どこにいても、何をしていても、いつもどこか息苦しい──こんな自分のことが大嫌いだ。
教科や学習に関する教育。
人間性や能力に関する教育。
主にこの二つを主流としている日本の教育方針だが、どれだけの教師が私たち生徒と全力で向き合うことを心がけてくれているのか、度々わからなくなる。
「協調性」という名の縛りをかけられた教室は、広い世界を見渡すことが出来ないちっぽけな箱の中同然であった。
日本の自殺者数が、先進国の中でも第一位である上に、二〇二二年において学生のそれは、過去最多の五百人を超えていたことを大人たちはどう考えているのだろう。さらに、中でも最も多かったのが高校生の三百五十四人。
学生にとって、一日の大半の時間を過ごす場所と言えば、大抵が家か学校だろう。そして、そこでの軋轢の生じや、進路関係、恋愛の悩み。それらをコップから零れそうなくらいに抱えて零して、零れたとしてもまた、私たちは必死に隠そうとしている。まだまだ成熟しきっていない私たちの精神が破壊されていくのは一瞬であり、それの修復を試みたとしても、深い傷は治りにくい。
きっと誰もが、一人きりでは抱えきれない悩みに、不安に押し潰されそうになりながらも今を生きている。


──紙いっぱいの殴り書きを、ひとみだけ上下左右に動かして見つめる。瞬きをする度に睫毛が肌を転がり、くすぐったい。
スマホの電源をつけて、夜中の三時を過ぎたことを確認する。よく受験シーズンのCMに使われる、部屋の電気は暗くして机の上に置いてあるライトの明かりだけを頼りに勉強する彼らと同じスタイルをとっていた。そのため、お母さんにもお姉ちゃんにも起きていることはバレていない。
本来であれば、休みの日なんかは十二時間以上の睡眠を必要とする私だけれど、今日は夜になるにつれてドーパミンが増えていったに違いない。何に対してのやる気かはわからないが、目が冴えて世間に対する不満を書き綴っている。
夜中の静寂は心地よくて、だけどなんだか息苦しくて、そんなチグハグな感情を置き去りにした頃、やっと眠りにつくことができた。
それでも私の睡眠はかなり浅くて、夢の中でも自我を操ることができる。今日は、一人の男の子が目の前にいる。なんだか見たことあるような気もするけれど、誰なのかはわからない。その男の子が、突然に気を失ったかのように倒れるもんだから、私は誰かを呼ばなきゃ、と反射的に思い全力で走り始めた。屋上と思われる扉を開けるも、現実の百倍くらい重さを感じて、さらに走っているつもりでも、足を前へ進めることが難しい。身体全体が重くて、だけど目覚めることもできない。いわゆる睡眠麻痺と言うやつだろう、なんて冷静に考えられるほど、不安を煽られるような夢でも私は堂々としている。
現実でもそれくらい強気で居られたらいいのに、と目覚めてから思った。


「澪ちゃんおはよう」
「おはよう!」
教室に入れば、友達が挨拶をしてくれる。
「今日って、席替えするの?」
「うん!六限のLHRでするよ」
席替えは、高校生活でもかなり重要になるイベントのひとつだと思っていたが、私のクラスは文理混合クラスで、文系の人と理系の人が授業を一緒に受けることは殆どないので、あまり関係ないことに最近気が付いた。それでも少しだけ、このワクワク感を朝から消せないでいる。
一限は生物基礎(文系科目)なので、移動教室だった。誰もが仲のいい友達とくっついて廊下を歩く姿。私も勿論、そのうちの一人である。だけど、女の子の友情というものは呆気なく崩れてしまうことが数ヶ月に一度ある。この移動教室というイベントにおいては、それを周りに暗示することと同じであるため、その子たちに対してかなり気を遣って接する必要があるということを、早い段階で確認できる。
「澪ちゃん、一緒に行こ」
そして今日、長期戦なのか短期戦なのかはわからない喧嘩をしたであろう彼女たちのうちの一人が、私のことを猫目で誘ってきた。対して仲良くない、勉強をたまに教えるくらいの関係の彼女を見下ろし、瞼で頷く。
普段、教室では大声で騒いでいる彼女たちだが、ひとりになることを──いや、ひとりで歩いていることで、周りから「ぼっち」だと認識されることを何よりも恐れている。なんだかそのことが馬鹿馬鹿しく思えて、形容詞のみの適当な会話を流しながら歩いた。
気が付いたら、授業中に私の頭の中をぐるぐると巡っているものは「死」に関する情報だ。例えば、できるだけ傷や血液で汚れない綺麗な死体で見つかることができる死に方や、人間が苦痛を感じて死ぬまでにかかる時間など。
二限目は論理国語の授業で、今日は安楽死や臓器移植についてどれだけの知識を蓄えているか、という内容であった。
私は手を止めることなく、ノートに文字を書いていく。隣の席の子が、小さな声でまたその隣の子に声をかける。
「澪ちゃん、めちゃくちゃ書いてるじゃん」
「この子の頭の中、辞書みたいだからね」
多少変人扱いされることも、慣れている。
一年生のとき、定期テストの総合順位で上位層の欄に名前が載っただけで、友達と距離ができた気がする。
「地頭の良さが違うもんね」
「頭良いって、それだけでもう勝ち組じゃん」
負け組共の言い分に耳を傾けたくなくても、嫌でもそのような台詞は頭から離れなかった。
「お、倉木がたくさん書いてくれてる」
安楽死と臓器移植についての知識を存分に書き綴ったページを、須郷先生が発表者形式にしてクラス全体に晒す。
こういうとき、カースト制度にこだわりをもっていて、かつ自分たちが「一軍である」と思い込んでいる女の子たちからの視線は怖い。
また倉木だ。なんでアイツが?
そんなことを語っている、妬みを凝縮したひとみを私は絶対に見ない。
このあと、あからさまに無視されても、机を離されても、私は彼女たちのことを人だと思わない。いや、心を殺されて罪悪感がない可哀想な人間だと思おう。というか、私は彼女たちとして生まれてこなくてよかった。自分で自分の非を認められない可哀想な人間に生まれてこなくて本当によかった。
「澪ちゃん?」
名前を呼ばれていることに気付いていなかった。もう既に六限で、席替えのクジをひくところだった。
「あ、ごめん。考え事してた」
嫌いな人への最大限の悪口として「私はあなたとして生きていたくない」というものをよく使う。自分の性格が悪いことなんて、自分が一番知っている。
四つ折りの紙を開き、番号が二十七ということを確認して新しい席に移動する。運が良かった、窓側の一番後ろの席だ。だけど、視力は右がA、左がDの私は一番後ろの席では少しだけ不便を感じる。
手を挙げて席を交換してもらおうか迷ったとき、隣の席に誰も座っていないことに気が付いた。
「ねえ、ここって誰かわかる?」
前の席の風花ちゃんに声をかける。
「そこ多分、高村くんだよ」
「あー、高村くんね」
高村くん──。高校二年生になって、もう一ヶ月以上は経っているのに、まだ一度も姿を見たことがない。元々同じクラスだったわけでも、名前を聞いたことがあるわけでもないので、どんな人なのかはわからない。
だけど、今ここで手を挙げて席を変えてもらったら、風花ちゃんは私が、「隣の席の人が嫌で席を変えた」と思うかもしれない。もしくは、「隣の席の人がずっと休んでいるから、ペア学習のときに一人になるのが嫌で席を変えた」とも感じるかもしれない。
(失敗した)
風花ちゃんがそんなことを思うはずないとわかっていても、なんだか名前を聞いた以上、席を変えるという行為は失礼なことに当たるのではないかと思い、私は月曜日から眼鏡を持参することを決めた。


六限のLHRが終わると同時に、歓喜の声があがる。金曜日は、誰もが好きな曜日であることを今一度実感させられる。
部活や課外活動へと教室から出るみんなの姿を見送り、家に帰る気分じゃない私は、教室に残って勉強をしていた。
数IIの三角関数が理解出来ず、時間をかけて一から勉強していた。一問を解き終わる頃には、既に四十分が経過しており、自分の理解力の無さに少しだけ絶望する。
「地頭がいいって羨ましい」
そんな台詞が、脳裏に存在している。
私はもともと、勉強が好きな方ではなかった。中学生の頃なんかは、勉強をせずに定期テストに臨み、順位は半分よりも下であった。それでも、中学三年生になって、受験を意識し始めたクラスの人達がものすごい点数をとるものだから、流石に私も焦って勉強するようになった。そしてその努力は、きっとクラスでも上位層の方であったと自分でも言える。
平日は朝五時に起きて勉強、学校に着いてからも勉強、休み時間も勉強、給食時間も勉強、家に帰ってからも寝るまで勉強。そんな生活を送り続けて、模試の偏差値グラフは急激な右肩上がりを示した。だけど、私の志望校──今、通っている高校はそこまで偏差値の高い高校ではなかったために、勉強をしなくともそれなりの順位をとることができていた。塾の先生に止められ、もっと偏差値の高い高校へ足を運ぶよう勧められたが、それを断ってでもこの高校に来たかった理由があった。だけど、私は今、なぜこの高校を選んだのかわからなくなっていた。
言い方はあまりよくないが、生徒たちの質が悪く、そのために校則もかなり厳しい。きちんと学校生活を送っている人でも連帯責任である、と適当にあしらわれて集団で怒鳴られる。そしてそのストレスを私にぶつけてくる生徒もいる。正直、限界だった。
友達も夢も失った今、私は何のために頑張っているのかわからなくなった。
気持ちが晴れないまま空模様も怪しくなり、傘を持ってきていないことをぼんやりと考える。帰り道を歩ける自信が無い。傲慢に生きていける自信が無い。
どうしよう、なんて考えたそのときだった。
教室の扉が開いた。突然のことで、思わず肩が跳ね上がる。音のした方に目をやると、そこには背の高い男の子が立っていた。
初めて見る姿であるにも関わらず、その長い足と白い肌、高い鼻から目を逸らせなかった。
私の視線に気付いたのか、その男の子が驚いたようにこちらを見る。そして、思い出したかのように呟いた。
「すみません、僕の席ってどこかわかりますか?」
空気に溶け込んだ低い声が、二酸化炭素の塊として私の耳に滑り込む。
「え?……あ、すみません、お名前伺ってもよろしいですか?」
すぐにでも答えてあげたかったけど、そもそも誰なのかわからず、名前を聞く。
「高村、です」
その名前を聞いて、思わず母音が零れる。
この人が、高村くん。再びまじまじと見つめてしまい、高村くんが怪訝そうな表情をする。
「あの、僕の顔、何かついてますか?」
「え、あ、いや、ごめんなさい。えっと、高村くんの席、ここです」
「あ、隣なんですね。よろしくお願いします」
こちらこそ、と頭を下げて高村くんを見上げる。近くで見ても顔が綺麗で、後ずさりそうになる。
高村くんは、鞄からプリントや教科書類を全て机の上に置いていた。その仕草がどれも丁寧で、見惚れてしまう。
「……あの、お願いがあるんですけど」
突然こちらと目を合わせてくるから、驚いてしまう。
「国語のノート、よかったら見せてもらいたいです」
「あ、全然いいですよ!ロッカーからとってきます!」
心臓がドキドキして、早口だったり声が大きくなったりする。ロッカーからノートを取り出して、高村くんに手渡す。
「ありがとうございます」
「いえいえ!」
なんだか発する言葉の全てが私のものじゃないみたいで、気持ち悪い。いつもひねくれていて心の中に黒いモヤが蹲っている私が、男の子の前で猫を被っていると考えたら、気持ち悪い。
「くらき、って読み方であってますか?」
「はい、くらきです」
ノートの表紙に書いてある名前を見て、彼が呟く。そして、同時にノートをめくりだす。なんだか空気が澱んでいる気がして、言葉で綺麗にしようと試みる。
「字、すごく汚いんで読めないところあったら言ってください」
「え?……いや、全然汚いとか思わないですよ。むしろとても綺麗です」
「あ、ありがとうございます……」
なぜか褒められて、盛大に照れてしまう。顔があつい。頬を両手で抑えるも、指先にまでその熱が伝わって一向に冷たくならない。
「恥ずかしい!褒められるのって慣れてないから」
「そうなんですか?ノート、綺麗にまとめてあって見やすいです」
「うわああ、そんなことないよ、照れるからやめて!」
いつの間にか私の敬語が抜けても、高村くんはずっと丁寧な言葉遣いのままでいる。同い年であるはずなのに、なんだか不思議だ。すると水を弾いて音を奏で始める外が、暗くなってきた。
「え、雨!?」
「結構降り始めましたね……予報では、十八時が九十パーセントだった気がします」
腕時計に目をやると、十八時五分で予報は当たっていた。
「うわ……止むかな?」
「夜中まで降り続けるみたいですよ」
「えー……」
どうしよう。私は電車通学だけど、駅までかなり歩く必要がある。
(金曜日だし、制服濡れてもいいよね……)
もう少し雨が弱ってきたら帰ろう。
「あの、傘貸します」
「え!?」
「折りたたみ傘なので小さいんですけど……ノートのお礼に」
そう言って黒の傘を私に差し出す。
「いや、いいよ!高村くんが濡れちゃうし」
「いいんです。僕、バス通学なので」
正門を出てすぐのところに、屋根付きのバス停があることを今思い出す。
「……本当にいいの?」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
傘を受け取ると、高村くんは立ち上がった。
「僕、卯月先生に用事あるので職員室に行ってきます」
「うん。傘、ありがとう。今度返すね」
「はい」
言葉を残して私に背中を向ける高村くんに、まだ言い足りなくて、無意識のうちに名前を呼ぶ。
「高村くん!」
こちらを振り返る彼のひとみが、綺麗だったことをずっと忘れない。
「またね」
「……はい、また月曜日に」
優しく崩されたその表情が、永遠に私の脳裏にこびりついて離れなかった。
そして、今まで死んだように眠っていた休日をきちんとした生活リズムで終えることができた。月曜日が待ち遠しくて、私の中で何かが始まる音がしていた。
だけど、その月曜日は来なかった。
高村くんは、それから一ヶ月以上学校に来なかった。