「ねぇ、ヒロ~。アタシ、夜はローストビーフが食べたいんだけど」
リビングのソファーに寝転んだ姉さんが、キッチンに立っていた俺に夕飯のリクエストをした。
共働きの両親に代わり、家事をするのは俺と姉さんの役割になっていた。
そのはずなのに、ここ最近の姉さんは俺に任せっきりでダラけきっている。
そんなこともあり、今日の夕飯のメニューに悩んでいた俺は、姉さんの無神経さにいい加減カチンときてしまった。
「そんなに手の込んだものが食べたいんなら、姉さんが作ればいいじゃんか。仮にも家庭科教師だろ」
「えぇ~、嫌よ。だってメンドクサイし」
薄着のルームウェアを着た彼女は、手に持ったスマホから目も離さずに文句を言った。
作ったことがある人は分かるだろうが、ローストビーフなんてものは冷蔵庫を開ければ出てくるシロモノじゃない。
柔らかくするために寝かせたり、低温でじっくり焼いたりと手間が凄くかかるのだ。
とてもじゃないが、「食べたい」と言われたところで「はいどうぞ」と出せる料理じゃない。
姉さんがもし夫だったら、ツイッターで炎上する案件だぞ。
「仕事で料理をするからって、プライベートでもやるっていうのは偏見ですぅ~。そういう職業差別しないでくれません~?」
「マジで教師やってるとは思えないような言動だよな……」
姉さんは普段、学校では美人教師として生徒から人気がある。
キリッとした態度で馬鹿な男子たちのセクハラを一蹴するシーンは、もはや名物と化しているぐらいだ。
それがどういうわけか、家ではイメージが180度変わってしまう。
下着なんかも、ソファーの上にいつも置きっぱなしにするし。
風呂上りは薄着のまま平気で家の中をうろつくし。
「姉さん、またショーパンの裾からお尻がはみ出てるぞ」
「やーん、ヒロのえっちー。ついでにおっぱいも見る?」
「誰が見るか、アホ」
俺がこうやって注意したって、いつも聞き流されてしまう。
まったく、こっちは思春期真っ只中の男子高校生だっていうのに。
あまりにも隙だらけで、目のやり場に困ってしまう。
こんなだらしのない姿、学校のやつらにはとてもじゃないけど見せられないよな……。
「仕方ない……スーパーで牛肉買ってくるよ」
「わーい、ありがとう!! 忘れずにワインも買ってきてね! 赤で!!」
「こっちは未成年だわっ! 自分で買ってこい!!」
姉さんは何も答えず、手だけを上げてシッシッと振った。
つまり「いいからお前が行け」という合図だ。
手を上げたせいで、今度は薄いシャツの隙間から腋と小さな横乳が見えている。
「はぁ……まったく、もう」
母さんから預かった財布をポケットに入れ、俺は外へと買い出しに向かう。
「いくら姉と弟だからって、少しは気を使って欲しいんだけどなぁ」
傍から見たら、仲の良い姉弟に見えるかもしれない。
だけど俺と姉さんは、一年ほど前に家族になったばかりの、元他人なのだ。
「まさか先生が姉さんになるとは思わなかったよなぁ」
さっきも言った通り、俺の姉さんは高校の家庭科教師をしている。
しかも、俺が通っている学校で。
父さんが再婚することになり、新しい母さんが連れてきたのがあの姉さんだった。
学校では立派に家庭科を教えているくせに、家では家事なんてほとんどやらない非家庭的な姉さんに、俺はいつも振り回されっぱなしだ。
「どっちのアタシもアタシだわ。だいたいねぇ、プライベートまであんなガッチガチにやってらんないわよ」
「だってヒロが作った方が美味しいんだもん。だから家ではヒロがアタシのセンセイね」
――このふたつが、姉さんの口癖だ。
「ん、おかえりー」
「ただいま……って何食ってるの」
「冷蔵庫にあったチーズ」
いや、それは見れば分かるけどさ……。
買い出しから帰宅すると、姉さんはキッチンの椅子に座ってモシャモシャとチーズを貪っていた。
さっきまでは断固としてソファーから一歩も動かないって感じだったのに、俺が居なくなった途端にこれである。
はぁ~と深い溜め息を吐きながら、材料が入ったエコバッグをテーブルに置く。
「って、ワインあるじゃーん!」
「……隣の家のおばさんに偶然会って。貰い物だけど誰も飲まないからどうぞ、だってさ」
「うふふ。やはり持つべきは、姉に貢げる弟だよね~」
「ぶっとばすぞ、オイ」
人の話はシカトしたままま、姉さんはガサゴソと勝手に袋をあさり、赤ワインの瓶を奪っていく。
「ねぇ、ワイン開けるやつってどこにあったっけ?」
「知らないよ。姉さんが先月飲んだ時にどっか持っていってただろ」
「えぇ~? 知-らーなーいー。歯で開かないかな?」
「ちょっ、やめろって! 料理にも使う予定なんだからバッチイことすんなよ!!」
ちょっと目を逸らした隙に、姉さんは瓶の先端を口の中に入れて、コルクを抜こうとしていた。
お前は缶詰を与えられたチンパンジーか。
この人、飲む前から酔っ払ってんのか?
◇
「豪華な食事に、かんぱーい!!」
「乾杯って……姉さんは俺が料理している間にもう飲んでただろ……」
テーブルには、俺が作ったローストビーフとポテトサラダが並んでいる。
飲み物は赤ワインと、コーラだ。
結局姉さんが手伝ったのは、コップを出した程度。
あとは料理をする俺をツマミがわりに眺めながら、一人で勝手に晩酌をしていた。
「もー、細かいことばっか言わないの。そんなんじゃ、ヒロを貰ってくれるお嫁さんが見付からないよ?」
「その言葉、そのままお返しするわ」
ワインを半分ほど空けて、すっかり赤ら顔になった姉さんは、口をすぼめてタコみたいにさせた。
「はー? いますぅ~。こんなに美人で家庭的な女は引く手あまたですぅ~」
「姉さんが家庭的なのは、学校限定だろ……」
「んー、美味しい!! やっぱり赤ワインにはローストビーフよね~!!」
「いや、話を切るハンドルが急すぎて、話題がスピンしてるんよ……」
気付けば皿の上のローストビーフがすでに四分の一が消えていた。
当然、こんなことをする犯人は一人しかいない。
ソイツは今も、俺の目の前で堂々と箸で一気に肉をスーッと何枚もすくい、口の中へと放り込んでいた。
「あぁ~、やっぱりヒロの手料理は最高ね。焼き加減もメッチャ私好みだし」
「そりゃあ、毎日のように料理を作らされていればね。ある程度はコツも掴んでもくるよ」
「そう? ならやっぱり、ヒロがアタシの旦那様になってくれない?」
「……」
……そんな笑えない冗談を言うなっての。
肯定も否定もできず、俺は黙って飲み物を口に含む。
姉さんは俺の困った顔を見て、意地の悪い笑みを浮かべると、左手に持ったワインをグビっと飲んだ。
「アタシは結構、本気だったりするんだけどなぁ~?」
「そりゃ残念でしたね。だけど俺は、家事を手伝ってくれない人とは結婚したくないし」
「えぇ~? アタシだってやればできるのよ? 現に、母さんが再婚するまではアタシが家のことやっていたんだし」
「……それは知らなかった」
姉さんはあんまり、再婚する前のことを話さない。
たぶん、あんまり良い思い出が無いんだと思う。
「……前の父さんはね。仕事はすごくできる人だったけれど、家のことは全部母さんに丸投げしてたんだ。母さんはしょっちゅう泣いてたよ。本当は自分も働きたかったのにね」
俺たちの母さんは医者をしている。
小さい頃から勉強を重ね、苦労して資格を取って。ようやく夢を叶えたんだろう。
「アタシを産んで、家庭に入ってからも母さんはずっと耐えてた。だけどアタシが小学生の頃にね。授業参観で、アタシが教師になりたいって作文を発表した時……母さんの中で何かが変わったんだろうね。その月のうちに、アッサリと離婚しちゃった……ん、ありがとう」
俺は空いたグラスに赤ワインを注いだ。
姉さんは少しだけ寂し気な笑みを浮かべてお礼を言った。
俺が思うにだけど。
母さんはそのまま夫と暮らしていたら、姉さんの夢まで潰されると思ったんじゃないかな。
自分の夢だけならまだしも、娘の夢まで否定されるのは親として許せなかった。
だから母さんは、姉さんを守るために離婚する勇気を出したんだ。
「そんな母さんをずっと見ていたからかなー。アタシは外見とかお金よりも、実際に暮らしてみて相性が合った人と一緒になりたいって思ったんだ~」
「ふぅん」
「まぁ、そんなことばっか言ってるから、どの彼氏とも長続きしなくて別れちゃったんだけど」
へぇ~。姉さん、ちゃんと彼氏いたんだ。
……それっていつの話だろう。俺たちと一緒に暮らしてからだろうか。
だけどそんなことは聞けない。
聞きたくもないから、俺は再びコップに手を伸ばした。
「あー、ヒロ。今、アタシにいつ彼氏がいたのかって考えてたでしょ?」
「……そんなことない」
「ふっふっふー。こう見えて、アタシもヒロのことは何となく分かるようになってきたんだからね?」
そんなの、嘘に決まってる。
姉さんが俺のことをちゃんと分かってくれているなら――。
「姉さんは意地悪だ」
「えっ?」
「俺が姉さんに惚れてるって、知ってるくせにそんな意地悪を言う」
「ちょ、ちょっと待って? どうしたのよ、ヒロ。顔が真っ赤って……ああっ、もしかしてアタシのワイン飲んだの!?」
うるさいな。そんな渋いだけの飲みものなんて、飲みたくても飲むもんか。
くそっ、やたら喉が渇くな……!!
「だいたい、姉さんはいつもいつも俺のことを都合の良いように扱って、ちっとも優しくない! もっと可愛がってくれたって良いじゃないか……」
「だからそっちはコーラじゃないってば!! もうっ!!」
「あれ? そういえばこのワインって、姉さんが口で開けようとしてたんらっけ~? 間接キス……ふふふ」
「やだ、この子酔うとすごく面倒……って、急に口押さえてどうしたのよ……」
うっ、なんか気持ち悪くなってきた……
「だめっ、吐くならトイレで……って間に合わないっ!?」
◇
「……ごめん、姉さん」
「良いのよ。アタシがちゃんと見てなかったのが悪いんだから」
トイレには結局間に合わず、キッチンの流しにリバースした俺はそのままダウンした。
今はソファーで、姉さんの膝枕の上に寝かされている状態だ。
「姉さんの手……あったかい」
「ふふっ。ヒロはいつも強がりなのに、弱るとトコトン甘えん坊になるわね」
「……」
俺の頭を撫でる手が、さらに優しくなった。
しばし互いに無言の時間が流れる。
……今の姉さんは、はたしてどっちの姉さんなんだろう。
学校でのしっかりした姉さんでも、家でのだらしのない姉さんでもない気がする。
「アタシはね……ヒロのことが好きよ」
「え……?」
「だけど今はそれが家族としてなのか、それとも異性としてなのかはまだ分からないわ」
撫でる手は止めないまま。
だけど声色だけは少し強くなった。
「でもね。今まで付き合った彼氏とも違う……なんだろう。特別感っていうのかな。そういうのは間違いなく感じているの」
姉さんのその言葉に、俺の心がカッと熱くなった。
実質、フラれてはいるのだろう。
だけど俺が姉さんのトクベツだと分かったことが、何よりも嬉しかった。
「だからね……もう少し、私の心の整理がつくのを待ってくれたら嬉しいかな」
「……ねぇ、それって」
唐突に姉さんの手が止まった。
「――!?」
視界が黒に染まる。
ふわりと香る、ぶどうの甘酸っぱい匂い。
自分のではない、だけど少し似た温度を唇に感じた。
「――そうだ。聞いて、ヒロ」
「な、なに?」
「夢の作文で思い出したんだけどね。アタシ、教師の他にもう一個だけ、違う夢を書いていたのよ」
別の夢……なんだろう?
「アタシ、大好物のローストビーフを作れる人と一緒に暮らしたいって言ったの。夢、知らないうちに叶っちゃったね」
――俺はたぶん、この人には一生かなわないだろうな。
姉さんの眩しい笑顔を見上げながら、俺はそんなことを考えていた。