「俺、今度結婚するんだ」

 日和先輩の声は、極めていつも通りだった。挨拶する時と同じトーンで、トロンボーンの吹き方を教えてくれた時と同じ優しい口調で。
 お気に入りのワンピースにコーヒーを零すところだった。

 笑って何か喋っているけれど、何も聞こえない。
 結婚?誰と?彼女いたの?いつから?何で言ってくれなかったの?
 頭がおかしくなりそうなほどの疑問の洪水が私を襲う。

 きっと私は心のどこかで思っていた。彼も私を見てくれているって。私を一番に考えてくれているって。そう信じて疑わなかったんだ。
 目の前にいるのは、大好きな人のはずなのに。毎日想っていた人なのに。何故だか私の知らない先輩のような気がして、まっすぐに顔を見られない。
 意識が朦朧としてきた。もう何も考えられない。この場から今すぐ逃げ出してしまいたい。

 古谷?という声でやっと我に返った。
 心配そうに眉を下げる先輩に私は何を言えばいいんだろう。何にしても私はちゃんと言えるだろうか。声が震えないように、泣かないように。
 小さく吸い込んだ空気は、コーヒーの湯気のせいか苦かった。

「おめでとうございます!結婚なんて羨ましいです~!」

 向こうから見えないのをいいことに、思いっきり手に力を込めた。爪の食い込んだ箇所が微かに痛む。跡が残りそうだけど、この胸の痛みに比べれば軽いものだ。
 この時ばかりは大好きなあの仕草も見たくはなくて、私はゆっくりと目を伏せた。
 彼を見ると嫌でも思い出すあの綺麗な旋律に、今は耳を塞ぎたくて仕方なかった。









「今までの人生で、日和先輩はいつどんな時にでも私の隣にいてくれました。それがどんなに嬉しかったのか、言葉では表しきれません。私が一歩踏み出せない時には強引にでも手を引いて連れ出してくれました。何かに夢中になることが素敵なことだって教えてくれたのは、貴方なんです。そんな先輩がこうして幸せのスタートラインに立っていることが自分のことのように嬉しいです!改めてご結婚おめでとうございます!!」

 全力で告げた祝辞。BGMとして『トロンボーン協奏曲 変ロ長調』が流れている。大きな歓声と拍手が私を包んだ。
 胸に咲く花は、結局摘み取れもせず生えたままだった。色を失い、虫に食われたように穴空きの心がまだ少し痛い。

 結婚を聞いた後、代表スピーチという大役を任された。まだ参加するとも言ってないのに、勝手に私を代表にしていた。彼は相変わらず強引だった。
 拍手喝采の中、席に戻ろうとする私を呼ぶ声がする。振り返ると、太陽が輝かしく笑っていた。髪を撫でるこの仕草も、もう見ることは出来ない。

 その後ろで優しく微笑む花嫁さんは、綺麗な瞳を細めて幸せそうに私たちを見ていた。喜ばしい感情がこっちにまで伝わってくる、そんな眩しい笑顔だった。彼女の透き通るような白い肌には真っ赤な口紅と真っ白なドレスが良く似合っている。こんな美人どこで捕まえてきたんですか、なんて小言を言いたかったけど、あの花嫁さんに釣り合うほどの魅力が日和先輩にあることは私が一番よく分かっていた。

 お祝いムードの手前、もう会えなくなっちゃいますけど先輩が幸せならそれで十分です!と思ってもないことを言った。背中に隠した指が、弱々しく絡まった。

「嘘つけ」

 顔を上げないと見れなくなった大きな瞳が微かに揺れた。大きい手がゆっくりと近づき、優しい温もりが頬を撫でた。そこで初めて気づいた。
 私は今、泣いている。拭っても拭ってもそれは止まってくれない。
 咄嗟に、嬉し涙です!と誤魔化したが、無駄だったことを嫌でも悟る。

「それも嘘、なんだろ。お前、自分では気づいてないのかもしれないけど、嘘つく時に手を隠す癖があんだよ」

 当たり前のように言われた言葉に開いた口が塞がらなくなる。そんなこと、知らなかった。自分の癖は自分では分からない。まさにその通りだ。
 彼は嘘が隠せない私の様子が面白くて、その仕草が好きだったらしい。それを眩い微笑みで言うんだから、ずるいと思う。
 私が先輩を見ていたように、先輩もちゃんと私を見てくれていたんだ。

 初めて貰った『好き』の言葉に、枯れかけていた花が息を吹き返していく。同時に穴の空いた心が再び色づいていく。
 あぁ、やっぱり私はこの人が好きだ。
 たとえ叶わぬ恋だとしても。もうこの花を、想いを届けることはできなくても。想う気持ちは変わらない。彼のお陰で、私の人生が彩られたのは事実なのだから。

 きっとこの先、私は何度も思い出す。この十年を。この熟れた初恋を。あの眩しくて、強引で、優しくて、大好きなあの太陽を。


 今度は何も隠さずに、心からの祝意を叫んだ。この世界中に響くくらいの大きな声で。これは紛れもない本心だ。だってあんな照り輝く笑顔を向けられたら、全力で祝う他ないじゃないか。
 会場に鳴り渡る協奏曲が、私を抱きしめてくれているような気がした。

 大勢の祝福の言葉を浴びて、幸せを絵に描いたように笑う日和先輩。ワックスで固まった髪を触るその仕草は、今までで一番素敵だった。