小説コンクールの締め切りは、九月二十三日だった。ギリギリまで推敲して、自分の納得いくものを書き上げ、九月二十日に完成した。
ひとつの目標を成し遂げた達成感と安堵で私は床に倒れる。
あとは、結果を待つのみだ──。


完成した小説を、高村くんの元へ持って行く。高村くんが原稿用紙を巡る度に冷や汗をかいてしまった。最後の一枚に辿り着き、高村くんが発した一言に私は安心した。
「すごい……僕の伝えたかったことが、全部ここに詰まってる」
もう一度原稿用紙を見下ろし、高村くんが涙を流す。
「本当に、なんてお礼を言ったらいいか……。ありがとう、本当にありがとう」
「どういたしまして。高村くんの力になれて嬉しい」
新学期が始まってからも、卯月先生は高村くんのことについて一切触れなかった。あのまま、高村くんのお母さんは高村くんの呼吸器を外せないでいる。
だけど、クラスのみんなも、高村くんのことが気になっているようだ。
「高村くん、大丈夫かな?」
風花ちゃんでさえ、高村くんの心配をしていた。一年生の頃も休みは多かったけれど、ここまで連続で休んでいるのは珍しいとのことらしく、クラスでも高村くんの話題で持ち切りになることがたまにあった。
しかし、それは卯月先生の耳にも入ったらしく、ある日のHRで先生の堪忍袋の緒が切れた。
「高村のことについてだが、真実かどうか分からない噂であれやこれや話すのはやめてくれ」
きっと、先生は精神的に参ってるのだろう。自分のクラスの生徒が自殺なんてしたら、それはある意味担任の責任でもあるため、先生としてもキツイのだろう。なんて冷静に考えていると、松村くんが声を上げた。
「でも高村に連絡しても返信こないんすけど。一年の頃は学校に来てなくても連絡したら返信は必ずくれたのに。何かあったんすか?高村に」
南川さんも、同じように喋り出す。
「先生、高村くんに何かあったんですよね?教えてください!高村くんのこと、私たちはすごく心配なんです」
「お前ら!いい加減にしろ!高村のことについて話すな!」
卯月先生は、何かを思い出しているようだ。
まさか、遺書?高村くんは、遺書に何を書いたんだろう。だけど、学校の先生たちがストレスのひとつであるとは話していた。その先生の一人が、卯月先生なのかもしれない。
「おかしいじゃないすか!なんで高村の話がタブーなんすか?」
「そーだよ!卯月、なんかおかしいって。私たちにバレたらまずいことでもあんの?」
北原さんの強気な言い方に、こういうときだけは味方であると心強いなあ、なんて考える。
生徒たちが騒ぎ出したことで、廊下にいたのか、校長先生が教室に入ってきた。
「卯月先生?どうかされました?」
だけど、卯月先生は目をかっぴらいて息を整えるばかりだ。過呼吸気味になっている卯月先生を見て、さすがに生徒たちも大人しくなり始めた。
そのままHRは終わり、濁り切った空気の中、帰る人やまだ高村くんの話をし始める人に分かれる。そんな中、スマホの通知音が鳴り響く。
(やば、電源切るの忘れてた)
不穏な空気から逃げたいというついでもあり、私はそそくさと教室から出た。
正門を通過し、スマホを覗くと一通のメールが来ていた。誰だろう、と思いメールを開くと、それは小説コンクールの結果通知であった。
大きな文字で書かれたそれに、心臓の音が追いつかなくなる。
「この度は、小説コンクールにご応募頂き誠にありがとうございます。
mio様の小説は、残念ながら優勝には至りませんでした。しかし、審査員の誰もがmio様の小説、メッセージに心を動かされたことから、審査員特別賞を受賞されました。おめでとうございます。特に審査員長の三越先生がmio様の小説に絶賛されていて、是非書籍化させて頂きたいとのことです。このメールに、編集会議の日程で都合がよろしい日を返信していただきたいです。よろしくお願い致します」
最後まで読み終える頃には、声が漏れていた。
「やったよ……」
高村くん、やったよ。
高村くんの思い、伝えられるよ。
私はその場に崩れ落ちて、泣いていた。後々色んな人から心配されたが、急いで編集会議をすることを決めて家路についた。


「審査員長の三越です。この度は審査員特別賞受賞、おめでとうございます」
東京にある編集部に行くなり、出迎えてくれた三越先生にお祝いの言葉を頂く。
三越美鈴先生。十代の心に響く小説を書くことで有名な、小説界でもトップクラスに人気がある作家さんだ。
そんなすごい人を前にして、私の体は鳥肌がたちすぎて鳥になりそうだ。
「ありがとうございます」
「早速、本題に入っていきましょう。mioさんの小説、とっても素晴らしかったわ。なんだか現実味があったというか……」
「はは……」
全部実話です、なんて口が裂けても言えない。
「それで、mioさんの小説には十代の悩みとか不満を、すごく世間に伝えたい!っていうメッセージが伝わってきたのよね。だから、書籍化はするという形でOK?」
「はい。書籍化はして頂きたいです」
「了解です。それじゃあ表紙絵とかアシスタントさんとか添削とかについて話していくわ。あ、その前に……ペンネームは、そのままmioでいいかしら?」
「ペンネーム……」
そういえば、名前を設定するときに本名をそのまま使ってしまったが、いざ書籍化するとなると、本名では厄介なことになるのではないか。特に、学校の先生にバレた場合、大変なことになりそうだ。
「ペンネーム、変えます」
そして、それから三時間ぶっ通しで書籍化するにあたっての話し合いをした。終わる頃にはさすがに疲れていた。
「そういえば……優勝者の方に優勝のメールをしてね、書籍化についての会議をするから来てって言ったのよ」
私が帰る準備を始めた頃に、思い出したかのように三越先生が呟く。
「だけど、辞退されちゃった。なんでも、会議に来れる日がないくらい忙しいらしくて……。オンライン会議でもいいですよって言ったんだけど、それでも断られちゃった」
「そうなんですね……」
「その小説ね、あなたの小説に少し似てたの。あなたの小説よりも恋愛的な要素が強かったけれど。素敵なストーリーなのに勿体無いわ」
「へえ……読んでみたいです、その小説」
「いいわよ。あっ、でもみんなには内緒ね」
三越先生は人差し指を口にやり、私に大量の原稿用紙を渡した。
「ありがとうございます」


電車に揺られながら、二つ折りの原稿用紙を開く。

「ハーデンベルギア

僕が人生で初めて好きになった女の子。
彼女は、僕なんかのためにでも一所懸命になってくれる女の子だった。あんなに可愛いのに、自信が無いところ。どんなに苦手なことでも、できるようになるまで努力する姿。自分の弱さを知っていて、それでも強く生きていく背中。いつも笑顔で周りを包み込む優しさ。そのどれもが、僕の心を揺らした。あれは雨の日。放課後、一所懸命に勉強する君に声をかけた。それから会えば、笑顔で声をかけてくれた君とのお別れが、もうすぐ来てしまうことを心から悔やんでいる。
君ともっと早く出会えていれば、どんなによかったか。君ともっとたくさんの会話を交わしていれば、どんなに幸せだったか。
そんな思いを馳せても、僕の願いは届かない。だから、少しでもいいから、願いが叶うように毎日夜空に祈ることにした。
君が、ずっと幸せで居られますように。
誰かに理不尽に傷つけられることなんて、ありませんように。
君のことを幸せにしてくれる人と出会って、結婚して、家庭を築いて、ずっと笑顔で居られますように。
……最後の願い事は、ごめんね、嘘だ。
本当は、僕が君のことを幸せにしたい。だけど、僕が一番君のことを幸せにできる自信はないんだ。僕なんかでは、君をずっと笑顔にさせることができないと思うから。
それでも、もしも来世でまた君と出会えたときには、必ず君を幸せにすると約束する。君が僕を救ってくれたように、今度は僕が君を救いにいくよ。
君に出会えたことが、人生で一番の幸せだと自信をもって言える。ずっと生まれてきたことを後悔していた僕に、人生最初で最後の幸せをくれた君に、ありがとうと伝えたい。
ありがとう。君のおかげで人生の最期をちゃんと迎えられそうだ。だけど君のせいで、もうすぐ終わる僕の人生を返してほしくなった。君のせいで、僕は大嫌いなこの世をまだ生きていたい。君がいるこの世界で、君ともっと笑いあいたい。
未練がないと言えば嘘になる。僕は、君のことがとても好きなんだ。言葉に表せないくらいに、君を好きなんだ。
だから、最後に伝えようと思う。
人生最後の今日──君に会いに行く。」

そこから第二章、第三章……と続いていく。
どこか。本当にどこか、デジャブを感じている。こんな非現実的な話を、私はずっと前から知っている気がする。
──十月が終わる日。
編集会議が多くなり、授業中眠ることが多くなった私。それは四時間目の論理国語の授業のことだった。
トントン、と右肩を誰かに叩かれた。
だけど、負けじと眠る。それでも、何回か肩を叩かれる。あれから卯月先生の精神状態がよくないので席替えがあっていなかった。隣の席は高村くんのはずだから、きっと回ってきた先生に起こされているのだろう。ここは大人しく起きるか──と体を起こして右側を見た瞬間に、世界が止まる音がした。
「久しぶり」
声には出さずに、口だけ動かす高村くんがいた。口をあんぐりと開け、状況を理解できていない私の机の上に置いてあるノートとシャーペンを奪い、何かを書いている。
「今から授業サボって、屋上に行こうよ」
綺麗な文字を見せつけられる。そういえば、高村くんのしたいことに、授業をサボりたいとかなんとかがあったな、なんて寝ぼけた頭で考える。
「先生!お腹痛いんでトイレ行ってきます!」
大きな声で報告する私に、周りからクスクスと笑い声が聞こえる。
「お、おう。わかった」
須郷先生も笑いを堪えていた。くっそー、違う理由にすればよかった、なんて考えても遅い。高村くんと一緒に廊下に出て、誰にも見つからないルートで屋上まで駆け出した。
「書籍化、おめでとう」
屋上に着くなり、高村くんが言う。
「ありがとう。……ごめんね、本当は早く報告したかったんだけど、編集会議が忙しくて、タイミングなくて」
「いいんだ。それよりも……読んでくれた?」
「え?」
何を言っているんだろう。何のことを話しているんだろう。
「ハーデンベルギア」
その文字を、私は何処かで見た。
過去の記憶を巡らせて、先程のノートの文字と同じ文字で原稿用紙に書かれていたその題名を思い出す。
──優勝者が辞退した。
それは、幽霊であるために編集会議に行ったとしても、誰にも姿を見られないから。
「高村くんが、書いたの……?」
「うん。倉木さんへ書いた物語」
信じられない。高村くんが、まさか小説を応募していたなんて。
そういえば、高村くんは後夜祭のとき、私に小説コンクールに応募することを勧めてきた。そのときに、私ではなく、高村くんが書く方がいいんじゃないかと思い聞いてみた。だけど高村くんは、倉木さんに書いてほしいと強く断言してきた。「幽霊だから、もし書籍化して編集会議に呼ばれてもこの姿じゃ行けないから」と理由を添えて。
だけど、今考えれば、小説コンクールの応募条件のひとつに、「一人一作品」というものがあった。高村くんは、自分の遺志よりも私への想いを優先させた。
その事実に頭が混乱してしまう。
「……最後まで、読んでくれた?」
「読んだよ……え、まって、本当に信じられない……」
思い返せば、そこには「好き」とか「幸せになってほしい」とか、そういうことが書いてあった。高村くんは、それを私のための物語だと言っていた。それならば、その言葉たちは私に向けられたものであるのか。
思い出しただけで頬があつくなる。
私が照れたことに気付いた高村くんが、いつもの優しい笑顔を見せてくれる。
「本当は、直接言おうと思ってた。だけど、僕がいなくなれば、言葉を伝えることは無理になる。だから、それなら形にちゃんと遺して、倉木さんに届けばいいなって思って書いたんだ。……っていうのは、まあ正直、直接言うのが恥ずかしいから殆ど言い訳だね。最後までかっこ悪い」
「ううん……嬉しい。すごく、嬉しいよ……」
嬉しいけれど、恥ずかしい。もうすぐ衣替えの時期だって言うのに、きっと今の私は体温三十七度は余裕であると思う。
「倉木さん」
私たちは、触れられない。
だけど、高村くんが手をこちらへ伸ばす。同じように私も、触れようと試みる。
「好きだよ」
「うん」
「好き、大好き、愛してる。倉木さんに、死ぬ前に……というかもう死んでるんだけどね、会えて本当に幸せだった。僕が、初めてまだ生きていたいと思った理由は倉木さんだよ。……倉木さんのいるこの世界で、僕はまだ生きていたい」
「……っ、うん」
涙腺は、緩むばかりで鼻がツーンと痛い。赤鼻のトナカイのような顔になっているだろうに、そんなことはもうどうでもよかった。
「だけど、ここでお別れ。……倉木さん、本当にありがとう」
それが、最期の台詞とでも言うように、微笑む。
「幸せになってね」
「高村くん!」
嫌だ。私、何も伝えられていない。
高村くん。お願い、まだ逝かないで。
そんな思いを抱えて、今にも消えそうな高村くんに抱き着く。だけど、当然の如く私の両腕は空を切ってしまった。
「高村くん、好き。私も高村くんのこと大好き。愛してる」
花火大会の日のモヤモヤが一体何だったのか、今ここで知る。
私、高村くんのことが好きなんだ。
ずっと好きだったんだ。
それに気付くのに、こんなにも時間がかかるなんて。


「……高村彗くんが、息を引き取りました」
帰りのHRで卯月先生が静かに言う。突然の知らせに、クラス全体が息を飲んだ。泣き出す子もいれば、現実を受け入れられずにただ一点を見つめる子、なんでだよ!と机を叩く子……反応は人それぞれだ。
「彼は……四月には既に自ら命を絶っていた。ただ、脳死状態で親御さんが呼吸器を昨日まで外さなかったんだ。だけど、今日……呼吸器を外したそうだ」
出会った日と同じように空模様が突然に変わり、雨粒が地面を弾く。まるで、高村くんの死を空も悲しんでいるようだ。
「みんなには、どうしても言えなかった。言えば、高村の遺書を公開することになるからな。そうなれば……俺たち教師は行き場を失くす。それが怖かった。だけど、そんなの俺が弱いだけで、本当は俺たち教師がしっかりと責任をとるべきなんだ。すまない。こんな教師が担任で」
卯月先生は、深く頭を下げた。
そして、スーツの内側のポケットから一枚の封筒を取り出し、高村くんの遺書を読み始めた。

「これが、世間に渡ることはあるのか不安で不安で仕方がありません。学校側が揉み消そうとする可能性が高いからです。
僕は、小学六年生のときに鬱病になり、普通の人とは少しズレている、と周りから評価されるようになりました。人生で死にたいと思うことがあり、実際に死のうとする僕はおかしいんだと。明日を迎えるのが怖くて、あるときは家──マンションの七階、ベランダに出て飛び降りようとしました。あるときは、学校の理科室にある硫酸を盗んで、毒薬で死のうとしました。あるときは、首を太いロープで絞めました。あるときは、靴を履かずに薄着で真冬の世界に出て、低体温のまま眠りにつきました。どれも、警察や親に発見され失敗に終わりました。死のうとするなんて、おかしい。命を大切にできないなんて、おかしい。そのように言われ続けてきた僕は、最初から生まれて来なければよかったと思いました。高校生になって、学校に行けなくなりました。鬱病がどんどん進行していて、薬を飲んでも飲んでもよくならなくて、入院の話が何度か出たけれど、それでも高校は出席日数が命だから入院を何度も断りました。それは、少し休んだだけで先生たちから理由をしつこく問い出されることが関係しています。体調が悪い、そう伝えても信じて貰えませんでした。熱があるのか、病名はあるのか。それを証明してくれ、と言われました。精神疾患をもっている人ならわかると思います。精神的な不安からくる腹痛や頭痛、吐き気は本当にあることを。わかってほしいとは思いません。わからないと思うからです。ただ、これ以上僕と同じ目に遭う人を減らしたいんです。同じように苦しむ人を減らしたいんです。僕の死が、それを実現できるのであれば、迷わずに僕は死を選びます。
なんていうのは、最後にカッコつけたかっただけです。子どもの未来を奪ってしまう教師たちのことが、僕は嫌いです。どうか、お願いです。苦しみを抱えきれない生徒を、さらに傷つけるようなことは言わないでください。
高村 彗」

涙を流しながら卯月先生が話す。
高村くんの声が聞こえる。高村くんが、強い遺志を語ってくれている。



書籍化された私の小説が本屋さんに並んだのは、あれから一年がたって私は推薦入試を終えた頃だった。
「アキメネス」
大きなタイトル。表紙は、私の好きな絵師さんにお願いした。女の子と男の子が手を取り合う絵が描かれている。
「すいーとぴー」
ペンネームは、三越先生に盛大に笑われたが、花の名前からとった。その理由としては、高村くんの名前を一部に入れたかったことと、スイートピーの花言葉に「別離」「門出」というものがあるからだ。
本を手に取り、最後のページを開く。
高村くんへ、届いてほしいという一心で、書き上げた。

「この本を、私の大好きな君へ贈ります。
最大限の愛と君に出会えて幸せだよって想いを込めて。いつかまた逢える日まで、私は前を歩いていくから、ずっと見守っててね。そして、次会えたときには絶対に、私のことを抱きしめてね。高村彗くん。あなたのことが、大好きだよ」


──倉木さんが最後のページに残してくれた僕への言葉を読む。
その内容に、口元が緩んでしまう。
いつか倉木さんがここに来たときには、力いっぱい抱きしめよう。なんて、あと何年かかるかもわからないけれど今から楽しみにしている。倉木さんが、僕の中でまだまだ生き続けてくれている。そう考えると、少しだけ息がしやすくなった気がした。