「名波透」
「ーはい」
『私、今声変じゃなかったかな。裏返ってたりとか、声小さかったとか……。みんなから変な風に思われてないといいんだけど、でも、やっぱり不安……次は、もっとちゃんと、しっかりした声で、変に思われないように』
「ねえ、透。さっきの授業の先生、ホントムカついたよね。いくら先生だからって、あんた何様だよ」
「そうかな。私も、得意な先生じゃないけど、そこまでじゃ、ないかも」
『また濁して話をしちゃった。でも、本心なんか話してしまって、何かの拍子で流れてしまったり、たまたま先生が横通りかかった、とかしたら……なんとか、当たり障りない話し方をしなくちゃ』
「では、この問題を。名波さん、答えてください」
「あ、えと、132……です」
「あー、名波さん惜しいね。では、その後ろの新田さん」
『間違えてしまって、ごめんなさい、ごめんなさい。ここの問題、理解できてなかった。どうしよう、今日のミスは、私の警戒が怠りすぎていたからだ。家で、もっとちゃんと理解して、完璧な状態で授業に出られるようにしないと。もう、どうして自分はこんなに頭が悪いんだろう』
「あの、先生」
「え、なんですか。俺もう年で、ちっさい声聞こえないんだよ。もう少し大きい声で言ってくれるか」
『私のせいで、先生の機嫌を損ねてしまった。本当に、ごめんなさい。もっと気が利いていれば、もっと周りを見ていれば、簡単に予想できたはずなのに。なんでみんなできることは、私にはできないんだろう。もっともっと、もっと上手くやらなきゃ』
私、名波透(ななみ とおる)は、一言で言えば、ボンクラだ。
決して盛っている訳ではない。無能で、判断が遅くて、迷惑ばかりかける。その上、空回りは日常茶飯事だ。
会話すらも下手で、人に近づけないし、近づかれない。誰から見ても、傍迷惑な人間だった。
そんな中でも必死に中学校を耐え、高校進学をすることができたのは、「高校はもっと、心が楽になる」という勝手な想像があったからだ。違う環境、知らない人たちの中であれば、何かが少しでも変わる。変に気を使わずに済む。
実際、知り合いも誰もいない高校に進学したおかげで、クラス内での立ち位置も変わったし、多少なら友達と呼べるような関係もできた。その時点で、すでに結果は万々歳だった。
高校では中学の延長線で美術部に入部した。
これと言って、絵を描くのが好きなわけではない。昔、唯一褒められた経験があるのが、絵を描くことだったというだけだ。
自分の居場所を作らなければと考えた時に、自分の武器があった方が楽だと感じた。あまりに不純な理由だけれど、私にはこのくらいしか、することもなかった。
中学生の時と同様に、ろくに部員と会話を交わすことはない。
毎週火曜日と金曜日の放課後、適当に美術室に行って絵を描くだけだ。他の部員は暇を持て余して会話が盛り上がっている時もあったが、私はもちろんのこと、入れるはずもなかった。入るのも億劫だった。
入部して三ヶ月程、通学路に植っている紫陽花が咲き始めた頃だっただろうか。梅雨真っ只中で雨の降り続く、夕方。いつも物静かな先輩が、私の絵の前を通りかかった時に一度、話しかけられたことがある。
「綺麗……」
描いていた手を止め、思わず後ろを振り返る。
私の背後には、制服を綺麗に着こなしている男子が、まじまじと私の絵を見つめていた。色白い肌に細い線の体つきは、高校生とは思えない。
ちらりと上履きの色を確認すると、どうやら先輩のようだ。高校生とまでになると、学年の判別がなかなか付かない。
私は軽く会釈をした。
「君は、青が好きなんだね。神秘的だ」
青。
私は、その一言に反応した。
それは、私にとっては、特になんでもない色の一色に過ぎなかった。
絵を描くための画材で、三原色にも属する、代表的な色。これと言って、特別な何かもない。
けれど気づいた時には、いつもこの色を使っていた。
自分でもよくわからない。作ってきた作品全てが、青一色だった。
人物、動植物、風景までも、無意識のうちに青で埋め尽くされているのだ。
それ自体には自分ではあまり気にしていなかったのだが、その一言を聞いて自分でも少し疑問に思う。
しかし、自分ではいくら考えてもよく分からないままだった。
「青一色でも、こんなにも表現ができるのか。ついつい様々な色を使って表現しがちだけど、こんなにも広い世界が描けるなんて」
「あ、ありがとうございます。恐縮です」
『こんな返答で大丈夫だろうか。失礼にあたっていたらどうしよう。人は見た目では判断できないし、気を損ねてしまったりでもしたら……心配になってきた』
小さくそう呟いた。きっと聞こえるはずはない。いや、聞こえないでほしいと願った。
「恐縮、だなんて。この部室でそんな言葉が聞けるなんて、びっくりだな。なんせ、この部は学校一のゆる部なんだから」
柔らかい声を放つ先輩はそう言って笑った。思わず、視線を逸らす。どういう表情をすればいいのかわからない。
「お邪魔して、ごめんね。また君の絵、見にくる」
「え、はい……」
『気は損ねられていなかったみたい、よかった。でも、なんで私なんかに、話しかけたんだろう。そもそも、あんな先輩見たことない。先輩のお友達だろうか。それとも、ただの見学だったり。でも……』
変わらずしとしとと、雨は降り続いている。
でも、視線を少し上に上げると、晴れ間がちらりと見えた気がした。
学校からの帰り道、私はいつも駅でバスに乗って帰る。
いつものようにバスに乗り込み、一番後ろの隅の席に座った。ポケットからスマホを取り出すと、画面に指を当ててロックを解除する。
そして、アプリをそっとタップした。いつもの私のアカウントが表示される。今日帰りがけに撮った絵を探して添付すると、そのまま投稿ボタンをタップする。
タイムラインの1番上に、自分の絵が表示された。もはやうざったいほどの、青の画面。
私にとってはもはや、ただ上げるだけの作業と化していた。
特に、SNSに興味があったわけではない。けれど、どこか寂しさを感じていた。
誰にも見られずとも、ここに私の一部である絵を載せているだけでも、どこかコミュニティに混ざれているような気がするのだ。……単刀直入に言えば、承認欲求だ。
ほとんどいいねがつくこともない、私のアカウント。
私はそっとスマホの画面を閉じると、また制服のポケットにしまい直した。
あの先輩に会ってから、一ヶ月が経った。その先輩には顔を合わせていない。
あの言葉は、やはり気を遣っただけの、嘘だったんだろう。
『純粋に期待して、馬鹿みたい。そりゃ誰だって、忙しいに決まってる。わざわざ絵を観にくるだけに、足を運ぶなんて面倒なことをする物好きなんてなかなかいないし。ああ、本当に期待してた自分がアホで仕方がない。いちいち感情に流されたって、いいことなんかないのに』
電光石火の如く、目まぐるしく頭の中を言葉が駆け巡る。
まとまりのない、ぐちゃぐちゃの言葉の羅列。そんなことを考えているくらいだったら、もっとできることがあるはずなのに。何をしても、考えても、自己嫌悪に陥る。泥沼へ滑り落ちて、どんどん沈んでいくかのようで重苦しい。
『あの先輩だって、少しでも期待をさせた時点で、私を傷つけた理由になるのではないのか。そう、先輩だって悪いのに。……いや、違う。これは、私が勝手に考えている妄想だ。きっとそんなこと、もう覚えていないだけなんだ。なんで私は、いつもいつも悪い方に考えてしまうんだろう。相手にとっても私にとっても、いいことなんてないのに。なんとか自分の都合のよい方に持って行こうとしたって、意味なんかないのに。……本当に、自分のことが嫌い』
「先生、俺描き上がったんで、今日は早めに切り上げて帰りますね」
急に、他の部員の声がした。
はっと顔を上げると、私は美術室のいつもの席で鞄を開けたまま椅子に座り込んでいた。考え事をしすぎて、何も手に付けられていなかったようだ。気がつけば、部室にはその部員と先生しかいなくなっている。急いで時間を確認すると、まだ帰るには全然早い時間だった。
「はーい、お疲れ様。また来週ね。……名波さんは、まだ描いていく?」
他の部員に声をかけた顧問の先生が、忙しそうに資料をまとめながら私に聞いた。
「あ、はい……もう少し、やっていきます」
「わかった。あと、お願いがあるんだけど、先生、これから会議があってね、この部屋に戻って来れなさそうなの。鍵はここにう置いておくから、切り上げたら戸締りをして、職員室に鍵を戻しに来てくれないかな」
「は、はい、わかりました」
「ありがとうね。じゃあ、また来週ねー」
先生はそう言って私の前の机に鍵を置いて行くと、いそいそと美術室を後にした。
その途端、部室は静寂に包まれる。
私は座っていた椅子から立ち上がると、年季の入った水道の脇、ぽたぽたと水を滴らせている筆洗に手に取った。洗い終わったばかりなのだろう、絵の具の洗い残しは目立つが、まあ問題は無い。それよりも、こんな状態で帰っちゃ、先生に後で文句言われるよ、という感情しか思い浮かばなかった。
蛇口の真下に筆洗を置くと、慎重につまみを捻った。
その瞬間、勢いよく飛沫をあげて、水は筆洗の底を這い上がった。そして筆洗に添えていた袖に思い切り降りかかる。
それは綺麗な弧を描き、びちゃびちゃと音をたてて溢れ出した。
ああ、失敗した。毎回のことだけれど、この蛇口はいつになっても慣れない。
少し緩めただけでも竜の如く溢れてくる水には、どうにも私には扱いきれなかった。
『どうしよう、大丈夫かな。……怒られたりしないだろうか。不器用だから。鈍臭い、とか。何か言われたときの、理由を考えなきゃ……。』
勢いよく蛇口から溢れ続ける水をびしょびしょに濡れてしまった右手で急いで止めると、辺りはまた一気に静まり返った。ふと窓に視線をやると、日がもう沈みかけている。どこか、遠くに響いているサイレンの音と、初夏の生ぬるい風の音以外には私の耳には入ってこなかった。
水を入れた筆洗の縁を掴む。
古びた美術室の窓側、後ろから三番目の特等席。西日ちょうど入らないこの席に、歩みを進めた。
乱雑に広げられた画材の横に、水の滴る筆洗を置く。ちゃぷん音をたて、水が四方に飛び散った。
それでもお構いなしに、私は画材を広げる。
『今日は何を描こう、なんて、考えるまでもない。』
もったいなくて、パレットに残したままだった絵の具に、水をたっぷりと浸した筆でその表面をつっとなでる。少し溶けて筆についたそに色を、私はいつものように、紙に滑らせた。ただ一本の、線。
ふと、目を視線を向けた。机の上に散らかされたままの、よく見るブランドの絵の具の一つ。ぱんぱんに詰まっている他の絵の具達とは対照的に、折り曲げられ絞られた跡ばかりの汚らしい姿。チューブの口から漏れた絵の具が、至る所にこびりついている。もう殆ど絵の具は無くなったというのに、捨てるのを忘れていた。
『なんか、馬鹿みたい。こんな絵の具にも、情が湧いてるなんて。いつもの通り、無意識のうちにやれば良かった。』
目を逸らすように、鞄からイヤホンを取り出した。ケースから取り出すと、ねじ込むように耳に突っ込む。制服のポケットから、音楽を聴くくらいにしか使わないスマホを取り出し、何を考えるもなくいつものプレイリストをタップする。
その瞬間、外の音は全てシャットダウンされた。発せられる音が、じんじんと全身を駆け巡っていく。
『……落ち着かない。』
耳の奥底に響く、身体全体を震わすような重低音。まるで、自分を逃すまいとしているようだ。
一つ、塞がった。
再び、身体をキャンバスに向ける。筆洗の上に置いたままだった筆を手に取り、線が一本引かれただけの無機質な紙面に当てた。
じわりと滲む。何を考えるまでもなく、筆をそっと滑らせた。
点、線、曲線、色の重なり合い。そんなのは、一切意識していない。ただ、塞げられれば、それでいいのだ。
キャンバスに集中すれば、視覚、触覚を、イヤホンで聴覚を塞ぐことができる。余計なことを感知するものが減るだけで、私の心は自然と休まっていった。
「……本当に綺麗だ。前見た時から、ずっと変わっていない」
騒がしい音楽の奥から、柔らかいあの声が聞こえる。でも、きっと幻聴だろう。いまだに少しでも期待してしまっている自分に、もはや呆れるばかりだ。今は、早く書き上げることだけに集中したい。
「これは……この部屋の風景かな。青は寒色だし無機質な風景なのに、どこか温かみを感じる。懐かしいような感じ」
そんなこと深いこと、考えて描いてない。ただ今見える風景を、そのままキャンバスに投影しているだけ。
「君の描く絵は本当に秀麗だ。何度見ても、感服する」
「……私は、あなたが思っているほど、感じてもいないし考えてもいないですから」
ぽつりと呟いた。幻聴に対した、ちょっとした反論だった。これで、騒がしい声も消える。私の邪念も消えるはずだ。
「そうかな、僕には君の心の様が投影されているように見える」
また、声が聞こえる。……、もしかして。
キャンバスに向かっていたてを止め、視線を少し横にずらす。
「え……」
そこには、いるはずのないあの先輩の姿があった。私は急いで耳にはめていたイヤホンを外すと、先輩の顔をまじまじとみた。この時期になってもまだあの色白い肌はそのままで、窓から差し込む夕陽に照らされた姿は、以前は気づかなかった先輩の顔立ちの良さをより際立たせている。
「あれ、ずっと気づいてると思ってたけど、違ったかな。また驚かせちゃったね」
「なんで……突然」
「なんで、って。もう覚えてないかもだけど、僕、君に言ったんだ。また絵を見にくるね、って」
『覚えてるよ、私もその言葉。その言葉にずっと翻弄されてたなんて、口が裂けても言えないけど。…でも、先輩は忘れていたわけじゃなかったのか。余計に、ずっと考えてた自分が馬鹿に思えてきたな。本当、恥ずかしい……』
先輩はにこりと微笑みながら、絵に歩み寄った。
「君の絵、とても緻密で繊細だ。ただの風景画じゃ現れない、日常の一つ一つを捉えられている。例えば、机の描写とか、どんな人がどういうふうに使ったのかな、今までどのくらいの人が使って、受け継がれていったのかなって想像が自然と湧き上がってくる」
「そ、そんなことないですよ。ただの模写ですし……」
「いいや、君の絵には、それだけの力があるんだ」
『い、いや、力って……。この先輩、見た目に反して案外ポエマーだったりとかするのかな。ちょっと失礼に当たるかもしれないけど、いまいちよくわかんないっていうか……。い、いやいや、私ごときが何を言ってるんだろう、色々と申し訳なくなってきた』
すると、先輩が急に私の手を握った。私は思わず困惑する。何がどうなったらこうなるのか。もしかして、先輩は顔立ちがいいことを理由にして私を貶めようとでもしているのか……。
「あのさ、君にお願いがあるんだけど、いいかな」
「あ、は、はい……」
『何引っかかってるの、私!……よくわかってないのに、すぐ返事をするのは、流石に良くないって。でも、頼まれたら断れないし。機嫌を損ねさせるくらいなら、聞くだけ聞いて見た方がいいのかな。でも、面倒ごとは嫌だ……』
「あのね、僕の本の表紙を飾ってくれないかな」
「……え」
想像の斜め上をいく回答だった。本の表紙、ってなんの本なのか。というか、この先輩何故で私にこの話を……。なんの説明もなさすぎて、頭が追いつかない。
「すぐに決めなくていいから。あ、受けてくれるにもくれないにも、連絡先くらいは交換しとかなきゃだよねー」
先輩はそういうと、制服のポケットからスマホを取り出した。つられて私もスマホを取り出す。
『どうなろうとも、とりあえず今は先輩の流されるままにした方が賢明かもしれない。その後のことは、後で考えなきゃな……』
「あ、あれ、連絡先の交換、ってどうやってやるんだったかな。前教えてもらったはずなんだけど」
先輩が突然、スマホの画面をいじりながらうんうん唸り始めた。
「…あ、あの、大丈夫ですか」
「あ、ごめんね。まだ全然慣れてなくて……、僕から交換しようって言っといてあれなんだけど、知ってたら教えてくれないかな」
この先輩、私が悩む以前に、想像以上に抜けている人かもしれない。
「じゃ、じゃあ、私がやりますから、端末、少し貸していただけませんか」
「ありがとう、助かるよ」
先輩はそう言って、私の手にスマホを寄越した。大切に受け取り、先輩のスマホの画面をスクロールする。
……メッセージアプリ自体は、ちゃんと入っているようだ。私はアプリを起動させると、自分の連絡先を先輩のスマホに追加した。
ぴろぴろと登録完了通知音が鳴る。
「……先輩、できました」
「感謝です」
私は新しく追加された、先輩の連絡先を見る。
『あ、先輩の名前……』
「ーそういえば、僕の名前、なんだかんだで言ってなかったよね」
先輩はにこにこしながら、無事に私の連絡先が追加された画面を見つめた。
「ちゃんと自己紹介するね。僕は、二年の鳩羽譲之助(はとば じょうのすけ)。名前の画数とか文字数多いから、みんなジョーって呼んでる」
鳩羽譲之助と名乗る先輩は、微笑みながら私を見つめた。
「一度は聞いたことあるんじゃないかな、『鳩羽慎之助』って」
「鳩羽慎之助……、もしかして、有名小説家の?」
鳩羽慎之助は、日本の誇る、超有名作家だ。数々の名作を世に送り出し、海外でも未だに注目を集めている。しかし、五年程前に突然、界隈から姿を消した。
「そう、正解!僕はその、『二世』ってわけ」
思わず驚愕した。このいかにも抜けている先輩が、鳩羽慎之助の息子……なのか。
「まあ、他の友達には、一切話したことないんだよねー。うちに大量に人が押しかけてこられても困るしさ」
「じゃあ、なんで私に軽々しく、こんなこと……」
まだ会って間もないし、素性もしれない私なんかに。先輩は私が情報を流すリスクは想定していないのだろうか。
「そんなの、決まってるでしょ。君を、逃さないため、だよ」
先輩は私に顔を近づけると、さらににっと笑った。
「に、逃さないため、って、何を言ってるんですか」
「だって、今君は僕の秘密を聞いてしまった。つまり、もう僕と君はこの学校にいる誰よりも親密な関係になったってことだ。つまり、君は僕のお願いからは逃げられないし、僕も君を絶対に忘れない」
唖然とする。一体どういう論理でそうなるのか。あまりの抜け具合に、もはや言葉も出ない。
「……つまり、私は先輩の本の表紙を描く、というお願いからは、もう逃れられないということですか」
「そういうこと!」
私は思わずため息をついた。いまいちまだよくわかっていないが、あまりにも無理やり過ぎる。でも、不思議と嫌悪感は感じなかった。
「あ、君の名前、聞いてなかったね。なんて言うの?」
「……名波透です。一年の」
「え、君、二年とか三年じゃなかったの。めちゃくちゃ大人びてるんだな」
「逆に先輩が幼く見え過ぎなんですよ」
「もー、それはひどいな!」
「あ、すみません……」
『まずい、口が滑った。先輩の機嫌を損ねてしまったよね、絶対……どうしよう、絶対私のせいだ』
「いや、まあもうかれこれ十七年もこの身体と付き合ってきてるし、案外気に入ってるんだけどね。ほら、側から見れば、案外僕の容姿っていいらしいじゃん」
先輩は、ははと笑うと、私の耳元で言った。
「そんなこと、気にしなくても全然大丈夫。君の本音のかけらが、やっと聞けてよかった」
本音……。
「あ、僕のことは、『先輩」じゃなくて、『ジョー』って呼んでよ。なんか、先輩って堅苦しい感じがして、あれなんだよね」
いや、そんなこと言われても、一応先輩だし。
「じゃあ、ジョー先輩、で……」
「うーん、ギリギリ合格!」
あれからというもの、ジョー先輩は毎回のように、部活を覗きにやってきた。
そして、私のいる机へと駆け寄ってきて、じっと描く姿を見つめてくるのだ。何を話しかけるもなく、じっと。たまにメモ帳に何か書いている音が聞こえるくらいだ。私の集中力がを妨げないようにしてくれているんだろうけど、逆に落ち着かない。
でも、これでも一応先輩なんだから、イヤホンをつけるのはどうかと思って、ずっとなんとなく気まずい時間が続いていた。
そして私が帰る準備を始めると、ジョー先輩も鞄を背負って、少し先に部室を出る。私が出てくるといつも待ち構えていて、そのまま駅まで、今日の私の絵の感激したところを永遠と話されるのだった。案外、悪い気はしなかったけど。
初めは他の部員のみんなも特に触れることはなかったけど、さすがに何度もとなると少しずつ気になってはくるようだった。
それに足して、最近はこんなことまで起こるようになった。
「鳩羽くん、興味があるなら入ってみない?絵の上手さとか、あんまり関係ないからさ!」
「こんなに来てくれるってことは、もう入部するってことなんですか、先輩!」
私はあまり気にしていなかったけれど、ジョー先輩は一応美形の部類で、気がついたら女子が周りに集まってくるのだ。それにあの性格だから余計に母性本能でもくすぐるのだろうか、男子や先生、誰彼構わず、人が集まってくるのだった。
こういう人って、いるよね、たまに。
「鳩羽さんもせっかくだし、一枚描いてみたらどう。何事も挑戦が大切よ」
「先生、ありがとうございます。でも僕、本当に壊滅的に絵を描くことが苦手で。書道ならまだ、いいんですけどね」
「書道だって、芸術の一環よ。墨汁と筆は、流しの奥の棚に両方とも入ってるから。好きに使っていって」
「ありがとうございます。では、ご厚意に甘えて」
ジョー先輩がそういうと、周りにいた部員たちがみんなして、
「鳩羽くんはそこで待ってて。すぐ持ってくるから」
と棚に向かっていった。それを、ジョー先輩は少し申し訳なさそうに笑っている。
「……あの、ジョー先輩」
「なあに、透」
「ジョー先輩の周り、たくさん人も集まってますし……。私、移動しますね」
そういうと、私は静かに荷物をまとめ始めた。
『何せ、あんなに気まずい空間にこれ以上いられるわけないし。それに、ジョー先輩はいつもいつもひっついて回ってくるから、あれだけの追っかけがいるとなると、何を思われてるか、計り知れたものじゃないし……』
「ちょ、ちょっとそれは、本末転倒じゃない?」
私の言葉を聞いたジョー先輩は、私の袖をきゅっと掴んだ。
「本末転倒も何も……私がここにいると、みんなが迷惑ですよ。そうまでして、ここにいなくちゃいけない理由もないですしね」
「そんな、」
「鳩羽くーん、ここに墨汁おけばいいかな?半紙何枚くらい必要?」
書道の用具を手に持った女子生徒が、ジョー先輩の声を遮った。
「あ、ああ、数枚で大丈夫。僕、そんなに集中続かないからさ」
「えー、そんなことないですよ。一応、予備も持って行きますね」
そんな声をよそに、私はまとめ終わった荷物を持って、廊下側の席へと移動した。
「あ、透ー」
ジョー先輩がそう言いかけたのが聞こえたが、そんなの、きっとジョー先輩もすぐに忘れてしまうだろう。
私は、再びパレットと筆を持って、さっきと同じはずのキャンバスに向かう。
何も変わらないはずなのに、一向に筆が動かなかった。
横目でちらりと、私のいつもいる席を見つめる。そこには、数人の生徒がぐるりと一周するようにジョー先輩を取り囲んでいて、その真ん中でジョー先輩は一生懸命に取り組んでいた。
私が、あの場に残っていなくてよかった。そう思っていた矢先、ジョー先輩の周りにいた生徒がわっと歓声をあげた。
「なになに、鳩羽さん、上手く書けた?」
大机で作業していた先生も、一度手を止めて歓声のあった方向へと向かう。
「鳩羽先輩、すごく文字が綺麗。どこかで習ってたんですか?」
「いやいや、普段から人より少しだけ筆を使う時間がある、ってだけだよ」
「それにしてもすごいね、鳩羽くん。こんなに自分の名前をかっこよく書けるって、羨ましい」
先生が掲げたジョー先輩の文字は、自身の名前を大きく行書で書いたものだった。
そういえば、ジョー先輩の名前は、鳩羽譲之助。字体からして、強さが滲み出ている。
私は今日は流石に集中できる気がしなくなって、持っていた筆を軽く洗った。筆洗をすすいで、元の場所にちゃっちゃと戻すと、描いていた絵と画材を棚にしまった。地面に置きっぱなしにしていた鞄を背負う。
「先生、今日は早めに切り上げて帰りますね」
「あ、はーい、気をつけてね。鳩羽さん、ますます、美術部に入ってくれればいいのに」
先生すらも、ジョー先輩に気を取られている。でも、そんなことはどうでもいい。
私は部室の扉をガラガラと開けて出ると、静かな廊下を一人、早足で歩いた。
最近は、ジョー先輩が付きまとうせいで、一人で帰るのは久しぶりかもしれない。別に当たり前のことだったのに、何だか今日はいつもよりも余計に静寂なように感じた。
階段を下まで降りると、下駄箱で外履きに履き替えた。いつもはこんなに時間をかけない。なるべく早いバスに乗るために、一秒も惜しまないようにしているのだ。でも、今日はどのみち早く出てきたし、そこまで急ぐ気持ちにもなれなかった。
踵までしっかり履けたことを確認すると、鞄を持ち直して昇降口を出た。
『今日は、帰る前に少し画材屋へ寄っていこうかな。絵の具は買い足したばかりだけど、もっと色味の違うものを買ってみてもいいかもしれない。お小遣いは最近ほとんど使ってなかったから、特にお金の心配をすることもないし』
「ー透!」
突然、ジョー先輩の声が聞こえた。幻聴か、いやでも……。
後ろを振り返ると、案の定、靴をうまく履けずに突っかかったままのジョー先輩が、焦った顔で私を見つめていた。鞄は片方の肩にしかかかっていないし、急いで走ってきたのだろう、胸は上下に動いている。
「どうしたんですか、そんなに急いで……」
「なんで置いていくの、透!」
ジョー先輩は、息を切らしながらそう言った。
「なんでって……私は今日早く切りあげたかっただけで、これと言って特に理由は」
「僕だって一生懸命追っかけてきたのに、すたすた先行っちゃうし」
「……だって、ジョー先輩のお邪魔したくありませんでしたし。ジョー先輩だって、私が作品に取り組んできるときは、一切手を出してこないじゃないですか」
「そ、それとこれは違う!……今日は、僕が悪かったよ。次からは、しっかり透の作品だけを見つめてる。約束するよ」
「何を勘違いしてるんですか。見つめないでください!あと、ジョー先輩は飽きずにずっと、私のところに来るんですか」
ジョー先輩は、持っていた鞄を背負い直した。
「だって、興味があるんだもん。僕の創作意識も湧くしね」
「ー『本』ですか」
「うん、そう。あ、そうだ、僕ばっかり一方的に透に期待するのもアレだし、僕の家においでよ」
「ジョー先輩の、家、ですか」
「ーはい」
『私、今声変じゃなかったかな。裏返ってたりとか、声小さかったとか……。みんなから変な風に思われてないといいんだけど、でも、やっぱり不安……次は、もっとちゃんと、しっかりした声で、変に思われないように』
「ねえ、透。さっきの授業の先生、ホントムカついたよね。いくら先生だからって、あんた何様だよ」
「そうかな。私も、得意な先生じゃないけど、そこまでじゃ、ないかも」
『また濁して話をしちゃった。でも、本心なんか話してしまって、何かの拍子で流れてしまったり、たまたま先生が横通りかかった、とかしたら……なんとか、当たり障りない話し方をしなくちゃ』
「では、この問題を。名波さん、答えてください」
「あ、えと、132……です」
「あー、名波さん惜しいね。では、その後ろの新田さん」
『間違えてしまって、ごめんなさい、ごめんなさい。ここの問題、理解できてなかった。どうしよう、今日のミスは、私の警戒が怠りすぎていたからだ。家で、もっとちゃんと理解して、完璧な状態で授業に出られるようにしないと。もう、どうして自分はこんなに頭が悪いんだろう』
「あの、先生」
「え、なんですか。俺もう年で、ちっさい声聞こえないんだよ。もう少し大きい声で言ってくれるか」
『私のせいで、先生の機嫌を損ねてしまった。本当に、ごめんなさい。もっと気が利いていれば、もっと周りを見ていれば、簡単に予想できたはずなのに。なんでみんなできることは、私にはできないんだろう。もっともっと、もっと上手くやらなきゃ』
私、名波透(ななみ とおる)は、一言で言えば、ボンクラだ。
決して盛っている訳ではない。無能で、判断が遅くて、迷惑ばかりかける。その上、空回りは日常茶飯事だ。
会話すらも下手で、人に近づけないし、近づかれない。誰から見ても、傍迷惑な人間だった。
そんな中でも必死に中学校を耐え、高校進学をすることができたのは、「高校はもっと、心が楽になる」という勝手な想像があったからだ。違う環境、知らない人たちの中であれば、何かが少しでも変わる。変に気を使わずに済む。
実際、知り合いも誰もいない高校に進学したおかげで、クラス内での立ち位置も変わったし、多少なら友達と呼べるような関係もできた。その時点で、すでに結果は万々歳だった。
高校では中学の延長線で美術部に入部した。
これと言って、絵を描くのが好きなわけではない。昔、唯一褒められた経験があるのが、絵を描くことだったというだけだ。
自分の居場所を作らなければと考えた時に、自分の武器があった方が楽だと感じた。あまりに不純な理由だけれど、私にはこのくらいしか、することもなかった。
中学生の時と同様に、ろくに部員と会話を交わすことはない。
毎週火曜日と金曜日の放課後、適当に美術室に行って絵を描くだけだ。他の部員は暇を持て余して会話が盛り上がっている時もあったが、私はもちろんのこと、入れるはずもなかった。入るのも億劫だった。
入部して三ヶ月程、通学路に植っている紫陽花が咲き始めた頃だっただろうか。梅雨真っ只中で雨の降り続く、夕方。いつも物静かな先輩が、私の絵の前を通りかかった時に一度、話しかけられたことがある。
「綺麗……」
描いていた手を止め、思わず後ろを振り返る。
私の背後には、制服を綺麗に着こなしている男子が、まじまじと私の絵を見つめていた。色白い肌に細い線の体つきは、高校生とは思えない。
ちらりと上履きの色を確認すると、どうやら先輩のようだ。高校生とまでになると、学年の判別がなかなか付かない。
私は軽く会釈をした。
「君は、青が好きなんだね。神秘的だ」
青。
私は、その一言に反応した。
それは、私にとっては、特になんでもない色の一色に過ぎなかった。
絵を描くための画材で、三原色にも属する、代表的な色。これと言って、特別な何かもない。
けれど気づいた時には、いつもこの色を使っていた。
自分でもよくわからない。作ってきた作品全てが、青一色だった。
人物、動植物、風景までも、無意識のうちに青で埋め尽くされているのだ。
それ自体には自分ではあまり気にしていなかったのだが、その一言を聞いて自分でも少し疑問に思う。
しかし、自分ではいくら考えてもよく分からないままだった。
「青一色でも、こんなにも表現ができるのか。ついつい様々な色を使って表現しがちだけど、こんなにも広い世界が描けるなんて」
「あ、ありがとうございます。恐縮です」
『こんな返答で大丈夫だろうか。失礼にあたっていたらどうしよう。人は見た目では判断できないし、気を損ねてしまったりでもしたら……心配になってきた』
小さくそう呟いた。きっと聞こえるはずはない。いや、聞こえないでほしいと願った。
「恐縮、だなんて。この部室でそんな言葉が聞けるなんて、びっくりだな。なんせ、この部は学校一のゆる部なんだから」
柔らかい声を放つ先輩はそう言って笑った。思わず、視線を逸らす。どういう表情をすればいいのかわからない。
「お邪魔して、ごめんね。また君の絵、見にくる」
「え、はい……」
『気は損ねられていなかったみたい、よかった。でも、なんで私なんかに、話しかけたんだろう。そもそも、あんな先輩見たことない。先輩のお友達だろうか。それとも、ただの見学だったり。でも……』
変わらずしとしとと、雨は降り続いている。
でも、視線を少し上に上げると、晴れ間がちらりと見えた気がした。
学校からの帰り道、私はいつも駅でバスに乗って帰る。
いつものようにバスに乗り込み、一番後ろの隅の席に座った。ポケットからスマホを取り出すと、画面に指を当ててロックを解除する。
そして、アプリをそっとタップした。いつもの私のアカウントが表示される。今日帰りがけに撮った絵を探して添付すると、そのまま投稿ボタンをタップする。
タイムラインの1番上に、自分の絵が表示された。もはやうざったいほどの、青の画面。
私にとってはもはや、ただ上げるだけの作業と化していた。
特に、SNSに興味があったわけではない。けれど、どこか寂しさを感じていた。
誰にも見られずとも、ここに私の一部である絵を載せているだけでも、どこかコミュニティに混ざれているような気がするのだ。……単刀直入に言えば、承認欲求だ。
ほとんどいいねがつくこともない、私のアカウント。
私はそっとスマホの画面を閉じると、また制服のポケットにしまい直した。
あの先輩に会ってから、一ヶ月が経った。その先輩には顔を合わせていない。
あの言葉は、やはり気を遣っただけの、嘘だったんだろう。
『純粋に期待して、馬鹿みたい。そりゃ誰だって、忙しいに決まってる。わざわざ絵を観にくるだけに、足を運ぶなんて面倒なことをする物好きなんてなかなかいないし。ああ、本当に期待してた自分がアホで仕方がない。いちいち感情に流されたって、いいことなんかないのに』
電光石火の如く、目まぐるしく頭の中を言葉が駆け巡る。
まとまりのない、ぐちゃぐちゃの言葉の羅列。そんなことを考えているくらいだったら、もっとできることがあるはずなのに。何をしても、考えても、自己嫌悪に陥る。泥沼へ滑り落ちて、どんどん沈んでいくかのようで重苦しい。
『あの先輩だって、少しでも期待をさせた時点で、私を傷つけた理由になるのではないのか。そう、先輩だって悪いのに。……いや、違う。これは、私が勝手に考えている妄想だ。きっとそんなこと、もう覚えていないだけなんだ。なんで私は、いつもいつも悪い方に考えてしまうんだろう。相手にとっても私にとっても、いいことなんてないのに。なんとか自分の都合のよい方に持って行こうとしたって、意味なんかないのに。……本当に、自分のことが嫌い』
「先生、俺描き上がったんで、今日は早めに切り上げて帰りますね」
急に、他の部員の声がした。
はっと顔を上げると、私は美術室のいつもの席で鞄を開けたまま椅子に座り込んでいた。考え事をしすぎて、何も手に付けられていなかったようだ。気がつけば、部室にはその部員と先生しかいなくなっている。急いで時間を確認すると、まだ帰るには全然早い時間だった。
「はーい、お疲れ様。また来週ね。……名波さんは、まだ描いていく?」
他の部員に声をかけた顧問の先生が、忙しそうに資料をまとめながら私に聞いた。
「あ、はい……もう少し、やっていきます」
「わかった。あと、お願いがあるんだけど、先生、これから会議があってね、この部屋に戻って来れなさそうなの。鍵はここにう置いておくから、切り上げたら戸締りをして、職員室に鍵を戻しに来てくれないかな」
「は、はい、わかりました」
「ありがとうね。じゃあ、また来週ねー」
先生はそう言って私の前の机に鍵を置いて行くと、いそいそと美術室を後にした。
その途端、部室は静寂に包まれる。
私は座っていた椅子から立ち上がると、年季の入った水道の脇、ぽたぽたと水を滴らせている筆洗に手に取った。洗い終わったばかりなのだろう、絵の具の洗い残しは目立つが、まあ問題は無い。それよりも、こんな状態で帰っちゃ、先生に後で文句言われるよ、という感情しか思い浮かばなかった。
蛇口の真下に筆洗を置くと、慎重につまみを捻った。
その瞬間、勢いよく飛沫をあげて、水は筆洗の底を這い上がった。そして筆洗に添えていた袖に思い切り降りかかる。
それは綺麗な弧を描き、びちゃびちゃと音をたてて溢れ出した。
ああ、失敗した。毎回のことだけれど、この蛇口はいつになっても慣れない。
少し緩めただけでも竜の如く溢れてくる水には、どうにも私には扱いきれなかった。
『どうしよう、大丈夫かな。……怒られたりしないだろうか。不器用だから。鈍臭い、とか。何か言われたときの、理由を考えなきゃ……。』
勢いよく蛇口から溢れ続ける水をびしょびしょに濡れてしまった右手で急いで止めると、辺りはまた一気に静まり返った。ふと窓に視線をやると、日がもう沈みかけている。どこか、遠くに響いているサイレンの音と、初夏の生ぬるい風の音以外には私の耳には入ってこなかった。
水を入れた筆洗の縁を掴む。
古びた美術室の窓側、後ろから三番目の特等席。西日ちょうど入らないこの席に、歩みを進めた。
乱雑に広げられた画材の横に、水の滴る筆洗を置く。ちゃぷん音をたて、水が四方に飛び散った。
それでもお構いなしに、私は画材を広げる。
『今日は何を描こう、なんて、考えるまでもない。』
もったいなくて、パレットに残したままだった絵の具に、水をたっぷりと浸した筆でその表面をつっとなでる。少し溶けて筆についたそに色を、私はいつものように、紙に滑らせた。ただ一本の、線。
ふと、目を視線を向けた。机の上に散らかされたままの、よく見るブランドの絵の具の一つ。ぱんぱんに詰まっている他の絵の具達とは対照的に、折り曲げられ絞られた跡ばかりの汚らしい姿。チューブの口から漏れた絵の具が、至る所にこびりついている。もう殆ど絵の具は無くなったというのに、捨てるのを忘れていた。
『なんか、馬鹿みたい。こんな絵の具にも、情が湧いてるなんて。いつもの通り、無意識のうちにやれば良かった。』
目を逸らすように、鞄からイヤホンを取り出した。ケースから取り出すと、ねじ込むように耳に突っ込む。制服のポケットから、音楽を聴くくらいにしか使わないスマホを取り出し、何を考えるもなくいつものプレイリストをタップする。
その瞬間、外の音は全てシャットダウンされた。発せられる音が、じんじんと全身を駆け巡っていく。
『……落ち着かない。』
耳の奥底に響く、身体全体を震わすような重低音。まるで、自分を逃すまいとしているようだ。
一つ、塞がった。
再び、身体をキャンバスに向ける。筆洗の上に置いたままだった筆を手に取り、線が一本引かれただけの無機質な紙面に当てた。
じわりと滲む。何を考えるまでもなく、筆をそっと滑らせた。
点、線、曲線、色の重なり合い。そんなのは、一切意識していない。ただ、塞げられれば、それでいいのだ。
キャンバスに集中すれば、視覚、触覚を、イヤホンで聴覚を塞ぐことができる。余計なことを感知するものが減るだけで、私の心は自然と休まっていった。
「……本当に綺麗だ。前見た時から、ずっと変わっていない」
騒がしい音楽の奥から、柔らかいあの声が聞こえる。でも、きっと幻聴だろう。いまだに少しでも期待してしまっている自分に、もはや呆れるばかりだ。今は、早く書き上げることだけに集中したい。
「これは……この部屋の風景かな。青は寒色だし無機質な風景なのに、どこか温かみを感じる。懐かしいような感じ」
そんなこと深いこと、考えて描いてない。ただ今見える風景を、そのままキャンバスに投影しているだけ。
「君の描く絵は本当に秀麗だ。何度見ても、感服する」
「……私は、あなたが思っているほど、感じてもいないし考えてもいないですから」
ぽつりと呟いた。幻聴に対した、ちょっとした反論だった。これで、騒がしい声も消える。私の邪念も消えるはずだ。
「そうかな、僕には君の心の様が投影されているように見える」
また、声が聞こえる。……、もしかして。
キャンバスに向かっていたてを止め、視線を少し横にずらす。
「え……」
そこには、いるはずのないあの先輩の姿があった。私は急いで耳にはめていたイヤホンを外すと、先輩の顔をまじまじとみた。この時期になってもまだあの色白い肌はそのままで、窓から差し込む夕陽に照らされた姿は、以前は気づかなかった先輩の顔立ちの良さをより際立たせている。
「あれ、ずっと気づいてると思ってたけど、違ったかな。また驚かせちゃったね」
「なんで……突然」
「なんで、って。もう覚えてないかもだけど、僕、君に言ったんだ。また絵を見にくるね、って」
『覚えてるよ、私もその言葉。その言葉にずっと翻弄されてたなんて、口が裂けても言えないけど。…でも、先輩は忘れていたわけじゃなかったのか。余計に、ずっと考えてた自分が馬鹿に思えてきたな。本当、恥ずかしい……』
先輩はにこりと微笑みながら、絵に歩み寄った。
「君の絵、とても緻密で繊細だ。ただの風景画じゃ現れない、日常の一つ一つを捉えられている。例えば、机の描写とか、どんな人がどういうふうに使ったのかな、今までどのくらいの人が使って、受け継がれていったのかなって想像が自然と湧き上がってくる」
「そ、そんなことないですよ。ただの模写ですし……」
「いいや、君の絵には、それだけの力があるんだ」
『い、いや、力って……。この先輩、見た目に反して案外ポエマーだったりとかするのかな。ちょっと失礼に当たるかもしれないけど、いまいちよくわかんないっていうか……。い、いやいや、私ごときが何を言ってるんだろう、色々と申し訳なくなってきた』
すると、先輩が急に私の手を握った。私は思わず困惑する。何がどうなったらこうなるのか。もしかして、先輩は顔立ちがいいことを理由にして私を貶めようとでもしているのか……。
「あのさ、君にお願いがあるんだけど、いいかな」
「あ、は、はい……」
『何引っかかってるの、私!……よくわかってないのに、すぐ返事をするのは、流石に良くないって。でも、頼まれたら断れないし。機嫌を損ねさせるくらいなら、聞くだけ聞いて見た方がいいのかな。でも、面倒ごとは嫌だ……』
「あのね、僕の本の表紙を飾ってくれないかな」
「……え」
想像の斜め上をいく回答だった。本の表紙、ってなんの本なのか。というか、この先輩何故で私にこの話を……。なんの説明もなさすぎて、頭が追いつかない。
「すぐに決めなくていいから。あ、受けてくれるにもくれないにも、連絡先くらいは交換しとかなきゃだよねー」
先輩はそういうと、制服のポケットからスマホを取り出した。つられて私もスマホを取り出す。
『どうなろうとも、とりあえず今は先輩の流されるままにした方が賢明かもしれない。その後のことは、後で考えなきゃな……』
「あ、あれ、連絡先の交換、ってどうやってやるんだったかな。前教えてもらったはずなんだけど」
先輩が突然、スマホの画面をいじりながらうんうん唸り始めた。
「…あ、あの、大丈夫ですか」
「あ、ごめんね。まだ全然慣れてなくて……、僕から交換しようって言っといてあれなんだけど、知ってたら教えてくれないかな」
この先輩、私が悩む以前に、想像以上に抜けている人かもしれない。
「じゃ、じゃあ、私がやりますから、端末、少し貸していただけませんか」
「ありがとう、助かるよ」
先輩はそう言って、私の手にスマホを寄越した。大切に受け取り、先輩のスマホの画面をスクロールする。
……メッセージアプリ自体は、ちゃんと入っているようだ。私はアプリを起動させると、自分の連絡先を先輩のスマホに追加した。
ぴろぴろと登録完了通知音が鳴る。
「……先輩、できました」
「感謝です」
私は新しく追加された、先輩の連絡先を見る。
『あ、先輩の名前……』
「ーそういえば、僕の名前、なんだかんだで言ってなかったよね」
先輩はにこにこしながら、無事に私の連絡先が追加された画面を見つめた。
「ちゃんと自己紹介するね。僕は、二年の鳩羽譲之助(はとば じょうのすけ)。名前の画数とか文字数多いから、みんなジョーって呼んでる」
鳩羽譲之助と名乗る先輩は、微笑みながら私を見つめた。
「一度は聞いたことあるんじゃないかな、『鳩羽慎之助』って」
「鳩羽慎之助……、もしかして、有名小説家の?」
鳩羽慎之助は、日本の誇る、超有名作家だ。数々の名作を世に送り出し、海外でも未だに注目を集めている。しかし、五年程前に突然、界隈から姿を消した。
「そう、正解!僕はその、『二世』ってわけ」
思わず驚愕した。このいかにも抜けている先輩が、鳩羽慎之助の息子……なのか。
「まあ、他の友達には、一切話したことないんだよねー。うちに大量に人が押しかけてこられても困るしさ」
「じゃあ、なんで私に軽々しく、こんなこと……」
まだ会って間もないし、素性もしれない私なんかに。先輩は私が情報を流すリスクは想定していないのだろうか。
「そんなの、決まってるでしょ。君を、逃さないため、だよ」
先輩は私に顔を近づけると、さらににっと笑った。
「に、逃さないため、って、何を言ってるんですか」
「だって、今君は僕の秘密を聞いてしまった。つまり、もう僕と君はこの学校にいる誰よりも親密な関係になったってことだ。つまり、君は僕のお願いからは逃げられないし、僕も君を絶対に忘れない」
唖然とする。一体どういう論理でそうなるのか。あまりの抜け具合に、もはや言葉も出ない。
「……つまり、私は先輩の本の表紙を描く、というお願いからは、もう逃れられないということですか」
「そういうこと!」
私は思わずため息をついた。いまいちまだよくわかっていないが、あまりにも無理やり過ぎる。でも、不思議と嫌悪感は感じなかった。
「あ、君の名前、聞いてなかったね。なんて言うの?」
「……名波透です。一年の」
「え、君、二年とか三年じゃなかったの。めちゃくちゃ大人びてるんだな」
「逆に先輩が幼く見え過ぎなんですよ」
「もー、それはひどいな!」
「あ、すみません……」
『まずい、口が滑った。先輩の機嫌を損ねてしまったよね、絶対……どうしよう、絶対私のせいだ』
「いや、まあもうかれこれ十七年もこの身体と付き合ってきてるし、案外気に入ってるんだけどね。ほら、側から見れば、案外僕の容姿っていいらしいじゃん」
先輩は、ははと笑うと、私の耳元で言った。
「そんなこと、気にしなくても全然大丈夫。君の本音のかけらが、やっと聞けてよかった」
本音……。
「あ、僕のことは、『先輩」じゃなくて、『ジョー』って呼んでよ。なんか、先輩って堅苦しい感じがして、あれなんだよね」
いや、そんなこと言われても、一応先輩だし。
「じゃあ、ジョー先輩、で……」
「うーん、ギリギリ合格!」
あれからというもの、ジョー先輩は毎回のように、部活を覗きにやってきた。
そして、私のいる机へと駆け寄ってきて、じっと描く姿を見つめてくるのだ。何を話しかけるもなく、じっと。たまにメモ帳に何か書いている音が聞こえるくらいだ。私の集中力がを妨げないようにしてくれているんだろうけど、逆に落ち着かない。
でも、これでも一応先輩なんだから、イヤホンをつけるのはどうかと思って、ずっとなんとなく気まずい時間が続いていた。
そして私が帰る準備を始めると、ジョー先輩も鞄を背負って、少し先に部室を出る。私が出てくるといつも待ち構えていて、そのまま駅まで、今日の私の絵の感激したところを永遠と話されるのだった。案外、悪い気はしなかったけど。
初めは他の部員のみんなも特に触れることはなかったけど、さすがに何度もとなると少しずつ気になってはくるようだった。
それに足して、最近はこんなことまで起こるようになった。
「鳩羽くん、興味があるなら入ってみない?絵の上手さとか、あんまり関係ないからさ!」
「こんなに来てくれるってことは、もう入部するってことなんですか、先輩!」
私はあまり気にしていなかったけれど、ジョー先輩は一応美形の部類で、気がついたら女子が周りに集まってくるのだ。それにあの性格だから余計に母性本能でもくすぐるのだろうか、男子や先生、誰彼構わず、人が集まってくるのだった。
こういう人って、いるよね、たまに。
「鳩羽さんもせっかくだし、一枚描いてみたらどう。何事も挑戦が大切よ」
「先生、ありがとうございます。でも僕、本当に壊滅的に絵を描くことが苦手で。書道ならまだ、いいんですけどね」
「書道だって、芸術の一環よ。墨汁と筆は、流しの奥の棚に両方とも入ってるから。好きに使っていって」
「ありがとうございます。では、ご厚意に甘えて」
ジョー先輩がそういうと、周りにいた部員たちがみんなして、
「鳩羽くんはそこで待ってて。すぐ持ってくるから」
と棚に向かっていった。それを、ジョー先輩は少し申し訳なさそうに笑っている。
「……あの、ジョー先輩」
「なあに、透」
「ジョー先輩の周り、たくさん人も集まってますし……。私、移動しますね」
そういうと、私は静かに荷物をまとめ始めた。
『何せ、あんなに気まずい空間にこれ以上いられるわけないし。それに、ジョー先輩はいつもいつもひっついて回ってくるから、あれだけの追っかけがいるとなると、何を思われてるか、計り知れたものじゃないし……』
「ちょ、ちょっとそれは、本末転倒じゃない?」
私の言葉を聞いたジョー先輩は、私の袖をきゅっと掴んだ。
「本末転倒も何も……私がここにいると、みんなが迷惑ですよ。そうまでして、ここにいなくちゃいけない理由もないですしね」
「そんな、」
「鳩羽くーん、ここに墨汁おけばいいかな?半紙何枚くらい必要?」
書道の用具を手に持った女子生徒が、ジョー先輩の声を遮った。
「あ、ああ、数枚で大丈夫。僕、そんなに集中続かないからさ」
「えー、そんなことないですよ。一応、予備も持って行きますね」
そんな声をよそに、私はまとめ終わった荷物を持って、廊下側の席へと移動した。
「あ、透ー」
ジョー先輩がそう言いかけたのが聞こえたが、そんなの、きっとジョー先輩もすぐに忘れてしまうだろう。
私は、再びパレットと筆を持って、さっきと同じはずのキャンバスに向かう。
何も変わらないはずなのに、一向に筆が動かなかった。
横目でちらりと、私のいつもいる席を見つめる。そこには、数人の生徒がぐるりと一周するようにジョー先輩を取り囲んでいて、その真ん中でジョー先輩は一生懸命に取り組んでいた。
私が、あの場に残っていなくてよかった。そう思っていた矢先、ジョー先輩の周りにいた生徒がわっと歓声をあげた。
「なになに、鳩羽さん、上手く書けた?」
大机で作業していた先生も、一度手を止めて歓声のあった方向へと向かう。
「鳩羽先輩、すごく文字が綺麗。どこかで習ってたんですか?」
「いやいや、普段から人より少しだけ筆を使う時間がある、ってだけだよ」
「それにしてもすごいね、鳩羽くん。こんなに自分の名前をかっこよく書けるって、羨ましい」
先生が掲げたジョー先輩の文字は、自身の名前を大きく行書で書いたものだった。
そういえば、ジョー先輩の名前は、鳩羽譲之助。字体からして、強さが滲み出ている。
私は今日は流石に集中できる気がしなくなって、持っていた筆を軽く洗った。筆洗をすすいで、元の場所にちゃっちゃと戻すと、描いていた絵と画材を棚にしまった。地面に置きっぱなしにしていた鞄を背負う。
「先生、今日は早めに切り上げて帰りますね」
「あ、はーい、気をつけてね。鳩羽さん、ますます、美術部に入ってくれればいいのに」
先生すらも、ジョー先輩に気を取られている。でも、そんなことはどうでもいい。
私は部室の扉をガラガラと開けて出ると、静かな廊下を一人、早足で歩いた。
最近は、ジョー先輩が付きまとうせいで、一人で帰るのは久しぶりかもしれない。別に当たり前のことだったのに、何だか今日はいつもよりも余計に静寂なように感じた。
階段を下まで降りると、下駄箱で外履きに履き替えた。いつもはこんなに時間をかけない。なるべく早いバスに乗るために、一秒も惜しまないようにしているのだ。でも、今日はどのみち早く出てきたし、そこまで急ぐ気持ちにもなれなかった。
踵までしっかり履けたことを確認すると、鞄を持ち直して昇降口を出た。
『今日は、帰る前に少し画材屋へ寄っていこうかな。絵の具は買い足したばかりだけど、もっと色味の違うものを買ってみてもいいかもしれない。お小遣いは最近ほとんど使ってなかったから、特にお金の心配をすることもないし』
「ー透!」
突然、ジョー先輩の声が聞こえた。幻聴か、いやでも……。
後ろを振り返ると、案の定、靴をうまく履けずに突っかかったままのジョー先輩が、焦った顔で私を見つめていた。鞄は片方の肩にしかかかっていないし、急いで走ってきたのだろう、胸は上下に動いている。
「どうしたんですか、そんなに急いで……」
「なんで置いていくの、透!」
ジョー先輩は、息を切らしながらそう言った。
「なんでって……私は今日早く切りあげたかっただけで、これと言って特に理由は」
「僕だって一生懸命追っかけてきたのに、すたすた先行っちゃうし」
「……だって、ジョー先輩のお邪魔したくありませんでしたし。ジョー先輩だって、私が作品に取り組んできるときは、一切手を出してこないじゃないですか」
「そ、それとこれは違う!……今日は、僕が悪かったよ。次からは、しっかり透の作品だけを見つめてる。約束するよ」
「何を勘違いしてるんですか。見つめないでください!あと、ジョー先輩は飽きずにずっと、私のところに来るんですか」
ジョー先輩は、持っていた鞄を背負い直した。
「だって、興味があるんだもん。僕の創作意識も湧くしね」
「ー『本』ですか」
「うん、そう。あ、そうだ、僕ばっかり一方的に透に期待するのもアレだし、僕の家においでよ」
「ジョー先輩の、家、ですか」