「仮入部希望の方は、ここに名前を書いてから中に入って下さーい!」

 『吹奏楽部』の名札をつけた女性の甲高い声が響く。
 私は記入用紙に『1年2組 古谷恵』と書き、体育館へと足を踏み入れた。中では様々な楽器を担当する先輩たちが、彷徨う一年生たちを取り込もうと大声を上げていた。

 人波に揉まれながら辺りを見回す。青春っぽいことができそうだから、という軽い気持ちで立ち入ったのが良くなかった。ろくに楽器も知らないし、やりたいものもない私は、人で埋め尽くされた空間をただ漂っている。こんなに人がいるのに、心は独りだった。
 人の輪の出口を見つけ、勢いで飛び出ては大きく深呼吸をする。荒い息が止まらない。ここはまるでサウナだ。汗も出てきた。まだ下ろして一週間も経っていない新品のブレザーで額を拭う。一刻も早くここから出たい。

「あれ、ひょっとしてトロンボーン希望!?」

 若干息切れが残る私に、声を掛けてきた男の先輩。男子にしては小柄で、顔も幼い。テレビでよく見る小学生タレントたちに混ざっていてもおかしくない顔立ちだ。弧を描いている口元から覗く八重歯がキラリと光った。小動物のような大きい目で私を捉え、所々寝ぐせのついた黒い髪を揺らしこちらに駆けてきた。まだ声変わり途中なのか、声が若干掠れている。身長は私と同じくらいだろうか。一瞬、年下かと思ってしまった。

 正直トロンボーンがどんな楽器か分からない。だけどそんなこと言えるはずもなく、なんとなく言葉を濁すことしかできなかった。

「マジで来てくれて良かったわ~!ってかさ、酷いと思わね?トロンボーンだって人気楽器だってのに場所こんな奥にしやがってさ…」

 私なんてお構いなしに、聞いてもないことをペラペラと話す姿に圧倒される。見た感じ、ここには一人しかいないようだ。

「って、こんなこと話してる場合じゃなかった。君、仮入部だよね?これからよろしく!」

 まだトロンボーンに決めたなんて一言も言ってないけど。先輩は私が入る前提で話を進めていた。強引にもほどがある。
 なんとかここに来てしまったのは故意ではないのだと伝えようとしたが、どうやらこの人は人の話を聞く気がないらしい。13年生きてきて、こんなに強引な人は初めてだ。
 いや、さっきの話を聞いた限りでは新入生が誰も来なくて焦っていたから、それだけ必死に私を引き留めようとしているのかも知れない。そう考えたら、何だか可哀想に思えてきた。
 髪を触りながら、君が来てくれて助かったと笑っている。思わず目を細めてしまうほどに眩しい笑顔。その太陽から差し伸べられた手を、振り払う選択肢は選べなかった。簡単に言うと、逃げられなかった。こんな嬉しそうな顔を向けられてしまったら。

「そういや君は、何でトロンボーンを?」
「……私、前から興味あったんですよ~!」

 トロンボーンについて無知なことは黙っておいた。この笑顔を裏切りたくなかったから。背中に隠した両手には無意識に力が入っていた。