六月二十八日。
朝、虹を見た。天気予報では晴れだけれど、夕方からの空模様が怪しい。
文化祭の準備をバッチリ進め、北原さんたちのグループがメイド服を身にまとっている。
「写真撮ろうよー」
「それな。夢、美南、来てー」
教室の真ん中で写真を撮る北原さんたちを見て、風花ちゃんが呟く。
「私、澪ちゃんのメイド服見たかったんだよね」
「え!?何を言い出すの突然」
「いやー、絶対似合うだろうなって思って」
そんな台詞、どこかで聞いたな。
「いやいやいや、無理無理」
あ、高村くんだ。高村くんが、言ってくれたんだ。あの雨の日に会ってから今日まで、一度も高村くんに会っていない。
(今日、来るかな……)
あの日、高村くんとは「文化祭一緒に回ろう」という約束を交わしたけど、どこかで回れない気はしている。
「皆さんおはようございます。ただいまより、第五十三回、春芽咲高校文化祭を開催いたします」
時刻が九時を告げるのと同時に校内放送が流れた。きっと、楽しい一日になる。今日だけは、全て忘れて楽しもう。
そんな矢先に廊下でばったり会ったのは、卯月先生だった。
「……倉木」
目が合うと同時に呼び止められ、気まづい雰囲気が漂う。
「体調は、大丈夫か?」
「……はい」
あの後──保健室で、再び気を失ったかのように布団の上に倒れた私は、お母さんに病院に連れて行かれた。検査した結果、貧血だと診断されそれから二日間学校を休んだ。と言うよりかは、学校に行こうとしたらお母さんに止められた。
学校を休むことは、私に罪悪感を覚えさせることであり、自分が駄目な人間であると思い込んでしまった。それでも、風花ちゃんが連絡をくれて話したことで、なんとか立ち直れた。
ただ、学校に行き始めてからはやはり卯月先生との間に壁ができている。
卯月先生は、こちらの顔色を必要以上に伺っていて、なんだか私も感情を爆発させたことが申し訳なく感じていた。だけど、それでも先生たちからプレッシャーを感じていることに代わりはなし、日本の教育方針が正しいなんて一ミリも思っていない。中々素直に謝る気になれず、そんな自分に嫌気がさしていた。
「……」
「……」
卯月先生は何か言いたげな表情をしている。だけど、言葉を聞くのが怖くて、私は一礼してその場から離れた。
いつも逃げてばかり。そんな自分が大嫌いだ。


今日のスケジュールとしては、私は十四時から十六時までキッチンに入る予定になっている。そしてその後はフリータイムで、十八時から後夜祭が始まる。
二年五組の教室を覗くと、北原さんが男子に囲まれていた。北原さんは、学年一の美女とも呼ばれていて、一年生の頃なんかは、昼休みに他クラスの男子がわざわざ見に来るほど人気だった。小柄で小動物みたいな背格好であるのに、くっきり二重で高い鼻、分厚い唇は世の中の男を全員虜にしてきたかのような顔をしている。
正直、私は北原さんのことが苦手だ。
優しいところもあるけれど、好きな人と嫌いな人に対しての態度がかなり違う。私も一度用事があり名前を呼んだことがあるが、聞こえてないようなフリをされたり、わざとらしく机を離されたりしたことがある。
確かに、人間である以上、人を嫌いになってしまうことは仕方のないことである。全員が全員、自分と価値観が合うなんてそんなことはない。でも、だからといって相手を傷付けていいわけではない。
黒いモヤが私の中で大きくなってきたので、そそくさと体育館へ足を向ける。風花ちゃんが今、ミスターコンとミスコンの司会を体育館でしている。その様子を見に行こうと思ったのだ。
外からは、バンドメンバーが奏でる音楽が聞こえて、とても盛り上がっている。見渡す限り、みんな笑顔でいるのに、私だけはどこかに不安があって俯いている。
すると、今日だけは使用許可が出ているスマホの通知音が鳴った。見てみると、風花ちゃんからメッセージが来ていた。
「澪ちゃん!北原さんの出番がもうすぐなんだけど、まだ体育館に来てなくて……。北原さん、どこにいるかわかる?」
そういえば、うちのクラスからは北原さんがミスコンに出場することになっていた。五組の教室に戻り、北原さんの姿を確認する。
「教室にいるよ。声かけてみるね」
「ありがとう!助かる」
声をかけるだけなのに、心臓がうるさいのはなんでだろう。
「北原さん」
私の声に、北原さんは無表情でこちらを見つめる。
「ミスコンの出番、もうすぐだから体育館に来てほしいって」
いちいち相手の機嫌をとるような言葉を選ぶことも面倒くさい。別に嫌われても構わない。私だって、北原さんのこと好きじゃないから。
「……ありがと」
それだけ言い残して、北原さんは教室から出ていった。少しだけ罪悪感が実る。
これじゃあ、私も北原さんと同じだ。嫌いな人と好きな人への態度をあからさまに変えてしまっている。
自分に嫌気がさして、教室の窓から空を見上げる。空は、全てを受け入れてくれる気がする。今日は雲ひとつない快晴だ。それなのに、夕方から本当に雨は降るのだろうか?
私たちの教室は南校舎にあり、向かい側の北校舎には誰もが一度は憧れる屋上がある。そんな屋上に人影が見える。誰かがいる。
目を凝らすと、それは男の子のようだ。どこかで見たことある横顔。いつの日か、私の夢に出てきた男の子にそっくりだ。
気付いたら、私は駆け出していた。北校舎へ繋がる渡り廊下を全力疾走し、五階までの階段を一気に上がる。
普段、運動しない私にとってそれは息切れの材料となり、折角セットしたお団子もボサボサだ。それでも、微かな願いを込めてドアノブをひねると、簡単に開いた。
屋上へ初めて来た。そこには、大きなプールがある。確か入学してすぐの頃に誰かが言っていた、「屋上にプールを設置してしまって、建物の構造的にアウトだから水泳の授業ないらしいよ」と。それが本当なのかはわからないが、確かにこんな場所で水泳の授業をするのは無理そうだ。
だけど今日は、この大きな水槽に青藍を含む大量の水滴 がチャプチャプと音を立てていて、奥には結婚式を連想させる主祭壇がある。
確か三年生のどこかのクラスが、カップルのために誓いの場を設けるとかなんとかで、この屋上を借りたのだろう。だけどそのイベントは、後夜祭の最中しか行われないらしい。
水槽に浮かぶ色鮮やかな風船。私は、主祭壇の前に立っている後ろ姿に声をかけるか迷った。だけど、彼がこちらを振り向いて、あのときと同じように優しく表情を崩す。
「倉木さん」
その姿を見て安堵を覚えてしまう私がいる。
「高村くん」
主祭壇のところまで向かう。
「何してたの?」
「んー……考え事?」
高村くんの笑顔には、寂しさが紛れている。その笑顔をどうしようもなく守りたい。
「今日は、天気がいいね」
「そうだね」
「今まで倉木さんに会った日は、天気が悪かったから……今日は会えないと思ってた」
儚げな横顔を見て、思い出す。
私、一度夢の中で高村くんに会ったことがある。あのとき、何をしていたんだっけ。ただ、高村くんに何かがあって、私は全力で走っていた気がする。
「会えるよ。いつでも会いに行くよ?」
だからお願い、そんな寂しそうな顔しないで。そんな願いを込めても、言葉にしなきゃ伝わらない。
「倉木さん。僕が今からどんなにおかしなことを言っても、信じてくれる?」
高村くんがあまりにも真剣な表情でこちらを見つめるから、それだけ本気であることが伝わってくる。
「信じるよ」
だから私も真剣に聴こう。
「ありがとう」
だけど、それから数秒は沈黙で、高村くんは話すことを躊躇っているようだった。
そして、決意を固めたときには私を真っ直ぐに見つめてきた。白い空気に乗せられたその言葉は、空を切るとともに私に歪みを覚えさせた。
「僕、死んでるんだよね」


──死んでる。
「……感情を殺されて、生きている心地がしないってこと?」
言葉の意味を理解できなくて、必死にあらゆる可能性を頭に浮かべる。
「ううん。物理的に、死んでいるってこと」
それは。目の前にいる高村くんを否定してしまうということ。
「なん、で?だって、見えてるよ?高村くん、ここにいるよ?」
「うん。倉木さんには見えるみたいなんだ。あの日……教室に入ったら、倉木さんがこっちを見つめてくるから、まさかと思って声をかけた。そしたら返答されるもんだから、かなり驚いたよ」
時系列を整えて説明するね、と高村くんは続ける。
「僕ね、小学六年生のときにここに引っ越してきたんだけど、新しい環境に馴染めなくて、不登校になったんだ。それだけならまだ良かったのかもしれない。僕はだんだん学校に行けない自分を責めるようになって、精神科に通院するようになった。そこで鬱病と診断されて、中学生の頃も殆ど学校には行けなかった。なんとか受験生を終えて、この学校に受かったのはいいけど、それでもやっぱり駄目だった」
まだ、高村くんが死んでいるという状況を理解出来ていないにも関わらず、高村くんが淡々と話を進めるから、そんな話は一切私の頭に入ってこない。ただ、高村くんが死んでいる。それだけが頭の中で繰り返し再生される。
「気付いたら……屋上にいた。高二になってから一週間かな。天文部の友達がいて、その子から屋上の鍵を借りて……ここから、飛び降りた。それは夜の学校の出来事で、次の日朝早くに掃除をしにきたおじさんが僕の死体を見つけて先生たちや警察に報告してくれたから、きっと殆どの生徒が僕の死を知らないと思う」
そういえば──卯月先生に、高村くんのことを聞いたときに、かなり如何わしい表情をしていた。しつこく聞いても、一向に濁されるばかりだった。
「でも、亡くなっているなら、どうして先生は私たちに報告しないの?」
小説や映画で、クラスメイトが亡くなってしまったときには、必ず担任の先生が報告する。そして、お葬式にクラスみんなで行くはずだ。
「それが……僕、どうやら脳死状態みたいなんだよね。それで、親がまだ現実を受け入れられないっぽくて、呼吸器を繋げているんだ。だから、死んではいるんだけど、完全にお葬式とかを開ける状態ではないから、先生たちも黙っているんだと思う。あと、」
高村くんは、何かを思い出したように呟く。
「僕が書いた遺書を、先生たちが見つけた。そして多分……それを公開したくないんだと思う」
虚ろな目で語る高村くん。
「きっと、未練っていうものなのかな。僕は、あの遺書を世間に伝えたくて書いた。だけど、学校側がそれを揉み消そうとしてる。きっとその未練が、今僕がここにいる理由だよ」
寂しそうに笑う高村くんを、もう救うことができない。その事実が私の涙腺を緩ませる。
「あの日……遺書がどこにあるのかを探して学校に来た。もちろん、誰にも僕の姿なんて見えてなかった。だけど、一人だけ僕の姿を見れる人が居た。倉木さん、君だよ」
高村くん、君はどうして……死を選んだの?
どうして、誰にも助けを求めなかったの?
心の叫びが嗚咽に変わる。
「倉木さん、僕からお願いがあるんだ」
「なに、?」
「君の国語のノートを見せてもらったときに白い紙が挟まってた。それが気になって少し見てみたら、世間に対する不満がたくさん書かれていた」
いつの日か、私が夜中の三時に綴った不満。あのまま気付かぬうちにノートに挟まれていたのだ。
「僕と、似ていると思った。僕と同じ考えの人が、ここにいたんだって思った。……倉木さんにもっと早く出会っていたら、僕は死なずに済んだのかな」
今更どうすることもできない、変えられない高村くんの死を、私は受け入れられなかった。
「だから、倉木さん。伝えてほしいんだ。学校のみんなに……世間に。僕たちが、どれだけ苦しんでいるのか、大人たちの無責任な言葉にどれだけ傷つけられているのか、伝えてほしい」
高村くんに触れようとしても、一切触れることが出来ないことに気付く。空を切った私の指先は、行き場をなくして戸惑う。
「きっと、世間に伝えられたら……僕は今度こそ本当に、安らかな眠りにつくことができると思うんだ」
私がもしもこの先高村くんの遺志を繋いでしまえば、高村くんは本当にいなくなってしまう。もう、こうやって会うこともできなくなってしまう。
目の前にいる高村くんを、失いたくない。