ゴールデンウィークは過ぎ、五月も半ばになった。
 あの、昴君が大きく崩れてしまった日から、私達の間には透明で分厚い壁があるような、ぎこちない関係へと変わり果ててしまった。
 それでも昴君は、不器用ながらもご飯を作ってくれたりする。「何かはしてた方が調子がいいから。」と、出来ることはやりたいようだった。
 昴君は小説の仕事を休んでいる。再開の目処は立たない。きっと、私だけが働きに出る事に負い目を感じているのだろう。
 入り口付近の狭いキッチンで、背の高い昴君は身体を軽く屈めて朝御飯の料理を作る。
 ニュースの天気予報を見ていた私は、着替えながら出勤の準備を整える。
 テーブルで待っている私に、朝食が運ばれる。昴君は、私のお椀にお味噌汁を注いでくれた。
 「頂きます。」
 「美味しい?」
 「うん、昴君の料理はすごく美味しいよ!」
 私が美味しそうに朝食を食べるのを見届けて、昴君は弱々しく微笑む。私の力になれていることで、少しだけ元気を取り戻しているようだった。
 でも、昴君は、小説の仕事をしていた自分が大好きだったんだろうな…。
 目を伏せて眺める時間が多い、なかなか食事が進んでいない昴君は、表情が沈んでいた。
 「ごめん、もう職場に向かうね?」
 デジタル時計をみると、出発の時刻が近づいていた。テーブルの前から私は立ち上がる。
 「今日もお仕事上手くいきますように。」
 昴君は玄関で見送りしてくれる。
 「ちゃんと休んでね、昴君。」
 私は消え入りそうな程の昴君を抱き締めて、私のありったけの元気なエネルギーを送った。
 「ん、元気でたよ。」
 ポンポンと背中を優しく叩いてくれる昴君。
 昴君、今日も一日ゆっくりとしていてね。
 玄関を離れて、だんだんとマンションを出てゆく。

 マンションから駅前へと抜けると、早朝でも出勤している人達がが多くみられた。皆一様に早足で目的地へと向かっている。
 私も、余裕を持ちながら職場へと向かう。
 駅から近めの私の職場・県立病院は、朝の光の中でも立派に聳えていた。
 早朝から作業をしている清掃の方に挨拶をして、私は院内へと入る。
 入って直ぐの待ち受けロビーにある受付では、事務長さんが書類をチェックしていた。
 「おはようございます。」
 「宇佐美先生じゃないですか。おはようございます。」
 「丁度よかった、宇佐美先生に担当していただきたい新規の患者様の予約表がありますので、事前にチェックして貰えないですか?」
 「…わかりました、向こうの席でチェックしておきます。」
 新しい患者さんを、ちゃんと診てあげなきゃいけないのに、私の心は上の空だった。自分のエゴを貫き通すなら、昴君を優先して、どうにかしてあげたかった。
 予約表を読むと、この患者さんは少し複雑な経緯と病状みたいだった。
 「………すみません、木山院長に一度書類をお返しして、担当者を再考して貰おうと思います。」
 「…そうですか、私の方でお渡ししておきますので。」
 事務長さんは、担当を受けない私を見て、訝しげにしていた気がした。
 そうなるのも無理はないだろう。私は担当を出来そうな患者さんだけにして、後は、昴君への時間を確保していたのだから。

 本日の担当患者さんを診察途中に、私は職場の先輩である看護師・佐々木理圭さんに呼び出された。理圭さんに呼び出されるような案件は何も心当たりがないので、何事なのかと心臓が飛び出しそうになる。
 きりよく診察を終えて、面会室で理圭さんと二人きりになる。
 「…なんか、貴女が仕事に身が入ってないとかの噂を聞いてるけど、最近どうしたの?」
 「すみません、五月病かもしれないですね…。」
 「私が貴女の補助をしたら、もう少し患者さんと仕事持てそう?」
 「…もう少し仕事待って下さい、今は、………。今の仕事で精一杯なんです…!」
 理圭さんに詰め寄られて、私は追い詰められてしまった。仕事に余裕を持たせているのは私のエゴだけれども、昴君の病の事で精一杯なのは本当に本当で。
 埒が明きそうにないと理圭さんは悟ったのか、椅子から立ち上がる。
 「向こうで一服してくるから、その間に貴女の考えを纏めといて。」
 理圭さんは静かに扉を閉める。
 面会室は異様な程に静か。
 私と理圭さんは、犬猿の仲という訳では決してない。本当の姉妹のように仲良しで、だからこそ、理圭さんは私の不調の真相に迫りたいのだと。
 ………昴君の事を話さないと、…理圭さんになら…言える。
 私の唇は強張った。本来ならば、患者さんである昴君と付き合う決断をしたのは、他でもない私自身なのだから。私は昴君に踏み込んだのだ。
 私は両膝の上に拳を置いて、強く握った。
 来て欲しくないと思っても、面会室の扉は開いた。
 煙草を吸ってきた理圭さんは、苛立ちが抑えられたようで、清々していた。
 再度、理圭さんは私の前に座る。さっきよりも鋭く真剣な眼差しが、私の心を動揺させる。
 「………で、貴女の言い分を。」「教えて頂戴?」
 理圭さんの声には、本音を吐き出させようという圧がある。
 私は猛獣を前にした子兎の如くに怯えた。
 唇が震えるけれども、それでも言うしかなかった。
 「私は、…わたしは、すっ、昴君と付き合ってるんです。」「しかも同棲していて………、昴君は、四月に来た私の患者さんなんです…。」
 「昴君は私のせいで………、病状が悪化してしまいました。」
 理圭さんが血相を変えた。理圭さんの大きな目が、もっと開いた。彼女は口を自然と空けてしまった。
 「…貴女に彼氏が出来たとは聞いてたけど…。他の人にはその事は言ったらダメよ。」
 「…はい。言わないです。」
 「隠蔽する訳じゃないのよ。ちゃんと貴女にとって信頼度出来る人達にだけ知ってもらって、その…彼氏の病状の事は解決しましょう。」
 「…!?ありがとう!理圭さん!」
 私は理圭さんの手をとって、固く握りしめた。理圭さんは、本当に、私にとって頼れる姉のような存在だ。
 「…で、スバル君…だっけ?彼氏の病状様態を、ちゃんと細かく話して、ね?」
 やれやれといった態度で、理圭さんはポケットからメモ帳とボールペンを取り出す。私は途端に顔が明るくなる。
 「はい!昴君はねーーー………。」
 私は理圭さんに、昴君が小説家で三月から全く小説が書けなくなった事、私と同棲していて出来る家事をして今は過ごしている事、昴君自身は早い復帰を望んでいる事、を、話した。
 私の話しを聞きながら、理圭さんはメモを取り、メモを書きながらどう治療するかを考えているようだ。
 「…三月から彼は書けなくなってるの?そんなに彼自身が思い詰めているなら、書けなくなる予兆はそれよりも早い時期からあったんじゃないかしら?」
 私はその推理には、到っていなかった。
 「彼氏の書籍でのペンネーム知ってるのよね?彼氏さんの書籍の発行具合をネットで調べたら…判るわね。」
 「あっ!書籍の発行ペースで不調になった時期が判るかもしれない!」
 「そういうことよ。」
 理圭さんは、机の上にメモ帳とボールペンを置いて、私に差し出す。
 【煌理仁】と、私はメモに書き出す。
 煌理仁の文字を見た理圭さんは、「ウソっ!?」と小声を上げた。
 「不謹慎で申し訳ないけれど…、私の大好きなキャラ出てる本書く人だから、元気になったらサイン本欲しい…。」理圭さんは乙女ボイスで、私におねだりしてきた。
 「元気になったら昴君に聞いてみるね。」
 昴君は読者の皆に愛されてるんだよって、伝えてあげたくなる。
 「あぁ…いけない、いけない…。彼氏の書籍を調べるんだったわね。」
 理圭さんはスマホを取り出して、【煌理仁 書籍 発行日】と、検索する。
 ネット検索は即座に該当サイトを出してくれて、中でも見やすそうな、大手通販サイトの煌理仁書籍ページを開いた。
 表紙画像とタイトルと共に発売日も載っていた。発売日をみると、去年の七月までは順調にいつものペースで書籍を発行していたようだった。しかし、七月以降の発行書籍は一冊もなかった。電子書籍すらなかった。
 「大当たりでした。八月から、あからさまに止まってる。」
 「うわぁ………。」
 順調に本を書いていた筈の昴君が、途絶えてしまった痕跡を見て、私はそれがとても悲惨に悲痛に思えた。続刊中のシリーズ書籍は、発行日未定とまである。
 「皆で、煌先生を治していこうね。夏海ちゃん。」
 「…うん。絶対に。私頑張るよ。」
 辛くて辛くて辛くて。そんな昴君を思うと、また泣いてしまった。

 理圭先輩が協力してくれる事になり、私は随分と気持ちが楽になった。
 昴君が大好きな晩御飯を作ってあげられそうな余裕が出てきた。
 いつものスーパーで、晩御飯の食材をセールで買って帰って、夕闇の中をマンション目掛けて歩いて行く。
 昴君の部屋の玄関を合鍵で開ける。扉の向こうには昴君がソファーに踞って居た。
 「昴君!?大丈夫!?」
 私は玄関に買い物袋を即座に置いて、昴君へと駆け寄った。
 「………ふあ………、寝てたや。心配かけた。すまん。」
 「もー!でも、無事でよかったぁ。」
 「へへへ。」
 心なしか昴君も、あの日よりだいぶ余裕が出てきている。
 「悪い、今日は何作ろうか?」
 「いや、今日は私が晩御飯作るから。いいよ。金曜日だし。」
 私は、買い物袋を開けて食材を取り出した。昴君が介入する隙を与えずに、黙々と調理する。
 「昴君ね、あの…、昴君の治療の事なんだけど。」
 「治療」という言葉を聞いて、昴君はビクッと動いた。昴君には悪いけれども、私は言葉を続ける。
 「私と仲がいい先輩がね、ちゃんと昴君と私の事をわかってくれてる人達で治療方針を組んでくれるって。なってね。」
 「…そうか。ありがと。」
 「頼れる先輩だから、安心してね。」
 「うん。仕事ができる夏海と仲がいいなら、ハイスペック保証済みだもんな。」
 「まー、そーね。ふふ。」
 昴君は拒否せずに受け入れてくれた。一旦、一安心する。
 でも、この先の、昴君に何があったのかに踏み込まなくてはいけない。
 私は夕食を作り終えて、テーブルへと運んだ。夕食は簡単に、ハンバーグ定食にした。
 夕食を頂く。私達二人は座って向かい合う。
 昴君はハンバーグを前に喜んでいるけれども、私は本題を出した。
 「ねぇ昴君、………昴君の不調の原因って何なの?」
 「昴君、いや、煌理仁先生の本。去年の夏から出てないみたいなんだけど。」「以前は順調に出してたみたいなのに。」
 「会社と揉めたとか、何か外側からの要因とか、教えてくれたら………、」
 私が立て続けに問い続けていると、昴君は怒声を放った。
 「止めてくれ!!」
 「止めてくれ!周囲への言い掛かりは!」
 「………出版社と揉めたとか、そんなんじゃないよ………。」
 「俺が書けなくなっただけだからーーー………。」
 開けていたベランダの窓から、冷たい夜風が激しく吹いてきた。昴君の髪が風に揺られて舞う。私も夜風に当てられてふらつく。
 昴君は歯をくいしばって震えている。
 「………悪いヤツが居るとしたら、俺なんだよ。」
 「………バチが当たったんだ。」
 悲しい言葉だけど、力強く昴君は呟く。
 「そんなことないから!何があっても、昴君は悪くないから!」
 昴君からは何があったのかは聞き出せなかった。
 本当に何事も無くて、夏を境にパッタリと書けなくなったのかも知れない。
 【悪いヤツがいるなら俺だ】なんて、悲しいことを吐いたけれども。昴君はどう考えても天使なのに。
 今日の事で不調は無いから大丈夫。と、昴君は言って眠りについた。また彼とギクシャクしてしまったことを後悔しつつ、私も寝床につく。
 何が昴君を追い詰めてしまったのだろう。昴君を罪悪感から救いたい。
 そう祈りながら私は眠った。

 日曜日、理圭先輩と喫茶店へ行くと昴君に言って、外出する。
 実際は木山院長も一緒に喫茶店へ来る。昴君の事を相談することにしたのだ。
 喫茶店に着くと、理圭さんは既に着いていた。先に喫茶店の中で二人で座席に座って待っていると、後から木山院長もやってきた。
 私は理圭さんの隣に座って、木山院長は向かい側に一人で座る。この三人で昴君の治療について話すことにした。
 私は重たい気持ちになりながらも、金曜日の夜に知った進展を話す。
 「昴君の口からは、周囲に悪いヤツは居ない、悪いヤツが居るとしたら俺なんだと…。」「そう、昴君は思い詰めていて…。」
 「そんなことになってたの…。」
 理圭さんはアイスコーヒーをストローで飲みながら、昴君の様態を聞いていた。
 ミルクティーを飲んでいた木山院長は、一考してから口を開く。
 「宇佐美君、昴君は単に書籍のアイディアが枯渇しているだけなんじゃないかな?」
 「仕事のスランプなんて、歳を取ってもするもんだよ。いや、歳を取ったからスランプかもしれないし。」
 冷静に考えた末の、木山院長の答えだ。
 「昴君も万能ではないのだろうし、暫く休んで色々と蓄えて。また、再出発すればいいんじゃあないかな?」
 アイディアの枯渇か…。そうなのかも?それはあるかもしれない。
 ………でも、昴君は、何かに追い詰められたから、ああなってしまった気がする。
 私が木山院長の出した答えを疑っていると、黙って聞いていた理圭さんが口を出した。
 「いや、ネットで煌理仁の事を調べたら、たまに休む時もあったみたいなんだけど…。でも、病んだことなんて無いみたいよ?」
 理圭さんはスマホを取り出して、私達にあるページの画面を見せてきた。
 ページは煌理仁のファンページで、煌先生はキチンと自己管理も作品進行管理もできる、ちゃんとした社会人である事が記載されていた。ファンページでは、あの煌先生が長期休業と嘆かれていた。
 「前もってアイディア収集も出来てたみたいなのに、突然書けなくなるなんて、不思議よね。」
 理圭さんは私と木山院長の顔を見渡す。
 やっぱり、何かが引っかかる。私は自分の考えを二人に述べた。
 「私は、何か…昴君が仕事の調子を崩してしまった原因があると思ってます。」
 「…その原因のせいで、昴君は小説が書けなくなったのかもって…。」
 私の脳裏には、書けない事にもがき苦しむ昴君の姿が甦った。昴君を救えない悔しさで表情が歪む私を、静かに二人は見守ってくれている。
 暫くの沈黙の後に、木山院長は結論を出した。
 「仮に、昴君を追い詰めた原因が彼以外にあったとしても…。彼と彼の周囲を乱すようなことはしてはいけないよ。注意をはらって、気をつけて昴君の治療を進めて行って欲しい。」
 顎を手で撫でながら、木山院長は私にこれからの心構えを教えてくれた。
 「先んずは、宇佐美君にとって昴君はかけがえのない存在だということを、彼に沢山伝えるんだよ。」
「原因を解明して解決するには時間が掛かるかもしれない。でも、その間にも宇佐美君からの心の支えがあれば、昴君も持ちこたえることが出来るから。」
 木山院長は、私を信頼してくれている。理圭さんも深く頷いて、私に熱い視線を送っている。私は二人からの厚い信用を受けて、俄然、この困難にも立ち向かえる気がした。
 「わかりました。私がしっかりと昴君の支えになります!」
 私の気力は明るくなっていて、元の快活さに戻っていた。
 「困ったことがあったら、直ぐに私達に相談してね。」
 理圭さんも木山院長も、サポートしてくれる。
 「本日は時間を割いてくださり、ありがとうございました!」
 私は二人にお礼を、何度も何度言った。

 喫茶店からの帰り道、エメラルドグリーンの日記帳を買った書店に寄ってみた。
 あの日から日が経っているので、見たことがない書籍の新刊が沢山出ていた。
 私は文庫本を読むのが好きだ。中でも最近は【キャラ文芸・ライト文芸ジャンル】がお気に入りだ。どちらも楽しかったり、しっとりした読みやすい作品が多い。表紙の絵も女性の私が集めたくなるような表紙絵が多くて、ついつい買ってしまうのだ。
 文庫本の棚から、何か読みたい本はないか眺め探す私。
 私は小学生の頃から本を読むのが好きだ。朝の読書の時間も昼休みも、夢中になって児童書を読み耽った。本の中の世界を空想で巡るのは、子供の私にとって生活の一部だった。
 …昴君も、小さい頃から本が好きだったのかな?もしかしたら、市民図書館で私達すれ違ったこととかあるのかも?
 そう、考えれば考える程、昴君に惹かれてゆくーーー………。
 文庫本の棚を探していると、私が中学生の頃に読んだことのある本が見つかった。
 それは、見習い魔女のお話である。繊細な感覚と不思議な魔法の力を持つ主人公が、町の皆の悩みを解決してゆくお話である。
 この話の中に、悩みを抱えるギタリストの青年が出てくる。青年は、【世界の色】を伝えたくて生きているのだ。主人公は彼を助けるも、実は青年も魔法使いで、最後には彼は主人公を助けてくれる存在になる。という話である。
 私は、このギタリストの青年が大好きだった。今でも好きだ。【世界の色を伝えたい】そんな、抽象的だけど、確実に世界中の人々を幸せにするような、ギタリストの青年の夢が好きだった。
 作中で、主人公と青年は何度も苦悩するけれども、お互いの繊細な感覚を尊重しあって寄り添ってゆく、そんな関係が尊いなと思った。
 私が精神科医を志したのも、この本のギタリストの青年のような、【繊細な心を持つ人達】を支えたいと思ったからだと思い出した。
 痛い程に、繊細な心と向き合う人達を助けたい。
 私は、精神科医としての志を思い出した。
 私も、本の見習い魔女のように、ギタリスト青年みたいな昴君と寄り添って生きていきたい。
 見習い魔女のお話の文庫本を、私はレジへと持っていって、緋色のブックカバーもつけて貰った。
 この本は、大切に持っておこう。そう、願いながら、文庫本を鞄の中に大切にしまった。

 夕日の中を歩きながら、マンションへと帰る。部屋の中では昴君が待っていた。
 「お帰り、夏海。」
 「昴君、ただいま!」
 昴君は元気さを多少は取り戻しているようだった。柔和な笑顔を私に向けてくれる。
 私もソファーに座って、昴君の隣になる。
 私がいきなり隣に座ってきたので、昴君は顔が火照っている。私は昴君の顔を覗き込んだ。
 「あのね、昴君…。この本なんだけど。」
 私はブックカバーを外して、買ってきた文庫本の表紙がわかるように昴君に見せる。
 昴君は文庫本を手に取り、ページをパラパラと捲る。一通り目を通したのか、文庫本を閉じて、私の方を澄んだ眼差しで見る。
 「この本、昔に読んだことがあるな…。一時期の課題図書だったような。」
 昴君は本当に本に関しての知識が多いなと感心する。でも、本題はそれではない。
 「この本はね、私が精神科医になったきっかけの本なの。」
 「…正直に言うね…。昴君と、この本のギタリストの青年は同じだと思ってるの!」
 「………そんなキャラ居たな、この話に。」
 「そしてね、私は、この本の見習い魔女と同じかなって。ギタリストの青年とお互いに支えあって生きていきたいって思ってて。」
 私が拙くも必死に何かを伝えようとしてる事を、昴君は汲み取ろうと、じっと聞いてくれている。
 「………この本の二人って、幸せの魔法とか見えない絆とか信じてるような、不器用な二人だよな。」
 昴君は、私が伝えたい事がわかってくれたみたいだ。
 「うん!心を大切にしたい二人が、私は大好きなの!」
 私は少女の頃みたいに煌めいて訴えた。
 「うんうん。俺も読み返したくなったな、この話。」
 「ちょっと貸してね。」
 私が買った見習い魔女の文庫本を、昴君は借りて読む。
 「明日一日中読んで、夏海と気持ちを分かち合うからさ。」
 おやすみなさいと、挨拶をして、私と昴君は眠りについた。

 翌日、私は仕事に行く。
 見送ってくれる昴君の手には、あの、見習い魔女のお話の文庫本があった。
 昴君は独り、五月の風が吹きわたる自室で、見習い魔女のお話を読み耽った。