あの後、流石に陽が落ちてきたので、ジョー先輩と学校で別れを告げて真っ直ぐ家に帰ってきた。
 自分の部屋に入ると、部屋着に着替えないまま思い切りベッドに飛び込む。そして、ポケットからジョー先輩と連絡先を交換したばかりのスマホを取り出した。特に何も考えないまま、『鳩羽慎之助』と検索する。
 
 鳩羽慎之助。日本を代表する有名作家の1人。「群青に飛ぶ」「木霊の温情」など、純粋無垢で清らかな文章を得意とし、数々の作品をこの世に送り出した。しかし、今から五年前に出版された「譲られる椅子なんていらない」を最後に、界隈から姿を消す。数多い読者らは、新作が出るのを今も待ち侘びている。

『ジョー先輩の言ってた『本』っていうのは、ジョー先輩自作の本のことなのかな。人のことはよくわからないからなんとも言えないけれど、やっぱり自分の父親に感化されて、とか。まあ、これだけ有名で偉大な父を持っていて、あれだけ純粋そう、というか抜けているジョー先輩のことだから、あり得そう』
 寝転がったまま、スマホの画面をスクロールした。
 
 鳩羽慎之助にはまだまだ明かされていない秘密が多くあり、姿や家族構成、年齢までもが非公開となっている。いつか、公開される日が来るのだろうか。その時には、世界はその話題で持ちきりになることは間違いないだろう。
 
 ぴろぴろぴろ、と急に電話がなった。噂をすれば、ジョー先輩からだ。
「……もしもし、名波です」
「あ、透であってる?よかったー」
 電話の奥から、ジョー先輩の柔らかくて気の抜けた声が響く。
「あのね、せっかく連絡先交換してもらったのに、どうやってメッセージ送ればいいのか分からなくなっちゃって。頑張って試行錯誤してたんだけど、面倒になったからそのまま電話しちゃったんだ。ごめんね」
 そんなところだろうと思った。心の中で小さくため息をつく。
「それで、どうされたんですか」
「ああ、そんな大層な話じゃないんだ。明日、うちに来てほしい、ってだけで」
「さっきの話、冗談じゃなかったんですね」
「うん、そうだよ。それで、明日都合が悪かったら、悪いなーと思って」
 ちょ、ちょっと、展開が早すぎませんか……?この前連絡先を交換したと思ったら、もうジョー先輩の家に向かう感じですか。
「い、いや、都合が悪いとか、そういうのはないんですけど、何故に……?」
「ああ、今日話した、本の表紙についての話をしたくてね。学校で話すのもあれだし、せっかくなら、と思ってさ」
「は、はあ……」
「やっぱり、無理そう?美味しいお菓子も用意しておくけど」
 そういう問題じゃないんだよな。え、だって、一応鳩羽慎太郎の息子でしょ。そんな安易に招待してもいいものなんだろうか。
「ほら、ジョー先輩のお父様とか、お仕事されてたら、なんか申し訳ないですし……」
「ああ、父のこと?全然気にしなくて大丈夫!大抵パチンコか競馬してるだけだからさ。昼間はいないんだ」
 ぱ、パチンコ……?私の聞き間違いだろうか。
「んで、明日はどうかな。学校から家までは僕が一緒に行くし、帰りも透の家まで僕が送っていくからさ」
「あ、じゃあ、行きます……」
「了解!明日のホームルームが終わったら、美術室で待ってて」
「わかりました。では、失礼します」
「はーい、じゃあね」
 スマホを耳から話すと、電話をぷつりと切った。
 あの、鳩羽家って、一体どうなっているんだ……。鳩羽慎之助が賭け事?あんなにも純粋な文章を書く人が、しているものなのか。文章とは裏腹に、真実はわからないものなんだな。
 スマホの画面を閉じると、私はベッドの上から起き上がって勉強机の前の椅子にどかっと座った。明日の授業の最低限の予習くらいはしておかないと。今度こそ、問題を一問たりとも間違えないように。完璧であり続けられるようにしなければ。
 鞄の中から、わざわざ学校から持って帰ってきた教材を机の上に置く。突然、軽かったはずの心にどしりと重りが乗っかったような気がした。
『ううん。こんなこと、思ってる暇なんてない。今のうちにたくさん努力しておかなきゃ、鈍臭い私が、みんなに追いつけるはずなんてないんだから。とにかく、迷惑をかけないように。わかったなら、さっさとやらなきゃでしょ、私』
 無理やり意気込むと、私はペンケースからシャーペンを手に取り、握りしめた。


「透って、本当に真面目で頭いいよね。今度私にも勉強教えてよ」
「いや、全然真面目なんかじゃないよ。私だって、わからない問題ばっかりだし。さっきの授業の最後の問題だって、ちんぷんかんぷんだったし」
「そうなの、なんか意外だなー」
『どうだろう、今日は、当たり障りない会話が、ちゃんとできているんだろうか。表情だけじゃ、うまく読み取れないな。とにかく、必要なこと以上のことは言わないでおかなきゃ』
 4限目が終わって、昼休みに外で弁当を食べようと誘われたので、好意に甘えてついてきた。普段は教室で一人でさっさと済ませて次の授業の予習をしているが、今日は別にいいだろう。
「透って、いつも静かだしさ、どんな子なんだか初めは全然わかんなかったけど、めっちゃいい子じゃんね」
「ごめんね、私口下手だから、話しかけるのも苦手で」
「わかる、入学した直後とか、私も本当に話しかけられなかったー」
 お弁当を食べながら、当たり障りない話をひたすら繰り返す。だから、これと言って深い関係になれるわけでもないし、嫌われもしない。私は『本音を言いあえる友達』よりも、『もしもの時に助け合える関係性』がただ欲しかっただけなのだと思う。
「ところでさ、透って部活とか入ってるの」
「私は、美術部。中学の時にも入ってたから」
「へえ、んじゃ、めちゃくちゃ絵が上手いんだ」
「いや、全然。もっとうまい生徒は、わんさかいるし」
『あ、また否定から入ってしまった。自分から話繋げづらくしてどうするの。もう、本当に馬鹿』
「……あ、まあね、今度作品見せて!もしよければだけど」
 ほら、やっぱり。
 また自分の話の繋げ方のせいで、相手が困ってしまった。でも、私はこう話す以外に、どう会話を繋げればいいのかわからない。会話を繰り返していくたびに、どんどん自己嫌悪に落ちていく。
「うん、わかった」
「んじゃ、私、先生から手伝い頼まれてたの忘れてたから、先に戻るね。また後で!」
「う、うん、またね」
 いそいそと弁当を片付けると、その子は早足で離れて行った。すたすたと走り去る音が響く。せっかく誘ってくれたのに。結局私のせいで。
 膝に置いていた食べかけの弁当を見て、少し涙が滲む。もう食べる気にも慣れなくて、そのまま蓋をそっと閉じた。


 ホームルームも終わり、私は約束された通りに美術室の中でジョー先輩を待っていた。
 今日は土曜日授業だから、いつもよりも授業が終わるのが早い。他の生徒たちは、飛び出していくようにさっさと学校から出ていってしまった。
 静かになった校舎で、私はじっと外を見つめる。
『ジョー先輩は、なぜ私なんかにあの話を振ったのだろうか。絵のうまさだって微妙だし、もっと美しい絵を描く人だってたくさんいる。……私が頼まれたら断れない性格のことを、見抜いていたとか。いや、ジョー先輩に限って、それはないな。じゃ、なぜなんだろう』
 突然、美術室のドアが開いた。
「おく、れて、ごめ、んね、せん、せい、に、つか、まって、て」
「ジョー先輩!そんなに急がなくてもいいですから!それと、廊下は走らないでください」
 そういうと、ジョー先輩は肩を上下に揺らしながら、にこりと笑った。よくそんな呑気に笑えるものだ、と思う。
「でも、下に、車が、待ってて、くれてて、急いで、行かない、と」
「ダメです。とりあえずなんでもいいですから、休んでてください。ただでさえジョー先輩は細いのに、このままじゃ途中で折れそうです」
「そんな、こと、ない、よー、これでも、体育は、ギリギリ、二、だから」
「そんなに誇らしげに言わないでください!結構危ないです!」
 全く、とため息をつく。よくこの性格で、今まで生きてこられたものだ。
 それにしても、車が下で持っている、とは、どういうことなんだろう。やっぱり、有名作家の息子だけあって、高級車だったりとかするのだろうか。
 そんなことを思っているうちに、ジョー先輩がよろよろしながら立ち上がった。
「透、あんまり、待たせるのも、あれだし、早く、下に、いこう」
「いや、ジョー先輩明らかに瀕死じゃないですか。怪我しますよ」
「大丈夫、案外持久力は、あるんだ」
 ジョー先輩はにっと笑うと、私の腕を掴んだ。息切らしといて、どの口が言ってるんだ。
「ちゃんとついてきてね」
「ジョー先輩っ!?」
 ジョー先輩は一言そういうと、私の手を握ったまま、一目散に駆けていった。

「あの、急に、走り出して、急に、倒れるの、やめてもらえます?」
「あは、それは本当に、ごめん」
 ジョー先輩は、擦った足をさすると、あははと笑った。
 あの後、私の手を握ったジョー先輩は、一目散に昇降口へと駆け降りていった。そして、急いで靴に履き替え、いざ私の手を握り直して走り出そうとした矢先、ジョー先輩のスタミナが切れて、思いっきりその場ですっ転んだのだ。手を握られていた私もそのまま引かれて、瀕死のジョー先輩に追い討ちをかけるように被さって転んだ。幸い私自身は無傷だったが、私にのしかかられたジョー先輩は、しっかりのびきってしまったのだ。
「もう、危うくジョー先輩が私のせいで死んじゃう羽目になるところでした」
「いやいや、そんなに僕弱くないよー」
「どの口が言ってるんですか」
「あはは、ごめんごめん」
 ジョー先輩はぱんぱんと砂を払うと、よっこらせ、と立ち上がった。
「流石にもう転びたくはないし、すぐ近くだから、歩いていこうか」
「最初からそうしてください」
 
「ところで、その、車が待っている、というのは」
「ああ、僕の兄のだよ。仕事に行くついでに、僕の家に送ってくれることになってるんだ」
 ジョー先輩はそういうと、突然ぱっと指を指した。
「あ、あれが僕の兄の車だよ」
「え……軽トラ?しかも、荷物がたくさん乗ってる」
 ジョー先輩が指す車は、明らかにボロボロの軽トラだった。荷台にはたくさんの荷物が山積みになっており、かろうじて紐で支えられているが、揺れた衝撃で落ちてしまいそうだ。
「うん、かっこいいでしょ!軽トラ」
「いや、そうじゃなくて、そもそも定員二人まででは……?」
「ああ、荷台の隙間に隠れて乗るから、大丈夫!」
 ええ、と私は呆れた。そんなのでいいのか……。でも、せっかくのご厚意を断るのも申し訳ない。
「ほら早く早く!」
 結局、ジョー先輩に手を引かれて、軽トラのそばまで向かった。ジョー先輩は軽トラのそばまで行くと、こんこんと窓を叩いた。
「兄さん、遅くなってごめん。連れてきたよ」
 ジョー先輩は、軽トラの中に向かって話しかける。すると、くるくると窓を開けて日に焼けた、でも色素は薄い、ジョー先輩似の若い青年が現れた。ジョー先輩とは対照的に筋肉が至る所についていて、見るからに力が強そうだった。
「ジョー、遅かったな。兄さんも少し急いでるから、飛ばしても大丈夫か」
「うん、あでも、今日は僕だけじゃなくて、透も乗るから、安全運転で」
 ジョー先輩がそういうと、お兄さんは窓から少し顔を出して、ジョー先輩の後ろにいる私を見た。私はさっと会釈をする。
「ああ、昨日言ってたお嬢さんか。僕の弟に付き合ってもらって、すまないな。この車ももっといい車ならよかったんだが、仕事の途中でね。少しの間は、我慢をしておいてほしい」
「あ、いえいえ、こちらこそ、わざわざ送っていただけるなんて、恐縮です。私のことはお気になさらないでくださいっ」
 早口でそう言うと、ジョー先輩のお兄さんは、はは、と笑った。
「弟の友達とは思えないほどの礼儀の良さだな。これからも、弟のことを、よろしく頼むよ」
「あ、はいっ」
 そういうと、ジョー先輩のお兄さんは、ジョー先輩に向かって、
「お嬢さんを、いつもの荷台に乗せてあげてくれるか」
と明るく言った。
「うん、もちろん!透、こっちだよ」
 ジョー先輩は、私の手を握ると、荷台の上にひょいと乗った。私も手を引かれて、そのまま上に上がる。
「こっちの隙間。これ仕事の道具なんだけど、すごく頑丈だから、下に入れば安全なんだ。ここに入ってほしい」
 ジョー先輩に案内されるがまま、荷物の隙間に体を滑り込ませる。案外中は広くて、2人は余裕で入れる広さだ。
 ジョー先輩も後から入ると、軽トラの運転席に向かって、コンコンコンと叩いた。
「いつも、兄さんに乗せてもらってる時の合図。ちゃんと乗れたら、叩いて教えてるんだよ」
 わかったと言わんばかりに、軽トラは動き出した。ガタガタと揺れて乗り心地は良いとは言えないが、案外安定感はある。さすが軽トラといったところだろうか。
「なんか、小さい頃みた映画みたい」
「あ、透も同じこと思った?僕も毎回そう思ってる」
 ガタガタと揺られながら、私とジョー先輩は笑った。
「ところで、ジョー先輩」
「ん、何?」
「その、本というのは、なんなんですか」
「ああ、そういえば何も説明してなかったね」
 ジョー先輩はそういうと、私へしっかりと向き直した。思わず、私も息を呑む。
「僕が、有名作家の鳩羽慎之助の息子だって話は、前にしただろう。僕は、その影響もあって、幼い頃から文学に囲まれて生きてきたんだ」
 やっぱり、そうなんだ。環境がそうであれば、子供も感化されるというのは間違いじゃなかったみたい。
「それで、僕もそれなりに努力をしてきたわけなんだけど、ついに、僕も編集者さんが協力してくれることになってね、といっても父の協力があってのことなんだけど、小説を一つ、出版できることになったんだ」
 ジョー先輩は、誇らしげにそう語った。いや、親のコネをそんなに誇らしげに言われても……。
「あ、今絶対、絶対お前の実力だけじゃないでしょ、って思ったよね?でも、それは事実なんだよ。実際、僕はすごく恵まれているし、今こうしてここまで話が進んでいると言うのも、本当にすごいことだ。明らかに正当なやり方じゃないのはわかってる。でもね、実力があるかどうかは、読者が決めるものだと思ってるんだ。もちろん指標は必要だけれど、それを超越する力があれば、僕は」
 ここまで話して、ジョー先輩の口は止まった。
「……ま、まあとにかく、僕はね、僕を最大限に表現した一冊を作りたいんだ。それに、透が必要ってこと」
「でも、本って結局、中身が大事なわけですよね。私が表紙を描いたって、他の人が表紙を描いたって、何も変わらないんじゃないですか」
「いいや、違う」
 私の発した言葉を、ジョー先輩は塞いだ。
「もちろん、本の中身が素晴らしいことが前提だよ。でもね、それにプラス、人々の心を惹きつけ、印象付けられる表紙があったら?読んでくれるきっかけになるだけじゃない、読み終わった読者が、その表紙を見ることで思い出すんだ。まるで走馬灯のように、頭の中を駆け巡っていく。そんな表紙は、誰にだってかけるものじゃない。僕は、透だから、それができる気がしている」
 私、だから。何を根拠にそう言っているのか、全くわからない。けれど、不思議と嫌な気分は湧き上がってこなかった。
「今僕の家に、まだ未完成ではあるけど、原稿があるんだ。それに是非とも目を通して見てほしい。透の感じたことを教えて欲しいんだよ」
「……わかりました。とりあえず、確認、をしてからです」
「それは、オーケー、って解釈でいいのかな?」
「それはまだ言ってません」