。律をこの二人に差し出したのは律の母親。自分もいじめを受けたことがあり、子供達には誰かをいじめる様な人間にはしたくないと聞いたことがあった。
つまり、全てを知った律の家族は母親の気持ちを優先しいじめに加担した娘を見限ったのだ。
"もう帰ってこなくていい"という言葉がその意味を強調していた。

「今は薬で寝ちゃってるけど起きたらどうなるかな?まぁどうでもいいけど。今回の実験もどうなるか知ってるから結果が出る前に次の実験に移るかも」
「次の実験で死ぬかもしれない運転。ね?そうでしょ?りゅー?」
「フッ化水素酸使うからね。ショック死するかもだからねー。実験だから治療とかしないし」
「アンタらおかしい…!!どうしてこんなこと普通にできるの?!!それ劇薬でしょ?!骨溶かしちゃうって…!!」

狼狽える瑠璃奈に流星はニコリと笑った。
律に行った両腕切断という実験に全く罪悪感なんてなかった。

「よく知ってるね。とてつもない痛みが襲って最悪死に至る薬だよ。人を蹴落としてまで陸上でぶいぶい言わせて、一人の女の子を寄ってたかっていじめて、恥ずかしめる子は害だからね。いじめってレベルじゃない犯罪者を見過ごせないよ」
「狂ってる…!!」
「それはアナタも同じ。ワタシとりゅーと同じ。笑ってスマホで襲われてるところ録画したんでしょ?同類同類♪」
「瑠璃奈ちゃんには、律ちゃんと同じ様な人体実験と、いじめの再現実験と、心理実験を行うからね。すぐに死んじゃダメだよ。しっかり耐えてね。生きて此処から出たいでしょ?君のパパとママは今必死に探してるみたいだから頑張ろね♪」
「パパ…ママ…」
「どんな姿でも帰ってきてほしいって言うけど…どうなんかね?普通のご両親と少し違うから君のとこは」
「りゅー?いじわる言わないの。これから頑張ってもらわなきゃだから」
「あはは♪ごめんごめん。未紗ちゃんのことは任せて。この子にもちゃんと実験メニューは作ってあるから。僕とるぅを信じて。もうすぐ泣き止むから」

瑠璃奈は両親が自分と妹を必死になって探しているという事を知って希望を持てた。両腕を失った律を見て絶望の中でもがいていた瑠璃奈にようやく差し込んだ光だった。
その光を再会へと繋がる希望となると信じた。
だが、瑠璃奈が希望を持つことはすでに想定済みだった。後はその僅かな希望をどうやって打ち砕いてやるかと楽しそうに考えて実行するだけ。

(そうやって希望を持つのは今だけだよ?釘藤瑠璃奈さん?)
「りゅー?これからどうする?喋るの飽きた。何が実験する?」
「うん。将来アイドルになろうとしてる瑠璃奈さんの顔を焼いちゃおうか?」
「賛成♪」

流星の耳元で次の実験の話をするるぅに瑠璃奈は気にも留めなかった。此処から脱出する方法と、脱出した後の事しか頭にない。これから自分の身に起こることなど知る由もなかった。


一度、お仕置き執行人波野流星と鷲巣るぅに捕まったら生きて帰って来れない。もしくは元の身体のままではすまされない。何かが欠けて帰ってくる。


澪はそれを見越して彼等に釘藤瑠璃奈と未紗の始末を依頼したのだ。怜の手を穢さない為に、朱音をこれ以上苦痛を与えない為に。
流星とるぅは生きてかれると浮かれる瑠璃奈を後目に実験の準備を進める。
いつのまにか耳障りだった泣き声も止まっていた。
その代わりにこれから聞こえてくるのは激痛に苦しむ悲鳴。


「それじゃ、るぅ。瑠璃奈ちゃんを実験台に寝かせて拘束して」
「あいよー」
「え?待って!何するの?!!やめて!!!離して!!!」
「何をするか教えないで、やめてって言ってもやめなかったでしょ?それと同じ」
「これから頑張ってね。まだ死なないでね」

















「そう簡単には死なせないで。苦しむだけ苦しませてそれから殺して。それが私からのお願い。流星さん、るぅさん」

電話越しにの澪のどす黒い微笑みが瑠璃奈達を絶望の底へと導くのだった。