トロンボーンの仮入部には私含めて7人の新入生が入った。部室では、同じ楽器担当の上級生たちが出迎えてくれた。そこで自己紹介をして初めて知ったのだが、あの先輩の名前は高柳日和というらしい。

 一通り事前説明を終えると、せっかくだからとそれぞれマンツーマンで教えてくれることになった。私の相手は問答無用で日和先輩になった。大声で「俺は古谷とで!」なんて言うから、顔が燃えるかと思った。
 先輩が楽器に触れる手つきは、意外にも繊細だった。ケースから取り出す時はまるで赤ちゃんを抱き上げるように、マウスピースをつける時はまるで相棒に話しかけるように。
 これがギャップというやつだろうか。人の話は聞かない上に、周りを振り回すタイプとは思えないほどに細やかであり、指先まで意識を向けた上品な動き。一つ一つの仕草が目に留まって、記憶に刻まれていく。その度に胸が高鳴った。

「古谷?聞いてる?」

 訝しげに首を傾げる様子が目に入る。
 貴方のことを考えていて聞いてませんでした、なんて口が裂けても言えない。そう思いながら勢いよく首を縦に振る。

 対して、目の前では呆れ顔の彼が聞いてねえじゃんと呟き、溜息を一つ零していた。

「俺の演奏聞き終わったら感想を言うこと!分かった?」
「感想?」
「そう。スポーツでもフォームを誰かに見てもらったりするだろ?それと一緒で、ここでも演奏の感想言い合うようにしてんの。自分の癖って自分じゃ分かんねえからな」

 私が納得した後、日和先輩はじゃあいくぞという声と共に大きく息を吸い込んだ。

 間もなく聞こえてきた音色は、想像を遥かに超えていた。
 耳に入ってすぐに、それは他の全ての音をかき消した。

 二人だけの教室に響き渡る、心地の良い旋律。耳に残る暖かな中低音。優雅な雰囲気に一変したここはまるでダンスホール。そこで音符たちが楽しそうに踊っているようだった。演奏しているのは一人なのに、オーケストラだと錯覚してしまう迫力もあった。
 どこまでも澄んだようなまっすぐな音に、先輩が重なる。音色も奏者に似るのかな。そんなことを思った。
 眩しく輝く楽器から放たれた全身を震わす音の羅列は、音楽に詳しくない私でも素晴らしいものであることがよく分かった。

 更に言えばトロンボーンを吹いている時の表情が、私のことを強引に引き入れた人と同一人物とはとても思えなかった。外見は何一つ変わっていないのに、暖かい空気のせいか不思議と大人っぽく見えた。大きな瞳は伏し目がちに、音に合わせて長い睫毛がゆっくり動いている。

 どうだったよ!と達成感と満足感に満ち溢れた顔で振り向く彼。私が見入っている間に、気づいたら演奏が終わっていたらしい。耳にはまだ今の美しいメロディーが残っている。身体が暫く動かなかったが、ほどなくして全身に熱を込めたまま勢いよく立ち上がることが出来た。

「……めっっっちゃ素敵でした!!!!!」

 放心状態になっていた反動か、思ったより大きな声が出てしまった。彼にグッと近づき興奮気味に拳を振る。次々に溢れる賞賛。呼吸するのも忘れていた。ただ全力で伝えたかった。この衝撃と感動を。

 数回の瞬きの後、先輩は恥ずかしそうに自分の髪を触った。お前は褒め上手だな〜とか何とか言いながら。褒めれば褒めるほど、器用に髪を指に絡めて目を逸らしていた。
 そういえば、さっき体育館で私が来たことを喜んでいた時も同じ仕草をしていた気がする。何故だか私は、この仕草が頭から離れなかった。

 今度は古谷の番だと、仮入部用のトロンボーンを渡された。それはバランスを保つことが難しいほど重かった。片手で米袋を持っているようだ。華奢な日和先輩が軽々持っていたのが心底不思議だった。黄金の光沢に映った自分の顔は苦しそうに歪んでいた。
 教わった基礎に従って、金色の物体に息を吹き入れる。私が出した音は、ヘロヘロと宙を漂い、地面に落ちていった。このまま誰かに踏まれたって、文句は言えない。建付けの悪いドアみたいな、ギシギシとした音。思わず耳を塞ぎたくなる酷いメロディーにも彼は笑ってフォローしてくれた。

 同時に、さっきの演奏は本当に凄かったのだと思い知らされる。透き通るような何一つ傷のない音。それでいて温もりのある雰囲気を纏ったそれは、薄汚れたボロボロの旋律を聞いた後でもはっきりと耳に残っていた。

「日和先輩みたいに吹けたらなぁ…」

 無意識に零れた言葉に、自分でも驚いた。数時間前までトロンボーンが何かも分かっていなかった私が、今では上手く吹けるようになりたいと思っている。
 声が届いたのだろうか、目前の彼は何も言わず前髪を弄るだけだった。

 そこで気づいた。日和先輩は、恥じらい喜ぶ時に髪を触る癖がある。

 私はその仕草を堪らなく愛おしいと思ってしまった。もっと見たいと思ってしまった。
 その瞬間、雷が落ちた。外にではなく、私に。
 こんな衝撃は生まれて初めてだ。

 私に何か言っているが、全く耳に入ってこない。唯一聞こえた「本入部するか?」という言葉に、何も考えず頷いたことだけは覚えている。